2013/08/24

若い女性が満州で聞いた朝鮮人慰安婦の話



コメント欄で喪黒福造さんが教えて下さった第三者による証言。桂心豊というこの女性は、詩吟の宗家。漁火通信(2010.10.1)によると、彼女は若い頃満州開拓団の団長であった父に連れられて満州に渡り、満州の洋裁学校を卒業後満鉄に入社した。

ある時、休暇中に新京郊外のにあった「ピー屋」に迷い込む。そこで見聞きした話を語っている。漁火通信の方が詳しいが、そこで彼女が出会ったのは、二十歳ぐらいの朝鮮人女性。日本語は流暢であった。三年働けば家が建つと隣村の周旋屋に説得されて満州に出稼ぎに来ていた。前線に出て行く兵隊からもらうチップもよい収入になると語っていたという。昭和18年(1943年)の話だという。

証言者が赤線と言っているように(漁火通信)、公式の慰安所かどうかは分からない。また時期によって、場所によって慰安所の状況は様々だったから、この証言を持って日本軍の慰安所というものに対するイメージを固めてしまうわけにも、全ての慰安婦が喜んで出稼ぎに来ていたと決め付けるわけにもいかない。しかし、証言者も満鉄で高給とりだったように、商売人も娼婦も外地まで行くと稼ぎになったのだろう(正確には朝鮮半島も外地)。これは「からゆきさん」の頃と変わらない。

前線に出る兵士からお金(軍票?)をもらうという話は他の慰安婦の証言にもある。お客である兵士には本当の事(悲惨な体験)は語らないと言う論者もいるが(兵士の証言は当てにならない、という主張)、これは当時同じ年頃の女性が慰安婦から聞いた話である点に価値があるといえようか。

悲惨な話もあれば、苦労を共にした慰安婦と兵士の心温まる交流も伝えられている。一方的な現在の言われようについて、証言者は我慢出来ないと言って涙を流している。