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2015/06/02

池萬元「慰安婦は蒙昧な父兄の虐待の産物」


池萬元(チ・マンウォン)のこの「オピニオン」は、少し前に崔さんのツイートで知った。2chでもLingLing ★記者がスレを立てていたが、独自に注釈を施すなど丁寧に訳されていた。以下の訳でも一部参考にさせて頂いた。

池萬元
けっきょく韓国ではこういう扱い?

不幸な家庭から、新時代の到来(それをもたらしたのが、日韓併合というわけか)に希望をつなぎ都市へと逃げ出した朝鮮半島の少女たちが人身売買の罠にかかり娼婦となったのは、やはり悲劇である。チ・マンウォンが紹介するように、比較的正直に語ったと思われる慰安婦の回顧譚にはこの種の話が少なくない。だから、「人身売買の犠牲となって筆舌に尽くしがたい思いをした方々のことを思うと、今も私は胸が痛い」と語った安倍首相は、彼を人非人のように言い、「事実を知りながら慰安婦問題を政治問題として浮上させるために社会に誤った認識を拡散(池萬元)」させている挺対協の人々よりよほど慰安婦の不幸(人生)を正しく理解している、と言えるかもしれない。

ただし、人身売買は日本政府によって禁じられ、軍もこれを認めなかった。今日の朝日新聞で、尹明淑が「軍に選ばれた業者などが就業詐欺や人身売買で女性を集められたのは、まさに植民地だったから」などと思わせ振りな事を言っているが、日本統治下の朝鮮でも就職詐欺や人身売買はご法度である。その一方で、九州(内地)の女性が騙されて慰安婦にされるという事件だってあったのである。

『解放前後史の再認識』

チ・マンウォンは、10年前にも、貧しさから自ら売春した慰安婦が8割だと主張して、挺対協に告訴されている。挺対協や尹明淑のような人々が徹底して無視する慰安婦の本当の不幸(人生)。

[オピニオン]池萬元の国民の喊声

挺対協の不純な慰安婦ゲーム、中断させなければ
慰安婦問題を韓米日の安保協力体制を毀損(?)するために、悪用している

『解放前後史の再認識』第1巻の434-476ページに、サンフランシスコ州立大学のソ・ジョンヒ教授(C. Sarah Soh)の貴重な論文が掲載されている。以下に要旨を紹介する。

植民統治の最後の10年(1935-45)は朝鮮の産業革命期だった。 農民たちは土地から追われ、 労働階級が胎動して人口の流動性が増し、都市社会が広がり、女性界では、いわゆる新女性に対する羨望が広がったそんな時代(時期)だった。1917年、李光洙(イ・グァンス)の小説『無情』 が連載された。 この小説は新文明の普及の書だった。西欧の新文明が流入し、開化思想が広がり、新青年と新女性を恋愛の表象とした新小説だった。1935年の(?)沈薫(シム・フン)の常緑樹は息苦しく、せせこましい農村を啓蒙する啓蒙書だった。当時の農村の人々の考えがどれほど固陋で原始的かを赤裸々に描いた。 慰安婦もこのような開化期時代の産物だったのだ。

190人の慰安婦を調査したところ、88%に当たる168人がまさに脱農村期である1937-44年の間に慰安婦になっていた。 都市に憧れる一種のゴールドラッシュ真っ只中の時期に家を飛び出した娘が、人身売買団の格好の餌食になったのである。181人の慰安婦を調査した結果、4分の1以上がすでに家族と離れ家政婦や工場労働者、食堂、妓生の家、接待婦などとして働いていた最中に慰安婦になっており、66%程度が満州や台湾、中国などに送られていた。

慰安婦となったケースは、すでに家庭から出奔していた女性だけが該当するのではなかった。 家庭で親や兄たちから暴力を受けていた若い娘たちが暴力を避けて逃げ、それで人身売買団の罠に引っかかることもあったし、勉学の(?)蜃気楼を求め広くなった世界に逃げて来たのが(?)、ほどなく人身売買団の餌食になり慰安婦の道に入ることもあった。 当時、人身売買団の手先は大部分が朝鮮人であり、軍隊慰安婦を経営する人たちの中には朝鮮人たちもかなりいた

慰安婦になるルートは二つあった。 家庭-労働市場と慰安婦業所に行く過程があり、直に家庭-慰安婦業所に行く過程があった。 このような過程を促進した媒体が人身売買団であり、人身売買団に捕らえられた環境は、つまり、女性に対する家庭内暴力や虐待、そして勉学に対する憧れを無条件に抑圧する無知蒙昧な朝鮮家庭の女性卑下文化のためだった。

ソ・ジョンヒ教授は、家庭から直に慰安婦という穴に落ちた恨多き慰安婦6人のケースを挺対協資料から容易く見つけ出した。 こうしたことにも挺対協は、この事実を知りながら慰安婦問題を政治問題として浮上させるために社会に誤った認識を拡散させた

挺対協の主張によれば、全ての慰安婦は家庭にいた慎ましい娘たちであったのが、ある日突然、日本の巡査たちが押しかけてきて強制的に捕まえ、日本軍が運営する遊郭に入れたというのである。 ソ・ジョンヒ教授によれば、これは事実ではない。 ソ・ジョンヒ教授が調査した6人の慰安婦のケースはこれを理解するのに明白な資料になる。以下にソ・ジョンヒ教授の事例を要略して紹介する。

朝鮮の親が娘たちを慰安婦に追いやった代表的なケース

1)ムン・ピルギ: 挺対協が毎週日本大使館前で主催するデモに常に参加している女性である。彼女は18歳になった1943年の後半から2年間満州の軍慰安所で働いた。1945年、解放を迎え、平壌 - 開城 - ソウルを経て故郷に行ったが、すぐに故郷を離れ、晋州 - 木浦 - 光州-全州を回りながら独身で過ごしていたという。

彼女は1925年、慶南金陽郡で2男9女の小さな雑貨屋で生まれた。子供の頃、最もしたかったのが勉強だった。父は「女が勉強すれば、キツネにしかなる他ない」と怒った。母がこっそり一升の米を売って、普通学校に入れてくれた。一週間も経たずに、父が娘を教室から連れ出し、本を燃やしてしまった。それでも、怒りが収まらず、娘を激しく(?)殴って家から追い出してしまった。本家(?)に行っていたが、もう勉強しないと約束して、家に帰ってきた。

勉強ができなかったことが恨になった状態で9歳から家事をして、畑仕事もして、綿畑の草取り、繭紡ぎもした。雑貨屋で売るサツマイモも蒸した。農作業のたびに、ご飯を炊いて野に運んだ。そんな1943年の秋のある日、村に住む日本の手先役をする50代のおじさんが、勉強も出来てお金も稼ぐことができる場所に送ってくれるというので、ついて行った。18歳だった。その男と日本人巡査が彼女をすぐに車に乗せ、釜山に連れて行った。長い髪を切ってチマチョゴリを脱がせワンピースを着せた。そして、他の4人の女性たちと一緒にそのまま満州に送られた。この物語を含め、以下のすべての話は挺対協が編纂した「証言集」に収録されている

この女性は、毎週水曜の12時に日本大使館の前で、日本が自分を強制的に連行して慰安婦にしたと謝罪と被害補償を要求しているのである。この慰安婦ゲーム(?)は、(北の)スパイの妻であり、挺対協の常任代表ユン・ミヒャンが運営している。問題は、この元慰安婦女性にではなく挺対協にある

2)イ・サンオク:この慰安婦の父は慶尚北道達城郡達城面長だった。作男を置いて農業を行う富農でもあった。9歳の時に学校に入ったが、兄が「小娘を学校にやって、どうするのか」と学校に行けないようにし、本をかまどに入れて燃やしてしまった。それでも学校に行こうとしたところ、殺すと言って脅かした。隣家のお姉さんが学校に通うのがとても羨ましく、その年、母にも知らせず、ソウルに逃げ出した。

叔母が学校に行かせてくれたが、兄が叔母に執拗に圧力を加えた。叔母の家を出てトンビという家に入った。9人の娘がいたが、みな自分の父親によって売られて来たと言っていた。 15歳の彼女が最も幼かった。娘たちが行く所について行くと、下関だった。彼女らを引率した軍属が10人の生娘たちを渡した所は、まさに朝鮮夫婦が運営する軍の遊郭だった。彼らは、娘たちとは何の関わりもなく金をやり取りした。

この元慰安婦の女性は日本語を話すために日本軍の病院で働いて給料ももらった。日本人の軍医が彼女を不憫に思い朝鮮に帰そうと思ったが、その日、爆撃を受け話がふいになった。この女性の場合も、女性への家庭内暴力のために遊郭に追いやられたケースであった。

3)イ・ドゥクナム:この慰安婦は1918年生まれである。彼女は1939年から3年は中国で、そして残りの(?)3年はスマトラで慰安婦生活をした。学校に行きたかったが、父は飲んだくれな上博打打ちで、理由もなくむやみに殴った。

「家にいるのが死ぬほど嫌だった」17歳で嫁に行けと言われたが、彼女はこれを売られることだと考えた。近所の友達と一緒に給料がもらえる仕事を見つけるために、列車に乗って仁川紡織工場に行った。それが慰安婦への道だった。

4)キム・オクシル:この慰安婦は1926年に平壌市内の10里なる村(?)で生まれた。現在はキム・ウンレとして知られている。彼女の父親も勉強しようとする娘に過酷に鞭を食らわした。11歳の時、近所の友達がハングルも教えてくれ歌も教えてくれるところがあるといって一緒に行ったが、何日かして父にバレた。

「小娘の分際が文字を学んでどこに書くんだ、ラブレターでも書く(?)のか!」と叱る父が怖くて祖母の後ろに隠れたが、脚を折ってやると言いながら殴った。その後、父を見たくないので家を出た。ある日、おばさんから平壌では妓生が最高だと聞かされた。綺麗な服を着て、綺麗な輿に乗って通うという妓生になりたくて妓生ハウスに行って養女となった。わずか一週間で父に見つかった。 「この小娘は先祖の恥さらしだ、村の恥を沢山かかせて歩き回ってる」と殴られ、無理やり家に戻された。そして靴下工場に逃げ出した。そこで3年、タバコ工場で4年働き、やがて人身売買団に引っ掛かった。

5)ペ・ジョクガン:この慰安婦は1922年生まれ。この女性は自殺しようとしたほど母親からひどい虐待を受けた。粗織りの木綿工場で働かせてくれるという地元の区長の嘘に騙されて家を出たのが、すぐに中国に送られた。中国のあちこちの慰安所を巡った。1946年に家に帰ってきたが、母は冷淡だった。 母は臨終の時、娘を探したが、彼女は行かなかった。

6)ソン・シンド:この慰安婦は1922年生まれで、母親からひどい虐待を受けた。 16歳の時から生活のために多くの職を転々とし、良い仕事を探してくれるという近所の人の誘惑に乗せられ、中国に行き、1938年から1945年まで慰安婦生活をした。日本人兵士が結婚しようとして日本に同行したが、彼は日本に到着するや否や彼女を捨てた。

政治目的のために慰安婦を悪用する挺対協

この6つのケースはごく一部に過ぎないが、当時の朝鮮の社会像をよく映している。 彼女らを悲劇のどん底に追いやったのは、日本の巡査ではなく、彼女たちを生んでくれた父と母、兄たちだった。 当時、社会は開化の風に乗っていた。 若い娘たちは外の世界への憧れや、家庭における暴力からの脱出を選択しており、その脱出は、そのまま人身売買団への進入を意味した。

このような事情を置いて、「当時、朝鮮の娘たちはみな家庭にあり、日本の巡査たちが家庭に押しかけ(?)て来て娘たちを強制的に連れて行った。 謝罪し、補償をせよ」こう叫んでいるのだ。 もちろんシム・ミジャのケースのように、日本の巡査が教室などから強制的に連れて行ったケースもある。 しかし、シム・ミジャ・ハルモニの証言や上記の社会像を見ると、大抵の慰安婦は、家庭内暴力と無知から脱出して人身売買団に引っかかった娘だったという印象を抱かせる。

上記の6つのケースはいずれも挺対協が作成した文章にある内容だ。 全ての事情をよく知りながら、挺対協は慰安婦を政治的目的の為に街に広めている。 ムン・ピルギは毎週水曜日に大使館前で「私の青春を補償せよ」とデモをしているが、挺対協が編纂した「証言録」によると、彼女が日本に要求する(出来る?)ものはひとつもない。

解放前後史の再認識、第1冊2部は「植民地下の女性の人生」というテーマを扱っている。 ここには日本の大阪産業大学の藤永壮教授、米シカゴ大学のチェ・キョンヒ教授、サンフランシスコ州立大学の ソ・ジョンヒ教授の文章が膨大な分量の論文として掲載されている。

この三者の論文を見れば、韓国の挺対協の主張がどれほど荒唐無稽かがいちいち知れる。 さらに、論文が引用した資料を見ると、日本人の調査が極めて多い反面、韓国人の調査が非常に乏しい

韓国内の学者は、この分野について研究をせず、挺対協は客観性が欠如した感情論を繰り返してきた。ゆえに、この分野を研究する多くの国際学者たちに恥晒しな結果をもたらしたということが、これらの資料に示されている。

まず、藤永壮教授の文「上海の日本軍慰安所と朝鮮人」の内容を紹介したい。

日本軍慰安所の元祖、上海 慰安所

1 沖縄に居住した朝鮮人元慰安婦の証言を記録したルポルタージュなど十数冊の本が日本で刊行された。慰安婦問題が日本に衝撃を与えたのは、1991年の8月から慰安婦たちが相次いで自らの存在を明らかにし始め、次いで日本政府を相手に補償を要求した訴訟を展開したことから動き出した。 資料上確認されるところによれば、1932年の上海の慰安所が一番最初に現れたものであり、日中戦争が始まって以降、この地域での慰安婦の数が最大規模だったため、上海の慰安所は他地域のモデルになったと思われる。 したがって、上海慰安所の環境を研究することの意味は非常に大きい。

上海には個人的な稼ぎのために日本人も売春婦(からゆきさん)が海外に出た最も典型的なケースである。上海駐在日本領事館は1880年代からからゆきの取り締まりに乗り出した。これは公娼制度の導入を意味した。 公娼制度の設置の動機は1)強姦防止、2)軍の士気高揚、3)、性病予防、4)防諜であった。

当時、上海での朝鮮人女性の実態は、こうであった。上海で朝鮮人女性ダンサーが現れた。 カフェで働く女給も出現した。 朝鮮人が経営する私娼(窟?)もあった。彼女たちは、新興の接客婦で仕方なしに売春した。こうした女性たちは不況のためにますます多く上海に集まってきた。1936年当時、上海には朝鮮人女性ダンサーが37人、彼女たちは、風紀を乱すという非難も受けた。日本人が経営する飲食店やカフェなどで働く朝鮮人の女給は48人、彼女たちはお金を稼ぐために密売淫を行い、雇い主と折半した。 この頃、上海には290人の朝鮮人私娼も存在した。 私娼というのは公娼と認められなかった所(?)だった。

満州事変(1931年9月)の際に現れた慰安婦は基本的に売春婦の出であり、その中には朝鮮人女性が一部含まれていたが、日中戦争の中期である1940年頃には朝鮮の娘を強制的に連れて慰安婦をやらせた「性的奴隷」なども新たに出現した。

日中戦争が全面化した後、慰安所が大量に開設される時期に慰安所経営者の中に朝鮮人の名前がかなりあった。

日本軍が開設していた慰安所?は、1)軍直営の慰安所、2)軍が監督・統制する軍専用の慰安所、3)民間の売春所を兵士用に指定したもの(民間と軍共用)、4)純粋に民間向けの慰安所(軍人が通っても個人的な行為)。4番目のタイプの慰安所は、日本軍慰安所とは何らの関係がない。 1932年3.14者上海派遣軍高級参謀岡部直三郎の日誌には、このような文言がある。

「この頃、兵士たちが女を探してあちこちさまよって淫らな話を聞くことが多い。 これは避け難いことなので、むしろ積極的に施設を作ることが良いと判断・・・」

上海派遣軍参謀副長だった岡村寧次はこう回想した。「慰安婦問題を考える・・・かく申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである」

1932年当時、上海の日本人の風俗営業の状況は次のようであった。 料理屋3カ所、飲食店72、喫茶店13、海軍慰安所17、クラブ2、ダンスホール1、芸妓134、舞踏女170、酌婦166。

上海の日本人の売春の歴史

「明治元年(1868年)から明治14-15年(1881-1882)頃まで上海駐在の日本人の数は10-100人がせいぜいであり、1年に平均5-6人ずつ増加した。 大体、男3分1、女3分の2だった。 女性の6-7割は外国人を相手に売春した。 彼女らが日本の売春の先駆者かもしれない。 森崎和江の著書『からゆきさん』では明治15(1882)に上海に800人の売春婦がいたと指摘している。 日本女性達が瞬く間に増えた上海では、領事館がこれを国家の羞恥とみなして捕らえて500-600人を本国に送還した。 それでも依然として200人程度は隠れていた」

結論

売春の歴史は、どの時代、どこの国でも、すべからく暗い歴史として連続されてきた。 我が国でも1961年5.16革命の前まで売春は不法に(?)統制されていた。そこで、売春は密かに家庭に入り込み、性的暴行や殺人などの悪い形で広がっていった。 ゆえに、朴正熙の最高会議は公娼制度を採択した。 家庭に入り込んでいた性犯罪や性病等が非常に効果的に改善された。上の論文の一部を見ると、当時、日本も道徳と品位と性の需要をめぐって、様々な考えを持ったと推測され、当時の彼らの悩みも、今も私たちが解決しないまま抱えている悩みと一致したと考えられる

今の私達の社会を見てみよう。 韓国社会はおそらく世界で上位に位置する性的風紀紊乱共和国だ。国家を率いてゆく席はあるが、その席に座っている人たちは、無能と利己心でお互いに噛みつくことで1年365日を過ごしている。 このような形で更に数年を費やせば、我々は北朝鮮に呑み込まれてしまうだろう。もし今、北朝鮮に呑み込まれれば、我が国の女性と国民は70年余り前に日本人から受けた苦痛とは比較もできない悲惨な扱いを受け、命まで失うことになるだろう。

昔の祖先の愚かさで、強大国に呑み込まれたのは事実だ。 もし、日本に呑み込まれずに、中国やロシアに呑み込まれたのなら、ロシアの慰安婦の境遇や中国の慰安婦の境遇は、日本の慰安婦の境遇よりも良好だったろうか。 私は絶対にそんな事はないと思う。 それなら慰安婦問題で日本を恨むよりも愚かなマネをして国を奪われた私達のご先祖を恨まなければならないだろう。

しかもソ・ジョンヒ教授が指摘したように、ほとんどの慰安婦は無知蒙昧の韓国の父と兄たちの虐待の産物だったのだろう。 こうした性格の問題を針小棒大に歪曲し、慰安婦問題を韓米日安保協力体制を壊すために悪用されるのは、一日も早く止めなければならない。しかも、挺対協の指導部は、北朝鮮とスパイに深くかかわっている人たちが掌握しているではないか。直ちに、毎週水曜日に日本大使館前で繰り広げている水曜デモから中断させなければならない。 恥ずかしくてたまらない。