2014/09/29

将校たちが身請けした慰安婦 「救出せよ、一人残らず答えた」

長谷川伸

劇作家長谷川伸が記した中国の三竃島でのこの話。著者の手が入っているのか、実際に見たままを書き記したものか、自分には分からない。だが、あまりに生々しい情景はノンフィクションとして十分に説得力を持つように思える。

ここに記された慰安婦の姿は複雑である。彼女たちは、金稼ぎの為に追い返されても再び戦地へ舞い戻ってくるプロの売春婦であると同時に、(元々は)騙されて連れて来られた気の毒な人々でもあった。そして、甘言で慰安婦にされたらしい処女を救出するのに、軍人たちは契約内容を確認し、カンパを募り落籍の資金を作ってやらねばならなかった。このカンパには阿部弘毅司令官までが協力している。部隊中の慰安所関係の担当者が主計中佐に叱られているが、契約書は正式な物であったようである。

慰安婦には玄人の女が向いているとか、「初めは将校向きの五円の女を希望するが、ほどなく下士官兵向きか徴用工向きの二円の女に転向したがる。・・・二円の女だと荒稼ぎが出来るから」という話も、最近の作られたセックス・スレイブのイメージからは想像し難いが、千田夏光が集めた証言の中にも同様の話があったと記憶している(要確認)。慰安婦は台湾などで募集された者らであったという。

事実残存抄                  

華南の真っ只中にある三竈島に、数日私はいたことがある。昭和の大戦がまだ太平洋戦争に突入しなかった、昭和十三年十一月下旬であったと思う。この島の雨はふとさが細引き縄ぐらいあり、たちまちのうちにそこら中が海のごとくなるほどの降雨量であると、上陸した途端に海軍の士官に聞かされ、また、ここは百歩蛇・コブラのような毒蛇七種がいると、道案内の海軍下士官におどかされた。

[...]

しかし私たち数人の小説戯曲映画関係のものは、幸いに縄のような雨や百歩蛇や胴まわりが四斗樽ぐらいの大蛇などには、お目にかからないで済んだ。

この島で私たちの世話をしてくれたのは、詩人の主計中佐(後に大佐)矢野兼武であった。その矢野中佐に頼んで私と他に一両人が、同島に出来ている三種の売女がいるところを視察につれて行ってもらった。

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その見送りの一般日本人とは別なところに、一群の女がいて、あるものは笑って嬌声ともども手を挙げ、ハンカチを振り、手拭を振り、あるものはトラさんとか、杉村さんとか呼びかけ、呼んだ軍夫君が振りむいて、手をあげたり袋入りの日本刀をあげて見せたりすると、女は涙を頬に走らせて再び呼びかけるのが、明かに別離を惜しむものであること、疑う余地がなかった。その女たちが遠目にも白粉臭い女とわかり、かつ服装がやや正常を欠いてケバケバしいので、居合わした下士官に尋ねたら、あれは慰安所の女でありますと答えた。それ以来、私たちは戦地には慰安所の女というものがあるのを知っていたので、この島にもそれがあるのをちらりと見かけ、矢野中佐に案内を頼んだという訳であった。

ここが士官用の慰安所ですと矢野中佐がつれて行ったところは中国風家屋に手を少し入れて無理やり日本的にした家で、白粉の女たちは一人も顔をみせなかった。がしかし私は、入口の壁に鉛筆で、「泣かせてよ泣かせてよ、泣かずにいられないわたしじゃないの」と書いてあるのを見た。

慰安所の宿舎に女がいないのを、矢野兼武中佐は、きょうは検査日で、ただ今がその折柄ですと説明した。

ここは下士官兵の慰安所女の宿舎ですと、矢野がいいながら門口に近づくより早く、宿舎の奥から飛び出して来た芸者くずれらしい大年増の女が、「主計長さんまた帰って参りました。どうぞよろしく」と立ち身のままで挨拶した。矢野は「今度はゴタゴタを起さんでくれ」といった。この女の引っかけていた黒縮緬の羽織の紋が汚れていた。とまた、もう一人、二十六、七歳の女が赤大名のお召の袷に、二本独鈷の伊達巻で出てきて、「また来ちまいました」といって、人を食った笑い方をしてみせた。このどちらの女も、私どもには用がないので無視してかかっていた。矢野は「君も来たのか、今度はおとなしくしろ」と歎息まじりにいった。

あとで聞いたところによると、きのう来たばかりの黒縮緬古羽織の女は、抱え主を困らせることが達考で、こんな時にこんな島へ女をつれて来るほどの抱え主が、何に彼につけて阿婆ずれの巧みさに負かされるので、遂に金をいくらかやって、募集地の台湾まで帰ってもらったのだという。

赤大名の女の方は、仲間の女の間に波瀾を起させるのが上手で、そのテにかかって、陰性と陽性と二種の喧嘩が、当番交代のようにたびたび起るので、抱え主が往生して、これも募集地の台湾まで帰した。それがやって来たのは、台湾でまたもこの募集に応じたので、偶然というものがやる奇妙さで、もとのこの島へ舞戻ったのだという。

この種の女はそのとき二十余人いたが、数週間の後に、約十人やって来ると、これは徴用工と下士官兵のうちの或る二、三人がいったことである。女の名を呼ぶことは非公式だが禁止してある、その代り番号で呼ぶ。しかし、十三番の女のことを客の男はジュサ(十三)ちゃんと呼び、二十三番の女のことはおフミ(二三)さんと呼ぶ、という式でやっているので、女の名を呼ばせないという趣意は無効になっている。女の名を呼ばせないのは、情意の深入りをふせぐためであるとか聞いた。ところが、非情な番号を人人は、有情な呼び名に呼び改めたのだから、何もならない。

将校は五円の入場券がいる。下士官兵と徴用工の入場券ぱおなじく二円で、夜十時になると銅羅を打って、その打ち終りと同時にこの種の女のすることは、ことごとく止めとなる。行間はもちろんこの種のところは閉鎖し、夕食時から開店だそうである。

 [...]

女の前借金は多きは千二、三百円で、少ないのは五、六百円である。募集は台湾基隆とか高雄とかでやるが、実際に女を集めるのは、募集の特約者で、つのりに応じてくる女も勧誘の手をのばす相手の女も、俗にいう玄人がいいとされている。素人は戦地向げのタマには適さないという、例外はある由。前借金のもっとも少ないのは百円の飯焚きである由。

こうした者たちは、初めは将校向きの五円の女を希望するが、ほどなく下士官兵向きか徴用工向きの二円の女に転向したがる。五円の女では相手が少数で稼ぎ高が低い。相手が人多数の二円の女だと荒稼ぎが出来るからだという。女の手取りは五円も二円も率は一つで、二円の女でいえは半分の一円は前借金へ入れ、残る半分の一円が手取りとなる、とこう聞かされたが、表面はそうだろうが、陰では勘定が別にあるらしかった

私どもが南シナ海で短時日のうちに、二度も乗せてもらった紀州の第二江口丸という

海上トラックの船長が、今いったような女たちをあわれんでいった。

「ああいう女たちはみんなだまされて来ているのでねえ、この船でつれて来た女たちの顔というものが、当分のうち眼に残りましてねえ」

[...]

前にいった三竈島に再びやって来た二人の泥水を飲みつづけて来たらしい女達と、一つ船で来た二十歳の女があった。島へあがってすぐ軍医が、同時にやって来た女だちと同様に、検査をやったところ、軍医はその二十歳の娘が意外にも処女であることを知った。驚いたがそれを色にも出さなかった。

それから暫くし正午になり、食事にかかる前に矢野兼武(主計)中佐は、軍医から相談をかけられた。午前中に検診した慰安所の女のうち一人の処女がいる。これをおれはおれの良心に問うたところ、お前がその女を助けないでだれが助けるか、その女が処女であることを知っているものはお前だけではないかと答えた。そこでおれは助ける決心をつけたが、方法がわからないのみならず、救出に必要の金も、おれが受取る戦時加算付きの今月分では足らぬらしい。こういう時はどうすればいいのか、相談に乗れ、というのである。矢野はよろしいと引受けた。

昼食がすむと矢野が、食卓についたそのときの将校たちに呼びかけ、今日午前中に軍医によりて発見された娘を、救出するか放置するかを問うたところ、救出せよと一人残らず答えた。無論、この答えを求める前に、軍医の臨床報告と所感とが述べられたのである。

救出資金がみるみる矢野の軍帽の中へ集まった。軍医はその月の受取り分をそっくり出した。集まったそのときの総額は、確か八百何円かであったと憶えているが正確を欠いている気もする。矢野は時を移さず、慰安所関係の責任者と、女の監督や金銭収支の担当者を、司令部の主計長室に呼び、軍医の検診報告書をつきつけ、生娘をこんなところへ持ってくるからは話に聞く誘惑の嫌疑をかけると叱りつけ、娘に関する書類一切の即時提出をもとめ、その書類を検討して、前借金返済の金額をその場で決め、娘の身柄を酒保の責任者に預けた。悪い仲介人があって売り飛ばされたこの娘は喜びのあまり、顔をくちゃくちゃにして泣いたこと、いうまでもない。

矢野は第十四空防備の中少尉以下の寄付金は断わったが、司令阿部弘毅少将はじめ、大尉以上の寄付金を受けて、救出資金は満額を超えた。超えた方の金はその娘の新出発の資金にさせた。この娘がこの島を去るとき、莫蓮とか阿婆摺れとが人もいい私もいった慰安所女が、わがことの如く泣いて喜び、帰って後の身のもち方について助言するのを見ていると、姉か従姉に違いない真実さが溢れていた。そしてその次の時間には、莫蓮女になり阿婆摺れ女となる。

この島にも水兵中に悪徒がいて、夜中に原住民の家に押入り、強盗した外に、女を汚して逃げたイヤな事件が起っていた。この犯人は当夜の風紀衛兵の責任者であった兵曹が、夜が明けて二、三時間の中に捕えた。犯人は佐世保で後に重く罰せられた

[...]

矢野はその後、茨城県の航空隊に転じ、それは短期で、東南方の戦場へ出ていった。矢野には『十二月八日未明』(仮題)という真珠湾攻撃前を描いた戯曲と『海戦後の筏』(仮題)という珊瑚海戦を描いた戯曲とがある。私たちが知っているこの二つの原稿は、矢野の最後の任地の室に置いてあったのではないかと思う。矢野のその室には私たちが贈った伊東深水作の美人画があった筈である。この方は英・豪・米どこかの者が、記念品に持ち去ったことであろうが、戯曲の原稿の方は見棄てられたことだろう。矢野はサイパン島にかりの宿を求めたその日、そこで戦死した。大佐であった。

生きている小説 長谷川伸 P.101-110