2013/09/15

AV女優と慰安婦の自分語り

初期の慰安婦は
対日協力者視されぬよう嘘をついていた気配もある

慰安婦の証言に偽りがあるのにも色々理由があり、一概に彼女たちを非難する事はできない(一部の活動家化したハルモニはともかく)。例えば、上野千鶴子は元慰安婦たちには「モデル被害者」にならなければならないという社会的圧力があったと分析している(要確認)。この辺の事情は、「傾城と卵に四角はない」と言われた吉原の遊女やAV女優もある程度似ていたのではなかったか。

「強制されているものがあるとすれば、それは自分語りのほうなのである」「性の商品化を問いただす既存の社会学にも、とんちんかんなところがあった」

現代の問題から慰安婦論争を解剖することも可能だろう。

AV女優の壮絶な経験談を「鵜呑みにしてはいけない」との指摘

【書評】『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』鈴木涼美/青土社/ 1995円

【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)】

どうして自分はAV女優になったのか。そんな自分語りを、女優たちはしばしばくりひろげる。雑誌のインタビューのみならず、AVの画面でも。

それぞれ、なかなか聞きごたえもある。おもしろい語りになっている。だが、その表面的なあざやかさやわかりやすさをうのみにしては、いけない。彼女たちは、日常的に自分語りを要請されている。

仕事をもらうためには、業界内でのさまざまな面接をへなければならない。彼女らの語りは、たびかさなる面接をへて、みがきあげられていく。「お兄ちゃん」に犯された過去などは、いともたやすくつくられてしまうのだ。

こうした語りは、また彼女たち自身を納得させる効用も、もっている。ほんとうのところは、どうしてこの道にはいったのかがわからない。少女が自分の性を軽やかに商品化する。都会ではよく見かけるそんな場から、一歩ふみこんだだけだったのかもしれない。しかし、自分語りをつづけていくうちに、彼女らはもっともらしい説明へたどりつく。視聴者の欲望する女優像のみならず、今の自分が合理化できる語りを見つけだす。

女優のインタビュー集などは、気をつけて読まねばならないなと思う。性の商品化を問いただす既存の社会学にも、とんちんかんなところがあったなと、感じいる。彼女は自由意志でその道をえらんだのか、それとも強制されたのか。そればかりを問題にしていても、AVという世界は読みとけない。強制されているものがあるとすれば、それは自分語りのほうなのである。語りこそが売春の対象とされている状況に、今までの社会学は無力であったというしかない。

それにしても、どうして日本のAV画像は、しばしば女優の語りをはさみこむのだろう。彼女たちの身辺雑事にまつわるトークが、なぜ商品たりうるのか。私はそこに、日本近代文学の、私小説的な伝統を感じなくもない。諸外国のAVは、こういう女優の語りをどうあつかってきたのか。誰か対比的にしらべてくれないかな。

※週刊ポスト2013年9月20・27日号