2017/05/26
鳩山由紀夫「合意」心からのものではない」
それまで日本に「物質的補償を求めない」としていた韓国政府を方針転換させるキッカケを作った人物とも言われる鳩山由紀夫。野党時代は慰安婦にリップサービスしながら、総理に就任後何もしなかった男が言うと、開いた口が塞がらない。
2017/05/25
和田春樹、日本人最多説を葬る(アジア女性基金)
慰安婦の中で最多は日本人で朝鮮人は2割ほど・・・という推計をアジア女性基金内で葬ったのは、和田春樹東大名誉教授だった。
この話も、秦は自身の著書で触れているのだが、そもそもなぜ和田はこんな事をしたのだろうか?実は慰安婦の多くが日本人だったという事実は、日本人(特に日本の右派)が考えているよりも大きな意味を持っている。どういう事かと言うと、挺対協などは日頃、女性の人権問題などと言っているが、本心では慰安婦問題をあくまで戦争犯罪や「加害国と被害国」の問題として国際社会にアピールしたい。ところが、慰安婦の多くが日本人となると、日本政府による日本人に対する(戦争の手段としての)レイプであったり、日本政府による日本人に対するエスニック・クレンジングという奇妙な話になってしまう。しかも、それならなぜ(日本人を主体とした慰安婦でなく)韓国政府が先頭に立って日本政府に謝罪を要求しているのかと国際社会もいぶかしく思い始めるだろう。だから反日団体としては、日本人が多かったという事実は伏せておきたい。そういった裏事情を、和田のような左派はよく理解しているのである。
追記:いろいろ考えてみると、和田個人に限って言えば、反日運動に協力と言うより贖罪マニアとして日本人最多説は受け入れ難いのかもしれない。
日本政府がすべきは「性奴隷の否定」ではなく、慰安婦の正体(民族構成)を国際社会に明らかにすることである。アジア女性基金は政府機関ではないが、それに準ずる存在として国際社会でも認識されており、その公式文書にこの事が記載されることの意味は大きかったはず。それが分かっているから、和田は理事の立場を利用して葬ったのである。こういう事については、右派よりも左派の方が感覚が鋭い。和田らがいち早く手を打ったのに対し、日本の右派は今だ切り札を十分認識できずにいるようである。
秦の『慰安婦と戦場の性』の英訳が、内閣広報官のせいで流れた件についても触れられている。読売新聞の連載「時代の証言者」より。
時代の証言者
秦 郁彦 30
実証史学への道
慰安婦問題の春夏秋冬
図らずも慰安婦問題に私が巻き込まれてから、二十数年の歳月が流れました。
<<1993年8月4日、政府は、慰安婦問題についての河野洋平官房長官談話を発表した。この中で、朝鮮人の慰安婦の「募集、移
送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と認定した>>
河野談話は、韓国と事前調整で譲歩した産物なんですね。日本軍が強制連行したとは書いてないが、そう読めなくもない玉虫色の表現です。実際に河野氏は記者会見で、強制連行を認めるのかと聞かれ、そうですと答えている。
談話発表の前夜、慰安婦問題を担当していた内閣外政審議室の谷野作太郎室長から、私の自宅にファクスが届きました。談話の文案について感想を、とのことでした。一読した後、実害が少しでも減るように、「総じて」を「時として」などに修正されたい、と要望しましたが、採用されませんでした。
95年7月、元慰安婦たちに「償い金」を給付する半官半民の「アジア女性基金」が設立され、私は事実の究明に当たる資料委員会の委員を引き受けます。
ところが、慰安婦の総数は約2万人、最多は日本人で、朝鮮人は2割という私の結論は、和田春樹委員(東大教授)ら左派のお気に召さず、「東大には研究の自由はあるが、基金にはない」と宣告され、私の論文はボツにされてしまいます。
その頃、国連人権委員会の委託を受けたクマラスワミ女史が来日します。私は彼女に会い、戦時中にソウル(京城)の新聞に載った慰安婦募集の広告と、北ビルマで捕らえられた20入の朝鮮人慰安婦に対する米軍の尋問調書を渡しました。
前者は強制連行を必要としない証拠で、後者は、慰安婦に外出、廃業、社交の自由があり、軍司令官級の高収入を故郷に送金するなど「性奴隷」とはほど遠い境遇だったことを示しています。
しかし、人権委員会へのクマラスワミ報告(96年2月)には反映されませんでした。吉田清治氏の強制連行体験、「慰安婦をセックスースレイブ(性奴隷)と呼びかえよう」と説いていた戸塚悦朗弁護士の言い分の方が採用されたからです。
日本政府の事なかれ主義もあって、強制連行と性奴隷のイメージは、国際社会に広く定着した感があります。韓国ばかりか、世界各地に乱立した慰安婦像は60体を超えるありさまです。
無力感を味わっていた私は、せめて慰安婦と周辺事情の史的経過を実証的にまとめておきたいと考え、99年に『慰安婦と戦場の性』(新潮社)を刊行します。
2013年には、内閣官房で対外発信を強化する一環として、拙著の英訳プロジェクトが内定しました。
ところが、新任の内閣広報官から、もし、日本政府の後押しが露見したらまずいとの理由で、ドイツ、英連邦、米国、韓国など諸外国の例を記述した第5章などを訳出の対象から外したいと言われます。私は削除を拒否し、英訳プロジェクトは流れました。何度目かの筆禍体験でした。
(編集委員 笹森春樹)
読売 2017.4.25 10面
2017/05/21
秦郁彦 吉田の詐話と吉見の”発見”
読売新聞の連載「時代の証言者」。先月まで秦郁彦が登場。基本的に彼の著書に書かれていることと同じだが、第29回目は吉田証言と吉見教授の”発見”についてスポットライトが当てられた。吉田と吉見、二人のキーマンの存在で、慰安婦騒動の幕が開いた。
時代の証言者
秦 郁彦 29
実証史学への道
「吉田証言」の詐話を追う
1991年12月から92年1月にかけて、私が「ビッグバン(大爆発)」と呼ぶ、慰安婦問題の騒動が発生します。12月、旧日本軍に徴用された韓国人と遺族が、日本に謝罪と補償を求め東京地裁に提訴。この中に元慰安婦3人も加わりました。 1月11日には朝日新聞が、朝刊1面トップで、慰安婦の募集に日本軍が関与していたと報じます。
<<記事は、旧日本軍が慰安所の設置や従軍慰安婦の募集に関与していたことを示す文書が明らかになったという内容だった。従軍慰安婦について「主として朝鮮人女性を挺身隊の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」との記述もあった>>
記事の根拠となった文書は、吉見義明中央大教授が防衛庁の防衛研究所図書館で発見した、とのこと。私は12月下旬、吉見氏と防衛研究所で偶然会い、近く朝日新聞に出ると聞き、なぜニュースになるのか疑問に思いました。
1938年に陸軍省が流したこの通達文書は、すでに20年前から公開されていたもので、慰安婦を募集する際、誘拐まがいのことをやっている悪質な業者がいるから、取り締まれという内容です。日本軍の関与には違いないが、良い関与だったからです。
それを、宮沢首相の訪韓(1月16日)という絶妙のタイミングに合わせて掲載したのでしょう。
ほかのマスコミも追随し、強制連行の証拠が見つかったかのような大騒ぎになりました。宮沢首相はソウルでデモ隊に迎えられ、何度も陳謝します。
強制連行説の根拠になったのが、吉田清治著『私の戦争犯罪』 (83年)です。戦時中、労務報国会(労報)下関支部の動員部長だったと称する吉田氏は、済州島で慰安婦を調達せよとの西部軍命令を受け、女性を狩り出したと書いています。
私は一読して怪しいと感じました。済州島は朝鮮総督府と朝鮮軍の管轄。本に載っている命令書も、正規の体裁から外れている。
私は吉田氏に電話しましたが、話に矛盾が多く、作り話と確信しました。出版社にも電話すると、担当者は「あれは小説ですよ」と言うのです。
私は彼を典型的な詐話師だと直感し、92年3月、証拠を見つけるため済州島を訪れました。最初に城山浦の貝ボタン工場を訪ねました。本には女子工員を木剣で打ちすえ、かり集めたと書かれています。近くの老人たちに話を聞くと、「そんな話はない。小さな村落だから、何十人も連れて行かれたら大事件だよ」と一様に否定しました。
さらに公立図書館で、地元の済州新聞が吉田本の韓国語版の紹介記事(89年8月14日)を掲載していたことを知りました。慰安婦狩りを裏付ける証言はなく、島民は「デタラメだ」と否定しているとの内容です。
書いた女性記者を訪ねると、「日本人はなぜこんな作り話を書くのでしょうか」と責められました。
帰国後、私の済州島での調査を取材した4月30日の産経新聞は、吉田証言を虚偽と断定しました。
(編集委員 笹森春樹)
読売 2017.4.24 8面
世論調査、いずれも韓国政府に不信感(日韓合意)
読売の調査で、日本政府が韓国との再交渉に応じるべきでないという人が61%、応じるべきの25%を大きく上回った。個人的には、1/4もの人が未だに「応じるべき」だと回答していることにいささかゲンナリしたのだが、質問の仕方が若干異なるとはいえ、FNNの調査では、80%以上の人が再交渉に応じない日本政府を支持すると出た(支持しない:12.3%)。この不毛の20年間を思えば、これくらいが妥当だろう。
更に、韓国政府が約束(合意)を守らないだろうと予想している日本人は、FNNの調査で76.4%、時事の調査では70.3%。
慰安婦を巡る再交渉、61%「不要」…読売調査
読売新聞社の全国世論調査で、韓国の文在寅ムンジェイン大統領が、大統領選挙の期間中、慰安婦問題を巡る日韓合意の再交渉を求めていたことについて聞くと、日本政府が再交渉に「応じるべきではない」と答えた人は61%に上り、「応じるべきだ」の25%を大きく上回った。
慰安婦問題を巡る日韓合意は、「最終的かつ不可逆的な解決」を定めている。今回の調査では、再交渉に対する日本国民の拒否感の強さが浮き彫りとなった。(以下略)
読売(一部) 2017.5.15
慰安婦合意再交渉応じず 8割が支持
「慰安婦合意」の再交渉に応じない政府の姿勢を支持する人が、8割にのぼった。
FNNが、14日までの2日間行った世論調査で、慰安婦問題を「最終的かつ不可逆的に解決させる」と確認した日本と韓国の合意について尋ねた。
10日に発足した、韓国の文在寅(ムン.ジェイン)政権のもとで、この日、韓合意が守られなくなることを懸念しているかを尋ねたところ、「懸念している」と答えた人は、7割台半ば(76.4%)で、「懸念していない」とする人は、1割台後半(17.6%)だった。
日韓合意の再交渉に応じない日本政府の方針については、8割の人が「支持する」と答え(81.9%)、「支持しない」は1割だった(12.3%)。
このアンケート結果は韓国のメディアでも紹介された。
日本人の61%「韓国が望む慰安婦合意再協議、必要ない」
日本人の10人中6人以上が、去る2015年に成された「日韓慰安婦合意」に対する再協議が「必要ない」との意見をもっているとの世論調査結果が出た。
日本メディアが去る12~14日に実施した全国世論調査結果によると、韓国の文在寅(ムン・ジェイン)大統領が当選前、慰安婦合意に対する再協議を要求すると明かしたことについて、回答者の61%が日本政府は再協議に「応じてはならない」と答えた。
これは、韓国側が再協議を要求した場合「応じるべき」と答えた比率(25%)を2倍以上も上回る数値となった。
そして4日後の時事の世論調査の中でも、韓国に対する懐疑的な空気が認められた。時事のこの調査結果も聯合ニュースによって韓国語で報じられた。
・・・韓国の文在寅政権で慰安婦問題をめぐる日韓合意が守られると思うかどうかについては「思わない」が70.3%となり、「思う」の10.0%を大きく上回った。
時事(一部) 2017.5.19
2017/05/14
貧する和解財団は着服、裏財団は寄付金でホクホク
危機に瀕する和解財団を尻目に
アンチ(正義)財団は寄付金で肥え太る
朴政権が苦労して日本政府との合意にこぎ着け、設立した和解・癒し財団が朴政権の倒壊と共にボロボロに。10億円払い込み済の日本側としては最早大した問題ではないが、それにしても、貧すれば何とやらで日本政府から預かった金に手をつけてしまうとか、哀れ過ぎて苦笑を禁じ得ない(なお、産経によれば、政府高官が10億円を「手切れ金」と言っているとか)。財団からは理事まで逃げ出し始めた。
・・・財団は昨年7月の設立。事務所の賃借料など運営にかかる費用は韓国政府が全額支出し、日本政府が拠出した10億円はすべて元慰安婦の支援事業などに使われることになっていた。
財団関係者によると、韓国政府は16年度、運営費として約1億5千万ウォン(約1500万円)を支出。17年度は約4億ウォン(約4千万円)を政府予算案に計上したが、朴槿恵(パククネ)前政権下で最大野党だった「共に民主党」が反発。国会審議で全額削減され、財団は「やむを得ず(日本からの)拠出金の一部を使うことになった」としている。
一方、財団は理事長を含めて10人の理事で構成されていたが、2人がすでに辞任した。財団関係者によると、日韓合意や財団に対する批判が高まったため辞任したという。・・・
その一方で、和解財団に対抗して挺対協などがでっち上げた正義・記憶財団は順調に金を集め肥え太っている。写真上は全羅南道の麗水市の市民団体から正義財団への1000万ウォンの寄付金を受け取った挺対協のユン・ミヒャン(5月7日)。3月?には、パク・ウォンスン現ソウル市長からも5000万ウォンの寄付を受けた。彼女達は、こういった金で世界中に「少女像」をばら撒く事を計画している。
アンチ和解財団に寄付するソウル市長
2017/05/13
国連拷問禁止委員会、日韓合意見直しを勧告
「被害者の名誉回復」とか「再発防止策」とか、お馴染みのフレーズ。浮世離れした
追記:
このニュースについて、韓国(政府)の画策と捉えるむきもあるが、野党に叩かれながらも、韓国政府(朴政権)は歴史的な合意と自画自賛していたわけで、しかもこの報告書は韓国に対するものである。韓国政府ではなく、日本や韓国のNGOの仕業と考えるのが自然だろう。
更に追記: 日本報道検証機構代表・楊井人文「『日韓合意見直し』 勧告したのは国連の委員会でも国連の機関でもない」
国連委員会が合意見直しを勧告 報告書で日韓両政府に 補償や名誉回復は十分でないと指摘
国連の人権条約に基づく拷問禁止委員会は12日、慰安婦問題をめぐる日韓の合意について、被害者への補償などが不十分として、合意の見直しを勧告する報告書を発表した。
同委員会が明らかにした韓国に対する審査報告書は、慰安婦問題を巡る2015年の日韓合意に対して、「被害者への補償や名誉回復、再発防止策が十分とはいえない」と指摘、同委員会は日韓両国政府に合意見直しを勧告した。
さらに報告書は、両国政府は被害者への補償と名誉回復が行われるようにすべきだと強調した。
2017/05/03
ロシア軍・ドイツ軍の慰安婦 (第一次大戦)
ロシア軍(第一次大戦)
ドイツ式「慰安所」の導入を計画
慰安婦問題の”プロフェッショナル”達が「第2次世界大戦下では旧日本軍とナチス・ドイツだけです」などとわざわざ限定条件をつけるのは、第二次大戦以降もフランス軍や韓国軍に「慰安所」が存在していたという事実が、彼らにとって都合が悪いからなのだろう。そのドイツにしても、第二次大戦で初めて「慰安所」や「慰安婦」が登場したわけではなく、これらは第一次大戦から存在していたのである。ただこれについても、ナチス期以外のドイツと比較されるのは都合が悪いのか、プロ達は触れようとしない。
そしてロシア軍も、ドイツのシステムに注目し「慰安所」の導入に着手していた。もしも成功していたら、1945年のベルリンの悲劇は防げたのかもしれない。「“世界のどこにでもある話”とすることで旧日本軍の犯罪行為を免罪しようとする卑劣な発言です」と、赤旗は慰安婦問題の普遍化を牽制するのであるが・・・。
軍隊(陸軍)のセックスと軍用売春宿が大戦争の勝利に貢献
Army sex and military brothels contributed to victories in major wars
第一次大戦中、ロシア陸軍に売春宿を設ける試みは三つあった。皇帝派も臨時政府もいくつかの理由で陸軍の為に野戦売春宿を設ける事を計画した。ボルシェビキも、1917年の4月に同様の計画を進めていた。ロシア陸軍の売春宿は、1915年から陸軍兵士たちにサービスを提供していたドイツ軍の野戦売春宿をお手本とするはずだった。
1916年夏のブルシーロフ攻勢の後、ロシア陸軍はドイツの野戦売春宿をいくつか確保した。ロシアの新聞は、コサック兵たちが娼婦たちをとても大事に扱っていたと報じた。新聞によると、女性たちはロシア軍が更に西方に移動する間、かなり長い期間コサック兵たちと一緒にいた。当時ブルシーロフ将軍の部隊はよくやっていたので、司令部は兵士たちが酒色に耽ることについて大抵見て見ぬ振りをした。戦争はやがて長期の塹壕戦に突入した。その結果、ロシア陸軍の前線部隊の近くに売春宿が建つようになった。
外務大臣パーヴェル・ミリュコーフ
ロシア臨時政府は、軍用売春宿の合法化を計画した。1917年の3月、「勝利まで戦う」の熱心な賛同者だった当時の外務大臣パーヴェル・ミリュコーフが、敵の経験を利用してロシア陸軍に野戦売春宿を設ける事を提案した。ミリュコーフは、辞職を申し出るほんの数日前にこの提案を思いついた。ミリュコーフによれば、野戦売春宿は兵士たちの士気を高めるはずだった。そして、兵士たちの臨時政府に対する敵対的な態度を変える為に計画されたものでもあった。
ミリュコーフの提案は公的な支持を得ることは出来ず、臨時政府は次の機会にと先送りした。しかしペトログラード・ソビエトの実行委員会(?)の委員たちは、明かにこの提案に注目していた。1917年の4月、ペトログラード・ソビエトは、ロシア陸軍に野戦売春宿を設けるべく指令第三号を発令した。ペトログラード・ソビエトは、頻発する軍人による地域住民に対する乱暴な犯罪を減らす助けになると期待した。またしても(?)計画はドイツの経験を活用するものであった。しかし、結局計画は実行されなかった。ロシアで内戦が始まり、世界革命がそれに続いた。世界革命の勃発によっても、ドイツの軍用売春宿は1945年まで将兵に対するサービスの提供は止めなかった。
ドイツ軍当局は、武器や糧食の配給について規則に厳格なまでに固守する事で知られていた。兵士の性生活に関するドイツ軍当局からの命令も同様に四角四面だった。陸軍当局は、兵士たちの士気を維持する為には、常識の範囲で売春婦との接触を認めねばならないという事を明白に認識していた。その為に、ドイツ軍の占領地に将兵の為の軍用売春宿を確実に設置するべく手段が講じられた。5人から20人の「戦場の花」で構成された野戦売春宿が陸軍に従った。軍用売春婦の生活は気楽なものとはとても言えなかった。規則によれば、娼婦は、月に最大600人の兵士の相手をしなければならなかった。さもなければ、給料や報酬を取り上げられた。
妓楼には三種類あった。最上級は将校や士官用、その下の下士官用、三番目は一般兵士用。規則によれば、兵士100人に一人、下士官75人に一人と将校・士官50人に一人の娼婦が配給されることになっていた。しかしながら、軍当局はすぐに、肉欲に駆られた軍人たちの要求に応じられるだけの愛国心に満ちたドイツ人娼婦を売春宿に供給するのはますます難しくなる事に気づいた。しかも、仕事の過酷さから娼婦は長く耐えられなかった。
結果として、軍当局はドイツ軍占領地の女性を雇わざるを得なくなった。占領地の慢性的な悲惨な状況に、ほとんどの女性は自発的に仕事についた。彼女たちが敵に体を売る最大の動機は金と配給品だった。ドイツの将校は最初、占領地の女性といかなるものであれ、親密な関係を持つことを厳しく禁じられていた。ほどなく士官たちは、軍の売春宿のドイツの夜の女に飽きがくるようになった。必然的に、高級将校たちは、ドイツ軍士官と地元女性の無数の交流について目を瞑るほかなかった。将校の中には子供を設けた者さえいた。
ドイツ軍司令部は、もともとは、軍の中の性病の広がりを抑えるために軍用売春宿を設けた。予防手段を徹底するには、陸軍の衛生担当者の管理下にある軍施設が最善と思われた。ドイツ軍には、占領地の娼婦から移される性病の蔓延を抑える為に手段を講じる相応の理由があった。例えば、性病に罹患したドイツの兵士は、ハンガリーでだけでも、一か月の全ドイツ軍の戦闘における死傷者より多かった。軍の娼婦を利用したいと思う兵士は、毎回厳しい衛生基準に従わねばならなかった。
一次大戦中に慰安所を導入した独軍慰安所は1945年(二次大戦)まで存在した
規則は軍当局からおもいっきりドイツ風の厳めしさで下達された。概して、軍の売春宿の利用は、兵士たちにとって酒色に耽るどころではなかった。入場カードを手にする前に、兵士たちは全員必須の健康診断を受けねばならなかった。通常の情報、例えば割り当て時間と売春宿の番号を記入する以外に、カードには終了後に売春婦のサインと登録番号を書くスペースがあった。兵士は衛生官よりコンドーム3つと消毒パウダーの缶を支給され、シャワー室に案内される。兵士は性交の前に、最初に自分の性器、次に売春婦の性器に消毒薬をふりかけるよう言われる。出る時に、兵士は自分のカードと消毒薬の空き缶を担当の曹長に見せねばならなかった。それどころか、兵士たちは、売春宿で性交渉を避ける事を許されなかった。セックスしなかったり、売春宿へ行くことを拒否するのも懲罰ものとみなされかねなかった。一般兵士は月に6回売春宿に行く権利が与えられていた。
1915年、ドイツ軍は、東部戦線の複数の防御区域に宣伝ビラを撒くのに飛行機を使った。ビラには、スラブ系の少女たちが派手な服を来た若い男たちを抱きしめていた。「イワン。君の恋人は、君が戦争をしている間に他の男とお楽しみだぞ!」とキャプションがついていた。
イギリス軍は、第二次大戦中のドイツの売春宿システムに付け込んだ。多くのドイツ兵が、イギリスのスパイが持ち込んだ汚染されたコンドームによって軍の売春宿で病気をもらい、病院で疥癬の治療を受けた。
戦後日本で慰安婦の提供を受けた米軍ソ連でもサービスを受けていた?(ムルマンスク港)
未確認の情報によると、第二次大戦中、ソ連軍の諜報機関がムルマンスク港に西側の水兵用に売春宿を造った。ムルマンスクは、戦時中赤軍に武器や糧食を運ぶ米英の護送船団に大いに利用されていた。国営の売春宿は、諜報機関の士官により選抜された若く魅力的な女性で一杯だった。1945年に戦争が終わって直ぐに、当局はもっとも恐ろしい方法で女性たちを処分した。噂によれば、300人の女性ははしけに乗船することを命じられ、はしけは海に引き出され沈められたと言う。
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