2021/01/24

パク・ユハ「学者や運動家は『強制連行』の意味を変えてきた」

パク・ユハ教授のインタビュー。ネット限定の記事らしい。有料登録していないので、まだ全文は読んでいないが、図書館のオンラインサービスでいずれ読むつもり。

「ファクトとはいつでも変わりうる。しかも、学問も研究の結果なのだから、ひとりの学者の見解も変わりうる。・・・学者によってはその変化を明確にしない場合がある」「慰安婦問題における『強制連行』『強制性』という言葉をめぐって日本の学者たちや韓国の運動家はその言葉の意味するところを少しずつ変えてきた」

 その言葉の意味するところを少しずつ変えてきた・・・ある意図を持って、ね。

 2)変わりうる「ファクト」とは 「帝国の慰安婦」著者が指摘、「学問の政治化」


不安定な「ファクト」

 歴史葛藤をめぐって「ファクト」を見るべしとする人々がいる。最近日本でもベストセラーになっている「反日種族主義――日韓危機の根源」などもその一つといっていいだろう。もっとも、「事実」を確認することは基本的には重要だ。しかしこうした考えに陥穽(かんせい)がないわけではない。まず「事実」なるものの中身を提示するのは、多くの場合学者であるが、そうした意見が学問という名の研究の結果である限りいつでも変わりうる。つまり研究の進展によって「ファクト」とはいつでも変わりうる。しかも、学問も研究の結果なのだから、ひとりの学者の見解も変わりうる。それは当然のことだが、学者によってはその変化を明確にしない場合がある。しかも、その学説がすでにメディアなどによって広く広まったあとは訂正しにくいこともある。


 たとえば、慰安婦問題における「強制連行」「強制性」という言葉をめぐって日本の学者たちや韓国の運動家はその言葉の意味するところを少しずつ変えてきた。「性奴隷」もまた同様である。つまり、たとえ「反日種族主義」の学者が「慰安婦は性奴隷ではない」と言ったところで、これまで「強制連行」「性奴隷」と主張してきた人たちはすでにその意味するところを変えているので議論がかみ合わない。そうとも知らずにそれぞれの説を信頼してやまない人々の間で接点がつくられようがないのである。たとえば、「強制性」の意味は動員をめぐっての状況ではなく「慰安所(での不自由)」(吉見義明・中央大名誉教授)をめぐるものになっていたりする。しかもそこでの不自由=監禁の主体が誰なのかは言われない状況が…


毎日 2021年1月24日(一部)