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2012/06/20

遊女を見下さなかった日本人



江戸時代の日本では娼婦は蔑視される存在ではなかったという。なぜなら、彼女たちは本人の意志に関わりなく身売りされてきた娘たちだったからである。彼女たちの境遇を知る人々は、遊女に同情することはあっても見下すことはなかった(まったく無かったわけではないだろうが)。

江戸の下半身事情」によれば、浮世風呂のような当時の小説では、姑が普通に嫁が玄人上がりであることをご近所に話していたり、自分は元商売女だと啖呵を切る女性が登場する。あるいは、見栄を張って元遊女を詐称する女まで出てくる。オランダ人医師ポンペは、当時の日本の様子をこのように記録している。

「貧しい両親たちは自分の若い娘を、しかも大変幼い年端もゆかぬ時期に公認の遊女屋に売るのである。ときには五歳から六歳ぐらいのこともある[...]ヨーロッパでは個人が自分で売春するのであって、だからこそ本人が社会から蔑視されねばならない。日本では全然本人の罪ではない」(日本滞在見聞記)

そんな社会であったから、女たちも遊女であった自分の経歴を恥じる必要はなかったのである。それよりだいぶ時代が下って登場したのが慰安婦である。だが、当時もまだ貧しい家の娘が親に売られ、あるいは親を助ける為に自ら苦界に身を沈めていた。

文化13年(1816年)の世事見聞録には、このように書かれているという。「みな親の艱難によって出るなり。国々の内にも越中(富山)・越後(新潟)・出羽(山形)辺より多くでるなり。わづか三両か五両の金子に詰まりて売るという」

先の大戦では内地の貧しい地方だけでなく、朝鮮半島からも貧しい家庭の娘が慰安婦として戦地へ行っていた。やはり、どんな理由があろうと元慰安婦を蔑んではいけないのだろう。

慰安婦の多くは(当時の日本人の大多数同様)大なり小なり苦労を経験した。慰安婦の中には謙虚な人もいるし、自分の体験を正直に語っていた人もいる。しかし、運動家たちは自分たちに都合のいい慰安婦「被害者」だけを前面に出す(この事は、先日紹介した外国人も指摘している)。慰安婦の中には目立ちたがり屋や虚言癖のある者もいるが(彼女たちも所詮普通の人間だと言ったのは、ナヌムの家でボランティアをしていた村山一兵である)、語り部として利用するのに相応しいモデル被害者(上野千鶴子「慰安婦問題という問い」)に作り変えられたお婆さんたちだから、怒りの矛先を向けるとすれば、彼女たちの後ろにいる運動家たちに対してだろう。

「友軍が負けて悔しかった」 ペ・ポンギは
日本に対し何ら敵意を持っていなかった

友軍(日本軍)が負けて悔しかったと語っていたペ・ポンギは運動の同志(誰の言葉か失念)として生まれ変わり、兵隊を戦友と呼んでいたソン・シンドは、裁判闘争の象徴にされてしまった。彼女たちに罵声を浴びせるような行為は日本人らしくないし、現在では、脅迫によって歴史的事実を隠蔽しようとする日本の歴史修正主義として世界に喧伝されている。慰安婦に対して同情的な元兵士も少なくないのである(金子安次などのケースは、そこを運動家に上手く利用された)。

参考: 江戸の下半身事情 永井義男

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