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2015/01/02

大晦日の水曜デモに数百人「2015年こそ謝罪しろ」

明治神宮か成田山新勝寺かと思いきや

大晦日だというのに、行く年を惜しむでもなく、日本大使館の前に慰安婦の遺影を持ち込みイベントを執り行う挺対協。数百人を動員したというから、2015年も先が思いやられる日韓関係である。こういうヘイトキャンペーンが世間からそっぽを向かれるようになれば、希望も出て来るのだが・・・。

ペ・チュンヒの遺影とキル・ウォノク(左)キム・ボクトン(右)
実は、親日派のペはナヌムの家で浮いていたと言われる

今年亡くなったのは、ファン・クムジャとペ・チュンヒ。元気な頃のファンは、「日本野郎を引き裂いて食らって死ぬ」と啖呵を切るような人だったが、晩年は老人性痴呆症を患い気の毒な様子であった。ペは親日派の慰安婦で、ナヌムの家では浮いた存在だった。キル・ウォノクが彼女の遺影に顕花したというが、どういう気持ちだったのだろうか。

今回も大勢の子供が動員された

挺対協のユン・ミヒャンが来年も水曜デモは続くと宣言すれば、16歳の女子高生が日韓両政府が問題を解決してデモが開かれることのないように、などとコメントしている。解決を邪魔しているのは、そこのオバサンなんですけどね。ところでそのユン、このような犯罪を二度と犯させないなどと立派なことを言っているが、挺対協は米軍慰安婦訴訟の初公判に顔を見せなかったようではないか。何をかいわんやである。

久し振りに村山一兵の名前を見た。彼はナヌムの家を追放された日本人ボランティアだが、まだ韓国にいるのだろうか?親日派の慰安婦に、失脚した良心的日本人、水曜デモも複雑である。

「慰安婦」被害者追慕祭…「2015年も忘れない」

「2015年光復70周年を目前にした今だが、うれしい解放の踊りを私たちはまだ踊れない」

今年最後の日である31日の午後、ソウル市鍾路区の日本大使館の前で開かれた第1159回日本軍「慰安婦」問題解決のための水曜デモは2014年日本軍「慰安婦」被害者追慕祭を同時に開き、被害ハルモニを記憶するという心を集めた。

韓国挺身隊問題対策協議会(挺身隊対策協)等が主催した今回の水曜デモには、光栄女高生の生徒など市民500人余り(警察推計250人)が参加した。

慰安婦被害ハルモニは日本軍慰安婦という悲劇のクビキをまだ投げ捨てられないまま一人二人亡くなっている。 今年にもペ・チュンヒ、ファン・クムジャお婆さんが亡くなった。

復活を意味する紫色の布で覆われた祭壇の上には「無名で(?)犠牲になった日本軍慰安婦被害者の冥福を祈る」という言葉が書かれた黒い額縁が立っていた。

黄色と紫色キャンドルで作られた祭壇中央には、黄色い蝶々に囲まれた故ペ・チュンヒとファン・クムジャお婆さんの遺影が置かれた。

この日デモに参加したキム・ボクトン、キル・ウォノク・ハルモニらは学生たちが与えたホットパックを手に持ち膝に毛布を覆ったまま椅子に座った。 「ハルモニ愛してます」「ハルモニ、私たちが覚えています」記憶します」と(?)書かれたプラカードを手にした子供たちと写真を撮った。

平和の少女像のそばに「2015年には謝罪しろ」「耳を開き閉じた目をあけ、閉ざした口を開け」と書かれたプラカードがあった。

ユン・ミヒャン(50・女)挺身隊対策協常任代表は「2014年最後の水曜日に、再びこのような痛ましいこと経験すまいという気持ちで、今年亡くなったペ・チュンヒ、ファン・クムジャお婆さんの為の追悼式を開く」「我が国が日帝植民地から解放されて70年、分断70年など歴史的意味が多い2015年を最後になることを祈る」と訴えた。

また「ハルモニへの(?)真の追悼は、ハルモニたちが夢見る世の中を早める(早く実現させる?)こと」と言い「日本政府が真実を明らかにし、責任を認めてこのような犯罪を再び犯さないという約束を受け取るために、来年も水曜デモは続ける」と話した。

ソウル、陽川区光栄女子高のテホン蝶々に所属するチェ・スンジュ(17歳)さんは「ペ・チュンヒお婆さんとファン・クムジャお婆さんの息遣いをもう感じることが出来ないということに悲しみを支える方法はないが、座り込んでいるだけではいけない(?)」「今年最後の日を最後に、人々がハルモニだけのことでなく、人権と世界平和のためだという認識を持って欲しい」と希望した。

この席には、故人を助けたボランティアメンバーも参加した。

ナムヌの家で5年間働き、ペ・チュンヒ・ハルモニと一緒だったという村山一平(34)さんは「戦争の時の話をし、歌が好きな人でした」「当時非常に大変で痛かった心を交わして(?)下さった。 そんな心を交わすハルモニたちにありがとう(と言いたい?)」と追悼した。

追悼の辞が終わった後、キル・ウォンオクお婆さんとキム・ボクトンお婆さんを先頭に(?)献花式が行われた。キル・ハルモニは追悼の気持ちを込め、手袋を脱ぎ厳しい寒さのために真っ赤になった手でピンク色花を祭壇の上に置いた

献花式には準備された100輪の花を交互に使うほど市民の行列が列をなした。 ある女子高生は口を硬く閉じたまま涙を流した。

追悼式が終わった後ある女子高生は慎ましい表情でハルモニに近付き、直接描いた図をプレゼントした。

城南市(ソンナムシ)불곡高校のペク・スンヨン(16・女)さんは「少女が翁草を持ち目を閉じたまま考える絵を描いた。 悲しい思い出を持つ少女の心を表現した」として「来年にはデモが開かれないよう、日本政府と我が国の政府が問題をよく解決したらいいと思う」と話した。

ニューシス 2014.12.31[2]

'위안부' 피해자 추모제…"2015년에도 잊지 않겠다"

【서울=뉴시스】오동현 기자 = "2015년 광복 70주년을 눈앞에 둔 지금이지만 기쁜 해방의 춤을 우린 아직 추지 못합니다." 

올해 마지막 날인 31일 오후 서울 종로구 일본대사관 앞에서 열린 제1159차 일본군 '위안부' 문제 해결을 위한 수요시위는 2014년 일본군 '위안부' 피해자 추모제를 함께 열고 피해 할머니들을 기억하겠다는 마음을 모았다.

한국정신대문제대책협의회(정대협) 등이 주최한 이번 수요시위에는 광영여자고등학교 학생 등 시민 500여명(경찰 추산 250여명)이 참석했다.

위안부 피해 할머니들은 일본군 위안부라는 비극의 굴레를 아직까지 벗어던지지 못한 채 하나 둘 세상을 떠나고 있다. 올 해에도 배춘희·황금자 할머니가 별세했다.

부활을 의미하는 보라색 천을 덮은 제단 위에는 '이름 없이 희생된 일본군 위안부 피해자들의 명복을 기원합니다'라는 글이 적힌 검은 액자들이 서 있었다. 

노란색과 보라색 양초들로 꾸며진 제단 중앙에는 노란 나비로 둘러싸인 고 배춘희·황금자 할머니 사진의 액자가 놓여졌다.

이날 시위에 참석한 김복동, 길원옥 할머니는 학생들이 쥐어준 핫팩을 손에 쥐고 무릎에 담요를 덮은 채 의자에 앉았다. '할머니 사랑해요', '할머니 우리가 기억하겠습니다'라로 적힌 피켓을 손에 쥔 학생들과 사진을 찍기도 했다. 

평화의 소녀상 옆에는 '2015년엔 사죄해라', '막은 귀 열고 감은 눈 뜨고 다문 입 열어라'고 적힌 피켓이 있었다.

윤미향(50·여) 정대협 상임대표는 "2014년 마지막 수요일 다시는 이런 아픈 일 겪지 않겠다는 마음으로 올해 돌아가신 배춘희, 황금자 할머니를 향한 추모식을 연다"며 "우리나라가 일제식민지로부터 해방된 지 70년이자 분단 70년이 되는 등 역사적 의미가 많은 2015년을 마지막이 되길 기원한다"고 호소했다.

또 "할머니들에게 진정한 추모는 그들이 꿈꾸는 세상을 앞당기는 것"이라며 "일본정부가 진실을 밝히고 책임을 인정해 이런 범죄를 다시 저지르지 않겠다는 약속을 받아내기 위해 내년에도 수요시위는 계속 될 것"이라고 말했다.

서울 양천구 광영여고 대홍나비 소속 최승주(17·여)양은 "배춘희 할머니와 황금자 할머니의 숨결을 더 이상 느낄 수 없음에 슬픔을 가눌 길이 없지만 주저앉아 있지만은 않겠다"며 "올해 마지막 날을 끝으로 사람들이 할머니만의 일이 아닌 인권과 세계평화를 위한 일이란 인식을 가졌으면 한다"고 희망했다.

이 자리에는 고인들을 도왔던 자원봉사자들도 함께 했다.

나눔의집에서 5년간 일하면서 배춘희 할머니와 함께 했다는 무라야마 잇페이(34)씨는 "전쟁 때 이야기를 들려주시고 노래를 좋아하시던 분으로 기억한다"며 "당시 많이 힘들고 아프셨던 마음을 나눠주셨다. 그런 마음을 나누는 할머니들에게 고맙다"고 추모했다.

추모사가 끝난 후에는 길원옥 할머니와 김복동 할머니를 시작으로 헌화식이 거행됐다. 길 할머니는 추모의 마음을 담아 장갑을 벗고 차디찬 바람에 새빨개진 맨손으로 분홍색 꽃을 제단 위에 놓았다. 

헌화식에는 준비된 100송이의 꽃을 번갈아 쓸 정도로 시민들의 행렬이 줄지었다. 한 여고생은 입을 굳게 다문 채 눈물을 흘리기도 했다. 

추모식이 끝난 후 한 여고생은 수줍은 표정으로 할머니들에게 다가가 직접 그린 그림을 선물했다.

성남시 불곡고등학교 백승연(16·여)양은 "소녀가 할미꽃을 들고 눈을 감은 채 생각하는 그림을 그렸다. 슬픈 추억을 가진 소녀의 마음을 표현했다"며 "새해에는 시위가 열리지 않도록 일본 정부와 우리 정부가 문제를 잘 해결했으면 좋겠다"고 말했다. 

2012/09/27

相次ぐ慰安婦による高額寄付


財産を寄付するというのが善行であることは間違いない。だから、そのこと自体を非難したり笑ったりすべきではない。また(韓国人)慰安婦の財産全てが公的資金によって作られたものとも限らない。

しかし、今や国民的アイドルとなったハルモニたちがある程度の資産を持ち、生活上の不自由がない(同年齢の一般女性たちと比べ)というのは間違いなさそうである。

彼女たちのバックにいる支援団体は執拗に日本に賠償を求めてくるが、彼女たちはお金を必要としていない。賠償金の要求が「被害者」としての権利だと言うなら、顧みられることのなかった日本人慰安婦や米・韓国軍の慰安婦に目を向けるべきだろう。

挺対協に逆らった慰安婦たちは公的支援の対象から外されたことも覚えておきたい。挺対協は、その後も彼女たちについて無視を決め込んでいるが、彼女たちはあるいは貧困の内に死んで行ったのかもしれないし、アジア女性基金から金を受け取って不自由のない老後を送ったかもしれない。

なお、これだけ恵まれた老後を送れたのは韓国人だけで、フィリピンやインドネシアの慰安婦はこれほど恵まれてはいなかったろうと思われる。日本人の慰安婦たちも・・・。

慰安婦被害ハルモニ、3千万ウォン奨学金寄付

京畿道広州市の「ナムヌの家」に居住する日本軍慰安婦被害ハルモニが少しずつ集めたお金を仏教大学に奨学金を寄付した。 ナムヌの家のペ・チュンヒ(裴春姫 89)ハルモニは26日、財団法人美しい同行を通じ京畿道金浦市中央僧大学校に奨学金3千万ウォンを伝達した。

寄付金はペ・ハルモニが慰安婦被害者に支給される生活安定支援金を惜しんで集めたお金だ。

慶北(キョンブク)城主(星州)で生まれたペ・ハルモニは19才の時から中国、満州で慰安婦として苦難に遭い、解放後中国と日本での生活を経て1981年帰国。1997年からナムヌの家に住んでいる。

老患で昨年の秋以後水曜集会に出られず、一ヵ月前から食事もまともに出来ないまま臥病中だ。

普段仏教に関心が高いペ・ハルモニはこの日不便なからだを導いて寄贈式に参加する情熱を見せた。
6月に亡くなった故キム・ファソン・ハルモニも6千万ウォンを寄付して人権センター建設が推進されている。 2000年にはキム・クンジャ(86)ハルモニが美しい財団に5千万ウォンを寄付した。

ナムヌの家被害者以外にソウルに住むHwang-geumja(89)ハルモニも2010年に1億ウォンを奨学金に出したのに続き、全財産を寄贈するという遺言状を作成したことがある。

大邱に住んでいた故キム・スンアク・ハルモニも財産の半分(5千万ウォン余り)を寄付する遺言状を残して2010年1月亡くなった。

mkニュース 2012.926

ペ・チュンヒが寄付したのは3000万ウォン。日本円では、208万円。
キム・ファソンは6000万ウォン。416万円(現在のレート)
キム・クンジャが5000万ウォン。347万円(同上)
キム・スンアクも5000万ウォン。347万円(同上)。しかも彼女の資産はこの二倍あった。
Hwang-geumjaに至っては、1億ウォン(同上)。694万円を寄付している。


위안부 피해 할머니, 3천만원 장학금 기부

경기도 광주시 '나눔의 집'에 거주하는 일본군 위안부 피해 할머니가 한 푼 두 푼 모은 돈으로 한 불교대학에 장학금을 기부했다. 나눔의 집 배춘희(89) 할머니는 26일 재단법인 아름다운 동행을 통해 경기도 김포시 중앙승가대학교에 장학금 3천만원을 전달했다.

기부금은 배 할머니가 위안부 피해자에게 지급되는 생활안정지원금을 아껴 모은 돈이다.

경북 성주에서 태어난 배 할머니는 19살 때부터 중국 만주에서 위안부로 고초를 겪었으며 광복 이후 중국과 일본 생활을 거쳐 1981년 귀국해 1997년부터 나눔의 집에 살고 있다.

노환으로 지난해 가을 이후 수요집회에 나가지 못했고 한 달 전부터 식사도 제대로 하지 못한 채 와병 중이다.

평소 불교에 관심이 많은 배 할머니는 이날 불편한 몸을 이끌고 기증식에 참석하는 열정을 보였다.

지난 6월 세상을 떠난 고(故) 김화선 할머니도 6천만원을 기부해 인권센터 건립이 추진되고 있다. 2000년에는 김군자(86) 할머니가 아름다운 재단에 5천만원을 기부했다.

나눔의 집 피해자 이외에 서울에 사는 황금자(89) 할머니도 2010년 1억원을 장학금으로 내놓은 데 이어 전 재산을 기증한다는 유언장을 작성한 바 있다.

대구에 살던 고(故) 김순악 할머니도 재산의 절반(5천여만원)을 기부하는 유언장을 남기고 2010년 1월 세상을 떠났다.