2015/05/06

この目で強制動員見た、ナベツネを叱り飛ばしたと金鍾泌

大物、金鍾泌は本当に強制動員を目撃したのか?

三金の一人として知られる韓国の大物政治家キム・ジョンピル(金鍾泌)が中央日報に何やら勇ましい思い出話を語っている。なんでも、2001年、慰安婦の強制動員はでっち上げだという社説に抗議して、読売新聞社に乗り込みナベツネを含む関係者を叱り飛ばしたのだという。自分は強制動員をこの目で見たのだと。で、下の絵がキムの証言に基づいて描かれた「慰安婦強制動員」の様子なのだそうだ。国民服姿らしい男が少女を連れているが、この男が軍属だと思った根拠はなんなのだろう?単なるチョッパリ(豚の足)かもしれないではないか?

話をふかすタイプと見た

目撃したというのが本当だとしても、彼が見たのは挺身隊の募集であって、言うまでもなく挺身隊は合法的に存在した(挺身隊を語った詐欺もあったろうが)。挺身隊として募集した後、大部分を慰安婦にしたという話は、彼が実際に目撃した話ではない。1960年に出た『帝国陸軍の最後』という本に書かれていたのだそうだ。今、図書館で借りてパラパラとめくっているが、まだそれらしい箇所は見つからない。キムはこの本が間もなく(?)市場から消されたようだと言っているが、自分の手元には1981年初版の光人社版と、角川文庫版(初版73年)がある。アマゾンでも98年の光人社文庫版が手に入る。当てにならない男である。

で、読売新聞を叱り飛ばしたという話だが、縮小版で調べた限りでは、当日の夕刊と翌日の朝刊にはその顛末も訂正も載っていなかった(見落とした可能性もあるが)。何より、読売は今日まで同じ論調である。産経には、抗議ではなく「懇談」して行ったと書かれていた(笑)

慰安婦についても殊勝な事を言っているが、50~60年代に彼が日本との交渉の席で慰安婦問題を持ち出さなかったのは、慰安婦の心の傷を思いやったからではあるまい。この頃、朝鮮半島では慰安婦はまだ現役で活躍中だったのだから。

「慰安婦だまして連行して行くのを直接見たのに、架空のことだと?」 … 「社説書いた論説委員みな呼べ」 ・・・キム・ジョンピル、渡辺社長叱り飛ばした

[キム・ジョンピル証言録'小異部答'] <28>慰安婦と歴史歪曲
慰安婦募集の軍属が村通い・・・「女たちも金を儲けることができる」甘言口車
九死に一生を得て帰ってきて家庭を作った彼女らの傷再び取り出せば二重三重の苦痛憂慮

「朝鮮人慰安婦」問題は歴史的に重要な問題だが韓日会談で議論されなかった。 1951年から65年まで行った14年間の会談で慰安婦はただ一度も議題になったことがなかった。 62年11月私が大平正芳外相と請求権談判を行う時もこの話は持ち出さなかった。 この問題を分からなかったわけでもなく、日本の過ちを覆い隠そうという意でもなかった。 それが私たちの社会の暗黙の雰囲気であった。 当時慰安婦はみじめな戦場を転々として人間以下の最低奈落に落ちて九死一生を得て生きて帰って(?)きた人々だ。 全身と心が傷だらけの人々だった。 彼女らの年齢はまだ30代から40代初めと若かった。 凄惨な苦労を体験した後やっと故国に帰って来て結婚をして子供を産んで家庭を設けていた。 彼女たちの過去の歴史と傷を取り出すのは二重三重の苦痛を抱かせることだった。

(中略)

慰安婦問題を取り上げて論じると忘れないことが一つある。 2001年は年初から韓日両国が過去の問題を置いて葛藤が激しくなった。 日本で韓日併合を正当化し慰安婦に関する内容を削除するなど歪曲された歴史を含めた中学の歴史教科書が正式教科書に採択される状況だった。 ここに私たちの与野党の議員が日本の歴史教科書歪曲の中断を促す決議案を採択して、市民団体は日本の謝罪と反省を促すデモと集会を相次いで開催した。 しかし日本政府とマスコミはずっと誠意のない態度ととんでもない反応を見せた。 読売新聞は3月2日付社説で「日本は思想の多様性を許容する国だ」という題で「挺身隊は戦争の時勤労のために動員された」としながら中国と韓国が歴史教科書歪曲に対して抗議するのを「干渉」と批判した。 慰安婦が強制動員されたという史実を「でっち上げ」とまで表現した。

当時自民連名誉総裁で一線から退いていた私も黙っていられなかった。 ちょうど日本に滞在中だった3月7日韓国・日本議員連盟会長資格でリュ・フンス(連盟幹事長・ハンナラ党)・チャン・ジェシック(副会長・自民連)・イ・ヨンス(運営委員長・新千年民主党)議員と共に読売新聞社本社に乗り込んだ。 社長室のドアを開けて入った私は渡辺恒雄・(2005年から会長)社長兼主筆にいきなり鋭く言い放った。 「オイ、恒雄さん.。こんなことがあるか? あなたは年が私と同じだから注意すればこのような文は出なかったはず(?)だ。 この文は誰が書いたのか? これを書いた論説委員を(全員?)呼んで来い」

渡辺は私と同じ年で(注:1926年生まれ)で古い日本の友人だ。 1961年、私が35の時、池田総理に会うために韓日会談の密使として日本を尋ねた時、彼は政治部の記者で大野伴睦自民党副総裁室を出入りしていた。 彼は昨年文芸春秋の9月号への寄稿で私のことを「韓国経済の爆発的成長を実現させた功労者」と表現したりもした。

しばらくして文章を書いた当事者を含め編集局長と論説委員が集まった。 彼らが来るや否や私は日本語で叱りつけた。 「君達は、シナ事変(中日戦争・1937~45年)が起きた時いくつだったのか。 その当時、日本軍の仕事を手伝う人々の服装を分かるか。 ハンチング帽子かぶって詰襟(?)白いものを来て、その上に上衣を着て(?)、下はダンコパンツ?(下は狭くて太ももの部分は広い乗馬服のようなズボン)を履き、ゲートルを蹴った(?)奴もあって、地下足袋を申告(?)、後のポケットに財布に白いタオルさして…. こんなやつらが歩き回って「みんな軍隊に行ったせいで生産手段がなく、人が足りない。 それで女たちが生産機関に行って仕事をすれば金を儲けて、その金をお母さん・お父さんに送ることができて、良くないか」このように騙した。こんな場面を私はハッキリ見た。 このように募集した女性たちを一部は生産機関に配置したが大部分は即強制的に中国に送っておいて慰安婦役割をさせたが。 何がどうしてどうして。 でっちあげだと?」

これは私の頭の中に写真のように残っている中高校時代、故郷で起きた状況を生き生きと描写したのだ。 日帝時代慰安婦に連行されて行った朝鮮の娘(?)を両目で直接見た私の怒号に渡辺会長はもちろん論説委員の誰も言葉を返せなかった。 彼らは慰安婦を「貧しさから体を売る女」といった程度に認識していた。 ついでに日本の報道機関をひと回り回った。 翌日は朝日新聞を訪ね、日本歴史教科書の歪曲状態を詳しく伝え、その次の日は産経を訪れ報道姿勢に抗議した

その間日本の戦中世代、良心的な知識人は慰安婦強制動員を認めてきた。 日本朝日新聞(注:記憶違いか?)の従軍記者伊藤正徳が代表的な場合だ。 彼は太平洋戦争後書いた『帝国陸軍の最後』(1960・文芸春秋社)という本で慰安婦の存在を比較的詳しく記した。

この本によれば、手先が多少器用(?)とみられた女は工場に連れていったがそうではない女は中国大陸に連れて行き、軍隊慰安婦にした。 日本軍が満州に行けば慰安婦も満州に、ベトナムに行けばベトナムに連れていった。 太平洋戦争が起きるとすぐに日本軍は各島に散った。 龍山(ヨンサン)に進駐した日本軍20師団は輸送船に乗ってニューギニアに向かったが、アメリカ潜水艦が撃った魚雷に当たり船の半分が海中に没した。 その時船に共に乗った従軍慰安婦も同じ運命をむかえた。 伊藤の本は暫くして日本で探すのが難しくなった。 おそらく誰かが慰安婦の証拠をなくすためにそのようなことをしたのだろう

慰安婦の話を持ち出すのが難しかった私たちの社会の雰囲気は70年代も同様だった。 私が国務総理をした時期だ。 1971年5月~72年3月まで10ヶ月の間、既存韓国・日本協定の請求権と別に日帝時代民間人被害者の補償のために「対日民間請求権申告」窓口を開設した。 その時、合計14万件余り、金額では約40億ウォンの申告が受け付けられた。 ところで慰安婦被害が申告された例は一件もなかった。 申告の70%は銀行預金であり、その他に国債・生命保険・郵便貯金・会社債・戦争死亡者などに関することだった。 もうその方が自身を名乗り出て(?)日本の軍国主義の弊害を告発して人類普遍の人権の価値を訴えているのは、また別の犠牲と献身に他ならない。

中央日報 2015.5.6 [2]
[原文]

※ 問題の読売新聞の社説にはこの様に書かれていた。

「例えば、いわゆる従軍慰安婦問題。これは、そうした特定マスコミが、戦時の勤労動員だった女子挺身隊を、強制的な”慰安婦狩り”制度だったと歴史を捏造した結果、一時、日韓関係を極度に悪化させた」「中韓両国は、こうした特定マスコミの報道に便乗して対日外交カードとするようなことがあってはなるまい」(2001.3.2)

1 件のコメント:

  1. 真鍋元之『ある日、赤紙が来て 応召兵の見た帝国陸軍の最後』(光人社、1981年)とごっちゃになっているんではないか。

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