ページ

2016/01/14

<帝国の慰安婦ー植民地支配と記憶の闘い>要約


著者本人による『帝国の慰安婦』の要約。本を読む気力のない人の為に。

それにしてもパク教授、どうも秦教授や吉見教授の本を読んだことがないのでは、という気が。・・・別に、問題ではないのだが。

<帝国の慰安婦ー植民地支配と記憶の闘い>要約
2013年7月30日

慰安婦問題をどのように考えるべきなのかー秦郁彦・吉見議論(2013・6)を踏まえて(2013・7・15、明治学院大学)

慰安婦問題はどのように考えるべきなのだろうか。昨今大きな混乱を呼んでいるこの問題について、とりあえず日本で「慰安婦問題の第一人者」とみなされている二人の歴史家のお話に議論を添わせる形で話したい


ここで議論の土台にするのは、去る6月にラジオで放送された「秦郁彦 吉見義昭 第一人者と考える慰安婦問題の論点」である。安倍首相は「歴史家に任せたい」としていたが、歴史家の「第一人者」の議論がなかなか接点を見いだせていないことから分かるように、慰安婦問題はもはや単に「歴史家」の考えだけでは日韓の合意どころか「日本内」の合意さえ見いだせない状況となっている。

日本内、あるいは日韓間の「合意」を導き出すのが難しくなっているのは、この問題がすでに長い間解決されないまま長引き、両国民の多くがこの問題に関してかなり詳しい「情報」を持った結果として政治問題となってしまったからである。それには、「慰安婦」そのものをめぐる情報や考え方の食い違い自体よりも、現在身を置いている政治的立場やそれに伴う感情までが入り込んでしまったという背景がある。さらに、この問題に直接・間接にかかわってきている人の数が多く、そのほとんどの人たちが間接的な「当事者」にもなっていて、かかわった期間が長かっただけにそれぞれの主張が自らの価値観や政治的立場を示すものにさえなっていることも、既存の考え方や立場をなかなか崩せない大きな原因となっている。

この問題について考える時もっとも必要と思われるのは次のことである。

1、できるだけ早い解決

2、そのためにこの問題を「慰安婦」という存在自体をめぐる状況はむろんのこと、ここ20年の運動や葛藤の様相についても知る。

3、この問題にかかわることが自分の生活や政治的立場と関係のない識者や市民もこの問題にかかわり、「解決」をもたらす方法を「関係者とともに」考える。


1、「慰安婦」とは誰か

近代以降、交通の発達や国家の勢力拡張の欲望を内面化する形で、海外へ単身で移動する男性たちは多かった。そしてそのような男たちを支えるために女性たちの「移動」も多くなった。日本の場合、最初は日本に入ってきた外国軍人のためにそういう女性たちが提供されていたが、同じ頃から海外へもでかけるようになっていた。いわゆる「からゆきさん」がそれで、彼女たちの殆どは貧しい家庭出身で親に売られたり家のために自分を犠牲にした女性たちだった。

そして彼女たちは朝鮮に駐屯した軍隊や国家の移住奨励政策に従って移住していった男たちのために朝鮮にも移住して行った。やがて朝鮮半島にも公娼制がしかれ、朝鮮人女性もそこで働くようになる。すでに日露戦争の時から軍人たちを「慰める」女性たちはいたのであり,軍隊を支える役割をしているという意味で彼女たちは「娘子軍」と言われていた。

つまり、「慰安婦」とは基本的には<国家の政治的・経済的勢力拡張政策に伴って戦場・占領地・植民地となった地域に「移動」していった女性たち>のことである。商人や軍人が利用した「慰安所」のようなものは早くから存在していた。「慰安所」や「慰安婦」という名前は1930年代に定着したようだが、その機能は近代以降の西洋を含む帝国主義とともに始まったと見るべきである。

2、「慰安婦」と「朝鮮人慰安婦」

当然ながら、日本の場合は遠い海外へ「国家のために」でかけている男性のために「慰安婦」が用意されるのでその対象は「日本人女性」だった。ところが、朝鮮が植民地となったがために「朝鮮人女性」や台湾女性もその仕組みに組み込まれることになる。1920年代にはすでに中国や台湾には朝鮮人女性も海外にいる「日本人」や「日本人となった朝鮮人」を相手するためにでかけていった。のちの「朝鮮人慰安婦」の前身と見るべき存在である。

3、「からゆきさん」の「娘子軍」化

からゆきさんの中には、たとえ売られてきていわゆる「売春」施設で働いても、拠点を築いた女性たちは「国家のために」来ている「壮士」たちのためにお金や密談のために場所を貸すような立場の女性たちもいた。彼女たちが「娘子軍」と呼ばれるようになったのはそのためで、そのようにして彼女たちは蔑まれる一方で「格上げ」されることになる。一方彼女たちも、間接的に「国家のために」働く男たちを支え、郷愁を満たしてあげることでそれなりの誇りを見いだすこと(もちろんそれは戦争に突き進む国家の帝国主義の言説にだまされたことでもある)もあった。「慰安婦」とはそのような仕組みが支える名称である。

4、様々な「慰安所」

したがって、日本軍が1930年代に入って突然「慰安婦制度」を発想して<「慰安所」を作った>のではなく、それまでにあったことをシステム化したと見るべきである。他国の場合と違うのは、‘愛国心がその仕組みに利用されたことである。
日本軍は、満州国と日中戦争のために駐屯軍のために、それまで衛生など(内地なら警察が管理していた)の「管理」をしてきた売春施設のうち(料理屋、カフェなどにはその役割をしたところもあった)、基準を満たすところを「指定」して「軍専用の慰安所」にした。しかしやがて軍隊の数が増えたことや、便宜性などを考えシステム化するにいたったのである。そして業者を使って「募集」するにいたったが、その形はさまざまであった。

つまり今日「慰安所」と考えられているところには、必ずしも軍が新たに作ったところだけではない。日清・日露戦争以降の既存の施設も含まれ、すでに個別に働いていた人たちに軍が接受した場所を提供し、「収容」する場合もあった。「業者」を、移動や経営に関する便宜を与えるために「軍属」(あるいは軍属扱い)にする場合もあった。

しかし、それはあくまでも「軍が作った」慰安所に限る。したがって「慰安所」の形が様々であるだけに、「業者」のあり方も様々だった。島などの場合、
業者自ら、自分で粗末な「慰安所」を作り、「臨時営業」(一種の派遣業務)を始める場合もあった。しかしいずれにしても戦場の場合、移動に関して軍の許可が必要だったため、基本的にはその
多くの動きを軍が知り、統括していたのは間違いない。しかし、将校などは指定慰安所を使わずに、普通の料理屋を慰安所として利用する事も多かった。

軍が慰安所を作った(指定した)理由は、言われているように性病防止やスパイ防止以外にも、利用軍人が多くなるにつれて、部隊から近いところにおく便宜性や「安く」利用できるようにするため、の理由もあったとようである
。その場合の料金は<公>と言われた。

「慰安所」は、ひとつの形ではなく時期や場所によって様々な形があったことを念頭におく必要がある。

5、様々な「慰安婦」

したがって、本来の意味でなら、日本が戦争した地域にあった性欲処理施設を全て本来の意味での「慰安所」と呼ぶことはできない。たとえば「現地の女性」がほとんどだった売春施設は本来の意味でなら「慰安所」と呼ぶべきではない。つまり、そのような場所にいた女性たちは単に性的はけ口でしかなく、「自国の軍人を支える」「郷愁を満たす」という意味での「娘子軍」とは言えないのである。戦場で提供されて、半分継続強姦の形で働かされた女性たちや、戦場での一回性の強姦の被害者は、厳密な意味では「慰安婦」とはいえない。

したがって、アジア太平洋戦争で日本軍の性の相手をした全ての女性を「慰安婦」と呼ぶべきではなく、本来の「慰安婦」の名前にふさわしいのは、「日本人」や「日本人」にさせられた「朝鮮人」「台湾人」「沖縄人」だけと考えるべきである。

しかし、普通の売春施設にいた女性たちも「慰安婦」と同じように軍を対象にした性労働に従事し、「愛国食堂」のような看板を掲げて軍人を受け入れてもいたので(もちろん指定業所になっていたはずだ)、事態はややこしい。

しかし、すくなくとも、戦場での一回、あるいは継続的強姦をさせられた女性たちと、日本人を含む「慰安婦」たちの、軍人との関係の違いは歴然としている。

「慰安婦」は、このように国籍や時期、そして場所(最前線か後方か)によって、その体験は異なっている。

にもかかわらず、そのすべてを「「慰安婦」と考えて、問題の対応に当たったことから、大きな混乱が始まったのである。

しかし、そのどのケースであっても性的労働に従事させられるのは、社会における弱者であり、彼女たちの多くが病気にかかりやすく、死が隣り合わせの悲惨な境遇にいたことを認識することは、慰安婦問題を考えるための大前提とならなければならない。

6、「強制連行」について

したがって、軍人を相手に性労働をするまでになった経緯も当然ながら一つではない。中には本格的な募集が始まる前から現地にいた女性もいた。

韓国で最初にこの問題を提起した人は、自分が経験した「挺身隊」のことを「慰安婦」のことと勘違いした。彼女が経験した「挺身隊」は「学校」で「判子」を押すような形だったので彼女はその募集を「強制」と思ったのである。しかし「挺身隊」の募集が「学校」単位での「国民動員令」によるものだったことから分かるように「教育」のある人が対象だったのに対して「慰安婦」はほとんど低いレベルの教育か教育を受けていない人がその対象だった。韓国で慰安婦が「強制連行」されていったと考えるようになったのは、日本の否定者たちが言うように慰安婦が「嘘」を言ったからではなく、まずはこの90年代の勘違いによる。

しかしさかのぼれば植民地時代にすでに「挺身隊に行くと慰安婦になる」との風聞はあった。「慰安婦」は「挺身」して「兵隊さんのためのこと」をすると言われたのであり実際のところ看護補助や洗濯など「性的慰安」以外のことをさせられる場合もあったので、まったくの誤解とも言えない
(兵士の墓の掃除や洗濯なども、朝鮮人慰安婦たちはやらされていた)。

「軍人」がつれていったと証言する慰安婦の割合はすくなくとも証言集を見る限りむしろ小さい。そしてその場合も、「軍属」扱いを受けた業者が「軍服」を着て現れた可能性が大きい。また、業者自らが、集めやすいように、当時始まっていた国民動員としての「挺身隊」へ行くのだと言った可能性も排除できない。業者は、日本人と朝鮮人がペアで現れたことが多かったようである。

しかし、慰安婦の募集は、一人や少人数でいるところを「工場」へ行くなどの言葉でだまして連れて行かれたことが、証言では圧倒的に多い。そういう意味では、「軍につれていかれた」という意味での「強制連行」はなかったか、たとえあったとしても「例外的」なこと—つまり「個人」の逸脱行為と見るべきであって、「軍が組織として(立案と一貫した指示体系を通して)だましや強制動員をした」と見るのは間違いと考える


オランダや中国の場合、軍が直接集めたり隔離して性労働に従事させたのでそれはより「強制性」が強い。ただその場合は上記の意味での「慰安婦」とは言いにくい。日本人・朝鮮人・台湾人が「日本帝国内の女性」として軍を支え励ます役割をしたのとは違って、彼女たちへの日本軍の行為は、「征服」した「敵の女」に対する「継続的強姦」の意味を持つからである。このような日本軍との「関係の違い」が無視されて同じ「被害者」としてのみ理解されたために、「強制連行」や「慰安婦」に対する理解が、否定者と支援者間に接点を見いだせずに慰安婦問題をめぐる混乱が深まったのである。

大まかに分ければ、問題発生以来、「慰安婦」としてみなされてきた人の中には,もとの意味での「慰安婦」(これは挺身隊よりゆるやかな「国民動員」の一種と見るべきである)、民間運営の施設(占領地や戦地に早くから存在した場所を含む)を軍が「指定」し衛生などを「管理」した所で働いた人たち、戦場で捕まって継続的強姦の対象になっていた「敵の女」の三種類の女性たちが混在している。

軍属扱いをされ、「軍服」のような制服を着ることもあったと見られる「業者」が集めた朝鮮の場合、業者が「挺身隊」(強制的、しかし「法律を作っての」国民動員。しかし「志願」の形となる)に行くとだましたがために、「強制連行」だったと当事者たちが認識した可能性も高い。つまりもと慰安婦たちが「嘘」をついているというより(まったくないとは言い切れないにしても)、今はいないはずの「業者」たちが嘘をついた可能性も大きい。

7.日本軍と朝鮮人慰安婦

朝鮮人慰安婦は、場所によっては着物を着て日本名をつけられて働いた。つまり「日本人」女性に代わる存在だった。慰安婦たちには料金の区別がつけられていて、「日本人」が一番高く,その次が朝鮮人だった。本来なら巻き込まれないでいいはずの(日本を対象とした)「愛国」に朝鮮人も動員されたのである。その意味では朝鮮人慰安婦は日本の「植民地支配」が生んだ存在であり,その点で日本の「植民地支配」の責任が生じる。そして、慰安所に着くと最初に将校や軍医による強姦も多く、部隊移動中にも朝鮮人たちは「朝鮮人」であるゆえに、決まった性労働以外にも強姦されやすかった。

同時に、「国家のために」集められた「軍慰安所」に居た場合は、構図的には敵を相手に「ともに闘う同志」の関係にあった。兵士の暴行などを上官が取りしまり、業者の搾取を軍が介入して管理する場合も多かったようだ。

地域や時期にもよるが、慰安婦が、圧倒的多数を相手しなければならない過酷な体験をしたのは間違いない。同時に、基本的には兵士や業者の横暴から慰安婦たちを守るような規範もできていた。もちろんその規範が必ずしも厳しく守られたわけではなく、兵士たちはよく朝鮮人慰安婦によく暴行をふるい、注意程度の処罰しか受けなかったことも多かった。
朝鮮人慰安婦はそのように総体的な民族差別の中にいた。朝鮮人慰安婦と日本軍人は恋愛も可能だったが、そのことを見ることが、宗主国・植民地出身という構図のなかの差別や搾取を無化することになってはならない。

朝鮮人慰安婦の一部は、最前線においても行動を共にしながら、銃弾の飛び交うような戦場の中で兵士のあくなき欲望の対象になり、銃撃や爆弾の犠牲になるような過酷な体験をした。つまり、たとえ契約を経てお金を稼いだとしても、朝鮮の女性たちをそのような境遇においたのは「植民地化」であった。したがって、朝鮮人慰安婦に対する日本の責任は、「戦争」責任以前に「植民地支配」責任として問われるべきである。

8、業者

軍が必要として集められたのは確かだが、拉致や嘘を軍が公式に許可したとする証言や資料は今のところみつかっていない。そして、嘘までついて強制的につれていったり、病気などの時も「強制的に」働かせたり、逃げないように監視したり、中絶させたのは、ほとんどの場合日本人や朝鮮人の「業者」だった。日本人業者の方が規模が大きく、朝鮮人業者の方が規模が小さかったように見える。
慰安婦たちの多くはは借金状態を抜け出せず、自由廃業ができなかったがその直接の原因はこうした業者たちの搾取構造にある。
吉見教授は慰安婦に「居住」「廃業」などの自由がなかったというが、それは基本的には「業者」による拘束と戦場であるがための拘束であり、「軍人」に移動の自由がなかったのと同じケースと考えるべきであろう。

そしてもと慰安婦たちの身体に残っている傷跡も業者によってつけられた場合が多い。軍が暴行する場合ももちろん多かったが、少なくとも公式には禁じられていた。

つまり、「慰安婦」を巡っての「犯罪」——当時の法律に抵触する行為は、拉致・誘拐や人身売買であって、「慰安所利用」を「道徳的に」問題のある「罪」と捉えることは可能でも,当時の(法律に抵触する)「法的犯罪」と捕らえるのは難しい。

9.20万の少女

「20万」という数字は、日韓を合わせた、「国民動員」された「挺身隊」の数だったことが、1970年頃の韓国の新聞記事から推測可能だ。新聞は、日本人女性が15万,朝鮮人が5—6万、と言及している。こうした誤解も手伝ってその後そのまま「慰安婦」の数と理解されてきたものと考えられる。しかもその「慰安婦」の全てが必ずしも「軍が作った」「軍慰安所」にいたわけではないことはこれまで述べてきた通りである.

慰安婦になった人には「少女」がいなかったわけではないが、1960年代の韓国映画には朝鮮人学徒兵たちにおける慰安婦が成人だったことが分かる。
実際に証言を見ると十代前半のケースはむしろ少なく、当時の軍人たちにも「例外」な状況として受け止められていた。「慰安婦」と名乗り出た人の多くがまだ幼かった「少女」であったことを強調するのは、彼女たちがその「例外」のケースにいた人々と見るべきだろう。実際には、証言者の多くが、「他の人は自分より年上だった」と語ってもいる。売春業界に少女が連れ込まれるのは世界中にあることであり、そういう意味で少女が多かったことはありうるが、それは日本軍の意思というより、業者の意思によるものと考えるべきである。慰安婦の都市は一概に推定できないが、証言集や資料による限り、その平均年齢は、20才以上と考えられる。

10、敗戦後の帰還

慰安婦が敗戦後に帰国できなかったのは、戦場での爆撃の犠牲になった場合や玉砕に巻き込まれた場合が多かった故のことと考えられる。中国にいた慰安婦たちは、いわゆる「引揚げ者」たちの受難を同じく経験していて,場所によっては帰ること自体が難しく、その道のりで犠牲になった場合もあると考えられる。そのほかは帰ってきたかその地に残ったものと見られる。敗戦後に「置き去り」にしたことに、動員した軍に責任があるのは言うまでもないが、それでも慰安婦たちの「おきざり」に対するうらみは、日本軍より「業者」に向かう場合が多い。軍と行動を共にした場合、負ける戦闘のさなかでのことであって、その状況は様々で、軍が帰国を助けた場合もあった。

11、1990年代の謝罪と補償

1990年代に日本が「慰安婦」と名乗り出た人々に「謝罪と補償」をすべく作った「アジア女性基金」は、被害者たちが要求した「国会立法」を経たものではなかったが、当時の閣僚たちの合意に基づいて作られたものだった。国会では立法を進めた議員たちもいたが、韓国の場合、1965年の日韓条約で国家間賠償が終わったことと「強制連行」の有無が議論の焦点となって法案を通すにはいたらなかった。「基金」は「国会」は通さなかったが、「政府」閣僚たちが合意してやった「謝罪と補償」である。それは「国会立法」を主張する人たちに「責任回避」の手段と非難されたが、1965年の国家間条約で個人補償は終わっているので国家賠償はできないと思った日本政府が、「法的責任」は存在しないと考えながらもなお、「道義的責任」を取る
として行った、いわば「責任を取るための手段」だった。国民の募金でまかなうと言われていたが、300万円に当たる医療福祉補助費も出されていて、名前こそ「補償金」でないが、実際に慰安婦たちにわたった補償金の半分以上が国庫金から出されている。最終的には事業費の89パーセントが国庫金からまかなわれていた。そういう意味では「基金」は、単なる「 民間基金」ではなく、日本政府と国民が心を合わせて行った「謝罪と補償」の試みであった。もちろんこのとき、日本政府は、基金への関与をより明確に言えばよかったであろう。

12、1965年の過去清算について

1965年の日韓条約は1952年のサンフランシスコ講和条約に基づいての条約だったので、「戦争」の事後処理をめぐる条約だった。「植民地支配」という過去清算に関する条約ではなかったのである。条約の文面にひとことも「植民地支配」に対する謝罪の言葉が入ってないのはそのためである。実際徴用などに関しての「補償」も、中日戦争後のことに限っていた。しかし朝鮮は日本の戦争相手国ではなく、むしろいっしょに闘った立場だったので、この補償は、恩給などに当たる、いわばもと「日本国民」としてのものだった。突然両国が引き離されることになったための、貯金やその他を含む金銭的事後処理が中心だったのである。

そして日本は「個人の請求権」は個別に請求できるようにしたほうがいいと言っていた。しかし韓国側は、北朝鮮を意識して、韓半島唯一の「国家」としての韓国が代わりにもらおうとしてその提案を拒否した。つまり「韓国」だけが補償を請求できる正統性を認めてもらおうとしたのには(チャン・バクチン)、厳しい冷戦時代のさ中にいたという歴史的経緯がある。

当初韓国側は「植民地支配」による被害について(人命損失など)も請求しようとした。最終的にそれが削除された理由は明らかでないが,おそらく今でも続いている論争——「植民地支配は合法」、つまり韓国の意志でやったことだというような議論があってのことかもしれない。確かに当時においてはほかの元帝国も「植民地支配」に関して謝罪したことはなく、それは時代的思考の限界だった。つまり、1965年の条約は植民地支配についての謝罪にはなっていないが、それは冷戦下にあって元帝国諸国がそのような事に関して謝罪するような発想をするような時代に至っていなかったこと、そして元植民地側も冷戦時代のあおりを受けて、自ら「過去清算」を急いでしまったためのことだった。

13、1910年の合併条約について

さらにさかのぼって1910年の合併条約自体が「強制的」なもので「不法」だったとする議論もある。そしてこの時の条約が「不法」だとすると当然日本に「植民地支配」についての「法的責任」が生じることになる。しかし、たとえ少数が率いてやった事が明らかでも、それが「条約」という(当時における)「法的手続き」を通してのものだった以上、このことを「不法」とするのは倫理的には正しくても現実的には無理がある。それはアメリカやイギリスなどやはり植民地を作った大国の承認を得てやったことであって、彼らだけの「法」に基づくものだったという意味でなら「不法」と言えても、ともかくも「合併」を韓国が承認した文面が存在する限り、残念ながらそのことを「不法」とは言えなくなるという現実もある。

もっとも、国民のほとんどに意見が聞かれたわけでも知らされていたわけでもない「合併」は、「ほとんどの朝鮮人」の了解や承認を得ていないという点ではほんとうの意味では「了承」したとは言えない。しかし国の代表がそうしてしまった時点で、不服でも、「不法」といえないことは、政治的・時代的限界と考えるべきであろう。そのような「法」に問題があったことを後世の人々が認めるのなら(すでに90年代の日本の謝罪はそれを間接的に認めたことにはなる)、たとえ「不法」でなくても、道義的に問題があったとみなすことは可能である。「法」にかかわらず、日本に植民地支配の責任があることは間違いない。

14,「法」の問題

韓国政府や支援団体が求めているのは慰安婦募集と慰安所使用に関わることを「不法」と認めて「賠償」せよとするものである(日本の支援者の多くもそれを主張している)。しかし、当時において日本内で「売春」が「不法」と認められていなかった以上、そのことを「不法」とみなすことは無理がある。たとえ国際的に不法と見なし始めていた時期だったとしても、である。当時は性暴力さえもまだ「法」で処罰することはしていなかった時代だったのであり、だからこそ男たちは罪の意識もなく強姦を繰り返したのである。

しかし「人身売買」は当時においても「不法」と認められていた。問題は、その人身売買を日本軍が指示したかどうかにある。実際に人身売買であることを知りながらも黙認したふしはある。しかし、日本軍は
詐欺や誘拐によって連れてこられた場合返したり、別の就職先を斡旋するように業者に指示したケースがあり、軍として詐欺や誘拐を組織として容認したとは言いがたい。それでも、日本が宗主国として、植民地の女性を差別と強姦と搾取の対象にしたのは間違いない。

15、再び「アジア女性基金」について

そういう意味では90年代の「道義的責任」は、そうは意識しなかったにしても、まさにそこを突いての「謝罪と補償」だった。最初に声をあげた朝鮮人慰安婦が「植民地支配」による存在ということも認識されていて、それに対する補償だったからである。

すでにイタリアやイギリスも植民地支配に関して謝罪をしたことがある。もっとも、日本も,細川首相や村山首相が行った。しかし、最初は「慰安婦問題」を「植民地支配」と捉えていたのが、のちに別の国の人たちが現れることになったことが影響して、普遍的な「女性の問題」と捉えられることになったために、そのような捉え方はやがて消えてしまった。

しかし、現在この問題で、ほかの国・地域は「アジア女性基金」を受け入れて一応解決されたことになっている。そして現在慰安婦問題を「不法」だったとして「賠償」を求めているのは「韓国人慰安婦」だけなので、「日韓問題」として捉え直す必要がある。
そして、あらためてそうした状況を念頭におきながらしかるべき解決を考えるべきであろう。オランダや中国などほかの国といっしょに考える「女性の人権」問題との捉え方だけでは、朝鮮人慰安婦の特殊性が見えてこない。そして、家父長制の中の犠牲者と捉える時、真なる「女性人権」の問題として向き合いなおすことができるだろう。

日本の一部の人はほかの国々もやったとして責任を回避しようとするのではなく、オランダを始め世界の「元帝国」に、「植民地支配」が起こした問題としての自覚と反省を呼びかけるべきだ。そうして始めて、アメリカもイギリスもオランダもこの問題を「自国」の問題として向き合うことができるだろう。それらの国の欲望のためにも、自国や他国の女性たちは動員されていた。

16、「性奴隷」について

朝鮮人慰安婦たちは「準軍人」のような役割もさせられていた。彼女たちの境遇が悲惨だったのはまぎれもない事実であるが、監禁し、強制にちかい労働をさせた主体は、軍のみならず業者でもある。自由がなかったという意味での彼女たちの「奴隷性」
は、まずは「主人」と呼ばれた業者との関係で成立しすると考えるべきだ。
同時に、彼女たちは、国家の必要によって過酷な労働を強いられ、命さえも(戦場、病気、過労働)担保にしたという意味では「国家の奴隷」でもある。移動の自由も廃業の自由もさらに命を守る自由もないという意味で、軍人と変わらない。朝鮮人軍人には少ないながら一定の補償金が支払われた。それは彼らを守る法が存在したからである。そして、女性たちにはそのような『法』によって守られなかったのは近代国家システムが男性中心主義的だったからである。

17、河野談話

河野談話は「自分の意志に反して」慰安婦になったことを認めているのであって物理的な「強制連行」を認めているわけではない。つまり,連れていった過程が自分の意志ではなかったことと慰安所での性労働が彼女たちの選択ではなかったことに触れていて、物理的ではなく構造的な強制性を認めている。それは、朝鮮人の場合、たとえ自発的に行ったように見えてもそれが植民地支配によってもたらされたことであることを正確に認めている言葉でもあった。つまり、河野談話見直し派が主張しているような、いわゆる「強制性」を認めたものではない。しかも管理をしたという意味では「官憲が関与」したのは事実なので、そうである限り河野談話を見直す必要はない。

18、解決をめぐる葛藤

日本政府が作った「基金」が「民間」のものと認識されたのは、まずは、マスコミなどの報道にもよるが、新たな補償が1965年の条約に抵触することを気にした政府が、基金に深く関与していることを十分に説明しなかったことに第一の原因がある。しかし、「仕方のない次善策」として受け止める人たちもいる中で「責任を回避するもの」と強く非難し,以後今日に至るまでこの問題で日本政府を非難している人たちの一部は、国会立法だけが「日本社会の改革」につながると考えていた。それは、歴史認識をめぐる対立がポスト冷戦時代を迎えて行なわれ、過去の歴史に対する考え方でもって現在のアイデンティティを問われる形になったからである。
そして、正義のためのはずだったその主張は、慰安婦像と「強制連行」をめぐる理解において反対派と接点を見いだす努力を怠ったがために、結果として 、慰安婦問題に反発するひとたちが日本内にたくさん増えてしまった。
支援者たちは、天皇を犯罪者にするような国際裁判も開いたが、理念としてはいいとしても、「運動」としては広く「日本国民の合意」を得るのではない逆の方向へ行くものだったと言う点で、効果的だったとはいいにくい。2000年代以降、日本で「嫌韓流」に始まったへイトスピーチの根っこには左翼や慰安婦問題への嫌悪があった。

19、世界の意見

運動家たちは2000年代以降に日本政府を説得することよりも世界に訴えて日本を圧迫するやり方に出た。そしてKumarawasumi報告書をはじめ、数々の国連報告書のほとんどは 「20万の少女が強制的に連れて行かれ性奴隷として働かされ、敗戦後もほとんど虐殺された」と考えている。欧米の議会の決議もそれらの報告書を参考にしているが、これまで見てきたように、世界の慰安婦問題への理解は、必ずしも正しいわけではない。

国連ではオランダの女性も証言していて、オランダのケースは確かに「レイプセンター」の言葉に近いものだった。しかしオランダの女性は朝鮮人や日本人慰安婦とはその立ち位置が根本的に異なる。オランダの女性が被害を受けたのは、彼女たちがオランダが植民地にしたインドネシアに暮らしていたためで、植民地をアジアに多く持っていた、オランダをはじめとする欧米諸国が、日本だけを非難するのも必ずしも公平とは言えない。

20、帝国と慰安婦

韓国や沖縄基地をはじめ米軍が基地をおいているところでは今でも遠い地に送られた兵士たちを「慰安」すべきとされている女性たちがいる。つまり、戦後直後の日本や韓国戦争での朝鮮戦争当時やその後の韓国がそうだったように、「軍隊」は今でも「慰安婦」を作り続けている。日本軍の慰安婦と違うのは、「国家のため」と意識させられているかどうか、そして平時(しかし戦争に待機している)か戦時かの違いだけである。

それらの「基地」は、かつて戦争や冷戦のためにおかれ、その状態を維持し続けた。そして今やアメリカこそが日本や韓国に慰安婦を作り続けているのである。もちろん日本や韓国はそれを提供し黙認している。

かつて国家が政治経済的に勢力範囲を広げるべく「帝国」を作ったように、現在でも特定国家の世界掌握勢力は存在する。その中心にあるアメリカが、慰安婦問題に関して日本を非難する決議を出し続けているのは、アイロニーと言うほかない。

弱者のために闘ってきたはずのリベラル勢力は、そうは意図しなかったはずだが、日韓の葛藤を維持することで韓国の軍事化や保守化を進めた。韓国が北朝鮮や中国と連携して日本を批判するのも、現実には冷戦構造の持続に加担することになる。

したがって、支援者たちは冷戦的思考にとらわれずこの問題を考え、否定者は慰安婦の悲惨さに気づくべきである。そして日本内の国民的「合意」を見いだすべきである。
まずはそれに向けて、意見が対立する人たちで議論し、接点を作れるように日韓協議体を政府主導で作るのが望ましい。「合意」を前提にし、
支援団体のほかに慰安婦本人や第三の識者を入れるのは必須である。密室議論ではなくメディアなどに公開し、この問題に関する知識を多く持つようになった両国国民に考えてもらい、納得してもらう必要がある。
最終的には、その結果に基づいて、植民地氏支配の結果としての認識を盛り込んだ<国会決議>ができるのが望ましい。
それには、
1、1990年代の基金の試みのやり直し、つまり国民を代表する国会が主体的に解決
2、欧米の決議を受け止めつつの批判的応答
3、「戦後日本」との自己認識を「帝国後日本」と捉えなおす
この三つの意味がある。


<秦・吉見議論について>

——秦郁彦教授の意見について

1)
売春婦としてのみ見なしているー愛国した存在、特に軍が運営した場合は「準軍人」として支えたことが看過されている。たとえ売春婦としても悲惨さは変わらない。お金を稼ぎ、楽しかったとすれば、「軍のために働く存在だったから」ための強制された誇りゆえ。お金を稼いだ人だけに注目する傾向が強い。慰安婦たちが楽しかったとすれば、それはそれだけつらい生活をしのぐための自己欺瞞的誇りの結果と見るべきだ。

2)
業者を朝鮮人だけと考えているが、日本人も多かったと見える。

3)
朝鮮人だけの責任にしたがっている—需要を作った日本国家の責任を考えない。

4)
業者が軍に働きかけた境遇だけではない。業者は軍属の地位を与えられることもあった。

5)
女性たちをチェックしたのはそういう「商品」を利用しないようにしたことと考えられるが、契約書があれば問題がないという主張になる。本人が認知せずに軍を手伝うことと考えた場合もあるのだから、契約書があれば問題がないとはいえない。

6)
運動が政治活動になった動きがないわけではないが、それは参加者の一部。ほとんどは単に善意で動いたと考えるべきだ。

——吉見義昭教授の意見について

1)
`強制連行`を、構造的な強制性と捉えるのは正しいが、それを官憲がつれていったことと理解する人が多い以上、その違いは正確に語るべき。

2)
性奴隷的側面があるのは確かだが、直接に自由を拘束したのは業者であり国家。売春婦にも奴隷性があることを看過している。

3)
世界が慰安婦問題で韓国の主張を認めたことは、必ずしも支援団体の主張が正しいことを証明しない。

4)
慰安婦の生活困難は業者の搾取によるもの。インフレだけではない。

5)
オランダとの関係における違いを看過。

6)
業者には純粋に民間も存在。軍属のみではない。前線に行くひとのみ。様々な慰安所があるのに軍運営のものに限定して語っている。

7)
責任—人身売買の主体は業者なのに業者の責任は語られない。国家が加担したのは事実だが、知っていて指示し、助けた(船を使っただけで人身売買を助けたと言っていいかどうか)のと、知って黙認したのと知らずに利用したのは違う。時期によって場所によって違っていたはず。それを全て軍の責任としている。

8)
構造的強制性の中にある自発性を看過。人身売買だから性奴隷というが,そうでないケースもあるし、何よりも慰安婦の「主人」は業者だった。

*どちらも慰安婦の一面だけど見ていて結論が先だっているようだ。そうである限り「歴史学者」の議論であっても接点を見いだせないだろう。

*「被害」かそうでないかだけを強調しているが、「植民地」はその両方を持つ存在だった。

*考えるべきは、国家(帝国)欲望に動員された人々の不幸を誰が償うかのこと。兵士もその一人。慰安婦も。そこに加担した民間の責任(定住者たち、大人たち)もまた大きい。

*この問題が難しいのは体験が異なるのに、「補償」は一つの形にするほかないということ。

*慰安婦は「売春婦」も無垢な「少女」の面も併せ持っていて、そのような矛盾こそが「植民地の矛盾」だった。今では変わって来ている側面もあるが、慰安婦の役割は基本的に社会の弱者に担わされるという点で階級問題であり、家父長制や性をまで戦争に利用する国家の問題である。彼女たちは自分の身体と命の「主人」ではありえなかった。そのことを知ることこそが、慰安婦問題を考えることの意味にならなければならない。