2013/12/11

1990年、ついに韓国で火が着いた慰安婦問題 (秦郁彦)

千田の錯覚・金の偏見・吉田の詐話をユンが韓国に持ち込んだのが
日韓の悲劇の始まり

秦郁彦の「慰安婦と戦場の性」より、第二段(もちろん本を丸ごと転載するような事はしない)。

千田夏光が思い込みから朝鮮半島で慰安婦の強制連行(戦時徴用)が行われた風の事を著書に書いてしまったのは、1978年。金一勉が民族抹殺の一環として日本により朝鮮人女性が慰安所に送り込まれたと書いたのも70年代。吉田清治も「朝鮮人慰安婦と日本人」を77年に出版していた。

しかし、これらの本が出版されても社会からは相手にされなかった。胞子は日本の大地では芽吹かなかったのである。日本人や在日朝鮮人が70年代に撒いた危険な因子が発芽するのは、「フェミニズム X (反日)ナショナリズム」という絶好の培地を持った韓国に持ち込まれたのが切っ掛けであった。1990年、いよいよ慰安婦騒動に火が着く。

その1: 1992年慰安婦問題のビッグバン(秦郁彦)

2 前史--千田夏光から尹貞玉まで

すでに触れたように、戦場帰りの兵士たちが溢れていた敗戦直後から、慰安婦たちは戦記、小説、映画、演劇作品のなかに、なじみ深い脇役ないし点景としてしばしば登場していた。

主として月刊誌や週刊誌に書き散らされた一九五〇―六〇年代の文献は「大宅文庫」の目録などで知れるが、「身の毛もよだつ娘子軍の話」「軍需品の女」「売春婦となった従軍看護婦たち」のようなタイトルが示すように、読者の好奇心に訴えるキワ物風のスタイルが多かった。文学作品では田村泰次郎の『春婦伝』(一九四八)や、七年も中国で戦った伊藤桂一による一連の戦場小説が、兵士と慰安婦の交情を暖かいまなざしで描き出しているが、七〇年代以降に生れた問題意識とは無縁だった。

フェミニスト的視点もほとんど見られず、『サンダカン八番娼館』(一九七二)の著者山崎朋子は「戦場慰安婦は、相手こそ外国人でなくて同国人であったけれど、新たなくからゆきさん〉であった」し、米兵相手のパンパン・ガールも「まさしく現代のくからゆきさん〉にほかぬ」と書いていた。いつの世も変らぬ女性哀史の一コマという視点である。

慰安婦と慰安所について、初めてまとまったレポートを書いたのは千田夏光と言ってよい。今では古典的作品となった・『従軍慰安婦』正続)は、一九七八年に三一書房から刊行されたが、著者の序文によると、初版は『従軍慰安婦--”声なき女”八万人の告発』の書名で七三年に双葉社が発売している。

三一新書版に変ってから五十万部以上が売れたというが、「書評は『赤旗』の読書欄くらいにしか載らなかった。社会的にも話題になることはなかった・・・女性からの反応は皆無に近かった」という。

千田は戦場体験こそないが、元新聞記者らしい取材力と筆致で、何人かの元慰安婦、業者、相当数の兵士、軍医などに取材してまわり、全体像に迫ろうと試みた。そして、狙いはそれなりに成功し、良くも悪くもその後のイメージ形成に大きな影響を与えることになる。

問題は、韓国での取材が日本と勝手がちがったせいか、女子挺身隊と慰安婦を混同したり、朝鮮総督府や現地部隊による慰安婦の「半強制・強制狩り出し」が横行したかのような書き方をした点にあった。本が出た時にはとくに注目されたわけではないが、のちに八〇年代から九〇年代にかけて、慰安婦問題に取り組んだ関係者の多くが、千田の著作を読むところからスタートしただけに、抜きがたい先入観を植えつけたと評せよう。

千田夏光を日本側の先駆者とすれば、韓国側で似た役割を果したのは、挺身隊問題対策協議会(略称は挺対協)を設立した尹貞玉(ユン・ジョンオク)女史であろう。

一九二五年牧師の娘として平壌(ピョンヤン)に生まれた尹は、慰安婦問題と取り組むようになった動機を二九四三年十二月、私か梨花女子専門学校一年生のとき、日帝が朝鮮半島の各地で未婚の女性たちを挺身隊に引っ張ってゆくという恐ろしいことが頻繁に起こるようになった。多くの学生たちは挺身隊を免れるために結婚を急ぎ、続々と退学・・・私は両親のすすめに従って退学し挺身隊を免れたが私と同じ年頃の若い女性たちは日帝によって連行されていた」という彼女の戦中体験から説明している。

ミッション系の梨花女子専門学校(戦後に女子大へ昇格)は、朝鮮半島の上流子女が集まった名門校である。

戦時中の朝鮮半島で内地と同様に未婚の女性が女子挺身隊に動員され、工場などで働らかされたのは事実である。

戦後に母校の英文科教授(一九九〇年定年退職)となった尹貞玉は、一九八〇年頃から北海道、沖縄、タイ、パプアニューギニアなどをまわって慰安婦たちの足跡をたどり、その過程で日韓双方の研究者や運動家たちとの人脈を広げていく

その成果は、九〇年一月の『ハンギョレ新聞』に「挺身隊取材記」(連載)として発表された(ブログ主注:この本の中で一部読めたはず)。しかし本人が直接に取材した元慰安婦は、すでに川田文子『赤瓦の家』(一九八七)に登場していた沖縄在住の裴奉奇(ぺ・ポンギ)と、タイに定住し里帰りしたことのある女性の二人だけ、吉田清治や千田夏光の紹介した現場をまわっだルポ記事が主で、慰安婦問題の全貌へ迫るには、ほど遠いものだった

朝鮮半島では実証的に近現代史を調べ、記録する伝統が乏しい。高崎宗司によれば、挺身隊や慰安婦への関心は一九七〇年代から高まってはいたが、情報はほとんどが千田、吉田清治、金一勉朴慶植など日本(と在日朝鮮人)からの輸入に依存し、官庁記録や元慰安婦の周辺など第一次情報に当ろうとする風潮は乏しかったという。

なかでも八九年に韓国語訳が出た吉田の『私の戦争犯罪』は、アフリカの奴隷狩りさながらに済州島で慰安婦狩りをやった体験の告白記(それがフィクションにすぎなかったことは第七章を参照)、金一勉(在日韓国人)の『天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦』(一九七六)は、慰安婦連行が日帝による「朝鮮民族抹殺構想」から来ている、と断じた反日色の強い作品である。

それ以前は、一九三〇-四〇年代の生活感覚を知る世代が健在だったせいか、韓国マスコミの平均的認識はむしろ日本側より穏健だった。たとえば『東亜日報』編集局長だった宋建鎬は一九八四年に刊行した著書で、金大商などの所論に依拠しつつ次のように書いている。
日本当局は一九三七年末の南京攻略後、徐州忤戦が開始される頃に、朝鮮内の御用女衒たちに指示して、貧乏で売春生活をしていた朝鮮女性を多数中国大陸へ連れて行き、「慰安所」「簡易慰安所」「陸軍娯楽所」などの名称を持った日本軍の施設に配置し、日本軍兵士の慰みものにした……日本軍に出入りする御用女衒たちが朝鮮に来て、駐在所や面長を先頭に「らくちんで金もうけできる仕事場かおる」とだまして連れ去ったのである。
つまり朝鮮人の女衒による就職詐欺まがいの勧誘が主で、その多くは売春婦だったことが的確にとらえられており、官憲による「強制連行」というイメージはあまり出ていない。

その意味で西岡力が、慰安婦強制連行説は「時期の関係から見ても内容を見ても……日本発だということは明らか」と指摘したのは正しく、韓国サイドで起爆剤の役割を果したのが尹のルポ記事であったことは否定できない。

その場合、彼女が与えたインパクトは、慰安婦たちの存在自体というより、「女性の性に対する観念を徹底的に変える社会的な意識変革を」と訴え、慰安婦たちは「民族心の主人公であらねばならぬ」と、ナショナリズムにフェミニズムを結びつける視点から来だのではないかと思われる。

折から韓国では、高度経済成長がもたらす急速な社会的変動のなかで、伝統的な男尊女卑の観念がゆらぎ、第一期フェミニズム運動の高揚期を迎えようとしていた。運動体にとって慰安婦問題は、恰好のキャンペーン材料にちがいなかった。

申菫秀によれば、慰安婦問題がはじめて公式に取りあげられたのは、一九八八年に韓国女性団体連合会が開催した女性と観光問題(いわゆるキーセン観光)についてのセミナーで、「それ以来、この問題は韓国における女性運動の共同の課題」になったという。

一九九〇年十一月、尹貞土と同僚の李効再教授(社会学)を共同代表に戴く挺対協が結成された。七月に生まれた挺身隊研究会(会長鄭鎮星)を母体に、韓国女性団体連合会を含む三十余の女性団体が寄り集まる連合体で、やがて日本政府の謝罪と補償を要求する有力な圧力団体へ成長する。 

その後、類似の運動体が日韓だけでなく、アジアの近隣諸国にも次々に生れるなかで、挺対協は総本山の役割を果すことになった


(1)一九九六年までの文献については女性のためのアジア平和国民基金編『〈慰安婦〉関係文献目録』(ぎょうせい、一九九七)を参照。一九八九年までの関係作品は単行本一三五冊、論文三十五篇。

(2)山崎朋子『愛と鮮血--アジア女性交流史』(三省堂新書、一九七〇)四五--四六ページ。
(3)『Ronza』 一九九七年八月号の千田夏光稿。

(4)千田夏光『従軍慰安婦』正篇、一一四ページ以下、続篇一一ページ。

(5)尹貞玉他『朝奸人女性がみた〈慰安婦問題〉』三一新書、一九九二) 一四ページ。なお彼女が在日韓国民主女性会『朝鮮人従軍慰安婦』(一九九一年五月)に寄稿した取材記も同主旨を書いているが、「日帝が……未婚の若い女性たちを手当りしだいに挺身隊に狩り出すむごたらしいできごとが繰りひろげられ」三一ページ)と表現している。

(6)千田の著書は七〇年代に丁海洙訳で出版され、映画にもなった。金一勉の著書も、林鍾国『挺身隊実録』(一九八二に翻訳紹介された。古田清治の著書(一九八三)は、一九八九年に『私は朝鮮人をこのようにして捕えていった』という書名で、チョング研究所から韓国語訳が刊行された。別に金大商『日帝下強制人力収奪史』(一九七五)がある(主として高崎宗司「韓国における従軍慰安婦研究」『婦人新報に 一九七六年十月号による』。

(7)宋建鎬『日帝支配下の韓国現代史』(風濤社、一九八四)三四五-四六ページ。

(8)西岡力『従軍慰安婦論は破綻した』(日本政策研究センター、一九九七) 一一ページ。

(9)申莖秀「慰安婦問題の国際化」(『裁かれるニッポン』日本評論社、一九九六)

(10)李効再は一九二四年、牧師の娘として生れ、戦後コロンビア大学に留学して一九五八―九〇年母校の教授をつとめたが、民主化運動で一時大学を追われた経験を持つ。のち代表を辞任、金允玉(弁護士)に引きつぐ(C.S.Soh,"The Korean Comfort Women Movement for Redress"Asian Survey, Dec.1996,p.1233")。