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2015/06/21

[慰安婦の背景] 16で娘を売り18歳で再び娼妓に(昭和の凶作)

相談ではなく、法律で一律禁止にすれば良かったか?
社会状況がそれを許さなかった

慰安婦にも共通する「身売り」。身売りは人身売買なのか?アメリカはこれをhuman trafficking(人身売買)と呼びたがるだろうが、当時の日本では人身売買と身売りの間には法律で一線が引かれていた。いわばグレーゾーンとして身売りは認められていた。

グレーゾーンなら、いっそ禁止すれば良かったではないかというと、そんな簡単な話ではない。当時の毎日新聞(東京日日)の記事に見られるように「罪悪か否かの問題ではない。そうしなければ当面の生活が維持でき」なかったからである。生活が維持できないと言っても、現代とは違う。一家離散か下手をすれば全滅したのである。

娼妓(公娼)として売るには18歳になるまで待たねばならないから、16歳で一旦酌婦(表向き売春はしない)として売る。酌婦と言っても、酌をするだけで済むとは限らないが、2年待って18歳で娼妓として再び身売りである。こうして一家が何とか食いつなぐという極限状態。だから、軍が慰安所(売春宿)を誘致したら、「≒人身売買の犠牲者」がいるのは当たり前で、アレックス・ダデンが言うような日本政府による犯罪ではない。なにより「≒人身売買の犠牲者」は、日本人も同じであった。ようするに、

日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきもの 日本の歴史家を支持する声明

と言い切った『187人声明』に署名した日本研究者は、日本の中学生程度の日本史の知識もなかったということである。

「帰っても村には飢えが待つばかり-最近、東京・吉原の遊廓で、年期明けの娼妓のうち、さらに一年か二年の短期契約をやって稼ぐ者が目立って増えているというので、何が原因かを調べてみたら、その大部分は、年期が明けて田舎に帰っても食うことができない、それよりはまだ遊廓にいた方がましだということらしい。先頃、東北のある連隊で兵士に帰休を許そうとしたら、家に帰っても仕事はないし、軍事救護が打ち切られては、家族が餓死するから、このままおいてもらいたいと懇願されたという話があったそうだが、この話とともに、近頃の農村の疲弊を語って余りある。

(中略)

この中でも山形県は、数字が示しているように、最も多い。同県の○○○郡○○○村だかは、戸数七〇〇戸の貧農村で、ここからは三〇〇人の娘たちが売られて行ったといわれている--娘を売るのが罪悪か否かの問題ではない。そうしなければ当面の生活が維持できないのである。前借もこれに応じて、この頃はガタ落ち。娼妓では年期明けまで最高二〇〇〇円どまり、平均の一〇五〇円、それも、ごく美人でなければならないという。前借金の少ないのは四〇〇円ぐらいである。酌婦はさらに低く、二五〇円か精いっぱいというところらしい。しかし、ガタ落ちしたとはいえ、酌婦から見ると、娼妓はまだ前借がきく

では、なぜ、前借の少ない酌婦ではなく娼妓に売らないのか。娼妓は満十八歳にならないと許可されない。しかし、それまで待つことができない。ところが、地方では満十六歳から酌婦になれる。そこで、金は少ないが十六歳になるのを待ちかねて、まず酌婦に売って肥料代などの借金の利払いをし、次いで十八歳になってから娼妓にして、まとまった前借で負債の螫理をするということらしい。娼妓になった者の経歴を調べてみると、それがよく分かる。「親出」といって、農村から直接、遊廓に来る者は少なく、大概は酌婦としての経路を辿っている。(東京日日 1932.6.17)