2011/12/11

2011年暮れ、黒田記者の韓国慰安婦騒動レポート



韓国における慰安婦騒動の実態を知るには、やはり韓国を良く知る黒田勝弘記者のレポートが一番参考になるのではないか?自分の認識とも殆ど一致する。

ネット越しだが、韓国の報道を読んでいて感じるのは、今や慰安婦は韓国のスーパーアイドルであるということだ。その知名度と人気、影響力は、どんな芸能人も、キム・ヨナだろうが及ばない。と同時に韓国の輸出(文化?)コンテンツでもある。これを韓国では官民を上げて世界に売り込んでいる。そして、アメリカでその売り込みを担っている団体の一つがKAVC(韓国人有権者センター)であるが、日本のマスメディアでこの団体の事が触れられたのは初めてではないだろうか?

これも追って紹介する予定だが、親日派を追及する韓国の団体「民族問題研究所」の関係者がシンガポールのメディアに"comfort women show an idiosyncratic and brutal side of the Japanese colonial rule(慰安婦は日本の植民地統治の特徴と残虐な側面を表している)"と説明している。黒田が「日本糾弾の象徴」と言うのもこれだろう。いわゆる「海外同胞」が民族意識を昂揚させる為の絶好のネタになっているらしいという事も、黒田は理解している。

慰安婦の証言にも色々あるが、黒田がここで紹介している例も、平壌出身の主人が慰安婦を虐待していたという証言である。韓国の米軍基地周辺の風俗店で虐待されるフィリピン人女性と同じ境遇にあったわけだ。いわゆる日本政府による「強制連行(戦時動員)」とは関係ない話だが、そんな事はお構いなしなのである。純朴なお婆さんが「公式(謝罪)」云々というのもおかしな話で、これは運動家たちによってそのように吹きこまれたものだろう。


ソウル・黒田勝弘 慰安婦問題の現状

韓国の政府機関に「国家報勲処」というのがあり、国家に貢献のあった人びとに対する報償や顕彰を行っている。その業務のひとつに、日本統治時代に抗日独立運動や抵抗運動をした人びとを「独立有功者」として報償し、たたえるというのがある。

日本統治時代が終わってからすでに65年になるため、現存する「独立有功者」の数も少なくなった。それでも「独立有功者」が亡くなると、無名の人であっても必ず新聞に顔写真付きで紹介される。

国家、民族に貢献のあった人に対する称賛と感謝の意味からである。

近年、マスコミで「独立有功者」なみの扱いを受けているのが、いわゆる元従軍慰安婦の老女たちだ。

彼女たちは政府から生活支援を受けているが、国家的功労者というわけではないので「報勲処」の顕彰対象ではない。しかし亡くなると必ず新聞は顔写真付きでその死を紹介する。まるで「独立有功者」といった感じだ。

これはおそらく彼女らが、旧日本軍相手に外地で慰安婦生活をしたという経歴から「日本統治時代の犠牲者」として、日本糾弾(つまり反日・愛国)の象徴になっているためと思われる。

元慰安婦の老女たちが今や「独立有功者」なみの存在になっているというのは、慰安婦支援運動が反日運動としてたどりついた結果である。

この夏、メディアには相変わらず慰安婦問題が多く登場し、日本批判が語られているが、中にはワシントン発のニュースもある。

先年、米議会に日本非難の慰安婦問題決議案を採択させることに成功した在米韓国人団体(韓国人有権者センター)の学生たちが、議会を訪れあらためて慰安婦問題を訴えたという。

このニュースには、米議会をバックに若者たちの笑顔(!)の写真が添えられていた。在米韓国人が米国で日本糾弾-若者たちはこれによって異国における韓国人としての一体感を味わっているのだろうか。

韓国の有力紙・東亜日報は年初から「創刊90周年・年中企画」と銘打ち「韓日強制併合100年/100年の記憶、100年の未来」と題する大型記事を連載している。

そこでも元慰安婦の老女(82)が登場し過去を語っている。彼女の「記憶」はこうなっている。

「父と死別し、再婚した母に連れられ忠清南道禮山にいた17歳の時、中国に行けば工場で働かなくてもお金を稼げる、という近所のお姉さんの話を聞いて、1944(昭和19)年6月、故郷を離れ、ソウルや中国の天津を経て12月に中国の漢口に着いた。着いてからどういう所か知ったが言葉も分からず、道も知らず、逃げ出すことなどできなかった。そこには12棟ほどの慰安所があり、入り口には日本軍が使っていた建物が守っていた。言うことを聞かないと平壌出身という主人夫婦に棒で殴られる者もいた…」

8カ月後、1945年の日本の敗戦で同僚の多くは韓国に戻ったが、彼女は中国にとどまった。55年に子連れの中国人男性と結婚し中国で暮らしてきたが、2003年に民間団体の支援で帰国し韓国籍を復活した。しかし頼れる者もなく、周囲の冷たい目もあって2年半後、中国に戻ったという。彼女とのインタビューは現在の居住地である中国・武漢で行われている。

彼女はインタビューの最後でこう語っている。

日本の民間団体も訪ねてきて日本の過ちを謝罪し、お金をくれようとしたが一切、断った。いくらであろうが日本が公式に謝罪し法に従い補償するのなら受け取れるけれど…」

日本統治下の戦時中という時代背景の中で、韓国人の元慰安婦はこういう人生を経験した。その不幸は同情と慰労に値するが、現在の日本が国家としてどこまでその責任を負うべきなのか、あらためて考えさせられる記事だ。

産経 2011.12.7