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2015/09/17

沖縄の運動家 「親戚の警官が朝鮮で女性を拉致した」

キャプションはアメーバニュース

警察官だった親戚から戦時中朝鮮半島で女性を拉致して日本に送っていたと聞いた・・・と母から聞いた。親戚が経営していた慰安所で働いていたのは、そうした女性たちだったのかと思った。韓国へ謝りに行きたいと、沖縄の平和運動家。

沖縄の三線もあまり変わらないと思うが、芸者でもいきなりは三味線は弾けない。座敷に出る前の年齢から稽古を積んで文字通り芸者になる。拉致されて来た朝鮮人女性が、三線を教えているという光景はちょっと想像し難い。親戚が経営していたのも、やはり慰安所というより料亭(妓楼)だったのだろう。朝鮮人だけでなく、沖縄の女性も幼い頃に親に「売られて」来ていたはずである。沖縄の言葉で「尾類売い(ジュリウイ)」と言ったらしい。警察官が銃を突きつけて女性を誘拐すれば一生を棒に振る。しかも伝聞の伝聞。

「戦後、間もなくして朝鮮から数人の女性が米軍のジープに乗って、母を訪ねてきた。お世話になったと、お礼のお金を持ってきた」・・・沖縄の辻遊郭の出身だった上原栄子は、家族的繋がりの強い世界だったと回顧している。つまりそういう事だったのでは?

「国が従軍慰安婦の強制連行を否定したことが許せなかったのでしょう」。おじさん→母→本人→息子。伝聞を伝聞した人の気持ちを更に別の人間が忖度。

伊佐さんの記憶に残っている話をもうひとつ。戦前の泡瀬の町の外れに日本軍が駐屯していた。駐屯地の近くには料亭が2、3軒あった。どこも日本兵の慰安所になっていた。伊佐さんの親戚も「アブガドー」という屋号の料亭(慰安所)を経営していた。そこでは朝鮮半島から連れてこられた女性たちが4、5人働いていた。

13歳だった伊佐さんは、親戚の料亭によく遊びに行き、そこのお姉さんから三線(さんしん)を教えてもらっていた。色白で、いつも白粉(おしろい)の匂いがするとても優しいお姉さんだった。

2階には毎日40、50人の兵隊が並んで順番を待っていた。ある時、おかみさんが三線を教えているお姉さんに「早く2階に上がりなさい」と言った。お姉さんは「今日は痛いから休みたい」と言ったが聞いてもらえず、2階に姿を消した。着物の裾から見えた奥のほうが真っ赤にはれていた。少年の伊佐さんには意味がわからなかった。ただかわいそうだと思っていた。

戦後、伊佐さんの母親が朝鮮半島から帰ってきた親戚のおじさんから、彼が戦時中に朝鮮で何をしていたのかと聞いた。警察官だったおじさんは、若い娘を探して捕まえ、日本に送っていた。娘の父親が助けてと言っても、銃を突きつけて脅して無理やり連行したと得意げに言っていたという。

伊佐さんは「そうだったのか、三線を教えてくれたお姉さんはそうやって連れてこられた慰安婦だったのか。なら、もう二度と三線は弾かない」と、持っていた三線を壊してしまった。

母親は朝鮮の女性たちからの相談にいろいろ乗っていたらしい。戦後、間もなくして朝鮮から数人の女性が米軍のジープに乗って、母を訪ねてきた。お世話になったと、お礼のお金を持ってきたのだ。その時の日本円と米軍軍票のB円は今も大切に保管されている。

彼女らは慰安婦だったのでしょうか。母は私には言葉を濁していましたが…」

伊佐さんは、親戚の家が慰安所だったことを子供たちにも語らなかった。この話を語り始めたのは、ヘリパッド反対の座り込みが始まった前後からだ。

国が従軍慰安婦の強制連行を否定したことが許せなかったのでしょう。その頃から少しずつ話をするようになった」

と、息子の真次さんは言う。80歳を過ぎてから伊佐さんは家族に「韓国に行きたい」と言うようになった。

「どうしても、慰安婦にさせられた人たちに会って謝りたい。あの時、助けてあげられなかったことを謝りたい。申し訳なかった、と」

日頃穏やかな伊佐さんがこの時だけは厳しい目つきになった。

週プレNEWS(一部) 2015.9.13[2]

2015/05/06

この目で強制動員見た、ナベツネを叱り飛ばしたと金鍾泌

大物、金鍾泌は本当に強制動員を目撃したのか?

三金の一人として知られる韓国の大物政治家キム・ジョンピル(金鍾泌)が中央日報に何やら勇ましい思い出話を語っている。なんでも、2001年、慰安婦の強制動員はでっち上げだという社説に抗議して、読売新聞社に乗り込みナベツネを含む関係者を叱り飛ばしたのだという。自分は強制動員をこの目で見たのだと。で、下の絵がキムの証言に基づいて描かれた「慰安婦強制動員」の様子なのだそうだ。国民服姿らしい男が少女を連れているが、この男が軍属だと思った根拠はなんなのだろう?単なるチョッパリ(豚の足)かもしれないではないか?

話をふかすタイプと見た

目撃したというのが本当だとしても、彼が見たのは挺身隊の募集であって、言うまでもなく挺身隊は合法的に存在した(挺身隊を語った詐欺もあったろうが)。挺身隊として募集した後、大部分を慰安婦にしたという話は、彼が実際に目撃した話ではない。1960年に出た『帝国陸軍の最後』という本に書かれていたのだそうだ。今、図書館で借りてパラパラとめくっているが、まだそれらしい箇所は見つからない。キムはこの本が間もなく(?)市場から消されたようだと言っているが、自分の手元には1981年初版の光人社版と、角川文庫版(初版73年)がある。アマゾンでも98年の光人社文庫版が手に入る。当てにならない男である。

で、読売新聞を叱り飛ばしたという話だが、縮小版で調べた限りでは、当日の夕刊と翌日の朝刊にはその顛末も訂正も載っていなかった(見落とした可能性もあるが)。何より、読売は今日まで同じ論調である。産経には、抗議ではなく「懇談」して行ったと書かれていた(笑)

慰安婦についても殊勝な事を言っているが、50~60年代に彼が日本との交渉の席で慰安婦問題を持ち出さなかったのは、慰安婦の心の傷を思いやったからではあるまい。この頃、朝鮮半島では慰安婦はまだ現役で活躍中だったのだから。

「慰安婦だまして連行して行くのを直接見たのに、架空のことだと?」 … 「社説書いた論説委員みな呼べ」 ・・・キム・ジョンピル、渡辺社長叱り飛ばした

[キム・ジョンピル証言録'小異部答'] <28>慰安婦と歴史歪曲
慰安婦募集の軍属が村通い・・・「女たちも金を儲けることができる」甘言口車
九死に一生を得て帰ってきて家庭を作った彼女らの傷再び取り出せば二重三重の苦痛憂慮

「朝鮮人慰安婦」問題は歴史的に重要な問題だが韓日会談で議論されなかった。 1951年から65年まで行った14年間の会談で慰安婦はただ一度も議題になったことがなかった。 62年11月私が大平正芳外相と請求権談判を行う時もこの話は持ち出さなかった。 この問題を分からなかったわけでもなく、日本の過ちを覆い隠そうという意でもなかった。 それが私たちの社会の暗黙の雰囲気であった。 当時慰安婦はみじめな戦場を転々として人間以下の最低奈落に落ちて九死一生を得て生きて帰って(?)きた人々だ。 全身と心が傷だらけの人々だった。 彼女らの年齢はまだ30代から40代初めと若かった。 凄惨な苦労を体験した後やっと故国に帰って来て結婚をして子供を産んで家庭を設けていた。 彼女たちの過去の歴史と傷を取り出すのは二重三重の苦痛を抱かせることだった。

(中略)

慰安婦問題を取り上げて論じると忘れないことが一つある。 2001年は年初から韓日両国が過去の問題を置いて葛藤が激しくなった。 日本で韓日併合を正当化し慰安婦に関する内容を削除するなど歪曲された歴史を含めた中学の歴史教科書が正式教科書に採択される状況だった。 ここに私たちの与野党の議員が日本の歴史教科書歪曲の中断を促す決議案を採択して、市民団体は日本の謝罪と反省を促すデモと集会を相次いで開催した。 しかし日本政府とマスコミはずっと誠意のない態度ととんでもない反応を見せた。 読売新聞は3月2日付社説で「日本は思想の多様性を許容する国だ」という題で「挺身隊は戦争の時勤労のために動員された」としながら中国と韓国が歴史教科書歪曲に対して抗議するのを「干渉」と批判した。 慰安婦が強制動員されたという史実を「でっち上げ」とまで表現した。

当時自民連名誉総裁で一線から退いていた私も黙っていられなかった。 ちょうど日本に滞在中だった3月7日韓国・日本議員連盟会長資格でリュ・フンス(連盟幹事長・ハンナラ党)・チャン・ジェシック(副会長・自民連)・イ・ヨンス(運営委員長・新千年民主党)議員と共に読売新聞社本社に乗り込んだ。 社長室のドアを開けて入った私は渡辺恒雄・(2005年から会長)社長兼主筆にいきなり鋭く言い放った。 「オイ、恒雄さん.。こんなことがあるか? あなたは年が私と同じだから注意すればこのような文は出なかったはず(?)だ。 この文は誰が書いたのか? これを書いた論説委員を(全員?)呼んで来い」

渡辺は私と同じ年で(注:1926年生まれ)で古い日本の友人だ。 1961年、私が35の時、池田総理に会うために韓日会談の密使として日本を尋ねた時、彼は政治部の記者で大野伴睦自民党副総裁室を出入りしていた。 彼は昨年文芸春秋の9月号への寄稿で私のことを「韓国経済の爆発的成長を実現させた功労者」と表現したりもした。

しばらくして文章を書いた当事者を含め編集局長と論説委員が集まった。 彼らが来るや否や私は日本語で叱りつけた。 「君達は、シナ事変(中日戦争・1937~45年)が起きた時いくつだったのか。 その当時、日本軍の仕事を手伝う人々の服装を分かるか。 ハンチング帽子かぶって詰襟(?)白いものを来て、その上に上衣を着て(?)、下はダンコパンツ?(下は狭くて太ももの部分は広い乗馬服のようなズボン)を履き、ゲートルを蹴った(?)奴もあって、地下足袋を申告(?)、後のポケットに財布に白いタオルさして…. こんなやつらが歩き回って「みんな軍隊に行ったせいで生産手段がなく、人が足りない。 それで女たちが生産機関に行って仕事をすれば金を儲けて、その金をお母さん・お父さんに送ることができて、良くないか」このように騙した。こんな場面を私はハッキリ見た。 このように募集した女性たちを一部は生産機関に配置したが大部分は即強制的に中国に送っておいて慰安婦役割をさせたが。 何がどうしてどうして。 でっちあげだと?」

これは私の頭の中に写真のように残っている中高校時代、故郷で起きた状況を生き生きと描写したのだ。 日帝時代慰安婦に連行されて行った朝鮮の娘(?)を両目で直接見た私の怒号に渡辺会長はもちろん論説委員の誰も言葉を返せなかった。 彼らは慰安婦を「貧しさから体を売る女」といった程度に認識していた。 ついでに日本の報道機関をひと回り回った。 翌日は朝日新聞を訪ね、日本歴史教科書の歪曲状態を詳しく伝え、その次の日は産経を訪れ報道姿勢に抗議した

その間日本の戦中世代、良心的な知識人は慰安婦強制動員を認めてきた。 日本朝日新聞(注:記憶違いか?)の従軍記者伊藤正徳が代表的な場合だ。 彼は太平洋戦争後書いた『帝国陸軍の最後』(1960・文芸春秋社)という本で慰安婦の存在を比較的詳しく記した。

この本によれば、手先が多少器用(?)とみられた女は工場に連れていったがそうではない女は中国大陸に連れて行き、軍隊慰安婦にした。 日本軍が満州に行けば慰安婦も満州に、ベトナムに行けばベトナムに連れていった。 太平洋戦争が起きるとすぐに日本軍は各島に散った。 龍山(ヨンサン)に進駐した日本軍20師団は輸送船に乗ってニューギニアに向かったが、アメリカ潜水艦が撃った魚雷に当たり船の半分が海中に没した。 その時船に共に乗った従軍慰安婦も同じ運命をむかえた。 伊藤の本は暫くして日本で探すのが難しくなった。 おそらく誰かが慰安婦の証拠をなくすためにそのようなことをしたのだろう

慰安婦の話を持ち出すのが難しかった私たちの社会の雰囲気は70年代も同様だった。 私が国務総理をした時期だ。 1971年5月~72年3月まで10ヶ月の間、既存韓国・日本協定の請求権と別に日帝時代民間人被害者の補償のために「対日民間請求権申告」窓口を開設した。 その時、合計14万件余り、金額では約40億ウォンの申告が受け付けられた。 ところで慰安婦被害が申告された例は一件もなかった。 申告の70%は銀行預金であり、その他に国債・生命保険・郵便貯金・会社債・戦争死亡者などに関することだった。 もうその方が自身を名乗り出て(?)日本の軍国主義の弊害を告発して人類普遍の人権の価値を訴えているのは、また別の犠牲と献身に他ならない。

中央日報 2015.5.6 [2]
[原文]

※ 問題の読売新聞の社説にはこの様に書かれていた。

「例えば、いわゆる従軍慰安婦問題。これは、そうした特定マスコミが、戦時の勤労動員だった女子挺身隊を、強制的な”慰安婦狩り”制度だったと歴史を捏造した結果、一時、日韓関係を極度に悪化させた」「中韓両国は、こうした特定マスコミの報道に便乗して対日外交カードとするようなことがあってはなるまい」(2001.3.2)

2014/12/18

日中戦争前に満州で挺身隊(慰安婦)目撃したスーパー証言者現る

WW2はるか前に満州で挺身隊(慰安婦)を見た

バタフライ(蝶々)USAとは、アメリカに最近出来た慰安婦支援団体である。KACEKAFCといった政治系の団体とは性質が異なる。こういったサークルは、本国韓国にも幾つか出来ているが、昨今の慰安婦ブームでアメリカにも次々と誕生(ワシントンやシカゴにも存在するらしい)。彼女たちは韓国の挺対協と繋がっている(詳細は後日)。

で、2013年以降に出来たアマチュア団体が貴重な慰安婦強制動員の目撃者を発見したというのだから話が出来すぎている。しかも、目撃者は彼女たちの膝元アメリカにいたというのである。韓国国内にも慰安婦の強制動員を目撃した人はいない。厳密に言うといないわけではなく、目撃したという罪の意識から名乗り出られないというワケの分からない目撃者しかいない。で、今回の証言者は、日本軍の為に仕事をしたという悔悟から本名を明かせないと言っている。

アンジェラ会長(右)とリンダ・リー副会長
バタフライUSA

しかし、1935年に満州に慰安所というのは、時期的に早すぎないだろうか?第一次上海事変の際、海軍が上海に慰安所を設置したのは事実だが、この老人がいたのは朝鮮に近い満州で、日中戦争(1937~)もまだ始まっていない。また、太平洋戦争中(1941~)朝鮮半島で挺身隊と慰安婦の混同(誤解)があったと言われるが、戦地で慰安婦が挺身隊と呼ばれていたという事実はない。そもそも、女子挺身隊が創設されたのは1943年である。その7~8年前に、日本軍の陣地にトラックで運び込まれる朝鮮人挺身隊(慰安婦)を見たとこの老人は言うのである。

「日帝慰安所惨状、今でも目に鮮明」

「日本軍討伐隊カメラマン」103歳の韓国人証言
朝鮮服着た娘数十人が毎週軍隊に連れて来られた

「今でも目に生々しいんです、朝鮮の幼い少女が苦痛の中に引きずられて来た場面です」今年で103才になった老人は、残酷だった日帝強制占領期を回想して歯ぎしりした。 満州での日帝の蛮行が極に達した1930年代、日本軍のカメラマンとして現場を駆け回ったキム・ジェフン(仮名)牧師は80年近く含んでいた惨状を慎重に語り出した。

日本軍のために仕事をしたという過去に対する悔恨がまだ残っていると、身分を明らかにすることは避けたが、彼の証言には日帝の人権蹂躪に対する告発の声が生々しかった。

12日、ロサンゼルスのコリアタウンのとあるカフェで会ったキム牧師の証言は日本軍慰安婦の真相究明と被害者支援に乗り出した「蝶々(バタフライ)USA LA」(会長 イ・アンジェラ)が後援者の繋がりで1年余りの説得の末実現した。 イ牧師も日本が慰安婦問題について歴史を前にして一貫して嘘をつく(?)のをこれ以上見ていられないと考え証言に臨んだ。

咸鏡南道甲山郡出身で(?)ロサンゼルスに住む引退した牧師であるキム氏は、24歳だった1935年、満州、延辺図們地区(現延辺朝鮮族自治州の図們市か?)独島(ドクト)守備隊と呼ばれた日本軍討伐隊のカメラマンとして1年間働き現地で目撃した全てを覚えている。

キム牧師は「今は慰安婦という単語自体浄化されている。 その当時は挺身隊、すなわち日本軍に献身するものと呼ばれていた」「その当時、少女を乗せた軍用トラックは1ヶ月に4回、すなわち週に一度の割合で軍中に入った」と言う。

キム牧師は「討伐隊の討伐後、いつも軍用トラックで20~30人余りの少女が軍中に入った。 この中には15才の幼い少女もいたし、全て未婚の少女だった。 彼女たちは全員朝鮮服を着ていて、派手さはなくあどけない様子の田舎娘だった」と話した。続けて「この少女たちには笑顔が全くなく、恐怖で一杯だった。下着を着ずにスカート一つで日に40~50人以上の男を相手にしていた」と証言した。

キム牧師はまた、当時日本軍討伐隊が慰安婦動員はもちろん住民たちを対象にした放火、略奪もはばからなかったと伝えた。

これは本当に涙なしでは見られない胸が痛い場面だと話を繋いでいったキム牧師は「強制的に連れて来られたのは明らかで、実際に目撃し体験した人々がいるのに真実を隠そうとしてはならない」「日本政府は真実を明らかにし、被害者に対する謝罪と補償をしなければならない」と強調した。

彼は「もうこれ以上このような人権の蹂躪が発生しないよう真実を糾明しなければならない」「私だけでなく、その当時を証言できる人々が既にとても高齢で、正義を求める若い人々が最後までこの問題の真実が明らかになる時まで戦ってくれるのを伏して願うばかり」と付け加えた。

一方蝶々USA LAはキム牧師の証言を入れた映像を韓国挺身隊問題対策協議会と共同で真実を糾明する資料として使う予定。


“일제 위안소 참상, 지금도 눈에 생생”

‘일본군 토벌대 사진기자’103세 한인 증언
한복 입은 처녀 수십명 매주 군대에 끌려와

“지금도 눈에 생생합니다, 조선의 어린 소녀들이 고통 속에 끌려가던 그 장면이요”올해로 103세가 된 노옹은 참혹했던 일제 강점기를 회상하며 치를 떨었다. 만주에서 일제의 만행이 극에 달하던 1930년대 일본군의 사진기자로 현장을 누볐던 김재훈(가명) 목사는 80년 가까이 담고 있었던 참상을 조심스레 꺼내놓았다. 

일본군을 위해 일했었다는 과거에 대한 회한이 아직도 남아 있다며 신분을 밝히기는 꺼려했지만, 그의 증언에는 일제의 인권유린에 대한 고발의 목소리가 생생했다.

12일 LA 한인타운의 한 카페에서 만난 김 목사의 증언은 일본군 위안부 진실 규명과 피해자 돕기에 나서고 있는 ‘나비 USA LA’(회장 안젤라 이)가 후원자와의 연결고리를 통해 1년여 간의 설득 끝에 이루어졌다. 이 목사도 일본이 위안부 문제 대해 역사 앞에 거짓으로 일관하는 행태를 더 이상 보고만 있을 수 없다는 생각으로 증언에 임했다.

함경남도 갑산이 고향으로 LA에 거주하는 은퇴목사인 김씨는 24세이던 1935년 당시 만주 연변 도문 지역 독도 수비대로 불린 일본군 토벌대의 사진기자로 1년간 일하면서 현장에서 목격했던 모든 일을 기억하고 있다.

김 목사는 “지금은 위안부라는 단어 자체도 그나마 단어가 순화되어 있다. 하지만 그 당시에는 정신대, 즉 일본군에게 몸을 바친다는 것으로 불렸다”며 “그 당시 소녀들을 태운 군용트럭은 한 달에 4번, 즉 일주일에 한 번 꼴로 군안으로 들어갔다”고 전했다.

김 목사는 “토벌대가 항상 토벌 후에는 군용트럭에 20~30여명의 처녀들이 군 안으로 들어갔다. 이 중에는 15세의 어린 소녀들도 있었고 전부 다 결혼하지 않은 처녀들이었다. 이들은 모두 한복을 입고 있었지만 화려하지 않은 앳된 시골 소녀들이었다”고 말했다. 이어 “이 소녀들은 웃음기가 전혀 없고 두려움에 가득 차 있었고 속옷을 입지 않고 맨 치마만 입으며 하루에 40~50여명의 남성을 상대해 왔다”고 증언했다.

김 목사는 또 당시 일본군 토벌대가 위안부 동원은 물론 주민들을 대상으로 한 방화, 약탈도 서슴지 않았다고 전했다.

이는 정말 눈물 없이는 볼 수 없는 가슴 아픈 장면이라며 말을 이어나간 김 목사는 “강제로 끌려온 게 뻔하고, 실제로 보고 겪은 사람들이 있는데 진실을 숨기려고 해서는 안 된다”며 “일본 정부는 진실을 밝히고 피해자들에 대한 사과와 함께 보상을 해야 한다”고 강조했다.

그는 “더 이상은 이와 같은 인권유린이 발생하지 않게 진실을 규명해야 한다”며 “나뿐만 아니라 그 당시를 증언할 수 있는 사람들이 이제는 너무 나이를 먹어, 정의를 찾는 젊은 사람들이 끝까지 이 문제의 진실이 밝혀질 때까지 투쟁해 주길 간곡히 바랄뿐”이라고 덧붙였다.

한편 나비 USA LA는 김 목사의 증언을 담은 영상을 한국 정신대문제 대책협의회와 연대해서 진실을 규명하는 자료로 쓸 예정이다.