キャプションはアメーバニュース
警察官だった親戚から戦時中朝鮮半島で女性を拉致して日本に送っていたと聞いた・・・と母から聞いた。親戚が経営していた慰安所で働いていたのは、そうした女性たちだったのかと思った。韓国へ謝りに行きたいと、沖縄の平和運動家。
沖縄の三線もあまり変わらないと思うが、芸者でもいきなりは三味線は弾けない。座敷に出る前の年齢から稽古を積んで文字通り芸者になる。拉致されて来た朝鮮人女性が、三線を教えているという光景はちょっと想像し難い。親戚が経営していたのも、やはり慰安所というより料亭(妓楼)だったのだろう。朝鮮人だけでなく、沖縄の女性も幼い頃に親に「売られて」来ていたはずである。沖縄の言葉で「尾類売い(ジュリウイ)」と言ったらしい。警察官が銃を突きつけて女性を誘拐すれば一生を棒に振る。しかも伝聞の伝聞。
「戦後、間もなくして朝鮮から数人の女性が米軍のジープに乗って、母を訪ねてきた。お世話になったと、お礼のお金を持ってきた」・・・沖縄の辻遊郭の出身だった上原栄子は、家族的繋がりの強い世界だったと回顧している。つまりそういう事だったのでは?
「国が従軍慰安婦の強制連行を否定したことが許せなかったのでしょう」。おじさん→母→本人→息子。伝聞を伝聞した人の気持ちを更に別の人間が忖度。
伊佐さんの記憶に残っている話をもうひとつ。戦前の泡瀬の町の外れに日本軍が駐屯していた。駐屯地の近くには料亭が2、3軒あった。どこも日本兵の慰安所になっていた。伊佐さんの親戚も「アブガドー」という屋号の料亭(慰安所)を経営していた。そこでは朝鮮半島から連れてこられた女性たちが4、5人働いていた。
13歳だった伊佐さんは、親戚の料亭によく遊びに行き、そこのお姉さんから三線(さんしん)を教えてもらっていた。色白で、いつも白粉(おしろい)の匂いがするとても優しいお姉さんだった。
2階には毎日40、50人の兵隊が並んで順番を待っていた。ある時、おかみさんが三線を教えているお姉さんに「早く2階に上がりなさい」と言った。お姉さんは「今日は痛いから休みたい」と言ったが聞いてもらえず、2階に姿を消した。着物の裾から見えた奥のほうが真っ赤にはれていた。少年の伊佐さんには意味がわからなかった。ただかわいそうだと思っていた。
戦後、伊佐さんの母親が朝鮮半島から帰ってきた親戚のおじさんから、彼が戦時中に朝鮮で何をしていたのかと聞いた。警察官だったおじさんは、若い娘を探して捕まえ、日本に送っていた。娘の父親が助けてと言っても、銃を突きつけて脅して無理やり連行したと得意げに言っていたという。
伊佐さんは「そうだったのか、三線を教えてくれたお姉さんはそうやって連れてこられた慰安婦だったのか。なら、もう二度と三線は弾かない」と、持っていた三線を壊してしまった。
母親は朝鮮の女性たちからの相談にいろいろ乗っていたらしい。戦後、間もなくして朝鮮から数人の女性が米軍のジープに乗って、母を訪ねてきた。お世話になったと、お礼のお金を持ってきたのだ。その時の日本円と米軍軍票のB円は今も大切に保管されている。
「彼女らは慰安婦だったのでしょうか。母は私には言葉を濁していましたが…」
伊佐さんは、親戚の家が慰安所だったことを子供たちにも語らなかった。この話を語り始めたのは、ヘリパッド反対の座り込みが始まった前後からだ。
「国が従軍慰安婦の強制連行を否定したことが許せなかったのでしょう。その頃から少しずつ話をするようになった」
と、息子の真次さんは言う。80歳を過ぎてから伊佐さんは家族に「韓国に行きたい」と言うようになった。
「どうしても、慰安婦にさせられた人たちに会って謝りたい。あの時、助けてあげられなかったことを謝りたい。申し訳なかった、と」
日頃穏やかな伊佐さんがこの時だけは厳しい目つきになった。