「強制連行」という言葉は、戦時徴用のことを指す。ただし、日本人に対して用いられることはなく、若干の例外を除けば朝鮮人に対してのみ用いられる。この理由を金英達は「恨みをこめて」そういう言い方をするのだと説明している。
しかし、志願ではあっても、日本人であるという点を除けば、ひめゆり学徒隊こそ、あえてこの言葉を使うとすればだが、「多くは未成年の少女たち」が「強制連行」されたケースに近いと言えるのではないか。
戦時中、こういった悲劇はたくさんあったに違いない。
太平洋戦争末期の沖縄戦で傷病兵の看護などにあたった「ひめゆり学徒隊」の元隊員宮城喜久子さん(82)=写真=が18日、大阪市浪速区の大阪人権博物館リバティホールで約300人を前に悲惨な体験を語った。 宮城さんが動員されたのは、沖縄県立第一高等女学校4年生で16歳だった1945年3月。「安全な場所で看護にあたる」と聞かされていたが、実際は、近くで爆音が鳴り響く壕(ごう)の中の野戦病院だった。
手足がない兵隊や、傷口にウジがわいた患者もおり、当初は震えていた。しかし、衛生兵に「戦場では当たり前だ」とどなられるうちに、遺体を埋葬しても涙も出なくなるほど感情がまひしたといい、「戦争は人を人でないものにする」と語った。
逃げ惑ううちに荒崎海岸(同県糸満市)の岩場に追いつめられ、米軍の乱射を受けた。目の前で友人たちが倒れ、別の集団は手投げ弾で自決した。生き残った宮城さんは「大事な人をたくさん失って初めて戦争のおろかさに気付いた。とっても悔しい」と絞り出すように話した。
講演は、同博物館で26日まで開かれている企画展「ひめゆり 平和への祈り」の一環。2008年12月に荒崎海岸で見つかった学徒隊員の校章も展示されている。
読売新聞 2010.12.19
「安全なところで」という話は、熾烈な沖縄戦の中でどこかへ消し飛んでしまった。 しかし、それを「甘言を弄して」少女たちを連行したと無茶な解説をする学者はいないし、手投げ弾で自決したのは、天皇のために死ぬことによって模範的な皇民となろうとした沖縄の意識と家父長制ゆえの「強制」だったと言い張る「専門家」もいない。幸いなことに。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20101219-OYT8T00097.htm