(2011)
アメリカで慰安婦問題をアジア版ホロコーストとして宣伝している人々がいる。カリフォルニアの大学では、(中国系の?)教授が「
太平洋戦争とは『忘れられたアジアのホロコースト』」だと訴え、「日本軍によって強制的に性奴隷となった女性たちと3500万人の犠牲者」を追悼する石碑が設置された。2011年には、現KACEが
慰安婦とホロコースト・サバイバーとの出会いの場を演出。韓国の民間団体が
全世界のホロコースト博物館に慰安婦問題を売り込むということも行われている。こうした、キャンペーンに
韓国領事館が加担した例もある。日本ではさすがにストレートに慰安婦問題とホロコーストを結びつける例は珍しいが、小山エミや
西里扶甬子などは
「慰安婦否定論者」という言葉を使っている。これもホロコースト否定論者(ディナイアー)を想起させようとする心理からではないのか?
そうした中、ユダヤ人であった祖父母をナチスに殺されたコズロフスキーは、慰安婦問題をホロコーストと重ねる言動を強く批判する。日本軍慰安婦についての国際的な「常識」に反するコズロフスキー論文には公式の
日本語訳もあるが、読みにくい部分もあるので訳し直してみた。文中に挿入した写真や注は訳者による。
もしも日本人(国)によってホロコーストに匹敵するような犯罪が行われたのなら、そうした行為を正当化するイデオロギーが存在していたはずだというコズロフスキーの指摘は注目に値する。裏返せば、そうしたイデオロギーによる裏づけなく「日本軍性奴隷犯罪」が行われたとすれば、日本人は生まれついての人非人だということである。慰安婦=ホロコーストキャンペーンに勤しんでいる人々は、そう言っているも同じなのである。
ポーランドのレジスタンスは命がけでアウシュビッツに潜り込んだが、朝鮮半島出身の男性は苦も無く(不採用の場合もあったろうが)兵役に志願して日本軍の慰安所を覗くことが出来たのであり、実際に慰安所を利用したという証言もある。しかし、「アジア版ホロコースト」の第三者証言は事実上存在しない。ただ、否定論者(ディナイアー)という言葉が存在するのみである。
この問題に関する議論の中で試みられるもっとも恥ずべきことは、ホロコースト否定論との比較である。プロの歴史家同士の議論ではあまりないが、ブログのコメント欄やSNS上ではよく見られる。そこでは慰安婦問題に関する規定路線(注:原文はparty line)を受け入れない歴史家は、デビッド・アーウィン(注:ホロコースト否定論者)と比べられたりする。もちろん、同じような恥ずべき主張はヘイトに満ちた気候温暖化論争(注:原文は「気候警告」)の世界でも見られる。
ウクライナに侵攻したナチスは多数のユダヤ人を殺害
個人的なことを書くと、これこそがまさに私を渋々ながらもこの二つの論争に引き付けたのである。(中略)
私の父は、第二次大戦まではポーランド領ウクライナだった地で生まれたユダヤ人だった。ナチのソ連侵攻に続きドイツ軍がウクライナにやって来るとすぐに、二人を除き親戚の全員が殺された。この事を、私は父と叔父から教わった。だが、間違いなく、私がホロコーストが実際にあったことを確信しているのは、彼らから聞かされたからではない。ベントレーとジーグラーの執筆した教科書(注:マグロウヒル社の教科書のこと。慰安婦についての荒唐無稽な記述が批判されている)とは異なり、たくさんの独立したこうした証拠が裏付けているのである。
私自身、私の祖父母を含め殆どのユダヤ系住民がSSによって処刑されたウクライナの父の故郷に行ったことがある。ほんの数年前でも、そこには処刑が行われた場所を指し示し、何が起こったか話してくれるウクライナ人が生存していた。彼らは独立した目撃者であって、嘘はおろか、話を粉飾する動機すらない人々だった。東ヨーロッパ中に、そういった目撃者が無数にいるのである。
ブッツェ大尉
有名無名の目撃者がホロコーストを証言している
更に説得力のある者もいる。その一人がドイツ国防軍の大尉だった23歳のザクセン貴族アクセル・フォン・デム・ブッツェ・ストライトルストだ。ロシアで数多くの戦闘に参加し、その勇敢さでドイツの最高勲章を受けた人物である。1942年、ブッツェはウクライナのドブノ空港で、偶然SSによるユダヤ人大量処刑の場面に遭遇した。この出来事は、彼の傷となり残りの一生ついて回った。
この一件の後、ブッツェはクラウス・フォン・シュタウフェンベルクが率いる謀略に加わり自爆テロによるヒトラー暗殺を志願したが、ブッツェがロシアとの新たな戦いで足を失ったことで、計画は失敗した(この負傷で彼は、ドイツ軍最高の勲章、騎士鉄十字章を受けた)。ブッツェは戦争を生き延び、自分がドブノ空港で見たことを公の場で度々語った。
自らアウシュビッツの囚人となり、
ホロコーストの目撃者となったピレツキ
もう一人の特筆すべき証人は、ポーランドの将校ビトルド・ピレツキである。彼はポーランドのレジスタンスのメンバーでもあった。ピレツキは、そこで何が起こっているのかを探り、レジスタンスを組織するために自発的にアウシュビッツの囚人になった。
ポーランドの愛国者であったピレツキは特にユダヤ人に同情的というわけではなかったが、彼の実にショッキングなレポートは、ユダヤ人虐殺(注:原文は「根絶やし」)に関する最初の詳細な情報を提供することとなった。ピレツキは戦後の共産主義体制によって逮捕され、拷問の末に司法的手段で殺された。衝撃的な彼のレポートは2000年までその存在が知られていなかった(日本の「慰安所」とホロコーストを比較したいという衝動に駆られた人は、このレポートを読むべきだ)。
非業の死を遂げたピレツキ
ホロコーストの存在が信じられているのは、この種の、当方もない数の独立した証言や物的証拠、夥しい数のナチの指導者たちの明白な告白と、ナチのイデオロギーがあるからである。
もしも日本人というのが真に悪魔のような人々でない限り、ベントレーやジーグラーの主張が事実なら、フォン・デム・ブッツェに匹敵する信頼性の高い目撃者がいるであろうことは疑う余地がない。しかし、実際には嘘つきであることを自白した吉田(注:吉田清治)しかいない。つけ加えるならば、こういった規模の犯罪が行われたとすれば、必ず人間の良心を麻痺させ犯罪を正当化するイデオロギーが存在するものである。
しかし、戦前の日本にはこの種のイデオロギーは存在しない。中国や韓国メディアに見られるグロテスクなまでの(注:日本に対する?)悪魔化を除いては。