2014/05/25

林博史教授 兵の慰安所通い裏付ける公文書発見(で?)


日本軍兵士が慰安所に通っていたことが日本軍の公文書で裏づけられたと。それのどこがニュースなのだろう?軍の食料を横流しして慰安所に通った兵士が軍法会議にかけられたという話なのだが、例によって、林博史教授は「この資料には軍隊が住民を守らないことが明確に記されている。日本軍の特徴そのものだと指摘する」・・・林教授は、嫌韓厨と似ている。キムチだろうと何だろうと韓国と関係のあるものなら何でも悪く言う嫌韓厨にそっくり。

「宮古島では終戦後、しばらしても慰安所が開設され続けていたことには驚いた」・・・そういえば、終戦と同時に戦争犯罪(慰安所)の露見を恐れて隠蔽工作を行ったという話はどうなった?

旧軍文書に「慰安所」宮古島での存在裏付け

沖縄戦時、宮古島に慰安所があり、日本軍兵士が通っていたことを裏付ける旧日本軍の文書が見つかった。これまで宮古島の慰安所の存在については住民の証言はあったが、軍の文書で裏付けられるのは初めて。関東学院大の林博史教授と佐治暁人講師が厚生労働省から情報公開請求で入手した。飢えで苦しむ宮古島で、兵士が軍の食料を住民に売って慰安所へ通った実態が記されており、林教授は「住民を守らない軍の姿が鮮明に表れている」と指摘する。(大野亨恭)

資料は厚労省所蔵の、1945年11月20日付の軍法会議判決を記した書類で、提出した第28師団司令部と受け取った法務局の印が押された公文書。

文書には、当時宮古島に駐留していた第28師団の衛生上等兵が軍の食料などを横流しして住民に売却、得た金を使い慰安所で「遊興浪費」したとして、懲役1年の刑に処したことと、その判決理由が記されている。

それによると、被告人の衛生兵は宮古島陸軍病院で炊事勤務に従事。45年8月中旬には軍から馬肉約40キロを預かって病院へ戻る途中、民家で2斤(約1・2キロ)を20円で売却し、慰安所へ行った-などと複数回の犯行が記されている。

旧日本軍が中国などアジア各地に設置した慰安所は終戦後、閉鎖されたとされているが、発見された文書には〈10月2日に(砂糖菓子の)金花糖60キロを受け取り、翌3日にうち2キロを20円で売却し、慰安所で遊興した〉とあり、宮古島では10月上旬まで慰安所が残っていたことも分かった。林教授によると戦後も慰安所が継続していたことを示す文書が見つかったのは初めてだという。

宮古島には沖縄戦当時、陸海軍合わせて約3万人が駐留していた。住民は戦中から戦後にかけ、ソテツを食べて一家が中毒死するなど飢えに苦しんだが、軍は終戦後も食料を住民に渡さず、一部の兵士は売り渡して慰安所に通っていた。林教授は「この資料には軍隊が住民を守らないことが明確に記されている。日本軍の特徴そのものだ」と指摘する

沖縄戦時、宮古島には少なくとも17カ所の慰安所があり、ほとんどが朝鮮半島から連れてこられた女性だったことが、研究者らの調査で分かっている。


公文書としては初の発見/宮古旧軍文書に「慰安所」明記

沖縄戦当時、宮古島に旧日本兵が通っていた「慰安所」があった事実を裏付ける公文書が初めて発見された。これまで、宮古島の慰安所の存在は戦争体験者や慰安婦の証言などで知られていたが、その存在が明記されている公文書が明らかになるのは初めて。関東学院大学経済学部の林博史教授が研究資料として厚生労働省に情報公開請求した「軍法会議報告」文書の中から見つけた。


 発見された資料は厚労省が保管していた「台湾軍管区臨時軍法会議豊部隊法廷裁判宣告報告」で、沖縄戦当時、宮古島に駐留していた第28師団司令部あて提出されている。その内容は1945年11月20日付で、軍法会議判決を記したものとなっている。

 同裁判宣告報告では当時、宮古島に駐留していた第28師団の衛生上等兵が、軍の食料などを横流しして住民に売却し、得た金を使って「慰安所」で遊興消費したとして「業務横領」の罪に問われ、窃盗罪として懲役1年の刑に処したことや、その判決理由が詳述されている。

 被告人の同衛生上等兵は宮古島陸軍病院で炊事勤務に服務していた。45年8月中旬に城辺更竹にあった「獣医部」から馬肉約40㌔を預かって帰院する途中、増原付近の民家で2斤(約1・2㌔)を20円で売却し、慰安所で遊興したことなど、複数回にわたって犯行を繰り返しては慰安所で使ったたことなどの内容が記されている。

 また、同衛生上等兵は10月2日に「金花糖」(砂糖菓子)60㌔を受け取り翌3日に、このうち2㌔を売却して慰安所で遊興したことも記されていることから、宮古島では終戦後の10月ごろまで慰安所が開設されていたことも新事実として明らになった。

 林教授は「宮古の慰安所の存在は住民証言で存在していた事実は認められていたが、厚労省保管の公文書で、その存在が初めて明かされた」と説明した。

 また、当時の宮古ではマラリヤや飢えの苦しみ中で、多くの人が犠牲となったことついて触れ、「この資料は軍部に十分な食料があった事実を裏付ける証拠にもなる」と述べた。

 さらに、林教授によれば、各地にあった慰安所は8月15日の終戦と同時に閉鎖されているが、「宮古島では終戦後、しばらしても慰安所が開設され続けていたことには驚いた。これは初めて明かされた事実だ」と話した。

宮古毎日 2014.5.25