2014/04/21

空襲被害者と慰安婦、「強制」されたのはどっち?

慰安婦と同様の境遇にあった吉原の遊女
彼女たちも空襲の犠牲になったが、補償は当然ない

もちろん慰安婦の日常に「強制性」はあったろう。戦時下に「強制性」と無縁だった人はいないのだから。そもそも、戦場での特殊事情があったとしても、同様の強制性は当時の娼婦に一般的であった。好きな時に廃業出来なかった。戦地では交通手段がなく自由に帰れなかった。それは兵士も同じだったし、空襲下の庶民(非戦闘員)も坊空法により避難を禁じられていた。その空襲被害者たちは何の救済措置も受けていない。この点で慰安婦(日本人を除く)は恵まれている。

今、優先して救済されるべきは、ハルモニではないはずである。

避けられた空襲被害~「空襲は怖くない」当時の手引書、犠牲者増やす

◆朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」の中でも~「空襲時の退去禁止」

1945年3月に入ってから米軍による都市爆撃が本格化した。10日東京、12日名古屋、13日大阪、17日神戸と、大都市が次々と空爆され、横浜を加えた5大都市が焼き尽くされると、米軍のターゲットは全国の中小都市へ移る。空襲による犠牲者は60万人とも言われるが、その被害は避けられなかったのだろうか。(矢野 宏 新聞うずみ火)
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国民に防空の義務を課す「防空法」が制定されたのは1937年4月。その4年後の41年11月に改正され、「空襲時の退去禁止」が規定された。働ける市民は都市からの退去を禁止され、違反者には半年以下の懲役または500円以下の罰則が科せられた。500円というのは当時の教員の給料10か月分に相当する大金だ。

さらに、空襲のとき、建物の管理者・所有者・居住者などに応急の消火活動が義務付けられ、たまたま現場付近にいた人も消火活動に協力しなければ、同じく500円以下の罰金が科せられた。当時の政府は、「命を投げ出して消火活動をせよ、御国を守れ、持ち場を守れ」と命じていたのだ。

戦時下の日本で一般国民に課せられた防空義務は、火から逃げるのではなく、向かっていくこと。まさに「命がけの任務」だった。

NHKの朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」の中で、主人公が「空襲なんて怖くないらしいですよ」と話す場面が出てきた。当時、政府は「空襲は怖くない」という誤ったイメージを持たせていたのだ。その宣伝に一役買ったのが『時局防空必携』という手引書だった。発効日は1941年12月10日、真珠湾攻撃から2日後のこと。

空襲の敵機の数と回数についてこう記している。
「大都市では昼間なら1回に20機か30機、夜なら10機」「弾はめったにあたらない。爆弾、焼夷弾にあたって死傷するものは極めて少ない」「焼夷弾が落ちてきたら、砂や土などを直接、焼夷弾にかぶせ、その上に水をかけ火災を抑え延焼をふせぐ」

米軍が開発したM69焼夷弾は直径8センチ、全長50センチ、鋼鉄製の筒状で「ナパーム剤」と呼ばれるゼリー状のガソリンが入っていた。5秒以内にナパーム剤に火が付き、その熱で筒が吹き飛ばされて四方にナパームを巻き散らかし延焼させた。850度で粘着性もあり、一度ついた火は払っても容易に取れなかった。

当時の政府が恐れたのは戦争の恐ろしさを国民が知ること。開戦と同時に、内閣直属の機関「情報局」が「大本営の許可したるもの以外一切掲載禁止」と発表。大本営発表がうそだとわかっても軍の報道規制が厳しいこともあり、新聞、ラジオ、雑誌は国の宣伝機関と化していった。

一夜にして10万人が亡くなった東京大空襲を伝える大本営発表は「3月10日零時すぎより2時40分の間、B29約130機主力をもって帝都に来襲、市街地を盲爆せり。都内各所に火災を生じたるも宮内省主馬寮は2時35分、その他は8時ごろまでに鎮火せり」と、10万人の犠牲者は「その他」でしかなかった。

防空法の存在を法定で明らかにしたのは「大阪空襲訴訟」弁護団の大前治弁護士。防空法制の研究の第一人者である早稲田大学の水島朝穂教授と『検証 防空法――空襲下で禁じられた避難』(法律文化社)を出版した。大前弁護士は「空襲被害は避けられなかった偶然の災害ではなく、当時の政府が選んだ政策の結果として生じたものです」と語る。


慰安婦問題でも、当初国会で議論になったのは慰安婦が国家総動員法に基づいて徴用されたかどうかであった。これがすなわち強制連行である。実態としては、慰安婦は兵士のように国の指示(法律)で戦地へ行ったわけではなかった(似たようなケースで、従軍看護婦の場合は国の要請により日赤が召集。日赤の看護婦には日赤に対して応召の義務があった)。また国の指示(法律)により避難を禁じられていた空襲被害者とも、条件が異なっているように思える。

五つの本土空襲の国賠訴訟、被災者の控訴棄却 大阪高裁

1945年の大阪大空襲など、米軍による五つの本土空襲の被災者ら23人が国に謝罪と計約2億2千万円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が16日、大阪高裁であった。坂本倫城(みちき)裁判長は、請求を退けた一審・大阪地裁判決を支持し、被災者らの控訴を棄却した。

原告は45年3~8月の大阪、兵庫、鹿児島、宮崎、静岡への空襲で負傷したり、肉親や家などを失ったりした被災者18人と遺族5人。戦後、旧軍人や原爆被爆者には恩給や健康管理手当など補償や援護の法律が設けられたが、空襲被災者にはなく、「法の下の平等を保障した憲法に反する」と主張していた。

2011年12月の一審判決は、旧軍人国の指示で戦地に赴き、被爆者は放射線被害が長く続く特殊性があるなどとして、「空襲被災者との差が明らかに不合理とはいえない」と判断。「国は防空法で消火義務を負わせるなどし、空襲被害を拡大させた」との原告側主張も「戦時体制下で、救済の法律をつくる義務は認められない」と退けた。

空襲被害をめぐっては、東京大空襲の被災者らが起こした同様の訴訟で、09年12月の東京地裁、昨年4月の東京高裁がいずれも被災者側の訴えを棄却する判決を言い渡している。

朝日 2013.1.16

その他、参考: 退去を認めず--国家優先思想の極地 水島朝穂 1997.2