2014/05/11

ホロコースト被害者を利用する朝鮮日報

純粋に自分の話に興味を持ってもらっていると思ったのだろうが、
取材記者の本当の狙いは?

慰安婦騒動をウォッチしていて、一番嫌な気分になるのは、北朝鮮による拉致やユダヤ人ホロコーストといった絶対悪を引き合いに出す手法を目にする時である。慰安婦システムをまったくの無問題とは言わないが、ホロコーストや拉致問題とは一緒に出来ない。味噌も糞も一緒にして論じようとする人々は、政治的な意図があって被害者を利用しているのではないかと思うからである。これもそうだ。朝鮮日報の朴国熙(パク・ククヒ)記者は、ホロコースト被害者者の体験談を聴きに行ったのだろうか?本当は最後の段のコメントを引き出すのが目的だったのではないか?

「旧日本軍に踏みにじられた慰安婦の女性の話をすると、ワイズさんは『考えられない。本当にひどい』といった言葉を繰り返した。ワイズさんは『絶対忘れず絶対許してはならない。それが歴史を否定する日本政府に対する方法だ』と話した」

そうだとすれば、利用されたユダヤ人女性は気の毒である。最近の反日運動家によるホロコースト被害者の政治利用は目に余る。

「忘れない、許さない」 歴史否定する日本への対処法

ユダヤ人女性、ホロコーストの体験談語る
-10歳で姉と共にアウシュビッツに
生体実験の日、ソ連軍がポーランド侵攻…アウシュビッツから解放
-オーストラリアを経てイスラエルに定住
ホロコースト追悼記念館でガイド
「昔の過ちを子孫になすり付けるつもりはない」

ホロコースト(第2次世界大戦中に行われたユダヤ人大虐殺)の生存者は、大きく二つに分けられる。600万人のユダヤ人が虐殺されていく間、神は死んだと思った者、神のおかげで奇跡的に生き延びたと信じる者だ。ホロコーストの追悼日(4月27日)を2日後に控えた先月25日、イスラエルの首都エルサレムで出会ったマタ・ワイズさん(80)=女性=は、後者だった。「ナチスは神様が想像できないことを行ったが、今こうして生きていられるのは神様のおかげだと思います」

「A-27202」。1944年にドイツ軍がワイズさんの左腕に刻んだ入れ墨は、70年がたった今も鮮明に残っていた。「A」は150万人のユダヤ人が虐殺されたアウシュビッツ(Auschwitz)収容所の頭文字だ。ワイズさんは「今もこの入れ墨を見るたびに、生きているという事実に対し神様に感謝する」と話す。

ワイズさんは1934年にチェコのユダヤ教の家系に生まれた。10回目の誕生日を迎えた1944年10月8日、ナチスを避けて暮らしていたワイズさんは、隣家の密告によりドイツ軍に捕まり、1カ月後に3歳年上の姉と共にポーランドのアウシュビッツ収容所に送られた。ワイズさんは「『アウシュビッツはユダヤ人の再教育のための機関』とドイツ軍が説明した」と言う。

「列車に一緒に乗ってきた3000人の『新入り』ユダヤ人を収容する所がなかったんです。ドイツ軍はわれわれを収容する空間を確保するために、あるキャンプにいたロマたちを皆ガス室で殺してしまいました」

捕まってきたユダヤ人たちは、アウシュビッツ軍医官のヨーゼフ・メンゲレの前で列を作って裸にさせられた。後日「死の天使」と呼ばれ、40万人ものユダヤ人を虐殺したメンゲレは、「新入り」たちをガス室に行かせるか、生体実験のための「実験動物」として使用するかで分類した。

ワイズさんは「今も理解できないが、その『化け物(Monster)』は姉と私を双子と勘違いして実験室に隔離した」と話す。メンゲレはゲルマン族の繁栄のための手段として双子研究に対する関心が高かった。手術台に上がることになっていたワイズさんは、1945年1月にソ連軍のポーランド侵攻でアウシュビッツが解放されると、姉と共に脱出した。パンの切れ端と凍った野菜で食いつないできたワイズさんは、体重がわずか17キロになっていた。ワイズさんは「ガス室の煙突から煙が出ると、ユダヤ人の悲惨な死体がユダヤ人たちの手によって火葬場に移された。無惨だった」と当時の記憶をつづった。

 戦争が終わった後、ワイズさんは別々に捕まえられた妹がアウシュビッツのガス室で死んだことを知った。1948年に残った家族はオーストラリアに移住した。
 「悪夢の場所であるヨーロッパからできるだけ遠い所に隠れたかったんです。しばらくは医師のガウンのような制服を着た男性をまともに見ることができませんでした」。戦争当時パスポートを偽造して生きながらえた両親は、死ぬまで50年以上も姉妹にホロコーストについて話さなかった。生死の道を共に歩んだ姉にさえ、悲惨な記憶について話すことができなかった。ワイズさんは「1995年にオーストラリアで開かれたアウシュビッツ解放50周年行事で、姉は講演者として証言した。あの時、姉の記憶を観客席に座って聞いたのが最初で最後」と話した。
 1998年にワイズさんは夢にまで見たイスラエルに定住し、翌年からホロコースト追悼記念館「ヤド・バシェム(Yad Vashem、ヘブライ語で名前を忘れるなの意)」でガイドとしてボランティア活動を開始、今年で15年目を迎えている。ドイツ人旅行客も案内する。「ドイツ人旅行客を案内すると、彼らは常に『今はドイツについてどう思っているか』と私に質問します。昔の世代の過ちを子孫になすり付けるつもりはありません。しかし『絶対忘れず、絶対許さない(Never forget never forgive)』と返事します」
 10代という若さで旧日本軍に踏みにじられた慰安婦の女性の話をすると、ワイズさんは「考えられない。本当にひどい」といった言葉を繰り返した。ワイズさんは「絶対忘れず絶対許してはならない。それが歴史を否定する日本政府に対する方法だ」と話した。ワイズさんは一瞬たりともホロコーストを忘れたことがない。最近でもワイズさんは14人の孫と4人のひ孫に会うたびにホロコーストについて語り「絶対に忘れてはならない」と言い聞かせている。


朝鮮日報日本語版 2014.5.11