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2013/07/05

慰安婦は朝鮮人差別か--山谷哲夫


3年前のエントリー(旧ブログ)の再掲。


女性センターアイリス(渋谷区)

ドキュメンタリー映画監督、山谷哲夫には慰安婦を扱った作品もある。いわゆる慰安婦騒動が始まる前から、慰安婦について取材していた人であり、「沖縄のハルモニ」という本も出している。この本について、半年前にちょっと批判的に引用した。昭和天皇に何の恨みも持たないハルモニに、しつこく天皇批判を引き出そうとするかのような誘導尋問をするのはいかがなものか、と思ったからだ。

しかし、この人の「じゃぱゆきさん」は読み応えがあった。ヤクザに消される危険を冒してフィリピンの貧困地帯にまで取材に行く著者。入管と一緒に手入れに参加するかと思えば、じゃぱゆきさんの口から入管職員がセクハラを行っていると聞き、今度は入管の不祥事を暴くために奔走する。

その、じゃぱゆきさん。貧しさゆえに売春婦となり、甘言につられ、日本で不本意な仕事をするじゃぱゆきさん。しかし、国に帰れば食べていくあてがない。今度は全てを承知で再び日本にやってきて、摘発に怯えながら故郷の家族の為にお金を稼ぐ。山谷はしっかりと「底辺の女性」たちを取材してきた人である。綺麗事ばかり言ってる「慰安婦問題の専門家」たちとは違う。その山谷が、ブログにこんな事を書いている。

・・・区役所3F情報公開に遠藤課長と来てもらったが、心底びっくりした。たまたま、従軍慰安婦のことを話している時、「あれは朝鮮人差別です」と、断言するのだ。

慰安婦に関しては78年から32年間取材し、1本のドキュメンタリー映画と1冊の本がある。アメリカの公文書館、オーストラリアの大学でも、資料を読み込んでいる。・・・慰安婦は朝鮮人だけではない。日本人も中国人も多数いた。根底は「公娼制度」である。当時の日本では、女を買うことは公に認められており、その延長線上に「従軍慰安婦」制度があったのである。


現在渋谷区でオンブズマンをやっている山谷は、区役所から「女性センター」に天下って来た新館長と激突(?)するのであった。・・・鈴木裕子あたりが聞いたら、頭から湯気を出しそうな話であるが、山谷のように、女性の人権に敏感でも慰安婦を娼婦と認識している人はいるのである。


山谷哲夫 監督作品:

「生きる――沖縄渡嘉敷集団自決より25年」
「沖縄のハルモニ――証言・従軍慰安婦」
「バンコク観光売春――買われる側の生活と意見」

2012/11/12

朝鮮学校の為にハルモニがポケットからつかみ出した5万円


子供の為に老婆がポケットからしわくちゃになった紙幣を取り出す・・・。ホロリとさせる光景だが、韓国人であるキム・ボクトンが普段から日本円を財布に入れているはずはない。普通に考えれば、これは今回の来日の為に換金されたものである。そのお金の出所については確かめようがないが、彼女たちがお金に不自由しない身分であることは、これまでにも何度か書いた。ハルモニが気前よく朝鮮学校の子供たちに文房具を配ったのは、本当に子供たちを励ますことだけが目的だったのだろうか?

こんな場面でもユン・ミヒャンは慰安婦の写真に写り込もうとする
この自己アピール力を見よ

キム・ハルモニの気持ちが本物だったとしても、この老婆は結局操られた人形に過ぎない。アメリカに行っても、支援団体の主張を代弁して帰って来た。絵を描くのは挺対協(ユン・ミヒャン)であり、挺対協としては、朝鮮学校の子供たちに何か期待するものがあるのだろう。子供たちの手紙の送り先が挺対協の事務所だったというのではミエミエではないか。こういったドブ板戦術が挺対協の強さを作っている。

実は、キム・ボクトンが訪れた頃には(高校を除く)朝鮮学校への補助金の支給は再開されていた。この記事はそのことを読者に伏せている。

「全校生中50%が韓国、40%は北朝鮮、残りは日本国籍者だ」・・・橋下市長は、朝鮮学校の運営者が朝鮮総連であることを問題にしている。生徒の国籍は関係ない。

在日学生の夢守る慰安婦ハルモニ、大阪朝鮮小学校訪問…小遣いはたいて学用品配る

先月22日、大阪の在日同胞密集地域である生野区朝鮮小学校6学年教室. 白髪混じりであるキム・ボクトン(87)おばあさんが教壇に立つとすぐに子供たちの質問が続く。

「おばあさんの幼い時の夢が何でしたか?」しばらく考えに耽ったキム・ハルモニは「私は夢見る時間さえなかった」と答えた。 そのようにハルモニは当時少女が体験したつらい記憶を打ち明けた。 十五、夢多い年齢に軍服工場と思って連れて来られ、忘れることのできない傷を体験したある慰安婦の話であった。 台湾、香港、インドネシアを回って体験した8年間の地獄のような生活を聞いて何人かの子供たちは目がしらを濡らした。 ハルモニは講演の最後に「日本社会で差別されると萎縮する必要がない。 堂々と生きろ」という風を伝えた。 ハルモニはスカートのポケット(財布?)からしわくちゃになった紙幣5万円(約70万ウォン)を取り出し、全校生220人にノートと鉛筆をプレゼントした。 子供たちは「必ず手紙を書く」と約束した。

「授業中呼ばれた故郷の春歌を忘れることができません。 朝鮮語も、日本語、英語も熱心に勉強して立派な外交官になります」「私はハルモニをとても尊敬しています」

キムハルモニに講演を聞いた生野区学生たちが送った60通の手紙の内容中一部だ。 手紙は先週ソウル、麻浦区城山洞の挺身隊問題対策協議会事務室に到着した。

生野区の子供たちは朝鮮人という理由で依然として日本の地で抑圧されている。 昨年11月右翼政治家橋下徹は大阪市長で当選した後市内朝鮮小・中・高級学校10ヶ所に与えた補助金1億 3000円(約18億ウォン)支援を切った。 市長は「親北朝鮮指向の在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が建てた学校」という理由を挙げた。 だが、全校生中50%が韓国、40%は北朝鮮、残りは日本国籍者だ。

補助金を切った本物内心は別々にある。 在日同胞問題専門家である藤永壮大阪産業大教授は「橋本が所属する大阪維新会は、朝鮮学校が日帝植民治下の残酷な状況を詳しく知らせるなど反日的内容を教えるとし不満に思っている」と説明した。 キム・ハルモニもこのような点が残念で大阪を訪問した際、最初にこの学校を訪れた。

ある学生は、手紙で「補助金が切れて劣悪な朝鮮学校に通うことが大変ですが、強靭な精神で熱心に勉強します」と念を押した。

最近日本国内右傾化風が吹きながら在日同胞に対する右翼団体の攻撃がより一層強まった。 右翼団体は現地僑胞(海外在住韓国人)に「不快なキムチにおいがする」「君たちの国で消えろ」等あらゆる嘲弄を降り注ぐという。 見るに耐えない日本の知識人と市民団体は「教育に政治論理を突きつけるな」と朝鮮学校の自立を助けようと'ホン・ギルドン基金'を去る6月から募金し始めた。 このように集まったお金が9月末現在800万円(約1億 1000万ウォン)を越えた。

挺身隊対策協ユン・ミヒャン常任代表は「韓民族としてアイデンティティを持つ在日同胞の助けがなかったとすれば慰安婦問題知らせることなど作業は不可能だったこと」としながら朝鮮学校子供たちが気楽に夢を見ることができるようになるように願う」と話した。

ソウル新聞 2012.11.6

在日학생 꿈 지켜주는 위안부 할머니
日 오사카 조선초교 방문… 쌈짓돈 털어 학용품 전달

[서울신문]#지난달 22일 일본 오사카의 재일교포 밀집 지역인 이쿠노구(生野區) 조선초급학교 6학년 교실. 백발이 성성한 김복동(87) 할머니가 교단에 서자 아이들의 질문이 이어진다.

"할머니는 어릴 때 꿈이 뭐였어요?" 잠시 상념에 빠졌던 김 할머니는 "나는 꿈꿀 시간조차 없었어."라고 답했다. 그렇게 할머니는 당시 소녀가 겪은 아픈 기억을 털어놨다. 열다섯, 꿈 많을 나이에 군복 공장인 줄 알고 끌려와 잊지 못할 상처를 겪은 한 위안부의 이야기였다. 타이완, 홍콩, 인도네시아를 돌며 겪은 8년간의 지옥 같은 생활을 듣고 몇몇 아이들은 눈시울을 적셨다. 할머니는 강연 마지막에 "일본 사회에서 차별당한다고 위축될 것 없다. 당당히 살아라."라는 바람을 전했다. 할머니는 치마 속주머니에서 꼬깃꼬깃한 지폐 5만엔(약 70만원)을 꺼내 전교생 220명에게 공책과 연필을 선물했다. 아이들은 "꼭 편지를 쓰겠다."고 약속했다.

"수업 중 부르신 고향의 봄 노래를 잊지 못해요. 한국어도, 일본어, 영어도 열심히 공부해 훌륭한 외교관이 될게요.", "저는 할머니가 너무너무 존경스러워요."

김 할머니에게 강연을 들었던 이쿠노구 학생들이 보낸 60통의 편지 내용 중 일부다. 편지는 지난주 서울 마포구 성산동 정신대문제대책협의회 사무실에 도착했다.

이쿠노구의 아이들은 조선인이라는 이유로 여전히 일본 땅에서 억압받고 있다. 지난해 11월 우익 정치인 하시모토 도루는 오사카 시장으로 당선된 후 시내 조선 초·중·고급학교 10곳에 주던 보조금 1억 3000엔(약 18억원) 지원을 끊었다. 시장은 "친북 성향의 재일본조선인총연합회(조총련)가 세운 학교"라는 이유를 들었다. 하지만 전교생 중 50%가 한국, 40%는 북한, 나머지는 일본 국적자다.

보조금을 끊은 진짜 속내는 따로 있다. 재일교포 문제 전문가인 후지나가 다케시 오사카 산업대 교수는 "하시모토가 속한 오사카 유신회는 조선학교가 일제 식민 치하의 참혹한 상황을 자세히 알리는 등 반일적 내용을 가르친다며 불만스러워한다."고 설명했다. 김 할머니도 이런 점이 안타까워 오사카를 방문했을 때 먼저 이 학교를 찾았다.

한 학생은 편지에서 "보조금이 끊겨 열악한 조선학교에 다니는 것이 힘들지만 강인한 정신으로 열심히 공부하겠다."고 다짐했다.

최근 일본 내 우경화 바람이 불면서 재일교포에 대한 우익단체들의 공격이 더욱 거세졌다. 우익단체들은 현지 교포에게 "불쾌한 김치 냄새가 난다.", "너희 나라로 꺼져라." 등 온갖 조롱을 퍼붓는다고 한다. 보다 못한 일본의 지식인과 시민단체들은 "교육에 정치 논리를 들이대지 마라."며 조선학교의 자립을 돕고자 '홍길동기금'을 지난 6월부터 모금하기 시작했다. 이렇게 모인 돈이 9월 말 현재 800만엔(약 1억 1000만원)을 넘었다.

정대협 윤미향 상임대표는 "한민족으로서 정체성을 가진 재일교포들의 도움이 없었다면 위안부 문제 알리기 등 작업은 불가능했을 것"이라면서 조선학교 아이들이 마음 편히 꿈을 꿀 수 있게 되길 바란다."고 말했다.

2012/04/07

韓国メディアが黒田記者の反論を珍しく紹介

黒田勝弘の雑誌記事を巡り、挺対協が彼を訴えると息巻いていたというニュースに関連して、黒田側の説明。「珍しく筆者(黒田)の話が正確に紹介されていた」というだけで、韓国人の中にも冷静な人がいるのだとホッとしてしまうのは、ちょっと甘いだろうか?

なお、改めて思うが、慰安婦支援者の中には、本人が自覚しているかどうかは別にして、あからさまに売春婦を差別している人が少なくない。

この東亜日報の記事はチェックしていないかった・・・。

韓国紙 黒田勝弘氏の慰安婦未解決「韓国のせい」正確に紹介

産経新聞ソウル駐在特別記者の黒田勝弘氏は、従軍慰安婦問題等の現地リポートを行っているが、この度、韓国紙から取材を受けたという。以下、黒田氏のレポートだ。
* * *
先日(3月2日)朝、顔を洗っているとケイタイに電話がかかってきた。夕刊紙「文化日報」の女性記者で、朝刊紙の「東亜日報」が社説で筆者を非難していて、その件で電話インタビューしたいと言う。

この社説は「日本は慰安婦問題で協議に応じろ」と題し、最近、また外交問題として蒸し返されている慰安婦問題で日本を非難したものだった。

ところが社説の半分は「サンケイ新聞のクロダ記者が日本の保守右翼雑誌(『WiLL』)4月号に“慰安婦を国民代表にする国”というタイトルで慰安婦をおとしめる記事を書いている」として筆者を名指しで非難する内容だった。

雑誌が発売されてから1週間は経っているので不思議に思ったが、実は前日の3月1日に「朝鮮日報」(ネット版)などいくつかのメディアが「妄言製造機クロダがまた妄言」などと筆者を非難する報道をしていたからだ。

雑誌の記事は、筆者が本誌などでこれまで紹介してきた慰安婦問題に関する最近の韓国の動きをまとめ、論評したものだった。

その骨子は、韓国では今や元慰安婦たちはまるで“抗日独立有功者”のような扱いで聖域化され、誰も手が付けられない問題として解決を難しくしているというものだった。

その証拠として、日本大使館前の慰安婦記念像は無許可でも当局は撤去できないし、元慰安婦は亡くなるとすべての新聞に顔写真付きで必ず死亡記事が出るし、ソウル市長と市民代表による大晦日の“除夜の鐘”にも招かれている……などと紹介した。

ただ雑誌がどういうわけか表紙で「売春婦を国民代表にする国」としたため、これがいっそうの刺激となって「冒瀆(ぼうとく)」「妄言」と非難された。

しかし筆者は彼女らを「売春婦」と書いたことは一度もない。問題解決を妨げているのは彼女らではなく、彼女らを反日に利用し国民をマインドコントロールしてきた支援団体とマスコミだと思っているからだ。

で、クロダ非難がなぜこの日だったかというと、3月1日が「独立運動記念日」で、李明博大統領が記念演説であらためて日本非難を語り、元慰安婦たち(約60人)に慰労の手紙を送っていたからだ。

元慰安婦の一人一人に大統領自ら手紙を伝達するなどというのは初めてで、このことも慰安婦問題の“聖域化”を物語っている。しかもこの手紙は昨年末の日韓首脳会談(京都)で「最初から最後までこの(慰安婦)問題を述べた」ことを誇り、これは「前例の無い、外交慣例にもはずれることだった」と自任している。

李大統領は慰安婦問題を「いかなる外交懸案よりも至急である」とも言っているが、ここにきて彼がなぜ慰安婦問題にそれほど感情的に入れ込むにいたったのか、謎めく。

実利外交が看板の経済大統領が、任期わずかとなり突然、反日・民族主義あるいは篤実なクリスチャンとして博愛・人道主義に目覚めたか?

あの朝、「文化日報」の記者には30分以上にわたって慰安婦問題の経緯と筆者の考えを懇切に説明してあげた。

その結果、紙面には「慰安婦問題がまだ解決しないのは韓国のせい/日本は補償金を準備し謝罪するも韓国受け入れず」という見出しで、珍しく筆者の話が正確に紹介されていた。李大統領は日本に謝罪を要求しているが、日本は首相の手紙をはじめすでに謝罪を繰り返してきたこと、問題解決は韓国の支援団体の反日強硬論でチャンスを逃したことなども出ていた。

そして外交問題には100%の勝利はない、51対49くらいの差でおさめるものという話も紹介していた。大統領の外交音痴に比べると、この記者がはるかにまともである。

ポスト・セブン(SAPIO 2012年4月25日号)

2012/03/09

産経の黒田記者が挺対協に訴えられるとか



この件について、挺対協は産経の黒田記者を訴えるのだそうだ。来日した挺対協の関係者が語っていた。

黒田の書き方にも問題はあろうが、これは昔から指摘されていることながら、実はフェミニストや廃娼運動家も内心では売春婦を蔑視しているのである(戦前の廃娼運動家が「醜業婦」という言葉を使っていた事実は、のちに批判の対象になる)。女性の名誉と尊厳を声高に叫び、ハルモニの尊厳を回復せよと日本政府を糾弾する挺対協も例外ではなく、かつて代表であったユン・ジョンオクはアジア女性基金を受け入れようとした慰安婦を売春婦呼ばわりしたし、慰安婦問題を米軍の基地売春の問題と並べて論じたイ・ヨンフン教授を謝罪に追い込んだのも挺対協であった。

昨年には、30歳の韓国人の日本留学生が慰安婦を自発的な仕事という主旨の書き込みをインターネットに行ったという容疑で検挙されるという騒動があった。結局男性は家族と共に挺対協に頭を下げて起訴を取り下げてもらった。

黒田としても、ここは「パンパン・ガールを国民代表とする韓国」ぐらいにしておけば良かったのではないか?日本のフェミニズム団体が赤坂にあるアメリカ大使館の前にパンパンの像を建て、毎週集会をやっていると考えれば、分かりやすい例えになったかもしれない。

追記: 確認したら、黒田の記事(WiLL 2012.4月号 P.254)のタイトルは、売春婦ではなく、「慰安婦を『国民代表』にする国」であった。

日本黒田慰安婦冒涜妄言・・・「売春婦を国民の代表とする韓国」

韓国に対する妄言を繰り返してきた黒田勝弘、産経新聞ソウル支局長が日本の保守右翼雑誌 Will4月号に「売春婦を国民代表にする国」という題名の文を載せた。

去る25日、発行されたこの雑誌は特に表紙に「売春婦を国民代表とする韓国」という刺激的なタイトルをつけた。この雑誌は日本軍性的奴隷(慰安婦)を売春婦と表現することによって日帝による国家性暴行行為を否認し、これらに対する軽蔑を表わしたのだ。

黒田支局長はこの文で駐韓日本大使館の前にたてた日本軍性的奴隷(軍隊慰安婦)少女像を批判し「驚くべきなのは慰安婦出身の高齢女性が今はマスコミから独立有功者同様の待遇を受けていること」といった。

また、昨年、性的奴隷少女像と共にソウル駅前にたてたカン・ウギュ義士の銅像が新しい‘反日新名所’になっていると主張した。カン義士は1919年第3代朝鮮総督に赴任した日本の斎藤実に爆弾を投げて逮捕された後、西大門刑務所で殉国した。

黒田支局長は韓国で鉄道駅舎とは関係ない人物銅像をソウル駅の前にたてたとし「韓国人の歴史観は本当に特異なところがある」とした。

この文は‘韓国、北朝鮮の無法’という題名の特集に「対北朝鮮外交 野田総理の大失策」「竹島・慰安婦問題の真実」という二つの記事とともにのせられた。


日 구로다 위안부 모독 망언… “매춘부를 국민대표로 삼는 한국”


한국에 대한 망언을 일삼아 온 구로다 가쓰히로(黑田勝弘) 산케이신문 서울 지국장이 일본의 보수우익잡지 ‘윌(Will)’ 4월호에 ‘위안부를 국민대표로 삼는 나라’라는 제목의 글을 실었다.


지난 25일 발행된 이 잡지는 특히 표지에 ‘매춘부를 국민대표로 삼는 한국’이라는 자극적인 제목을 달았다. 이 잡지는 일본군 성노예(위안부)를 매춘부라고 표현함으로써 일제에 의한 국가 성폭행 행위를 부인하고, 이들에 대한 경멸을 드러낸 것이다.


구로다 지국장은 이 글에서 주한일본대사관 앞에 세워진 일본군 성노예(군대위안부) 소녀상을 비판하며 “놀라운 것은 위안부 출신의 나이 든 여인들이 지금은 매스컴으로부터 독립유공자와 비슷한 대우를 받고 있는 것”이라고 했다.


또 지난해 성노예 소녀상과 함께 서울역 앞에 세워진 강우규 의사의 동상이 새로운 ‘반일(反日) 신 명소’가 되고 있다고 주장했다. 강 의사는 1919년 제3대 조선총독으로 부임한 일본의 사이토 마코토에게 폭탄을 던졌다가 체포된 후 서대문형무소에서 순국했다. 구로다 지국장은 한국에서 철도역사와는 관계없는 인물 동상을 서울역 앞에 세웠다며 “한국인의 역사관이 정말 특이한 데가 있다”고 했다.


이 글은 ‘한국, 북조선의 무법’이라는 제목의 특집에 ‘대 북조선 외교, 노다 요시히코 총리의 대실책’ ‘다케시마 위안부 문제의 진실’이라는 두 기사와 함께 실렸다.

2012/02/15

強制連行という言葉が死語になりつつある?



テレビで強制連行のウソというようなタイトルの特集を見た記憶がないので、強制連行の神話の崩壊にはネットがかなり貢献したのではないかと思うのだが、真相はどうなのだろう。ところで、朝鮮学校に対する教育の無償化が在日に対する差別問題と関連があるのか否かはともかく、日本生まれである事が差別の理由になる社会もあるらしいのだが?

「高校無償化」 ハルモニたちが文科省に要請
”差別はもうたくさん”〝孫を苦しめないで〟

朝鮮学校に孫を通わせているハルモニ(祖母)の会のメンバーら8人が13日、文科省を訪れ、朝鮮学校に対し「高校無償化」制度を早急に適用することを求めた。一行は、野田佳彦首相と平野文博文科相あての要請書を提出した。

朝鮮学校に孫を送る1、2世のハルモニたちは、植民地時代に渡日し差別を受けてきた体験や、日本で生まれ日本学校に通い、祖国解放後に初めて自国の存在を知ったという悲しい経験などについて述べながら、日本当局の在日朝鮮人に対する差別政策は当時から何も変わっていないと指摘。このような非情なことが、自身の親の時代から孫の代に渡るまでまかり通っていることに、憤りを禁じえないと訴えた。

金貞花さん(千葉県在住)は、「日本政府をはじめ一部の知事たちは、在日朝鮮人たちの然るべき権利に対して、いつも『やってあげる』という言い方でものを言う。21世紀になった今もそれを通そうとする卑怯さに胸がえぐられる思いだ」と厳しく指摘した。

康敬順さん(東京都在住)は、これまでも在日朝鮮人は中・高体連やJR定期券問題、大学受験資格など民族教育と朝鮮学校生徒の権利をたたかって勝ち取ってきた。朝鮮学校の子どもたちはラグビーで全国大会に出場したり、作文コンテストで内閣総理大臣賞を受賞したりと、立派に育ち日本学校の生徒と比べても何らそん色なく普通に学校生活を送っているのに、なぜ「無償化」の対象から外されなければならないのか理解ができないと述べた。また、「みんな納税義務を等しくしっかりと果たしているのに、教育の現場で得られる権利が私たちだけ違うのか。明らかに差別だ」と訴えた。

埼玉県在住の金福連さんは、自身が日本学校に通っていた頃は毎日つらいいじめを受けていたが、わが子も幼稚園の頃、心ない友だちから暴言を浴びせられることがあった。それは大人の考えや発言が影響しているとしながら、「私たちが子どもや孫を朝鮮学校に通わせているのは、朝鮮人としての自覚を持ってほしいから。日本学校では、それはできない」と話した。

幼い頃、日本に渡ってきたという金永愛さん(東京都在住)は、植民地時代に受けた差別を70年が経った今も忘れられないと訴えながら、「日本政府には人権平等の思想が根付いていない。過去清算もできておらず、差別政策は変わっていない。しっかりと、心ある対応をすべきだ。孫たちは朝鮮人としてのアイデンティティーを持つことだけでなく、いかに日本や世界に貢献し生きていくかを朝鮮学校で学んでいる」と語った。

(姜裕香)朝鮮新報 2012.2.14

参考までに・・・

北朝鮮、日本で生まれた金正恩の生母の出生地を“すり替え”

北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)朝鮮労働党中央軍事委員会副委員長には決定的な障害物が一つあった。生母・高英姫(コ・ヨンヒ)の出身地だ。「喜び組」の舞踊家として活動し、金正日(キム・ジョンイル)総書記の目に留まった高英姫は、北朝鮮で蔑視される在日同胞出身だった。

その間、北朝鮮当局は金正恩が後継者になっても生母への言及を避けてきた。しかし最近、高英姫を「平壌(ピョンヤン)の母」と呼び始めたのだ。

13日の労働新聞は2月16日の金正日の70回目の誕生日を控え、朝鮮作家同盟詩文学分科委員会の叙事詩「永遠なる先軍の太陽、金正日」を掲載した。「偉大な金正日の誕生70周年に捧げる」という説明とともに、金正日に対する称賛を込めた長文だった。

この長文では日本で生まれた高英姫が平壌出身になっていた。「今日も馴染みの野戦服を着て明るく笑っていらっしゃる(中略)」などの内容とともに「きらきら輝く星の光を踏まれながら、静かな月の光を踏まれながら、庭を散策された平壌のお母様の足音、金正恩同志の足音」という表現が使われたのだ。

「戦線にいる将軍様を待ちながら、お母様と一緒に明かした2月のその夜を私は忘れることができません」という金正恩の言葉と、「平壌の家族が受けるべき父の情と愛を私たちがみんな受けたんだ。私たち人民がみんな受けてきたんだ」などの内容も続く。北朝鮮が高英姫に堂々と「平壌の母」という呼称を使ったのは今回が初めて。

高英姫の偶像化作業は金正恩の誕生日と知られた1月8日に本格的に始まった。この日、朝鮮中央テレビが放送した金正恩の記録映画で「いつだったか、2月16日(金正日の誕生日)にも現地指導から帰らない将軍様(金正日)をお母様(高英姫)と一緒に夜通し待ったこともある」という解説者の説明が伝えられた。公式メディアを通して金正恩の生母に言及したのは初めてだったが、何気なく流れる短い説明という程度にとどまった。

間接的な方法も使われた。8日の労働新聞には、在日同胞女性が北朝鮮に移住してきた過程と、金正日の体制下で恩を受けて暮らしてきたという記事が掲載されたりもした。北朝鮮社会で「チェッポ」と呼ばれるほど蔑視された在日同胞が官営メディアに堂々と登場したのだ。高英姫の出身に関して沈黙してきた北朝鮮は結局、出身地を操作する方法を選んだとみられる。今後、北朝鮮の住民に高英姫についてどう説明していくかが注目される。

北朝鮮は金正日が現地指導に行く列車で亡くなったという事実を改めて強調した。今回の叙事詩には「私たち人民との約束を守るために強行軍列車を一瞬も止めずに走ってこられた方が、このように列車に乗った」とし「行ってはならぬ道と引き止める医者たちよりもよく知りながらも、将軍様が乗った12月の野戦列車」という文句が含まれた。

2011/01/26

韓国挺身隊研究所の慰安婦論1




挺身隊研究所は、1990年から20年間慰安婦問題を研究してきた韓国唯一の民間研究機関とのこと。ネット情報の弱点として時期が特定し難いが、比較的最近のものだと思う。昔の物と比べると、韓国の慰安婦論も時間と共に変化しているのが分かる。


日帝は軍「慰安婦」女性を特に我が国で広範囲に動員した。 それは植民地女性に対する差別意識と共に国際法を避けることができるということを念頭に置いていた。 日帝は当時「婦人および児童の売買を禁止する国際条約」に加入しながら植民地では適用しないという留保条項を置いていた為だ。 また、日帝の収奪政策で朝鮮では貧困層が増え、特に農村では働き口を得ようとする娘たちが多かったために、これらを動員するのは容易だった。

日帝は自国人である日本人だけでなく戦争で占領した中国、フィリピン、インドネシア、ラバウルなどの現地女性たちまでも「軍隊慰安婦」として動員した。

全部で何人の女性が慰安婦になったのかは正確に分からないが、少ないところで5万から30万程度と推定されている。 そのうち朝鮮人軍「慰安婦」が何人かは推定できないが、ほぼ80%に達するという主張もあるなど、中国や東南アジア各地に幅広く連行された事実からして相当数に達したことは間違いない。

軍「慰安婦」に引きずられて行った当時の女性の年齢は、10代初めの未成年から20代後半の既婚女性もいた。 これら女性は工場に就職させてくれるとか、お金をたくさん儲けられるようにしてやるなどの就職詐欺にあって慰安所に行った場合が多かった。 または、慰安所業者や募集人によって誘拐されて人身売買されたり、官吏、警察、軍によって強制拉致されることもあった。

民間業者が女性たちを集めた場合でも、これら民間業者は関東軍、朝鮮軍司令部などの管理、監督統制下にあった

業者らが引率して慰安所まで移動する時でも、軍用トラックや軍用列車が多く利用された。 船に移動する場合では、たいてい連絡船で日本に行ってから、再び軍貨物船や軍艦に乗った。 このような移動にともなう輸送手段の利用には軍官の許可と協力なしでは不可能なことだった。 色々な資料から推察する時、警察と軍が直接介入したことはもちろんで民間人が動員に関与した場合にもその背後には日本政府と軍があったことをよく知ることが出来る。 どんな形式に引きずられて行こうが当事者が事実を知って同意した事実がないからこれらは強制連行、動員されたのだ。

7) 軍「慰安婦」女性たちの生活は基本的に慰安所規則が適用された。 慰安所利用規則には軍の利用時間、料金、性病検査、休日などに関する細部事項まで規定されていて、特に衛生関連規定が多かった。 しかしこの規則は基本的に軍人のために制定されたのだ。

軍「慰安婦」たちは、大抵朝から宵の口までは兵士を、宵の口から夜7~8時までは下士官、そして遅れた時間(?)には将校を相手にした。 将校は宿泊することができた。 色々な部隊が一緒に駐留した場合には互いに曜日を分けて慰安所を利用したりもした。

軍人一人当たり大概30分や1時間以内と利用時間が制限されていた。 軍「慰安婦」たちは一日に平均10人内外で30人以上の軍人を相手にしなければならなかった。 週末は遥かに多かった。 また、慰安所がない地域に派遣されれば仮設テントでその部隊の全員を相手にしたりもした。

慰安所は利用時間と軍隊慰安婦がどの民族かにより料金が違った。 例えば日本人慰安婦の代金が最も高かった。 軍人らは料金を支払ったというけれど、軍人らが支払った料金は業者の腹(?)だけ呼ばれただけ、軍隊慰安婦の手に入らない場合が多かった。 無料で運営された慰安所も少数あった。

11) 軍「慰安婦」たちは初めは軍人らにさからう事もあったが、歩哨のために逃げる敢えてなせないまま諦めるほかはなかった。 名前も「ハナコ」「ハルコ」など日本式の名前や番号と呼ばれたし韓国語も使わないようにするなど皇国臣民になることを強要された。 酒に酔った軍人らは「慰安婦」たちを手で殴ったり刃物で刺すこともした

軍「慰安婦」たちは一週間~または、2週間に一回ずつ軍医や衛生兵に性病検査を受けなければならなかった。 検査に合格した「慰安婦」だけが軍人を受けることができた。 ところが金儲けに血眼になった主人たちは、検査に落ちても軍人の相手をするよう強要した。

13) 軍人たちは性病予防のために原則的にコンドームを使わなければならなかったがコンドームを使わない軍人も多かった。 その結果「慰安婦」の相当数が性病にかかった。 それで606号注射を打ったり中毒危険が大きい水銀で治療を受けることもあった。 性病が激しくなったり妊娠すれば、ある日慰安所から消えることもあった。 治療を受けられないまま追い出されたのだ。 また、女性たちは性病検査が大きな苦痛だったという。

軍「慰安婦」たちは部隊あるいは慰安所の主人にご飯と味噌汁、若干のおかずがある食事を一日に2~3食提供された。 軍人がとてもたくさん押しかけたり、部隊で派遣された場合には、まともに食事することができなかった。 衣服は軍で提供受けたり、時に購入する場合もあるが借金がなりやすかった。 簡単フクラは簡易福をかける水準が大部分だった。

15) このように軍「慰安婦」たちは軍慰安所で外出も制限されたまま定期的な性病検査を受けて毎日軍人を相手にする性的奴隷として生活した。 慰安婦たちが慰安所を抜け出すことは極めて難しかった。 慰安所の警備が厳重であり、島や荒野他国から脱出など思いもよらないことだった。 脱出を祈って失敗した時には苛酷な罰を受けた後、再び「慰安婦」の役割を果たさなければならなかった。

慰安婦たちは日帝が敗戦するとすぐに徹底して見捨てられた。 さらに日本軍は退却しながらこれらを一ヶ所に集めて殺すこともした。 生き残ったこれらはしばらく連合軍捕虜収容所に収容されて集団に帰国船に乗ったり、一人で実に多くの困難をくぐって故郷に訪れてきた場合もあった。

しかしこれらとは異なり、他国でそのまま留まらなければならなかった場合も多い。 帰ってくる方法を知らなかったり、分かっていても汚れた体で一文無しで帰れないと諦めた場合も少なくない。 また、ある人たちは帰国の途中連合軍の爆撃で船が破壊され集団的に収蔵されたし、自ら命を絶った人々もいた。


● 挺身隊の名で動員(徴用)説からようやく卒業?朝鮮人最多説は捨て切れず?

● 日本の研究者の影響が色濃く出ている部分も。

● 今だに根強い慰安婦殺害説。

「もう一度生まれたら、花に」より

일제는 군'위안부' 여성들을 특히 우리나라에서 광범위하게 동원하였다. 그것은 식민지 여성에 대한 차별의식과 함께 국제법을 피해갈 수 있다는 것을 염두에 두었다. 일제는 당시 '부인 및 아동의 매매를 금지하는 국제조약'에 가입하면서 식민지에서는 적용하지 않는다는 유보조항을 두었기 때문이다. 또한 일제의 수탈정책으로 조선에서는 빈곤층이 늘어났고 특히 농촌에서는 일자리를 얻으려는 딸들이 많았기 때문에 이들을 동원하는 것은 쉬운 일이었다.
일제는 자국인 일본에서 뿐 아니라 전쟁으로 점령한 중국, 필리핀, 인도네시아, 라바울 등의 현지여성들까지도 '군위안부'로서 동원하였다.
모두 몇 명의 여성들이 위안부가 되었는지는 정확하게 알 수 없으나 적게는 5만에서 30만정도로 추정하고 있다. 그 중 조선인 군'위안부' 여성이 모두 몇 명인지 추정할 수 없으나 거의 80%에 달하는 주장도 있는 등 중국, 동남아 각지로 폭넓게 연행된 점으로 보아 상당수에 달하였을 것은 틀림없다.
군'위안부'로 끌려갈 당시 여성의 연령은 10대 초의 미성년에서부터 20대 후반의 기혼 여성도 있었다. 이들 여성은 공장에 취직시켜 주겠다거나 돈을 많이 벌게 해주겠다는 등의 취업사기를 당해서 위안소로 간 경우가 많았다. 또는 위안소업자나 모집인들에 의해 유괴당해 인신매매되기도 하였으며 관리, 경찰, 군에 의해 강제 납치당하기도 했다.
민간업자가 여성들을 모은 경우에도 이들 민간업자들은 관동군, 조선군사령부 등의 관리, 감독 통제 아래 있었다.
업자들이 인솔하여 위안소까지 이동할 때도 군대트럭, 군용열차가 많이 이용되었다. 배로 이동할 경우에는 대개 연락선으로 일본으로 간 후 다시 군화물선이나 군함을 탔다. 이같은 이동에 따른 수송 수단의 이용에는 군관의 허가와 협조 없이는 불가능한 것이었다. 여러 가지 자료로 미루어 볼 때, 경찰과 군이 직접 개입한 것은 물론이고 민간인이 동원에 관여한 경우에도 그 배후에는 일본 정부와 군이 있었음을 잘 알 수 있다. 어떤 형식으로 끌려갔든 당사자가 사실을 알고 동의한 사실이 없기 때문에 이들은 강제연행, 동원된 것이다.

군'위안부' 여성들의 생활은 기본적으로 위안소 규칙이 적용되었다. 위안소 이용규칙에는 군의 이용시간, 요금, 성병검사, 휴일 등에 관한 세부사항까지 규정되어 있으며, 특히 위생관련 규정이 많았다. 그러나 이 규칙은 기본적으로 군인을 위해 제정된 것이다.
군'위안부'들은 대개 아침부터 초저녁까지는 병사를, 초저녁부터 밤 7~8시까지는 하사관, 그리고 늦은 사건에는 장교를 상대하였다. 장교는 숙박할 수 있었다. 여러 부대가 같이 주둔한 경우에는 서로 요일을 달리해서 위안소를 이용하기도 하였다.
군인 한사람당 대개 30분이나 1시간 이내로 이용시간이 제한되었다. 군'위안부'들은 하루에 평균 10명 내외에서 30명 이상의 군인을 상대해야 했다. 주말이면 훨씬 더 많았다. 또 위안소가 없는 지역에 파견되면 임시 막사에서 그 부대의 전 인원을 상대하기도 하였다.

위안소는 이용시간과 군위안부가 어느 민족인가에 따라 요금이 달랐다. 예컨대 일본인 위안부의 가격이 가장 비쌌다. 군인들은 요금을 지불했다고 하지만, 군인들이 지불한 요금은 업자의 배만 불렸을 뿐, 군위안부 수중에까지 들어가지 못한 경우가 더 많았다. 무료로 운영된 위안소도 소수 있었다.
군'위안부'들은 처음에 군인들에게 반항하여 맞기도 하였으나 보초 때문에 도망갈 엄두를 못낸 채 체념할 수밖에 없었다. 이름도 '하나코', '하루코' 등 일본식 이름이나 번호로 불렸고 우리말도 쓰지 못하게 하는 등 황국신민이 될 것을 강요당했다. 술에 취한 군인들은 '위안부'들을 손으로 때리거나 칼로 찌르기도 했다.

군'위안부'들은 일주일 ~ 또는 2주일에 한번씩 군의나 위생병에게 성병검사를 받아야 했다. 검사 결과 합격된 '위안부'들만 군인을 받을 수 있었다. 그렇지만 돈벌이에 혈안이 된 주인들은 검사에 떨어졌어도 군인을 상대하도록 강요하였다.
군인들은 성병예방을 위하여 원칙적으로 삿쿠(콘돔)를 써야 했으나 삿쿠를 쓰지 않은 군인들도 많았다. 그 결과 '위안부'들의 상당수가 성병에 걸렸다. 그러면 606호 주사를 맞거나 중독 위험이 큰 수은으로 치료를 받기도 하였다. 성병이 심해지거나 임신하면 어느날 위안소에서 사라지기도 하였다. 치료를 받지 못한 채 쫓겨난 것이다. 또한 여성들은 성병 검사가 커다란 고통이었다고 한다.

군'위안부'들은 부대 혹은 위안소 주인에게 밥과 된장국, 약간의 반찬이 있는 식사를 하루에 두세끼 제공받았다. 군인이 너무 많이 들이닥치거나 부대로 파견된 경우에는 식사도 제대로 하지 못했다. 의복도 군에서 제공 받기도 하고 때로 구입하는 경우도 있으나 빚이 되기 쉬웠다. 간단후쿠라는 간이복을 걸치는 수준이 대부분이었다.
이렇듯 군'위안부'들은 군위안소에서 외출도 제한당한 채 정기적인 성병검사를 받으며 매일 군인을 상대하는 성노예로서 생활하였다. 위안부들이 위안소를 벗어나기란 지극히 어려웠다. 위안소 경비가 엄격하기도 하려니와 섬이나 허허벌판 타국에서 탈출은 생각할 수조차 없는 일이었다. 탈출을 기도하다가 실패했을 때에는 가혹한 벌을 받은 후, 다시 '위안부'노릇을 해야 했다.
위안부들은 일제가 패전하자 철저하게 버림을 받았다. 더욱이 일본군은 퇴각하면서 이들을 한데 모아 죽이기도 했다. 살아남은 이들은 잠시 연합군 포로수용소에 수용되었다가 집단으로 귀국선을 타거나, 혼자 실로 숱한 어려움을 헤치면서 고향을 찾아온 경우도 있었다.

그러나 이들과 달리, 타국에서 그대로 머물러야 했던 경우도 많다. 돌아오는 방법을 몰랐거나 알았어도 더럽혀진 몸으로 돈도 한푼 없이 돌아갈 수 없다고 스스로 포기한 경우도 적지 않다. 또한 어떤 이들은 귀국 도중 연합군의 폭격으로 배가 파산되어 집단적으로 수장되었으며, 스스로 목숨을 끊은 사람들도 있었다.