金一勉は挺対協のユン・ジョンオクにも影響を与えた。「天皇の軍隊と朝鮮人慰安婦」(1976年)は反日色の強い本である。
その女たちはその戦争中「お国のため」と称して「篤志看護婦」とか「軍要員」とか「女子工員」とかの名目で強制的に集められた17歳から20歳までの処女ばかりであった。そしてそれは日本軍首脳と朝鮮総督府と日本の売春業者のボスの間で秘密協定を結んだうえ、「女子徴用」の形で大がかりな国策--すなわち日本帝国の「朝鮮制圧」の国策として敢行した国家的大詐欺行為であった。
・・・その8割~9割までが、うら若い朝鮮女性であった。ここにいう「慰安婦」とは日本軍独特の軍隊専属の女郎のことである。・・・朝鮮各地から17~20歳の娘ばかりを強制的に集めて「篤志看護婦にする」とだまして戦地へ送り込み、いきなり「軍隊娼婦」に投げ込んだのである。その数を「推定20万」と挙げるむきもある。
・・・それは [1]軍の要請にもとづき、女郎屋のオヤジが女を連れて乗り込んで店開きし、軍隊の性欲の処理に供したのであった。そして彼女らの多くは衰弱して命を喪い、北部ビルマの陣地では、いわゆる「玉砕」の前夜に防空壕に入れられたまま爆死させられた。
・・・日本軍が、十数万という朝鮮の女性を連れ出して「娼婦」に抱えていたことも、「軍事機密」の名のもとに、ひた隠してきたものである。日本軍隊の「慰安婦」というのは、世界じゅうのどこの軍隊にもみられない、特異にして恥ずべき存在であった。
・・・日本軍隊が戦場で「慰安婦」を抱えるようになった事情には、次の四条件がそれを可能ならしめたと言えるであろう。
① 日本軍隊は戦場で、略奪と強姦を日常的におこない、それが習性となっていたこと。
② アジア各地に日本人経営の遊郭(売春業)が発展しており、これが「満州事変」を契機に、関東軍部隊の周辺に群がって繁昌したこと。
③ 対中戦争の本格化(1937年)と同時に、日本軍の首脳がみずから「陸軍慰安所」を開設し、のちに現地の売春業者と秘密協定を結び、これの [2]経営いっさいを委託したこと。
④ 「朝鮮」の民族独立の意欲を挫折せしめ圧殺せしめる根本策として、朝鮮の青壮年を朝鮮半島の外へ連行せしめる政策を樹てたこと。すなわち青年は兵隊に、若い未婚女性は「軍隊娼婦」に仕立てて「民族の消滅」を図ったこと。
これらの四点が噛み合って、朝鮮の未婚の娘を片っ端から徴発して、戦地兵士の「慰安婦」に投げ込んだのである。
・・・日本人業者たちは朝鮮各地から「女工募集」の名で女を釣って投げ込んでいた。直接・間接的に官憲から黙認されていたのはいうまでもない。
・・・ところが対中戦争に突入するや、大部隊の投入と共に、大量の「慰安婦」獲得の必要から、現地司令部は各地の売春業者を動員する一方、朝鮮総督府に対しては「軍要員の女」の供出を依頼した。当時は軍人独断の時節だったのである。
そこで、大小さまざまの売春業者は軍に協力する国策企業を名乗りながら、朝鮮各地の警察まわりをし、白昼堂々と朝鮮娘を手に入れて、戦地へ連れ出すに至った。ときに総督府の、朝鮮での「三光政策」とも合致していたわけである。
整理すると、金は日本軍が悪徳業者に少女たちを拉致し虐待することを許していたという立場で、現在欧米で広く信じられている「日本軍に誘拐され、日本軍に虐待されていた」というイメージとは距離があるような気がする。
なお、金一勉は(初期だけ?)こういった業者が日本人だったと主張しているが、秦郁彦は女衒はほぼ全員朝鮮人、業者は日本人朝鮮人が半々と分析している。また、下のような新聞記事も残っていることから、金のように何もかも日本人の仕業とするのは無理がありそうだ。
朝鮮人の女が朝鮮人の女性を売り飛ばしていた事件
「魔女」「処女貿易」の文字が見える(東亜日報 1939)
日本に対する憎しみに満ち溢れた奔流のような金の文章だが、よく読むと、1921年の生まれだけにある程度の実情は察していたようだ。慰安婦の強制動員が国策だったという強引な展開こそあるものの、軍の周辺にいた「陰湿な『死の商人』・・・それは軍隊めあての売春業者」の役割の大きさに気付いている。それを端的に表しているのが、[注1][注2]の部分だろう。この点で、彼は後輩であるユン・ジョンオクとは違う。だが、ユンは金の著書から慰安婦制度が朝鮮民族に対する三光作戦だったという部分だけ引き継いでしまった。現在の慰安婦騒動の原型を作った本のひとつと言えるかもしれない。