新町遊廓の娼妓と空襲の話。当事国でもないのに、sex slaveたちは日に何十人とセックスさせられた謝れと説教する人々を見ていると、では、こうして貴方たちが蒸し焼きにした「性奴隷」たちについてどう思っているのかと訊いてやりたいと思うことがある。いや、たまにはハッキリ言ってやるべきなのかもしれない。空襲被害者には、謝罪も賠償も行われない。加害国からもないし、日本政府からもない。
ちなみに、空襲被害者にも「強制性」はあったのである>「空襲被害者と慰安婦、強制されたのはどっち?」
娼妓無念 大阪大空襲65年、花街育ちの男性が語る
第1次大阪大空襲(1945年3月13~14日)で跡形もなく消えながら、その被災の様子がほとんど語られなかった街がある。大阪で最も古い花街として栄えた「新町遊郭」。犠牲になった女性たちの無残な姿を心に閉じ込めてきた男性が、空襲から65年となる13日、大阪市で体験を語る。
埼玉県白岡町の徳田勉美(ますみ)さん(76)。母親が戦前から、「裏新町」と呼ばれたかいわい(現在の大阪市西区)で「新美島屋」の屋号の娼家(しょうか)を営んでいた。ステンドグラスの窓が目立つ和洋折衷の3階建ての店は自宅と兼用。10人ほどいた娼妓(しょうぎ)の多くは、但馬(たじま)や北陸の出身だった。
戦況が悪化した44年3月、政府は劇場やバーなど「高級享楽停止」を命じたが、営業は続いた。「こぼんちゃん(次男)と呼ばれて可愛がってもらった」。なじみ客と外出する娼妓たちの「お供」として同行し、十合(そごう)や大丸の食堂でチキンライスをおごってもらうのが楽しみだった。
45年3月13日深夜、手伝いの女性の声で目が覚めた。「はよう防空壕(ぼうくうごう)に入りなさい」。屋内に作った狭い防空壕に入ると、いつもトランプ遊びにつきあってくれる娼妓たちや風呂炊きの男衆でいっぱいだった。
逃げ場をふさぐように市の外側から中心部へと焼夷(しょうい)弾が投下され、新町遊郭も炎に包まれていった。その時、急に母が言った。「おばちゃんのとこ行こ」。徳田さんと兄に防空ずきんをかぶせると、火の粉が降り注ぐ街頭に飛び出し、西成区の叔母宅を目指した。昼間のように明るい四つ橋筋には火だるまになった人が転がり、道頓堀川にはおぼれ死んだ人が浮かんでいた。
生涯心を縛る光景を見たのは、その4、5日後、焼け跡を訪れた時だ。がれきの下になっていた防空壕のふたを開けた瞬間、異様なにおいとともに、両手を天に突き上げたり、縮こまらせたりした黒い塊が目に入った。変わり果てた娼妓らの姿だった。
「かわいそうにな。みんな連れて行けばよかった」
母は唇をかみしめた。戦後、商売を再開することはなかった。なぜ娼妓たちを置いて逃げたのかは語らなかった。徳田さんも、実家が娼家だったことが負い目となり、この体験は生涯口にしないと決めた。40年前、関東に引っ越し、建材販売や旅館経営で生計を立てた。
だが、あの日以来、年に数回、悪夢を見る。いつも叫び声を上げて目が覚める。娼妓たちが蒸し焼きにされる場面だ。テレビで精神科医が「苦しみを語ることでトラウマが消えることがある」と語るのを見て、思いを変えた。
「お女郎さんの無念を伝えるためにも、語らなあかん」
昨年、久しぶりに新町を訪れ、かいわいの歴史の掘り起こしを続けるNPO法人「なにわ堀江1500」の水知(みっとも)悠之介代表(67)らに体験を明かした。不思議なことに、悪夢はそれから消えた。
戦前の売買春の実態に詳しい甲南大学人間科学研究所の人見佐知子研究員は「当時、遊郭は各都市にあった。空襲で亡くなった女性はかなりの数に上るはずだが、人身売買を伴う遊郭関係者の口は重く、被災状況は今もほとんどわかっていない」という。
徳田さんの証言の様子などは、朝日放送の「NEWS ゆう+」で、15日午後6時台に放映される予定です。
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〈新町遊郭と大阪大空襲〉 新町遊郭は17世紀前半に、大阪で初めて江戸幕府が売春営業を公認した遊郭として成立した。江戸・吉原、京・島原とともに「江戸の三大遊郭」と呼ばれ、井原西鶴や近松門左衛門の文芸作品の舞台にもなった。戦後は売春防止法の施行などで、芸妓のいるお茶屋だけが復活した。
大阪への米軍の空襲は1944年12月以降約50回に及び、このうちB29爆撃機100機以上による「大空襲」は8回。「第1次大阪大空襲」は274機が1733トンの焼夷弾を投下し、大阪・ミナミを含む約21平方キロの約13万6千戸が焼け、死者約4千人、被災者約50万人を出す、空前の被害となった。