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2011/10/28

公文書から見えた中曽根元首相と慰安所の関係



終戦直後、戦争犯罪の露見を恐れて慰安所の資料を破棄した・・・などという話は事実ではないだろう。なぜなら、中曽根元首相を初め、過去、慰安所の存在は当時の関係者の口からごく普通に語られていたからである。誰も慰安所を「強姦所(マクドゥーガル報告書)だとは思っていなかったし、まして戦争犯罪だとも思っていなかった。それは日本人に限らなかった。米軍も慰安所の存在を知っていたが、進駐軍はあっさりと(むしろ積極的に?)日本政府の提案を受けて自ら慰安所の利用者となったのである。

しかし国際感覚豊かな中曽根は時代の変化を鋭く読み取り、慰安婦騒動が始まってからは一転してしらばっくれていたのである。政界風見鶏の異名をとった人物だけのことはある。こんな時に「慰安婦は単なる売春婦」などと言う田舎者(世間知らず)は、国際社会では通用しない。当時はどうあれ、現代では軍隊の買春はご法度なのである。それが理解できず、「慰安婦は金をもらっていた」と言って弁解した気になっている人間は、地方議員ならともかく国会議員にはしてはいけないのである。しかし、残念ながら日本の保守系の議員にはこの手の人が少なくない。彼らは反日勢力のいいカモにされて日本の国益を損なっているが、本人にはそれが分からない。

結論から言うと、かなりの確度で中曽根は軍用娼家(慰安所)の設置に主体的に関わっていたのだろう。これは当時の話と考えると大した問題ではないが、現在の国際道徳ではこれを事実と認めるわけにはいかない。だから彼はトボケ続けるだろう。

なお、赤旗は「土人女を集め慰安所開設」などと副題をつけているが、土人の良き友であった水木しげるの体験記を読めば分かるように、当時は土人という言葉は必ずしも悪い意味で用いられたわけではなかったようだ。


「平和資料館・草の家」の主張はここに詳しい(その1 その2)。彼らが提示している資料によると、バリクパパンでは住民と日本軍の関係は良かったらしい。


中曽根康弘元首相が、戦時中に慰安所設置に積極的に関わっていた資料が防衛省の公開している文書の中から見つかったと、高知市の平和団体が27日、高知市内で発表しました。

明らかにしたのは、高知県内の戦争遺跡の調査や保存に取り組んでいる民間団体「平和資料館・草の家」の岡村正弘館長や馴田正満研究員(63)ら。

今回見つけたのは「海軍航空基地第2設営班資料」。当時の第2施設隊(矢部部隊)工営長の宮地米三氏(海軍技師)の自筆を含めた資料をもとに1962年に防衛省(当時庁)がまとめたものです(26ページ)。第2設営班の主計長が中曽根氏です。

資料には班の編成や装備、活動内容とともにバリクパパン(インドネシア・ボルネオ島)で飛行場整備が終わり、「氣荒くなり日本人同志けんか等起る」「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設氣持の緩和に非常に効果ありたり」(原文のママ)と書いています。バリクパパン上陸前の地図と上陸後、民家を接収し垣やトイレをつくり慰安所にした地図もあります。

中曽根氏は『終りなき海軍』の本で「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書くなど慰安所建設は認めていました。しかし、外国特派員協会の記者会見でも「慰安所は軍人らが碁を打つなど休息所の目的で設置した」と、いわゆる「慰安婦」を置く慰安所設置は否定していました。

研究員は資料で(1)中曽根氏が慰安所建設に積極的にかかわった(2)インドネシア人女性を集めて慰安所をつくった(3)42年3月11日に海軍基地内に慰安所が開設されたなど具体的な記述がある(4)慰安所内の配置図が明らかになった―と説明。「防衛省の所蔵文書で確証は高い。中曽根氏が慰安所設置に能動的に動いたことが分かる。中曽根氏自ら真実を明らかにするとともに、政府はさらなる調査をすべきだ」とのべました。

赤旗 2011.10.28

「草の家」が資料を文字に起こしたもの。

第二設営班  矢部部隊

一、編制

隊長   海軍技師     矢部 雅士
工営長   〃        宮地 米三
軍区長  海軍々医大尉  平  敏郎
主計長  海軍主計中尉  中曾根康弘
通信長  海軍兵曹長   宮西
職員 亀本技手始め 別記の通り
徴用工員 約二、三〇〇名
兵員  看護兵長 主計兵曹 通信兵等約四〇名

二、装備

1、主機械

一〇屯 八屯 六屯 五屯等の各種ローラー各輸送船
毎に積込
自動車 日産トラック 豊田トラック
大発(上陸機材運搬用)
ヤンマー(〃    )
発電機(一〇KW)
水槽車
ヤンマージーゼルエンジン
ウインチ動力付
杭打機
自転車
潜水道具一式 井戸掘機 給水パイプ等一式
トランシット、レベル、ポール箱尺等測量用具一式
ショベル、鶴バシ、ハンマー、斧、鋸[のこぎり]等土工用具一式
鋸 鉋[かんな] 等 大工道具一式
フイゴ 金敷、其他[そのた] 鍛冶道具 一式
ホースイ用具

2、材料

油類、ガソリン、重油、泥油
砂利、川砂、各輸送船下積
セメント、組立家屋用 合掌 パネル
防虫網、蚊帳、穴ドラム缶、洗面器、風呂桶(小判型)
ローソク 携帯電気入
●[「飛行」の印]場滑走路整備用 鉄板
波形鉄板  天幕
木材類、電柱、仝腕木 丸太
鉄筋 釘 等

3、糧食

職員及工員分として約二、五〇〇名分二ケ月分積込
軍医長 約二、五〇〇名分の医療準備
主計長 糧食の外戦地にて使用すべき軍票を
準備する

5、設営後の状況

ダバオ上陸設営出航迄[まで][一九四一年の]十二月二〇日-一月一四日迄[一月十四日まで]
二五日餘[よ]の短い忙しい日々であった 整備出来次第
攻撃に取かかつた状況で休息の暇がなかった
第二次進出も後発し来多[きた] 朝日山丸 金那摩山丸 日帝丸
等に工員約六〇〇名及設営機材を搭載し来多[きた]ので
そのまゝ進出した次第であった ダバオは邦人二〇、〇〇〇余
カンキンされて居[い]て占領と仝時[どうじ]に釈放され設営に協
力して呉れ多[くれた]
バリクパパンでは●[「飛行」の印]場の整備一応完了して攻撃機による
蘭印[オランダ領東インド]作戦が始まると工員連中ゆるみが出た風
で又[また]日本出港の際約二ケ月の旨申し渡しありし為
昄心矢の如く[帰心矢のごとく]氣荒くなり日本人同志けんか等起る
様になる
主計長[中曽根康弘・海軍主計中尉]の取計で土人女を集め慰安所を開設氣
持の緩和に非常に効果ありたり

6 所見

一 急速に取集めた機械類の為か其[その]當時の実力
の不備の為か新品の機械なるにも拘[かかわ]らず故障続
出、上陸して●[「飛行」の印]場に運搬する途中にて故障し相当苦
しむ
ダバオに於[おい]ては土民は排他的眼にて我方に対して居[い]たので
不安があつたがバリクパパンにては非常に好意を持つて
接して呉[く]れ 協力して呉れ多[くれた]

ブログ高知 2011.10.27