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2011/03/11

青い目の芸術家が慰安婦問題を訴える【米国】S.カバルロ



 韓国と日本(沖縄)以外で最初の「慰安婦の碑」として韓国でも注目された米国ニュージャージー州に建立されたモニュメント。デザインしたのは、米国人の絵かきだった。

彼にアドバイスしたキム・デシル。彼を支援した韓国人有権者センター(KAVC)。ひいては地元の自治体から反対論が出たのを韓国系の若者を動員して説得させたこと。完成した碑文には日本軍が20万人のアジアの女性を誘拐したとかなり史実を逸脱した内容が彫り込まれていたこと、などについては以前にエントリーしているのでリンク先を参照して下さい。

慰安婦とは彼が考えているような存在ではないと言う日本人と、ナヌムの家を訪れる純朴な日本の青少年の反応を比べ、日本の旧世代とは違うと感心(?)する様子は、米国自身が慰安婦の利用者であったことすら知らず、自国が日本に謝るように言ったことを誇りに思うなどと言い放ったアメリカ人劇作家Lavonne Muellerと同じタイプである。

当時の朝鮮人は強制的に日本名をつけねばならなかった。日本語を話さねばならなかったと語る彼らはけっきょく、韓国の公定史観の受け売りをしているだけ。

なぜ彼がこの問題に深く関わるようになったか。韓国政府の公式ウェブサイトであるコリア・ネットは昨年、「銅版プレートの製作は韓人作家ではなく、米 国人の作家に依頼した。慰安婦問題に対する米国内の世論の拡大に有利という判断からだ」と明かしている。これも真相の一部なのだろう。


2011年02月28日-- 「まだ生存しておられる従軍慰安婦ハルモニが一人でも生きておられる間に、この悲劇を広く知らしめたかったです。 この悲劇の被害者たちは彼女たちが体験したつらい記憶を世の中に知らせたいのです。 これを私がその方たちと共にして感じたのです」

三一節が目前に迫った中で米国のニュージャージーに居住する青い目の画家が私たちの民族的悲劇の従軍慰安婦問題を芸術的に昇華した作品を相次いで発表、展示し、さらに一歩進んで、最近では米国、ニュージャージーに直接本人がデザインした韓国の従軍慰安婦記念碑の建立を主導するなど米国で大きな反響を巻き起こしている。

話題の主役はスティーブン・カバルロ(Steven Cavallo,男、55才)氏だ。 スティーブン・カバルロ氏は昨年10月23日、彼が直接デザインした従軍慰安婦の記念碑を米国ニュージャージー州パラセイズ・パーク257 2nd Streetに建立した。 記念碑の前には戦争の犠牲の羊になった従軍慰安婦女性たちを追慕する新しい花束が置かれている。
 パラセイズ・パークの関係者を説得する学生(2010年夏)

「本当に多くの人々が助けられました。 特にKorean American Voters Council (KAVC,韓国人有権者センター)とパラセイズ・パーク市長のJames Rotundoが大いに助けてくれました。記念碑の建設費用は大体2000ドル程になりました。 地域レストランなどがレセプションのための食べ物を準備して下さり、基金募金者を通じて建設費を用意されました。 皆が一体になって動いた結果です。 カリフォルニア州の方からある知人からEメールを受け取りましたが、先にLAにも記念碑を建設する予定という話を聞きました。 もちろん記念碑建設に反対が全くなかったわけではありません。記念碑に反対した中の何人かは私に『従軍慰安婦の話は単に歴史一問の各夜昼こいつ、それほど重要ではないと! 単に脚注だけだ!』と話したこともありました」と話した。

彼は「私が初めて韓国の従軍慰安婦を知ることになった契機は、1992年子供向けの童話を描きながら偶然に強制収用所の絵をスケッチする作業中に、隣りに住んでいた韓国人の隣人を通じてでした。 第2次世界大戦中に従軍慰安婦のような残酷な行為があったという事実自体が私には非常に衝撃的でした」と話した。

スティーブン・カバルロ氏が当時なかなか理解できなかったのは、「従軍慰安婦」の事自体、米国で学校の歴史授業などで習う機会もなかったし、周辺で聞いてみることもできなかった点だった。 だが、彼にとって韓国の従軍慰安婦こそ戦争の惨状と悲劇を芸術的に形象化でき、彼の芸術魂を燃やすことができる立派な土壌だったという点だ。
 キム・デシルとカバルロ

スティーブン・カバルロ氏は「私は従軍慰安婦問題をさらに理解するために韓国キム・デシル先生の「沈黙の声(1999年)」という本を求めて読みました。 この本は過去の慰安婦女性たちの生き生きした証言が入れられた本でした。 私は当時キム・デシル 先生から直接従軍慰安婦に関するその方の講義を聞けたのに、キム先生の本とお言葉はその後私の作品になくてはならない土台になりました」と述懐した。

彼は「キム先生はドキュメンタリー形式で作ったフィルムを私にたくさん譲り渡しました。 本当に私には多くの助けを与えたでしょう。 Palisades Park図書館でフィルム上映会を通じて、私はこの悲劇的で歴史的な事実をさらに生き生き分かれたし私には多くの勇気と力を集中されました。 恐らく先生の助けなしでは私のプロジェクトはとても大変だったでしょう」と話した。

彼は戦争の惨状を表現するためにホロコースト、日本強制収容所、従軍慰安婦女性などを彼だけの水彩画で表現したがthe Kent State Shooting,and Kim Phuc fleaing from the Napalm attack in Vietnamなどの作品を描いた。 当時韓国の女性たちが体験しなければならなかった苦痛を表現するために“Once I was Beautiful,” “Once I was warm,”そして“Once I had dreams”という暗いシリーズをひき続き発表することになる。

スティーブン・カバルロは「私が残したこのシリーズ中に闇の中で縮めている女性たちの姿、日本の仮面を脱いだある女性の姿がありますが、この絵はその当時すべての韓国の人々は彼らの意志とは関係なく日本の名前を強制的に作らなければならなかったし、日本語で対話しなければならなかった。もし朝鮮語を使う場合に日本人たちからひどく殴られたという悲劇的現実を形象化したのです」と話す。

スティーブン・カバルロ氏は直接韓国に入国して生存している従軍慰安婦ハルモニと一緒に過ごしながらその時状況を直接入ることになる。 彼は「過去のつらい記憶を話す時は体をひどくぶるぶる震えるお婆さんもおられました。 だが恥じたり恥ずかしがるお婆さんは一人もなかったのです。 一度は私が京畿道広州のナムヌの家を訪問した時、20人余りなる若い日本の学生が団体で分け前に家を訪問したのに、私の考えでは多くの日本の人々、特に幼い二世たちの従軍慰安婦問題に対する態度は今の日本の既成世代とは大いに違うと思います」と話した。
 「日本帝国政府の軍隊により誘拐された20万人以上の女性」 

スティーブン・カバルロ氏は「米国にいる日本人たちと従軍慰安婦問題について話を交わしたことがありますが、彼らの大部分は慰安婦女性たちが軍人らから強制的に性暴行にあったのでなく本人意志で体を売った女性だと考える人々が多かったです。 私がその方にこのように話しました。 「もしあなたが被害者女性たちと顔を突き合わせてその人々の苦痛を直接見ることができるならば強制的に性暴行にあって被害を受けた人々というものを全身で感じるはずだ」と応酬したのを思い出します」と話した。

スティーブン・カバルロ氏は今年韓国の光復節に合わせてニューヨークのクィーンズのある大学の招請で展示会を開く予定だ。 場所はクィーンズ コミュニティカレッジ・ホロコーストセンターだ。 その前に、イングルウッド・ニュージャージーにある芸術公演センターのポゲン パック(Performing Arts Center)で5月に展示会を計画しており、2月にはニューヨークのフラッシングにあるギャラリー予感で同じ主題で展示会をした。 既存には水彩画作業をしたが、最後の2月展示では油絵の作品を披露し好評だった。 今後も従軍慰安婦に関する作品をミュージアムやギャラリーで展示する計画だ。
 「良心的」教師に「正しい歴史」を学んだ日本人の若者も多い

スティーブン・カバルロ氏の妻は事実春川(チュンチョン)出身の韓国女性だ。 自然に韓国文化に馴染んでおり、一緒に仕事をする作家の大部分は韓国人だ。 彼が共にする多くの集い中少なくとも半分以上は韓国の人であるほどだ。 彼は「私は韓国の食べ物マニアです。 特に妻がする韓国食べ物はあきれますね。 特にビビンパとカルビ、三枚肉、雑菜(チャプチェ)などが好きです。 韓国のアリランのような伝統音楽はなぜか音調が弱々しくて繊細で時々聞きます」と話した。

彼は「私一人だけがひたすら韓国の人でないという考えはしてみたことがありません。 ある程度の時間が流れた後、今は人が持っているいかなる背景も見なくなって私たち皆は芸術家で友人です。 芸術は全てのものを一つにします。 私の芸術に最も大きな影響を及ぼした人として、私の妻を上げられます。 私たちは作品を下記転科する間にも多いことらを相談します。 また、私の妻は数多くの私の作品に登場するモデルです。 韓国に対する影響でこれよりより大きい影響はないでしょう」と話した。

スティーブン・カバルロ氏は1956年米国、ニュージャージーで生まれ、現在の韓国人妻と膝下にジュリーとヒェジ(?)二人の娘を置いている。 彼はニューヨークのマンハッタンにある視覚芸術学校とSVA(School of Visual Art)で絵勉強を始め、偉大な芸術家であるTom Dalyから多くのことを学んだ。 1970年~1990年代は商業芸術家として仕事をし、1999年度に商業芸術が退化し、正式な芸術家に切り替えた。 1997年にアンドリュー・チャン教授とファン・ラン氏に会うことになりながら韓国芸術家たちを助け始め、現在はPalisades Park図書館の中にある限りギャラリーのキュレーターとプログラマーで仕事をしている。 去る20年余りの間数多くの展示会を持ったことがある。

Newswire 2011.2.28