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2017/01/09

シュリーマンの見た吉原



ハインリッヒ・シュリーマンの旅行記から。彼の日本滞在は、1865年の6月1日から7月4日までの、わずか一カ月だったが、旅行記の中身は非常に豊かであり、彼の鋭い観察力が反映されている。

貧しい親が年端も行かぬ娘を何年か売春宿に売り渡すことは、法律で認められている。契約期間が切れたら取り戻すことができるし、さらに数年契約を更新することも可能である。この売買契約にあたって、親たちは、ちょうどわれわれヨーロッパ人が娘を何年か良家に行儀見習いに出すときに感じる程度の痛みしか感じない。なぜなら売春婦は、日本では、社会的身分としてかならずしも恥辱とか不名誉とか伴うものではなく、他の職業とくらべてなんら見劣りすることのない、まっとうな生活手段とみなされているからである。娼家を出て正妻の地位につくこともあれば、花魁あるいは芸者の年季を勤めあげたあと、生家に戻って結婚することも、ごく普通に行われる。

娼家に売られた女の児たちは、結婚適齢期まで--すなわち十二歳まで--この国の伝統に従って最善の教育を受ける。つまり漢文と日本語の読み書きを学ぶのである。さらに日本の歴史や地理、針仕事、歌や踊りの手ほどきを受ける。もし踊りに才能を発揮すれば、年季があけるまで踊り手として勤めることになる。 (ハインリッヒ・シュリーマン)



2015/06/21

[慰安婦の背景] 16で娘を売り18歳で再び娼妓に(昭和の凶作)

相談ではなく、法律で一律禁止にすれば良かったか?
社会状況がそれを許さなかった

慰安婦にも共通する「身売り」。身売りは人身売買なのか?アメリカはこれをhuman trafficking(人身売買)と呼びたがるだろうが、当時の日本では人身売買と身売りの間には法律で一線が引かれていた。いわばグレーゾーンとして身売りは認められていた。

グレーゾーンなら、いっそ禁止すれば良かったではないかというと、そんな簡単な話ではない。当時の毎日新聞(東京日日)の記事に見られるように「罪悪か否かの問題ではない。そうしなければ当面の生活が維持でき」なかったからである。生活が維持できないと言っても、現代とは違う。一家離散か下手をすれば全滅したのである。

娼妓(公娼)として売るには18歳になるまで待たねばならないから、16歳で一旦酌婦(表向き売春はしない)として売る。酌婦と言っても、酌をするだけで済むとは限らないが、2年待って18歳で娼妓として再び身売りである。こうして一家が何とか食いつなぐという極限状態。だから、軍が慰安所(売春宿)を誘致したら、「≒人身売買の犠牲者」がいるのは当たり前で、アレックス・ダデンが言うような日本政府による犯罪ではない。なにより「≒人身売買の犠牲者」は、日本人も同じであった。ようするに、

日本の植民地と占領地から、貧しく弱い立場にいた若い女性を搾取したという点において、特筆すべきもの 日本の歴史家を支持する声明

と言い切った『187人声明』に署名した日本研究者は、日本の中学生程度の日本史の知識もなかったということである。

「帰っても村には飢えが待つばかり-最近、東京・吉原の遊廓で、年期明けの娼妓のうち、さらに一年か二年の短期契約をやって稼ぐ者が目立って増えているというので、何が原因かを調べてみたら、その大部分は、年期が明けて田舎に帰っても食うことができない、それよりはまだ遊廓にいた方がましだということらしい。先頃、東北のある連隊で兵士に帰休を許そうとしたら、家に帰っても仕事はないし、軍事救護が打ち切られては、家族が餓死するから、このままおいてもらいたいと懇願されたという話があったそうだが、この話とともに、近頃の農村の疲弊を語って余りある。

(中略)

この中でも山形県は、数字が示しているように、最も多い。同県の○○○郡○○○村だかは、戸数七〇〇戸の貧農村で、ここからは三〇〇人の娘たちが売られて行ったといわれている--娘を売るのが罪悪か否かの問題ではない。そうしなければ当面の生活が維持できないのである。前借もこれに応じて、この頃はガタ落ち。娼妓では年期明けまで最高二〇〇〇円どまり、平均の一〇五〇円、それも、ごく美人でなければならないという。前借金の少ないのは四〇〇円ぐらいである。酌婦はさらに低く、二五〇円か精いっぱいというところらしい。しかし、ガタ落ちしたとはいえ、酌婦から見ると、娼妓はまだ前借がきく

では、なぜ、前借の少ない酌婦ではなく娼妓に売らないのか。娼妓は満十八歳にならないと許可されない。しかし、それまで待つことができない。ところが、地方では満十六歳から酌婦になれる。そこで、金は少ないが十六歳になるのを待ちかねて、まず酌婦に売って肥料代などの借金の利払いをし、次いで十八歳になってから娼妓にして、まとまった前借で負債の螫理をするということらしい。娼妓になった者の経歴を調べてみると、それがよく分かる。「親出」といって、農村から直接、遊廓に来る者は少なく、大概は酌婦としての経路を辿っている。(東京日日 1932.6.17)

2015/05/08

「身売り?売られたなら奴隷でしょ?」ジェームス・スキナー



ジェームス・スキナーと小林よしのりの二年前のやり取り。こういった場合、日本人が「売る」「買う」と言えば、身売りのことだが、黒人奴隷制が存在したアメリカから来たスキナーには別のイメージが浮かんでいたはず。文化的背景の違う人々に慰安婦問題を説明する際には、言葉を選ばなければいけない。

小林 「慰安婦の人たちってのは、親から売られてるんです」

スキナー 「だったらなんで強制性がないって言えるんですか?それは奴隷という定義じゃないですか。売られたという時点で。ハッキリしましょうよ。」

小林 「朝鮮人の業者が買いに行くわけですよ?」

スキナー 「だから奴隷じゃん。買われてるんだったら奴隷じゃないですか。奴隷の定義というのは他に(?)何がありますか?

田母神 「日本が奴隷にしたんじゃないですよ」

スキナー 「お金を渡してやってもらっただけだから。業者にお金を払って奴隷にしてもらった話で、何で責任が免れるんですか?」

TVタックル 2013.5.27[要確認]

2012/06/20

遊女を見下さなかった日本人



江戸時代の日本では娼婦は蔑視される存在ではなかったという。なぜなら、彼女たちは本人の意志に関わりなく身売りされてきた娘たちだったからである。彼女たちの境遇を知る人々は、遊女に同情することはあっても見下すことはなかった(まったく無かったわけではないだろうが)。

江戸の下半身事情」によれば、浮世風呂のような当時の小説では、姑が普通に嫁が玄人上がりであることをご近所に話していたり、自分は元商売女だと啖呵を切る女性が登場する。あるいは、見栄を張って元遊女を詐称する女まで出てくる。オランダ人医師ポンペは、当時の日本の様子をこのように記録している。

「貧しい両親たちは自分の若い娘を、しかも大変幼い年端もゆかぬ時期に公認の遊女屋に売るのである。ときには五歳から六歳ぐらいのこともある[...]ヨーロッパでは個人が自分で売春するのであって、だからこそ本人が社会から蔑視されねばならない。日本では全然本人の罪ではない」(日本滞在見聞記)

そんな社会であったから、女たちも遊女であった自分の経歴を恥じる必要はなかったのである。それよりだいぶ時代が下って登場したのが慰安婦である。だが、当時もまだ貧しい家の娘が親に売られ、あるいは親を助ける為に自ら苦界に身を沈めていた。

文化13年(1816年)の世事見聞録には、このように書かれているという。「みな親の艱難によって出るなり。国々の内にも越中(富山)・越後(新潟)・出羽(山形)辺より多くでるなり。わづか三両か五両の金子に詰まりて売るという」

先の大戦では内地の貧しい地方だけでなく、朝鮮半島からも貧しい家庭の娘が慰安婦として戦地へ行っていた。やはり、どんな理由があろうと元慰安婦を蔑んではいけないのだろう。

慰安婦の多くは(当時の日本人の大多数同様)大なり小なり苦労を経験した。慰安婦の中には謙虚な人もいるし、自分の体験を正直に語っていた人もいる。しかし、運動家たちは自分たちに都合のいい慰安婦「被害者」だけを前面に出す(この事は、先日紹介した外国人も指摘している)。慰安婦の中には目立ちたがり屋や虚言癖のある者もいるが(彼女たちも所詮普通の人間だと言ったのは、ナヌムの家でボランティアをしていた村山一兵である)、語り部として利用するのに相応しいモデル被害者(上野千鶴子「慰安婦問題という問い」)に作り変えられたお婆さんたちだから、怒りの矛先を向けるとすれば、彼女たちの後ろにいる運動家たちに対してだろう。

「友軍が負けて悔しかった」 ペ・ポンギは
日本に対し何ら敵意を持っていなかった

友軍(日本軍)が負けて悔しかったと語っていたペ・ポンギは運動の同志(誰の言葉か失念)として生まれ変わり、兵隊を戦友と呼んでいたソン・シンドは、裁判闘争の象徴にされてしまった。彼女たちに罵声を浴びせるような行為は日本人らしくないし、現在では、脅迫によって歴史的事実を隠蔽しようとする日本の歴史修正主義として世界に喧伝されている。慰安婦に対して同情的な元兵士も少なくないのである(金子安次などのケースは、そこを運動家に上手く利用された)。

参考: 江戸の下半身事情 永井義男

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