慰安婦論争が国内だけのものでなくなった今、「従軍」という言葉にこだわっても、あまり意味はないのだろうが、慰安婦騒動の歴史を整理する意味で、藤岡信勝のこの分析を取り上げておこうと思う。
第一の種類の人々は、年配者で、戦場体験をもっている人々である。この人たちは、<従軍慰安婦>という言葉に接すると、「軍の組織の一員としての兵士の セックスの相手をするような女性」のイメージが頭の中にたちどころに浮かび上がる。すなわち、従軍看護婦とのアナロジーから、従軍慰安婦も軍属としての慰安婦という、実際には存在したことのない奇妙な女性の像が軍隊経験のある年配者の脳裏に形成されるのである。
そこで、この第一の種類の人々は、直ちに「従軍慰安婦などいなかった」と言う。...慰安婦問題で騒ぎまくっている人たちも、軍属という身分の慰安婦がいたという主張をしているわけではないのだから、その限りでは両者の間に事実認識の違いはないのである。
第二の種類の人々は、世代的に軍隊経験のない人々である。この人々は、<従軍慰安婦>という言葉に接しても、第一の種類の人々が思い浮かべるような女性の イメージが頭に思い浮かぶことはない。...第二の種類の人々にとっては、<従軍慰安婦>という言葉(記号)は、「戦地の日本軍の慰安所にいた女性」を指示対象として示すという以上の働きを持ってはいない。...間違った言葉であるということをあまり気にしないのである。
第三の種類の人々は、戦地で日本軍の将兵を相手に性的サービスをした女性たちは、決して娼婦などではなく、自分の意思に反して戦地に連行され、日夜セックスを強要された性奴隷というべき存在であった、と固く信じ込んでいる人たちである。
この人たちは、そのようなおどろおどろしいイメージを喚起し、そういう「制度」を糾弾する意図を込めて<従軍慰安婦>という言葉を使うのである。女性の奴隷状態という意味がこの言葉の定義に含められてしまっているわけだ。
「自虐史観」の病理 P.158
現在では、第二のタイプに欧米人が含まれる。予備知識がない彼らに「Ianfuはいたが、Jyugun-ianfuはいなかった」と力説して、不審を買うっている人をネットで見かけるが、欧米人相手にこんな説明は理解されない。相手を見て話の仕方を工夫しなければ、誤解を深めるだけである。
なお、韓国では「従軍」は自ら進んで軍に従ったという意味になるという認識が主流。その影響を受け、最近では日本の運動家たちの中にも「従軍」という言葉を使うべきでないと主張する者がいる。村山一兵もその一人だった。
もう少し藤岡の著書から引用を続ける。
ところで、第一の種類の人たちは、<従軍>の語に、むしろ誇りを感じている。...日本軍(皇軍)の正規の一員たることを示す晴れがましいしるしなのである。同じ日本語を使いならが、まるきり正反対のイメージを描いているグループがある。...そこで、元日本兵の型が、「戦地には従軍慰安婦などいなかった」と言うと、第三の種類の人たちは、あの女性たちが陥っていた性的奴隷状態を否定する暴論だ、と反発する。そして「従軍慰安婦はいなかった、などというとんでもないことを言う人がいる」と告発する。
...この人たちは、ある時点から「従軍慰安婦はいなかったという人がいる」という非難が、日本国民の大多数を占める第二の種類の人々...「戦地の女性」を示すだけの用語として受けとっている人々にとって意外な効果をもたらすことに気づいた。
第二の種類の人たちは、<従軍慰安婦はいなかった>と言っている人たちは「戦地の女性」の存在自体を否定していると受け取ったのである。
P.159