ページ

2012/12/09

「私は朝鮮人慰安婦を徴用した」(下) 吉田清治

帯にも注目 「抹消された歴史の暗部」
「元『戦犯』日本人が書き残す朝鮮慰安婦の強制連行の実態!」

朝鮮人慰安婦の徴用(強制連行)がどのように行われていたのか、聴衆を前に吉田清治はこのように証言した。吉田によれば、これは懺悔ではなく「何十年か先に私たち日本人の子孫が日韓併合中の日本人がざんきの涙にむせびながら反省していた、せめて一人でもそういう人間がいたと言うことを知ってくれれば先祖に対して絶望しないだろう」という思いで語られたもの、ということである。

労務報国会の職員とそれを護衛する軍の部隊が送り込まれ、銃剣を突きつけ、木刀で打ちのめして女性を徴用したのである。そして兵士たちには役得があった。日本政府により徴用された女性たちは兵士たちに強姦されるのである。一部始終を目撃した吉田は言う。

「(トラックの)幌の中から人間の声とは思えないような悲鳴が聞こえて参りました。しかしそれも1分か2分で終わりました」・・・そしてこうした行為は、日本の歴史から意図的に消されてしまったのだと。

そして10年後の1992年、朝日新聞と吉見義明は「軍の関与」の証拠を発見したと発表する。いわゆる慰安婦問題ビッグバン(秦郁彦)である。


そして一週間にわたって予備人員も入れて205名の徴用をしました。その徴用場所は済州島の海岸線を幹線道路が一周していますが、その幹線道路に沿って東に進み、あるいは西に進み3日間、済む州を中心にして徴用を行い、その後は西帰浦(ソキボ)という南側の済州島第二の町ですが、そこで海女を徴用しました。

最初の徴用は済州から東の方へ軍用トラック2台で進みまして、20分か30分走ると、幹線道路の側の小さな村がみえました。2台の先頭の車の助手席に、私と軍曹が坐っておりましたが、その部落をまず徴用場所に選んで部落のすぐ前にトラックを停めて、10人の徴用隊と10人の武装兵が一緒にその部落に入っていきました。

ご承知のように済州島の部落は非常にみじめな部落です。その小さな部落に入りましたらどの家も人がいません。これは時間的にみんな働きに出て行っていたと思いました。済州島は部落の家の回りに石垣が立てられています。これは、風を防ぐためと家畜の侵入を防ぐためにあるのですが、その石垣の上によじ登って部落内を偵察しましたら、すぐ近くの割合大きな家の中に20人ばかり女が集まって何か作業をしていました。双眼鏡で確かめますと朝鮮帽子ですね、あれは馬のしっぽの毛で作るのですが、伝統的な朝鮮人の帽子なのです。その帽子を家内作業で作っておきました。すぐ私は、軍曹を通じて兵隊と徴用隊の隊員に命じてそこへ突入させました。これは済州島における最初の徴用でしたので、みんな様子がわからずいきなり飛び込んで行って、30歳未満と思える女に跳びかかって腕をねじあげて引きずり出したのです。

私は石垣の上から双眼鏡で見ておりました。もちろん、すさまじい悲鳴や絶叫が聞こえて参りました。そしてそれを聞きつけたのか、どこから出てきたのか、半裸体の男性たち、これはみな漁師たちですが、その男性たちが数十人集まってその家に跳び込んできました。兵隊はすぐ銃剣を突きつけました。兵隊は銃剣を突きつけただけではありません。現在とは違いまして、叫んで反抗してくれば本気で突くつもりでその男たちの方へ向かっていきました。そして徴用隊員たちは、若い女性を手をねじあげ引きずるようにしてトラックの前に連行しました。

泣き叫び、部落中に非常な叫び声と悲鳴があがって、男性たちも大声でわめいていました。兵隊が銃剣で周りを取り囲み、8人の女性をひきずってトラックの近くまで連れてきました。ところが、トラックを見て女性たちは生命がけで抵抗しました。しかし、これも2~3分で結局手をねじりあげられて、トラックの中に入れられてしまいました。そのトラックの幌の中に、みんなを押し込むとともに2台のトラックに隊員が乗って、すぐに出発しました。そして10分ぐらい経ってから、私の横に坐っていた軍曹が私に次のことを言いました。

徴用の警備は兵隊たちが役得を当てにしています。この先で30分小休止して、兵隊たちを遊ばせてやります」。そして軍用トラックは幹線道路から横に入り、道のない草原を通ってちょうど岩山の裏側の幹線道路から見えない地点にトラックを停めました。トラックから隊員たちが跳び降りて来ると軍曹の命令で兵隊たちは銃を組んで立て、それが終わると、同時に9人の兵隊たちは8人の女性が乗った幌の中へ突進しました。

その間、幌の中から人間の声とは思えないような悲鳴が聞こえて参りました。しかしそれも1分か2分で終わりました。約30分の距離にある非常に近い部落、その部落で朝鮮帽子編んでいた20人ばかりの部落民の中の若い女性8人が私の命令で慰安婦にさせられるために連行され、そして10分後には日本陸軍部隊の兵隊たちによって、慰安婦にさせられたのであります。

トラックはそれから約1時間ほど走りまして、済州島の東側の町、そこは漁業が盛んで貝細工の貝ボタンを作っていましたが、製品は全部当時の陸軍納めで、その工場がその日の慰安婦徴用の目的地でありました。

長い石塀にかこまれたかなり大きな工場が建っていて、そこに100人ぐらいの島民の女性が働いていました。私たちは、私以下9人の徴用隊員だけで連行することにして、銃剣を持った軍曹以下10人の兵隊に警備してもらいました。隊員たちは徴用に慣れていますので、まず工場の事務室に入り、責任者を連れて中へ入って、そこで徴用しました。この時もみな隊員たちは木剣をもっていて、打ちのめして連行しました

もっとはっきりご説明したいのですが事件がございません。しかし、そういう行為が行われていたことは日本の歴史から今消えております。私は今後生命のあるかぎりこの事実を本に書いたりお話ししたりするつもりです。それは私が懺悔することではありません。この年になって戦争犯罪人の私がいまさら気休めの懺悔するためではありません。ただ私1人でもそのことを書き残しておけば、何十年か先に私たち日本人の子孫が日韓併合中の日本人がざんきの涙にむせびながら反省していた、せめて一人でもそういう人間がいたと言うことを知ってくれれば先祖に対して絶望しないだろう。そんなことを思って証言しているのです。

いま朝鮮の統一と在日は---六・一八日本と朝鮮の戦前・戦後を考える文化の夕べ



「私は朝鮮人慰安婦を徴用した」(