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2015/12/11

グレンデールで慰安婦の追悼式、13歳の従軍者も現れ


グレンデール市によって像の存在は公認されているにしろ。祭壇まで設けて公園を勝手に慰霊の場にしてしまうKAFC。韓国で「ハルモニ」が亡くなる度に、彼らはここで追悼式を執り行っている。今回は、先日死去したチェ・カプスンの為の追悼式。チェ・カプスンは15歳の時に日本の巡査に連行されたということになっている。式には、第二次大戦に参加し「日本の蛮行」を目撃したと主張する老人も登場。事実なら当時13歳以下であったはずだが・・・。この老人は朝鮮戦争にも参加したとも言っているが、もしかして朝鮮戦争でも日本軍が蛮行を働いたと言っているのだろうか?

こちらはキム・タルソンと
キム・ウェハンの告別式(6月)

グレンデールに故慰安婦ハルモニの焼香所

韓国で5日死去した日本軍慰安婦被害者チェ・カプスン(96)ハルモニを賛えるロサンゼルス韓国人社会の焼香所がグレンデール慰安婦平和の少女像の前にしつらえられた。

カリフォルニア韓米フォーラム(KAFC)が8日グレンデール平和の少女像の前に準備した焼香所には日本軍慰安婦被害者ハルモニを賛えるために韓国人が集まり追悼行事を行った。

キム・ヒョンジョン事務局長は「2013年から慰安婦被害者ハルモニが亡くなるとここで必ず焼香所を設けている」「人々の記憶の中に彼女たちの痛みが忘れられられないように努める」と語った。

この日焼香所を訪れたイ・カンウォン(83)さんは「第2次大戦と6・25韓国動乱(朝鮮戦争)に参加して日本の蛮行を見た」「慰安婦ハルモニに対する補償は国家と国家で必ず解決しなければならない」と語った。

The KoreaTimes 2015.12.9[2]

韓国人老夫婦 「この目で見たんだ」

グレンデール市の慰安婦像は怪しげな人間を引き付けるようで、2年前にも似たような出来事があったということである。この流れで行くと、いずれ戦後生まれの朝鮮人元日本兵が日本軍の蛮行を語っているかもしれない。

しばらくして、老夫婦は帰ろうとして歩き始めた。ところが急におじいさんが、ボクの方に向きなおり、ややおぼつかない足取りで近づいてきた。

「わたしは、今86歳だよ。実際に戦争に行ったんだよ。10代のときに、日本軍が家にやって来て、男子は全員無理矢理戦地に連れて行かれたんだ。女子みんなも無理矢理連れて行かれたんだ。この目で見たんだ。」

ジャパラ 2013.8.1


글렌데일에 별세 위안부 할머니 분향소

한국에서 지난 5일 별세한 일본군 위안부 피해자 최갑순(96) 할머니를 기리는 LA 한인사회 분향소가 글렌데일 위안부 평화의 소녀상에 마련됐다.

가주한미포럼이 8일 글렌데일 평화의 소녀상 앞에 마련한 분향소에는 일본군 위안부 피해자 할머니들을 기리기 위해 한인들이 모여 추모 행사를 가졌다.

김현정 사무국장은 “2013년부터 위안부 피해자 할머니가 돌아가시면 이곳에 항상 분향소를 마련하고 있다”며 “사람들의 기억 속에 이들의 아픔이 잊혀 지지 않게 노력할 것”이라고 말했다.

이날 분향소를 방문한 이강원(83)씨는 “2차 대전과 6·25전쟁에 참여하면서 일본의 만행을 봤다”며 “위안부 할머니들의 대한 보상은 국가대 국가로 꼭 해결해야 한다”고 말했다.

2015/09/09

強制動員名簿で認定された慰安婦、連行時10歳

どう考えても慰安婦ではない

83歳。終戦時は13歳くらい。12歳で日本に連れて行かれたと言うが、国民学校4年生なら、満年齢で9~10歳か。原爆が投下された1945年には広島にいた。この時、13歳。

1992年に慰安婦として韓国政府に認定されたような事が書かれているが、92年と言えば、韓国のマスコミが戦時中の学籍簿を漁って小学生が従軍慰安婦に動員された大騒ぎした年。その顛末は、産経の黒田記者の説明が分かり易い。中央日報も、学籍簿には学徒たちに対する説得過程・動員経緯・出発の日付・場所まで記録されていた、日本政府が体系的に従軍慰安婦の動員に関与していたことが証明されたなどと騒いでいたようである

本人は、思い出せない悪夢を口にしたくないと言っているが、断片をどう読んでも慰安婦の体験談とは思えない。戦後70年。高齢の女性から亡くなって行くと、ますますあり得ないような年齢の「被害者」が目立ってくる。今年の6月には、80歳の元慰安婦の訃報がニュースになった。一応、今年は戦後70年である。

<慰安婦生存者13人証言>12歳で経験した悪夢…その痛みを包んだ暖かいコート

  先月12日、慶尚南道昌原(チャンウォン)の金福善(キム・ボクソン)さん(83)の家を訪問すると、金さんは壁に静かにもたれてテレビを見ていた。ニュースが放送されるテレビから安倍晋三首相の名前が聞こえた。金さんはすぐに背を向けた。「安倍の話が出てくればテレビを消してしまう。あまりにも憎くて。以前の首相はまだこれほどではなかったが、この人は違う。私たち慰安婦被害者の話を少し聞くべきなのに…」。 

  金さんは12歳の時に日本に連れて行かれた。当時は国民学校(小学校)4年だった。誰かが当時のことを尋ねると、金さんは「はっきりと思い出せない」と答える。あまりにも幼かったということもあるが、それよりは悪夢を口に出したくないからだ。しかし金さんは「言葉で表現できない、日本は…」としながら話を続けた。「私たちが貧しく、もやしを育ててご飯を食べさせたが、警察や日本の人が来て器を足で蹴飛ばした。よい印象がない、日本は。慰安婦の時もあちこちに連れて行かれ、どこかはっきりと分からなかったが、本当に苦しかった」。

  金さんは広島の原爆の恐怖も振り返った。「広島県に爆弾が落ちた。その爆弾が落ちたところの近くに私たちがいた。それで布団などを持ってみんな出て行き、堀端に隠れていた。爆弾を受けないように。それははっきりと覚えている」。

  解放後に韓国に戻った金さんは遅れて中学校に入った。当時は中学校まで行くケースが多くなかったため、金さんが自慢する記憶だ。その後は結婚して子どももできた。みんなが貧しかった時代、金さんも子どもの腹を満たすためにあらゆる苦労をした。最初に始めたのは木の器を売る商売だった。休む間もなく働いていると、いつのまにか子どもが成長してかわいい孫が生まれ、小さな家も持った。しかし金さんの傷は癒えなかった。

  慰安婦被害者調査・登録が始まった1992年、政府は金さんが通った小学校の強制動員名簿を確認し、金さんを被害者として登録した。その後、一度だけ放送に出て被害事実を証言したが、当時に受けた傷のため二度と被害事実を述べたり写真を撮影したりはないという。

  「当時、近所の女性たちが私について『ああ、あの人の家はどれほど貧しかったのか…。あんなところに連れて行かれて』と話していた。私の中学校の同窓生もまだ近所に暮らしていたが、親しい友人も同じだった。それでいかなる行事に行っても絶対に写真も撮らず話もしない。私は…」。

  周囲の誰にも堂々と話すことができず、むしろ罪人のように暮らした。冷たい視線を向けられるのでは、子どもが被害を受けるのでは、と思うと怖かった。その金さんに小さな慰めになったのは別の被害女性だった。金さんは数年前から近い地域にいる被害女性と親しくなり、外出したりもする。小さな喜びも享受する時間は多くない。金さんはあきらめることなく日本政府から謝罪を受ける日を待っている。認知症にならないよう外出して人に会い、歌の教室にも通っている。金さんに最も重要なのは女性家族部から昨年贈られた冬用のコートだ。

  「これは私がデパートに行って自分で選んだ。本当に気に入って冬によく着た。健康が悪化して認知症になってはいけないので、できるだけ外に出ようと思う」。



2015/07/12

小林よしのり台湾人慰安婦に同情する

90年代、小林の漫画は運動家らから槍玉に上げられた

TBSの報道特集については774さんが教えて下さった。慰安婦を強欲な嘘つきと思い込んでいる人も多いが、むしろそういう慰安婦は少数だと思われる。というのも、ソウル大のアンビョンジク教授は、大高未貴のインタビュー(週刊文春 2014.4.10号)に、最初に会った韓国人慰安婦の誰も日本を悪く言わなかったと語っている。小林は台湾の元慰安婦は「朝鮮人の元慰安婦のようなとげとげしい反日感情がない」と言っているが、最初は韓国人も同じだったのである。

反日のアイコンに仕立て上げられたハルモニ
彼女らは決して慰安婦全体を代表してはいない

そんな韓国人慰安婦たちを反日運動の闘士に仕立て上げたのは、韓国の慰安婦支援団体と日本の運動家らである。運動家らは「ハルモニ」を加害国vs.被害国、加害者日本兵vs.被害者ハルモニの図式に当てはめようとして、これに成功した。彼らの本を読むと、お婆さんたちが次第に闘士として目覚めて行く様子が満足げに語られている。

小林よしのりは、90年代強制連行を主張する運動家と激しく戦った。しかし、ありのままの慰安婦の姿を知れば、彼だってお婆さんたちの身の上に同情するのである。河野談話もアジア女性基金もそういった同情によって作られた。慰安婦問題を解決不能にしたのは、(一部の?)慰安婦支援者たちだろう。彼女たちのせいで慰安婦たちは、モンスタークレーマーとしても記憶されていくのである。

TBSの「報道特集」で台湾人の元慰安婦のルポをやっていた。
彼女たちは幼い時に両親が死んで、叔父の借金を返すために台湾人の業者に身売りされた。
看護師になるためと騙されて、インドやフィリピンに連れて来られ、現地に着くと実は慰安婦になれと宣告される。
もちろんイヤだと断るのだが、脅されて慰安婦にされてしまったようだ。
19歳当時の写真を見ると、美人だ。
全然スレた感じはない。
毎日20人くらいの日本兵を相手にしなければならなかったらしい。
わしはこれを見て同情してしまった。
朝鮮人の元慰安婦のようなとげとげしい反日感情がなく、ところどころ日本語を交えて話す様子を見て、一刻も早く日本政府が謝罪した方がいいと思ってしまった。 (以下略)


2014/12/16

オランダ人慰安婦の娘がカナダで証言すると・・・


カナダのトロントアルファが先月、慰安婦証言集会を開催した。ただし、証言したのは体験者本人ではなかった。

元慰安婦(というより、この場合性暴力被害者)自身の証言ではなく、その子供が証言するようになった。時代なのだろう。日系人強制収容所に関する証言にもこういう傾向があるらしい。直接体験していない世代が語り出すと、話がいい加減になり、かえって実際が分からなくなる。日本でも同様に事実と異なる戦争体験がテレビなどで語られている、と体験者の父も言っていた。慰安婦の物語は、今後ますますまことしやかに、出鱈目に語られていくことになるだろう。オランダ人女性が慰安所に連れ込まれた事件は、スマラン(白馬)事件が有名だが、スキャンダル発覚後軍が慰安所を閉鎖させるなどしているから終戦まで慰安所に入れられていたという話は疑わしい。

中国系の反日団体であるトロントアルファに、韓国系が合流しつつあるらしい。

「母と叔母が慰安婦に連れて行かれ・・・」
被害者家族カナダ人お婆さん「血の涙」の証言、トロント・アルファ主催

第2次大戦の際、日本軍がアジアで犯した蛮行を知らせる目的でNGO活動を行っている「トロント・アルファ」(代表:ジョセフ・ウォン)が3日、トロント大学校で人権分野の専門家と学生および一般市民100人余りが参加する中で日本軍慰安婦被害者家族を招き人権イベントを開催した。

「トロント・アルファ」はトロント所在のユダヤ系人権団体であるホロコースト教育センター(Sarah and Chaim Neuberger Holocaust Education Centre)と合同でThea can der Walさん(女、74歳)さを招き日本軍慰安婦とその家族の凄惨な人生を光を当てるイベントを行った。

現在のカナダに移住してオンタリオ州ポルリントンに居住しているピジェンボゴお婆さんは過去オランダ国籍で両親がインドネシア、ジャワ島に定住し、1941年に現地で生まれて育った。 第2次大戦が進行される中で日本軍が1942年10月からジャワ島を占領してピジェンボゴお婆さんのみじめな家族史も始まった。 家族と親戚たちは全員日本軍監視下に収容所生活をし、この過程でビルマ鉄道公社に連行され彼女のお父さんは強制労働に苦しみ亡くなった。彼女の母と叔母は1944年1月から終戦まで恥辱的な日本軍慰安婦生活を経験した。

ピジェンボゴお婆さんは当時とても幼く、母と叔母が毎日泣く理由を分からなかったが戦争が終了した後オランダに戻り、2003年お母さんが死亡(叔母は1996年死亡)した後、生存する末の叔母を通じ彼らの慰安婦生活を知ったという。 証言イベントでピジェンボゴお婆さんは羞恥心で一生苦痛受けて亡くなった母と叔母に言及する部分で泣き出す(?)などしばしば話をつなぐことができず当日参席者は粛然とした雰囲気で一部は一緒に涙を流した。

ピジェンボゴお婆さんは日本政府の歴史否定に憤り、第2次大戦時日本軍が犯した蛮行を広く知らしめてこのような不幸な歴史が繰り返されないように今後慰安婦人権回復運動に積極的に参加するという意思を明かした。

一方「トロント・アルファ」は当日韓国、中国、フィリピンなど3ヶ国に散り困難な中で暮らしている日本軍慰安婦被害者の人生を扱ったドキュメンタリー「Within Every Woman」の予告篇を上映し、トロント大学校音大'ジョシュア ピルチョ'教授の韓国人慰安婦おばあさんが歌った歌に対する研究結果発表の時間を持った。 現在「トロント・アルファ」にはジュディ・ジョーさん、ホン・キテクさんなど韓国人同胞が主導的役割を受け持ち積極的な活動を展開している。


“어머니와 이모가 위안부로 끌려가…”
피해자 가족 加 노인 ‘ 피울음’증언
토론토 알파 주관

2차 대전 당시 일본군이 아시아 지역에서 저지른 만행을 알릴 목적으로 NGO 활동을 벌이고 있는 '토론토 알파'(대표 : 조셉 웡)가 지난 3일 토론토대학교에서 인권분야 전문가와 학생 및 일반 시민 100여명이 참석한 가운데 일본군 위안부 피해자 가족을 초청한 인권행사를 개최했다.

'토론토 알파'는 토론토 소재 유태계 인권단체인 홀로코스트 교육센터 (Sarah and Chaim Neuberger Holocaust Education Centre)와 합동으로 '테아 비젠버거 반 데르 왈'(여, 74세)씨를 초청해 일본군 위안부와 그들 가족의 처참한 삶을 조명해보는 행사를 열었다.

현재 캐나다로 이주해 온타리오주 벌링턴에 거주하고 있는 비젠버거 할머니는 과거 네덜란드 국적으로 부모가 인도네시아 자바섬에 정착하면서 1941년에 현지에서 태어나고 자라났다. 2차 대전이 진행되는 과정에서 일본군이 1942년 10월부터 자바섬을 점령하면서 비젠버거 할머니의 비참한 가족사도 함께 시작됐다. 가족과 친척들은 모두 일본군 감시하에 수용소 생활을 했으며, 이 과정에서 버마 철도공사에 끌려간 그녀의 아버지는 강제 노역에 시달리다가 사망했으며 그녀의 어머니와 이모는 19944년 1월부터 전쟁이 끝날 때까지 치욕적인 일본군 위안부 생활을 경험했다.

비젠버거 할머니는 당시 너무 어려서 어머니와 이모가 날마다 우는 이유를 몰랐다가 전쟁이 종료된 후 네덜란드로 돌아와 2003년 어머니가 사망(이모는 1996년 사망)한 후에야 생존한 막내 이모를 통해 그들의 위안부 생활을 알게 되었다고 한다. 증언행사에서 비젠버거 할머니는 수치심으로 평생 고통 받고 사망했을 어머니와 이모를 언급하는 대목에서 울음을 터뜨리는 등 수시로 말을 잇지 못했으며 당일 참석자들은 숙연한 분위기에 일부는 함께 눈물을 흘렸다.

비젠버거 할머니는 일본 정부의 과거사 부정에 분노하면서 2차 대전 당시 일본군이 저지른 만행을 널리 알리고 이러한 불행한 역사가 반복되지 않도록 향후 위안부 인권회복 운동에 적극적으로 참여하겠다는 뜻을 밝혔다.

한편 '토론토 알파'는 당일 한국 중국 필리핀 등 3개국에 흩어져 어렵게 살아가고 있는 일본군 위안부 피해자의 삶을 다룬 다큐멘터리 'Within Every Woman' 예고편을 상영했으며, 토론토대학교 음대 '조슈아 필저' 교수의 한국인 위안부 할머니들이 부른 노래에 대한 연구결과 발표시간도 가졌다. 현재 '토론토 알파'에는 주디 조씨, 홍기택씨 등 한인 동포들이 주도적 역할을 맡아 적극적인 활동을 펼치고 있다.

2014/11/26

強制動員目撃者が名乗り出ないわけ(中央日報)

「私が証拠」
強制連行(徴用)の証拠は本人の証言のみ

数万人の朝鮮人女性が拉致されたというのに、「韓国人目撃者の公開的な目撃談はまだ聞こえない」。

結局、慰安婦の強制動員(強制連行)の第三者証言は、「良心的日本人(吉田清治)」によるものだけ。「現場を見ていない私たち」が、あったあったと言っている。筆者は、目撃者たちは自分だけが助かったという罪の意識から公には証言しないのだと言い、韓国政府に、そうした証言を汲み上げて証言集を作れと。残念ながら、そうして出来た証言集は単なる嘘のカタログである。

【噴水台】私も当時、悪魔を見た=韓国

 「日本はまだ強制的に慰安婦を動員したことがないと言い張っているのか?」

  「なんということか。町ごとに大騒ぎだったというのに。最初は工場に就職させると話していた。それでもお金を稼ぎにいくという子が多くないから、町ごとに割り当てられた数を満たせなかった。後になると道端や畑で手当たり次第みんな捕まえて行った。娘に男の服を着せる家がどれほど多かったことか。当時も今も貧しい家の娘だけが哀れだ。非常に貧しかった裏の家の娘が捕まえらながら、どうせ捕まるのなら工場に行ってお金でも稼いで親孝行しようとしていたが、そんな悪いことをさせるとは誰が思っていただろうか」。

  ある高齢男性の証言だ。その現場をそのまま目撃したという。「強制動員するのを見たと証人になってほしい」と話したところ、「何かいいことをしたわけでもないのに出ていけるはずがない。それを見たことも罪人だというのに」という。

  今はもう分かる。この人たちが「私が目撃した」と言いながら公開的に出ていくことができず、後ろで沈黙する理由を。私たちの脳は神秘的だ。苦しい記憶は忘れようとする。あたかもなかったかのように。慰安婦問題。人間は過ちを犯すこともある。また、過ちは誠意のある謝罪ひとつで許されることもある。被害者の血を吐くような告白はもちろん、強制動員文書や記録、動員に参加した日本人の良心の告白。すべてを否定して「強制動員の証拠」を最後まで要求する日本。事件ごとに目撃者がいて、その目撃者の言葉は事件解決の最も重要なカギだ。

  薄れた記憶ではあるが、慰安婦を動員したその時代のその時。男装のおかげで危機を免れた人、隣の子どもが捕まるのを見た人、捕まっていくトラックから飛び降りた人。この人たちがまさに、日本が限りなく要求する「強制動員の目撃者であり証拠」だ。

  良心宣言をした日本人の言葉は時々聞こえたが、韓国人目撃者の公開的な目撃談はまだ聞こえない。今はもうその記憶を胸から取り出して話そう。運よく捕まらなかった人、捕まっていくのを見た人と渋々助けた人、自分だけ無事だったのが申し訳なくてその記憶を封じ込めようとしているのなら、もっと遅くなる前に、もっと歳を取る前に。

  被害者の涙ぐましい告白より、現場を見ていない私たちの言葉より、「あなたたちが家を歩き回って女の子を連れていくのを私の目ではっきりと目撃した」と告白する高齢者の直接的な証言が、法の審判台ではるかに力になるからだ。政府は慰安婦問題を外交的戦略ばかりに利用せず、この際、高齢者の助けを受けて「強制動員証人声明書」でも作るべきだ。

  オム・ウルスン文化未来イフ代表

2014/09/29

将校たちが身請けした慰安婦 「救出せよ、一人残らず答えた」

長谷川伸

劇作家長谷川伸が記した中国の三竃島でのこの話。著者の手が入っているのか、実際に見たままを書き記したものか、自分には分からない。だが、あまりに生々しい情景はノンフィクションとして十分に説得力を持つように思える。

ここに記された慰安婦の姿は複雑である。彼女たちは、金稼ぎの為に追い返されても再び戦地へ舞い戻ってくるプロの売春婦であると同時に、(元々は)騙されて連れて来られた気の毒な人々でもあった。そして、甘言で慰安婦にされたらしい処女を救出するのに、軍人たちは契約内容を確認し、カンパを募り落籍の資金を作ってやらねばならなかった。このカンパには阿部弘毅司令官までが協力している。部隊中の慰安所関係の担当者が主計中佐に叱られているが、契約書は正式な物であったようである。

慰安婦には玄人の女が向いているとか、「初めは将校向きの五円の女を希望するが、ほどなく下士官兵向きか徴用工向きの二円の女に転向したがる。・・・二円の女だと荒稼ぎが出来るから」という話も、最近の作られたセックス・スレイブのイメージからは想像し難いが、千田夏光が集めた証言の中にも同様の話があったと記憶している(要確認)。慰安婦は台湾などで募集された者らであったという。

事実残存抄                  

華南の真っ只中にある三竈島に、数日私はいたことがある。昭和の大戦がまだ太平洋戦争に突入しなかった、昭和十三年十一月下旬であったと思う。この島の雨はふとさが細引き縄ぐらいあり、たちまちのうちにそこら中が海のごとくなるほどの降雨量であると、上陸した途端に海軍の士官に聞かされ、また、ここは百歩蛇・コブラのような毒蛇七種がいると、道案内の海軍下士官におどかされた。

[...]

しかし私たち数人の小説戯曲映画関係のものは、幸いに縄のような雨や百歩蛇や胴まわりが四斗樽ぐらいの大蛇などには、お目にかからないで済んだ。

この島で私たちの世話をしてくれたのは、詩人の主計中佐(後に大佐)矢野兼武であった。その矢野中佐に頼んで私と他に一両人が、同島に出来ている三種の売女がいるところを視察につれて行ってもらった。

[...]

その見送りの一般日本人とは別なところに、一群の女がいて、あるものは笑って嬌声ともども手を挙げ、ハンカチを振り、手拭を振り、あるものはトラさんとか、杉村さんとか呼びかけ、呼んだ軍夫君が振りむいて、手をあげたり袋入りの日本刀をあげて見せたりすると、女は涙を頬に走らせて再び呼びかけるのが、明かに別離を惜しむものであること、疑う余地がなかった。その女たちが遠目にも白粉臭い女とわかり、かつ服装がやや正常を欠いてケバケバしいので、居合わした下士官に尋ねたら、あれは慰安所の女でありますと答えた。それ以来、私たちは戦地には慰安所の女というものがあるのを知っていたので、この島にもそれがあるのをちらりと見かけ、矢野中佐に案内を頼んだという訳であった。

ここが士官用の慰安所ですと矢野中佐がつれて行ったところは中国風家屋に手を少し入れて無理やり日本的にした家で、白粉の女たちは一人も顔をみせなかった。がしかし私は、入口の壁に鉛筆で、「泣かせてよ泣かせてよ、泣かずにいられないわたしじゃないの」と書いてあるのを見た。

慰安所の宿舎に女がいないのを、矢野兼武中佐は、きょうは検査日で、ただ今がその折柄ですと説明した。

ここは下士官兵の慰安所女の宿舎ですと、矢野がいいながら門口に近づくより早く、宿舎の奥から飛び出して来た芸者くずれらしい大年増の女が、「主計長さんまた帰って参りました。どうぞよろしく」と立ち身のままで挨拶した。矢野は「今度はゴタゴタを起さんでくれ」といった。この女の引っかけていた黒縮緬の羽織の紋が汚れていた。とまた、もう一人、二十六、七歳の女が赤大名のお召の袷に、二本独鈷の伊達巻で出てきて、「また来ちまいました」といって、人を食った笑い方をしてみせた。このどちらの女も、私どもには用がないので無視してかかっていた。矢野は「君も来たのか、今度はおとなしくしろ」と歎息まじりにいった。

あとで聞いたところによると、きのう来たばかりの黒縮緬古羽織の女は、抱え主を困らせることが達考で、こんな時にこんな島へ女をつれて来るほどの抱え主が、何に彼につけて阿婆ずれの巧みさに負かされるので、遂に金をいくらかやって、募集地の台湾まで帰ってもらったのだという。

赤大名の女の方は、仲間の女の間に波瀾を起させるのが上手で、そのテにかかって、陰性と陽性と二種の喧嘩が、当番交代のようにたびたび起るので、抱え主が往生して、これも募集地の台湾まで帰した。それがやって来たのは、台湾でまたもこの募集に応じたので、偶然というものがやる奇妙さで、もとのこの島へ舞戻ったのだという。

この種の女はそのとき二十余人いたが、数週間の後に、約十人やって来ると、これは徴用工と下士官兵のうちの或る二、三人がいったことである。女の名を呼ぶことは非公式だが禁止してある、その代り番号で呼ぶ。しかし、十三番の女のことを客の男はジュサ(十三)ちゃんと呼び、二十三番の女のことはおフミ(二三)さんと呼ぶ、という式でやっているので、女の名を呼ばせないという趣意は無効になっている。女の名を呼ばせないのは、情意の深入りをふせぐためであるとか聞いた。ところが、非情な番号を人人は、有情な呼び名に呼び改めたのだから、何もならない。

将校は五円の入場券がいる。下士官兵と徴用工の入場券ぱおなじく二円で、夜十時になると銅羅を打って、その打ち終りと同時にこの種の女のすることは、ことごとく止めとなる。行間はもちろんこの種のところは閉鎖し、夕食時から開店だそうである。

 [...]

女の前借金は多きは千二、三百円で、少ないのは五、六百円である。募集は台湾基隆とか高雄とかでやるが、実際に女を集めるのは、募集の特約者で、つのりに応じてくる女も勧誘の手をのばす相手の女も、俗にいう玄人がいいとされている。素人は戦地向げのタマには適さないという、例外はある由。前借金のもっとも少ないのは百円の飯焚きである由。

こうした者たちは、初めは将校向きの五円の女を希望するが、ほどなく下士官兵向きか徴用工向きの二円の女に転向したがる。五円の女では相手が少数で稼ぎ高が低い。相手が人多数の二円の女だと荒稼ぎが出来るからだという。女の手取りは五円も二円も率は一つで、二円の女でいえは半分の一円は前借金へ入れ、残る半分の一円が手取りとなる、とこう聞かされたが、表面はそうだろうが、陰では勘定が別にあるらしかった

私どもが南シナ海で短時日のうちに、二度も乗せてもらった紀州の第二江口丸という

海上トラックの船長が、今いったような女たちをあわれんでいった。

「ああいう女たちはみんなだまされて来ているのでねえ、この船でつれて来た女たちの顔というものが、当分のうち眼に残りましてねえ」

[...]

前にいった三竈島に再びやって来た二人の泥水を飲みつづけて来たらしい女達と、一つ船で来た二十歳の女があった。島へあがってすぐ軍医が、同時にやって来た女だちと同様に、検査をやったところ、軍医はその二十歳の娘が意外にも処女であることを知った。驚いたがそれを色にも出さなかった。

それから暫くし正午になり、食事にかかる前に矢野兼武(主計)中佐は、軍医から相談をかけられた。午前中に検診した慰安所の女のうち一人の処女がいる。これをおれはおれの良心に問うたところ、お前がその女を助けないでだれが助けるか、その女が処女であることを知っているものはお前だけではないかと答えた。そこでおれは助ける決心をつけたが、方法がわからないのみならず、救出に必要の金も、おれが受取る戦時加算付きの今月分では足らぬらしい。こういう時はどうすればいいのか、相談に乗れ、というのである。矢野はよろしいと引受けた。

昼食がすむと矢野が、食卓についたそのときの将校たちに呼びかけ、今日午前中に軍医によりて発見された娘を、救出するか放置するかを問うたところ、救出せよと一人残らず答えた。無論、この答えを求める前に、軍医の臨床報告と所感とが述べられたのである。

救出資金がみるみる矢野の軍帽の中へ集まった。軍医はその月の受取り分をそっくり出した。集まったそのときの総額は、確か八百何円かであったと憶えているが正確を欠いている気もする。矢野は時を移さず、慰安所関係の責任者と、女の監督や金銭収支の担当者を、司令部の主計長室に呼び、軍医の検診報告書をつきつけ、生娘をこんなところへ持ってくるからは話に聞く誘惑の嫌疑をかけると叱りつけ、娘に関する書類一切の即時提出をもとめ、その書類を検討して、前借金返済の金額をその場で決め、娘の身柄を酒保の責任者に預けた。悪い仲介人があって売り飛ばされたこの娘は喜びのあまり、顔をくちゃくちゃにして泣いたこと、いうまでもない。

矢野は第十四空防備の中少尉以下の寄付金は断わったが、司令阿部弘毅少将はじめ、大尉以上の寄付金を受けて、救出資金は満額を超えた。超えた方の金はその娘の新出発の資金にさせた。この娘がこの島を去るとき、莫蓮とか阿婆摺れとが人もいい私もいった慰安所女が、わがことの如く泣いて喜び、帰って後の身のもち方について助言するのを見ていると、姉か従姉に違いない真実さが溢れていた。そしてその次の時間には、莫蓮女になり阿婆摺れ女となる。

この島にも水兵中に悪徒がいて、夜中に原住民の家に押入り、強盗した外に、女を汚して逃げたイヤな事件が起っていた。この犯人は当夜の風紀衛兵の責任者であった兵曹が、夜が明けて二、三時間の中に捕えた。犯人は佐世保で後に重く罰せられた

[...]

矢野はその後、茨城県の航空隊に転じ、それは短期で、東南方の戦場へ出ていった。矢野には『十二月八日未明』(仮題)という真珠湾攻撃前を描いた戯曲と『海戦後の筏』(仮題)という珊瑚海戦を描いた戯曲とがある。私たちが知っているこの二つの原稿は、矢野の最後の任地の室に置いてあったのではないかと思う。矢野のその室には私たちが贈った伊東深水作の美人画があった筈である。この方は英・豪・米どこかの者が、記念品に持ち去ったことであろうが、戯曲の原稿の方は見棄てられたことだろう。矢野はサイパン島にかりの宿を求めたその日、そこで戦死した。大佐であった。

生きている小説 長谷川伸 P.101-110

2014/09/15

日本政府の聞き取り調査 映像公開へ

93年の聞き取り調査の様子
(報道ステーションより)

この日本政府による聞き取り調査の内容は既に月刊誌がスッパ抜いているが、政府は非公開を前提にした聞き取りの内容を公開することに慎重であった。しかし、遺族会がビデオを公開するというのだから、日本政府もこれ以上遠慮は無用だろう。そういう意味で、朝日新聞のスクープから公開が決まった吉田(昌郎)調書と似た流れと言えようか?公開されれば、今からでも検証可能な部分は検証すればいい。

遺族会は、視覚的にインパクトを与えられると考えているのだろう。「残りの映像についても日本政府の態度次第で段階的に公開する」と脅迫調である。確かに、英語字幕をつけて公開すれば、日本と韓国が戦争したと思い込んでいるような外国人には効果がありそうだが、日本人はどう受け取るか。この決断は、彼らにとって吉と出るか凶と出るか・・・。

元慰安婦への日本政府の聞き取り 映像初公開=韓国団体

慰安婦問題で旧日本軍の関与と強制性を認めた河野談話の発表に先立ち、日本政府が21年前に韓国で実施した被害者の聞き取り調査の様子を収めた映像が初めて公開された。

市民団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」は15日、ソウル市内で記者会見し、聞き取り調査の様子を収めた映像の一部を公開した。

「慰安婦の強制連行を裏付ける資料は確認されなかった」と主張し、談話の作成にあたって韓日両政府が文言のすり合わせを行ったとする日本の政治家や一部メディアの主張に反論する証拠になりそうだ。

映像は1993年7月26日から5日間、元慰安婦の故金学順(キム・ハクスン)さんら16人の証言を聴取する様子が収められたもの。同日公開された映像は15分間だった。

太平洋戦争犠牲者遺族会の梁順任(ヤン・スンイム)会長は、日本政府の要請で21年間公開しなかったが最近、日本政府が河野談話に関連し真実を歪曲(わいきょく)しているため、映像の一部を公開することにしたと説明。「証言者16人のうち14人は亡くなったが、証拠は生きている」と話した。

同団体は国連に映像を報告し、国際社会に広く知ってもらうほか、残りの映像についても日本政府の態度次第で段階的に公開する方針という。


これまで日本政府は公開に慎重だった。

根拠資料、非公開の方針 政府、にじむ韓国への配慮「大半が機密扱い」

慰安婦募集の強制性を認めた平成5年の河野洋平官房長官談話の検証結果をめぐり、検証の根拠となった元慰安婦への聞き取り調査などの資料について、政府が「大半が機密扱いの外交文書だ」との理由で公開しない方針であることが22日、分かった。

政府側は20日の衆院予算委員会理事会で、「河野談話作成過程検討チーム」による検証作業の経緯について「検討チームのメンバーには守秘義務をかけて外交の機密文書を公開し、報告書の作成をお願いした」と説明した。その上で「原始記録である外交文書を公開することはできない」と理解を求めた。

これに対し、河野談話の検証を求めていた日本維新の会の山田宏衆院議員は、検証結果がまとまったことを踏まえ「原始資料も合わせて公表しないと韓国から捏造(ねつぞう)だといわれる。報告書が真実だという証拠も公表しないと検証の意味がない」と公開を要求した。

しかし、政府側は「韓国には、検証結果の内容は客観性とすべての裏付けがあると伝える。理解してもらえるよう説得に努めたい」と応じるだけだった。加藤勝信官房副長官は「河野談話の見直しや取り消しは(安倍政権では)ない」と強調した。

政府は、韓国側が検証結果に反発していることから、韓国に配慮して外交文書の公開を拒否する方針とみられる。

外交文書の公開をめぐっては、22年に当時の民主党政権が日米核密約の調査を契機に、30年経過した文書を原則公開する制度を導入。自民党もその方針を踏襲し、公開手続きが済んだ文書は、都内の外交史料館で閲覧が可能になった。

元慰安婦の聞き取り調査を実施したのは5年7月、河野談話の発表は同年8月で、公開基準に達するまで9年間残っている。

産経 2014.6.23

2014/04/02

河野談話前の外務省文書:強制連行は調査結果と異なる

強制連行を認めたと解釈される内容は避けるべきという外務省の分析だったが・・

河野談話が出る半年前に、外務省のアジア局が状況を分析し内部文書を作成していた。その文書を産経が入手したと(GJ)。それによると、

韓国は朝鮮人が自ら慰安婦になるなどありえないという事を日本政府に認めさせたい。これまで以上に強制性を強調しないと、この騒ぎは収まらない。とはいえ、軍や政府が強制的に慰安婦を集めた(強制連行・徴用)と解釈されるようでは、政府の調査結果と一致しないし、他のいわゆる強制連行(徴用者)問題にも絡んでくるので、その点は慎重に・・・というのが外務省の分析だったようだ。

しかし、不幸なことに河野談話は外務省アジア局が懸念した、あたかも「慰安婦募集全体に対して日本軍または政府が直接強制的に行ったと解釈されかねない形」に出来上がってしまった。韓国政府に配慮し過ぎたのが原因だろう。

慰安婦への聴取「儀式」と明記、外務省シナリオ入手 強制性認定のアリバイ

慰安婦募集の強制性を認めた河野洋平官房長官談話発表の約半年前に当たる平成5年2月、外務省アジア局(現アジア大洋州局)が今後の取り組み方をまとめた内部文書「従軍慰安婦問題(今後のシナリオ)」を作成していたことが1日、明らかになった。産経新聞が入手した内部文書によると、最終的に河野談話の根拠となった元慰安婦への聞き取り調査について「必要最小限の形でいわば儀式として実施することを検討」と明記されている。調査の目的が「強制性」を認めるためのアリバイづくりだったことが裏付けられた形だ。

文書は2月2日付で「慰安婦問題の解決のためには、ある段階で強制性に関する日本政府の認識を示すことが必要」と指摘した。

慰安婦問題に政府の関与があったことを示した4年7月の調査発表「朝鮮半島出身のいわゆる従軍慰安婦について」にも触れ、「強制性等に関し、前回の発表よりも踏み込んだ見解を政府が表明しない限り内外でしかるべき評価を受けることは期待しえない」と、一層踏み込むよう主張している。

韓国側が強制性を認めるよう強く求めていることについては、「背景には、朝鮮半島出身の女性が自ら進んで従軍慰安婦になったわけではない旨、日本側が明確に認めるべきだとの考えがある」と分析する。

一方で、慰安婦募集全体に対して日本軍または政府が直接「強制」的に行ったと解釈されかねない形での強制性の認定については慎重で「今までの調査結果を超えることとなるばかりでなく、本件とは異なるいわゆる『強制連行』問題にも影響を与える可能性がある」と戒めている。

シナリオはその上で、慰安婦募集について、河野談話の原型ともみられるこんな表現で韓国側に打診することを提案している。

一部には軍または政府官憲の関与もあり、自らの意に反した形により従軍慰安婦とされた事例があることは否定できない」

実際の河野談話は、韓国側とのすり合わせもあって「軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、官憲等が直接これに加担したこともあった」と、より表現を強めた。そのため、政府が公式に慰安婦の強制連行を認めたとの誤解を内外に広める結果となった。

産経 2014.4.2

2013/10/14

日本人慰安婦の証言 「誰を恨むわけではないが・・」


反日団体のスポークスウーマンと化した一部の慰安婦のせいで、慰安婦に対する偏見が酷いことになっている。好きで売春していたとか、腹が立つのは分かるがあの時代娼婦として生きるというのがどういうことだったのか、謝罪・賠償運動とは無縁の日本人慰安婦の証言から。・・・こういった話を英訳することで、海外の人に慰安婦問題の本質を知ってもらうという手もあるのではないか。慰安婦問題というのは、貧しかった頃の日本の女性悲話である。

なお、この証言は西野瑠美子の著書より取ったものだが、読む際には注意が必要だろう。彼女は証言者を慰安婦、証言者が働いていた場所を(国内の)慰安所街としているが、厳密な意味でこれらを慰安婦や慰安所と呼ぶべきか疑問である。

 当時木更津には、三軒町と六軒町という慰安所街があった。三軒町にあった慰安所は、「純粋な」軍隊慰安所である六軒町とは異なり、一般客とともに軍人も来ていたところだ。しかし国内の慰安所の実態がなかなか見えない中にあって、そこにいた女性に会えるということは大変な巡り合わせだった。

(中略)

一九一九年(大正八年)生まれの彼女の人生は、戦争を抜きにして語ることはできなかった。

「私は埼玉の生まれなんですよ。父は新潟の生まれで、屋根まで雪が積もるような地で育ったけれど、母と結婚してから埼玉に移り住んでいました。父は鉄道に勤め、ごく普通の家庭だったのですが、私か十六になった年に、生後百日ぐらいの弟を残したまま、母は赤痢で亡くなってしまったのです。私は長女で、下には四人の弟と妹が一人いましたから、高等小学校を出るとすぐに私は弟たちの面倒をみるため家に入り、家族の世話に明け暮れました。

ところが母が死んで四年後に、今度は父が脳溢血で倒れ、そのまま亡くなってしまいました。弟たちの面倒は、長女の私にすべて降りかかってきたのです。父が残したお金はすぐに使い果たし、食べていくために私は働きに出なくてはなりませんでした。といって、その頃六人家族を支えるような給金をもらえる仕事は、そう簡単に見つかりませんでした

そんなとき、私の従姉妹が訪ねてきたのです。彼女は木更津の遊郭に五年間いたのですが、年季が明けたといって帰ってきました。そして私の事情を知ると、『あんたも木更津に行きなさい。私か紹介してあげるから』と勧めたのです。他に就職のあてもなかった私は、従姉妹の『そこに行けばお金が儲かる』という言葉に魅かれて、ついに行く決心をしました。

鈴木楼に行き、契約を済ませると一二〇〇円の前借金をもらいました。二〇〇円は私の着物代などに当て、残りの1000円を家族に渡したのです。弟たちには、住み込みの工場に働きに出るのだと言いました。どうして遊郭に入るなどと言えたでしょう。家にはばあやか来てくれることになり、弟たちの面倒の心配はなくなりました。

私か鈴木楼に行ったのは、昭和十六年のことです。私は二三歳になっていました。三軒町には、鈴木楼のほかにあと二軒の遊郭があり、女は三人から五人ぐらいの小さな家でした。六軒町は航空隊ができてから建てられたものですが、三軒町は昔からあった遊郭です。鈴木楼には(私のほかにも親に売られて秋田から来た娘もいました。主人は私に『登志子』という名前をつけました。ほかにも『かおる』『絹子』『信子』といった女性がいました。

店を入ったところに私たちの写真と名前が貼ってあり、客はそれを見て女を決め帳場でお帳場さんに料金を払い、選ばれた女が呼ばれたのです。そこに来るのは一般人に混ざって兵隊もいました。しつこい人やいやなことを要求する人もいて……ひどい乱暴を受けることはありませんでしたが。

下士官は一日おきに外泊ができ、日曜日に限らず平日でもやってきました。来ても戦争のことは一言も話しませんでした。私も聞きはしませんでした。ただ、兵隊が大勢来た日など、兵隊たちはぼっそり『明日、敵地に行くんだ』と言ったものです。そうすると私もついつい慰めてあげたいという気持ちになったものです。あの頃は、こんな商売でもお国のためになるんだと思っていました。

一時間二円で、一日十人から十二、三人ぐらいがやってきました。一晩に泊まりが五人いて、かけもちで回ったこともあります。いつも眠くて眠くて、朝飯を食べるとすぐに眠ってしまうのですが、すぐにまた起こされて。

鈴木楼にいったとき、私は処女でしたからとても辛かった……囗では言えません。でも、逃げ出したら家族に迷惑がかかると思うと、それもできませんでした

それでも楽しみもあったんですよ。毎週、木更津の映画館に行くことが許されていたんです。その帰りにおしるこを食べたり葛餅を食べたりしたこともありました。楽しい思い出といったら、それだけですね。わずかな小遣いの使い道でした。給料は、十日ごとに計算されましたが、借金や食いぶちとか雑費などが引かれて、手元には十円ぐらいしか渡されない。それも映画を観たり髪結いさんに行ったりすればすぐに無くなってしまいます。それでも弟たちのことを考えると、少しでも貯金しなくてはと思い、日掛けで一日五〇銭を貯金のため主人(楼主)に渡しました。暮れになると主人からもらって、正月の準備に使うようにと、家に送りました。もちろん正月に私が帰ったことなどありません。弟たちには手紙を出しました。工場の仕事が忙しくて帰れないと・・・・・・。

兵隊の場合は、必ずコンドームを二個ずつ持ってきました。性病の検診は週に一回、千葉から来る医者に診てもらいました。木更津にも産婦人科の医者はいたのですが。そのときに梅毒の予防だといって六〇六号の注射を射たれました。検査のときには、他の家の女たちと一緒になるのですが、ほとんど話すことはありませんでした。愚痴をこぼすことはあっても、みんな自分の素性は話しません。こんな中で、親しい友人なんてできるわけがないですよ。みんな自分のことで精いっぱい。他人を頼ろうなんて考えもしませんでした。

(中略)

一緒にいた女の中にはそのままGHQ相手の慰安所に残った人もいます

でも、私の幸せも朿の間でした。四年後に夫は事故で亡くなってしまったのです。何年かして再婚しましたが、結局子どもは生まれませんでした

(中略)

「自分の人生を振りかえると、ただただ情けない。弟や妹のために仕方なかったけれど、両親さえ生きていたなら、私はこんな人生を歩まなくても良かったのにと、ついついそんなことを考えてしまいます。生きていくためだったけれど、一度狂った人生は、もう二度とやり直すことなんてできないですよね。恨むといっても、だれを恨むわけではないが……」


2013/09/22

来日する強制連行?証言者、三人揃い踏み

彼女たちは既に来日、証言を開始している

心臓も肝臓も悪い」と語ってから二年半。その後も世界中を飛び回っているイ・オクソンだが、あまり信頼の置ける証言者ではないような。カン・イルチュルも・・・。ちなみに、カン・イルチュルは「日本人なんか大嫌いさ・・・軽蔑するどころじゃないよ」と非日本メディアには語っている。パク・オクソンは比較的大人しい印象だが、韓国メディアによれば、夜中に水を汲みに出た所を日本軍と軍務員?に連行されたと語っている。三人とも日本軍・兵士による拉致(強制連行?)の証言者である。

元慰安婦3人が証言のため訪日 29日まで滞在

旧日本軍によって慰安婦にされた80代の被害者3人が22日、自らが受けた凄惨(せいさん)な経験を語るために日本を訪問する。

3人は元慰安婦が共同生活するソウル近郊の施設「ナヌムの家」にいる被害者。22~25日には東京に滞在。26~29日は京都で記者会見や証言会、日本の国会議員との交流会、集会などを実施する。

中でも今回の訪問では、これまで慰安婦問題の解決を求める決議が一度も採択されたことがない東京の議会での採択を促す予定だ。

高齢と持病にもかかわらず、3人が今回日本を訪問するのは、良識を持った政治家や人権活動家、若い世代の人たちに生の声を伝え、生きているうちに賠償と公式謝罪を受け名誉回復を図りたいとの思いからだ。

3人のうち李玉善(イ・オクソン)さんは日本出発に先立ち、「時間はほとんど残されていない。マスコミと政治家に期待している」と切迫感をあらわにした。

2013/09/15

AV女優と慰安婦の自分語り

初期の慰安婦は
対日協力者視されぬよう嘘をついていた気配もある

慰安婦の証言に偽りがあるのにも色々理由があり、一概に彼女たちを非難する事はできない(一部の活動家化したハルモニはともかく)。例えば、上野千鶴子は元慰安婦たちには「モデル被害者」にならなければならないという社会的圧力があったと分析している(要確認)。この辺の事情は、「傾城と卵に四角はない」と言われた吉原の遊女やAV女優もある程度似ていたのではなかったか。

「強制されているものがあるとすれば、それは自分語りのほうなのである」「性の商品化を問いただす既存の社会学にも、とんちんかんなところがあった」

現代の問題から慰安婦論争を解剖することも可能だろう。

AV女優の壮絶な経験談を「鵜呑みにしてはいけない」との指摘

【書評】『「AV女優」の社会学 なぜ彼女たちは饒舌に自らを語るのか』鈴木涼美/青土社/ 1995円

【評者】井上章一(国際日本文化研究センター教授)】

どうして自分はAV女優になったのか。そんな自分語りを、女優たちはしばしばくりひろげる。雑誌のインタビューのみならず、AVの画面でも。

それぞれ、なかなか聞きごたえもある。おもしろい語りになっている。だが、その表面的なあざやかさやわかりやすさをうのみにしては、いけない。彼女たちは、日常的に自分語りを要請されている。

仕事をもらうためには、業界内でのさまざまな面接をへなければならない。彼女らの語りは、たびかさなる面接をへて、みがきあげられていく。「お兄ちゃん」に犯された過去などは、いともたやすくつくられてしまうのだ。

こうした語りは、また彼女たち自身を納得させる効用も、もっている。ほんとうのところは、どうしてこの道にはいったのかがわからない。少女が自分の性を軽やかに商品化する。都会ではよく見かけるそんな場から、一歩ふみこんだだけだったのかもしれない。しかし、自分語りをつづけていくうちに、彼女らはもっともらしい説明へたどりつく。視聴者の欲望する女優像のみならず、今の自分が合理化できる語りを見つけだす。

女優のインタビュー集などは、気をつけて読まねばならないなと思う。性の商品化を問いただす既存の社会学にも、とんちんかんなところがあったなと、感じいる。彼女は自由意志でその道をえらんだのか、それとも強制されたのか。そればかりを問題にしていても、AVという世界は読みとけない。強制されているものがあるとすれば、それは自分語りのほうなのである。語りこそが売春の対象とされている状況に、今までの社会学は無力であったというしかない。

それにしても、どうして日本のAV画像は、しばしば女優の語りをはさみこむのだろう。彼女たちの身辺雑事にまつわるトークが、なぜ商品たりうるのか。私はそこに、日本近代文学の、私小説的な伝統を感じなくもない。諸外国のAVは、こういう女優の語りをどうあつかってきたのか。誰か対比的にしらべてくれないかな。

※週刊ポスト2013年9月20・27日号

2013/09/05

慰安婦のドイツ講演 (イ・オクソン)

誤解を正すぐらいしないと単なる反日活動家になってしまうのでは?

日本政府は変わらないという矢嶋。変わらないのは彼の方かもしれない。本文にもあるように矢嶋は昔、ナヌムの家でボランティアをしていた。ドイツに渡ってからも、運動家らと協力して慰安婦問題をドイツに普及させる活動を行っている。

アメリカでの講演を終えたイ・オクソンはドイツに渡り、矢嶋と再会。彼の通訳でドイツで講演している。ドイツのメディアによれば、彼女はアメリカでの証言と同様、慰安所は屠殺場であった話している。天皇ヒロヒト批判や、自分が(日本)兵によって釜山の路上で拉致されたとも話したようだ。韓国系の団体は、南ドイツ新聞に日本によって拉致された20万人超の慰安婦は主に11歳から15歳の少女であったと説明しているようである。人数のインフレーションと、年齢のデフレーションは相変わらず。

「日本の奴(일본놈)」の声を聞いても気分を悪さない日本人・・・ドイツ慰安婦証言会通訳引き受けた矢嶋氏

「なぜ度々日本の奴と写真を撮れといって!」

3日(現地時間)ドイツベルリン工科大で証言集会を開いた慰安婦被害者イ・オクソン・ハルモニ(86)は通訳を受け持った矢嶋宰(42)氏を示して気兼ねなく「日本の奴」と呼んだ。言葉とは異なり顔には情感が満ちていた。

矢嶋氏とイ・ハルモニの縁は格別だ。名門早稲田大学を卒業後、朝日新聞出版のカメラマンとして普通の生活を送った矢嶋氏は2003年会社を止め、京畿道広州市退村面元堂里のナムヌの家でボランティア活動をした。「加害国の市民の一人としてお婆さんが受けた苦痛を分けて悪い歴史に日本人たちがもう少し関心を持つようにするため」というのが当時彼が明かにした奉仕の弁だった。 イ・ハルモニともここで出会った。

矢嶋氏のボランティア活動は2005年まで続いた。その後、ドイツで写真家として活動、ドイツ人女性と結婚もした。そうするうちにイ・ハルモニが先月28日からドイツの様々な都市を回って証言活動をするという便りを聞いて通訳を自任したのだ。 彼は「日本政府は政権が変わってもまったく変わらない」と話した。

この日証言会では、200席余りの席が一杯になり、一部の聴衆は立ち見になるなど盛況となった。 生き生きした証言が続くと、すぐに一部の聴衆は目をとじたり涙を流した。イ・ハルモニは「(望みは)奪われた人権と名誉を回復することだけ」と答えることもした。
国民日報(聯合ニュース)2013.9.4

‘일본놈’ 소리 들어도 기분 나빠하지 않는 일본인… 독일 위안부 증언회 통역 맡은 야지마씨

“왜 자꾸 일본놈하고 사진을 찍으라고 해!”

3일(현지시간) 독일 베를린공대에서 증언회를 연 위안부 피해자 이옥선 할머니(86)는 통역을 맡은 야지마 쓰카사(42)씨를 가리켜 스스럼없이 ‘일본놈’이라 불렀다. 말과는 달리 얼굴에는 정감이 가득했다.

야지마씨와 이 할머니의 인연은 남다르다. 명문 와세다대를 졸업하고 아사히 신문 출판국 사진기자로 평탄한 삶을 살던 야지마씨는 2003년 회사를 그만두고 경기도 광주시 원당리 나눔의 집에서 봉사활동을 했다. “가해국민의 한 사람으로서 할머니들이 받은 고통을 나누고 나쁜 역사에 일본인들이 좀 더 관심을 갖게 하기 위해서”라는 게 당시 그가 밝힌 봉사의 변이었다. 이 할머니도 이곳에서 만났다.

야지마씨의 봉사활동은 2005년까지 이어졌다. 이후엔 독일에서 사진작가로 활동하며 독일인 여성과 결혼도 했다. 그러다 이 할머니가 지난달 28일부터 독일 여러 도시를 돌며 증언활동을 한다는 소식에 통역을 자처한 것이다. 그는 “일본 정부는 정권이 바뀌어도 도무지 변하지 않는다”고 말했다.

이날 증언회는 좌석 200여석이 꽉 차 일부 청중들이 선 채로 듣는 등 성황을 이뤘다. 생생한 증언이 계속되자 일부 청중들은 눈을 감거나 눈물을 흘렸다. 이 할머니는 “(소원은) 빼앗긴 인권과 명예를 회복하는 것 뿐”이라고 답하기도 했다.

연합뉴스

2013/08/30

河野談話関係者「泣きながら連れ去られるのを友人が見た」 (谷野元内閣外政審議室長)

泣き叫びながら少女が連行されるのを友人が見た (挺身隊の話か?)

河野談話見直し反対論にも二種類あるようだ。良いものだから撤回してはいけないという意見と、何がなんでも改「正」させまいというグループである。憲法問題で言えば、平和憲法の理想を変えたくないという純粋派と、日本政府が軍国主義復活を目論んでいると触れ回るようなナンセンス型(何がなんでも反対型)である。後者は、外国の反日グループと結びつく。慰安婦問題も同じ構図に陥った。

ややこしいのは、何がなんでも型の中には共産党のように強制連行説の拠り所として河野談話を死守しようとするグループがいる一方で、小川敏夫のように談話には強制連行があったとは書いていないのだから見直しの必要はないというレトリックを使う者がいる。

谷野作太郎は、小川議員と同じく、河野談話を批判する人は「談話に書いていないところ(強制連行の有無)まで内容を膨らませ、その点を批判している」と牽制するが、両者とも「書いていないところまで」内容を膨らませられた河野談話が日本叩きに利用されている状況が先にあることを省いている。例えば中央日報はこんな記事を掲載した。

谷野作太郎はまた、朝鮮人の娘が警官や兵隊の監視下で泣き叫びながらトラックで連れ去られたのを目撃したという話(慰安婦の話ではない)を韓国人の友人から聞いたと言っている。これが彼の意識形成(そして河野談話にも?!)に影響したらしいが、いっぺんアン・ビョンジク教授あたりにファクト・チェックしてもらった方がいいのではないか?

谷野は、小川と異なり河野談話の関係者であったから、自己弁護の意味もあるのだろう。その点は割り引いて聞いてやるべきなのかもしれないが。

特集ワイド:谷野作太郎・元駐中国大使に聞く/下 「河野談話」「村山談話」 「痛み」日本人として共有を

中国、韓国との関係が悪化する中、従軍慰安婦に関する「河野談話」(1993年)、「痛切な反省と心からのおわび」を表明した戦後50年の「村山談話」(95年)を否定するかのような動きがある。二つの談話作成に内閣外政審議室長として関わった谷野作太郎・元駐中国大使(77)が経緯などを明かす。【浦松丈二】

◇歴史の歪曲や開き直り 国の品格、誇り傷つける

−−「河野談話」には「証拠もないのに日本軍の強制連行を認めている」との批判もある。他方、これは誤解とする向きもあるようですが。

谷野 おっしゃるように「河野談話」を批判する人は、談話に書いていないところまで内容を膨らませ、その点を批判している。おかしなことです。女性の多くは集められた後、軍と行動を共にすることを余儀なくされ、前線で厳格な軍の管理下に置かれ、行動の自由はなかった。まかないや看護師の仕事と言われ、連れて来られたケースも多々ある。現地で現実を知り「話が違う」と逃げ帰ろうとしても、そこは前線です。あの談話はそういう世界を記述したものなのです。

私の韓国の友人。この人は日本の学校を出た人で私と同じ年ですが、彼は「子供のころ、自分の村では年ごろの娘を外に出すなと言われたものだ。それでも彼女らが横付けされたトラックに乗せられ、泣き叫びながら連れ去られていくのを目にしたことがある。そこにはオマワリやヘイタイもいた……」と。竹島(韓国名・独島)の話では冷静さを保つ彼も、この話になると大変感情的になります。

−−元慰安婦の女性に償い金を払う「女性のためのアジア平和国民基金」(アジア女性基金)の設立(95年)にも奔走なさいましたね。

谷野 日本は「女性基金」を設立し、オールジャパンで精いっぱいの対応をしてきました。韓国だけは「日本国としての謝罪と補償」を要求する市民団体の圧力に直面し、「基金」の事業は中途半端で終わらざるをえなかった。しかし、「謝罪」は「河野談話」や慰安婦だった人たちにお渡しした総理書簡に表明されているし、お渡ししている償い金の半分以上は日本政府支出によるものです。

韓国政府も当初、「基金事業のスタートをもって問題は解決した」と言っていたんですが、最近になって「未解決」と言い始めました。突然「情」(韓国で言えば「恨」の感情)が頭をもたげた。

もとより従軍慰安婦や戦後補償の問題は「カネですべてすんだんじゃないか」と開き直れる世界ではない。日本側の所作で心身に深い傷を負った人たちの「痛み」を日本人として共有することこそ最も大事なことだと思います。(以下略)

毎日夕刊(一部) 2013.8.28

一方で、谷野は安倍首相についてこう評する。・・・では、歴史を歪曲したり開き直ったりしている有力者とは、誰のことを言っているのだろうか?

 −−安倍晋三首相は15日の全国戦没者追悼式の式辞で、歴代首相が表明していたアジア諸国に対する加害の「反省」や「不戦の誓い」を表明しませんでした。

谷野 中国や韓国、そして米国などがいら立つのは過去の一時期の「歴史」について、時折、日本の有力な方々がこれを歪曲(わいきょく)したり、開き直ったりされる言動についてです。それは日本に対する国際社会の目線を下げ、日本人の品格、誇りを最も深いところで傷つけることになる。でも、安倍首相はいろいろなところでおっしゃっているところからみても、決してそんな方ではないと思います。



2013/08/24

若い女性が満州で聞いた朝鮮人慰安婦の話



コメント欄で喪黒福造さんが教えて下さった第三者による証言。桂心豊というこの女性は、詩吟の宗家。漁火通信(2010.10.1)によると、彼女は若い頃満州開拓団の団長であった父に連れられて満州に渡り、満州の洋裁学校を卒業後満鉄に入社した。

ある時、休暇中に新京郊外のにあった「ピー屋」に迷い込む。そこで見聞きした話を語っている。漁火通信の方が詳しいが、そこで彼女が出会ったのは、二十歳ぐらいの朝鮮人女性。日本語は流暢であった。三年働けば家が建つと隣村の周旋屋に説得されて満州に出稼ぎに来ていた。前線に出て行く兵隊からもらうチップもよい収入になると語っていたという。昭和18年(1943年)の話だという。

証言者が赤線と言っているように(漁火通信)、公式の慰安所かどうかは分からない。また時期によって、場所によって慰安所の状況は様々だったから、この証言を持って日本軍の慰安所というものに対するイメージを固めてしまうわけにも、全ての慰安婦が喜んで出稼ぎに来ていたと決め付けるわけにもいかない。しかし、証言者も満鉄で高給とりだったように、商売人も娼婦も外地まで行くと稼ぎになったのだろう(正確には朝鮮半島も外地)。これは「からゆきさん」の頃と変わらない。

前線に出る兵士からお金(軍票?)をもらうという話は他の慰安婦の証言にもある。お客である兵士には本当の事(悲惨な体験)は語らないと言う論者もいるが(兵士の証言は当てにならない、という主張)、これは当時同じ年頃の女性が慰安婦から聞いた話である点に価値があるといえようか。

悲惨な話もあれば、苦労を共にした慰安婦と兵士の心温まる交流も伝えられている。一方的な現在の言われようについて、証言者は我慢出来ないと言って涙を流している。


2013/08/05

作られる記憶 米国で相次ぐ強制連行(目撃)証言

慰安婦物語も一種の民族叙事詩なのか?

地元紙のBrittany Levine記者は、像の設置を推進する韓国系をコリアン・グループと言い、反対する日本人をジャパニーズ・ナショナリストと書く。実際にそういう印象を与えてしまっているのかもしれない。辛抱強く反対運動をする人がいる一方で、一部の日本人が感情的になってしまったという指摘もあった。70歳や90歳近い老人がこの目で見た(聞いた)と静かに訴えれば、人間の心理としてどちらを信用するか。これは仕方のないことなのだろう。

朝鮮半島で慰安婦狩り(強制連行)がなかった事は韓国の(一部の)学者も認めているので、この話は事実無根と言っていいのだろう。ただ、単純にこの人たちを嘘つきと片付けていいのだろうか?とくに後者の場合は、取材者も書いているように、戦争体験者の複雑な心境が、こういうことを言わせているのかもしれない。戦場で見た朝鮮人女性に対する同情から、この程度の嘘なら許されると思ったのかもしれない。「女の子達がみんな酷い目にあったのを見た」という部分は本当なのかもしれない。しかし、戦争体験のない68歳の老人が祖母から「慰安婦狩り」の話を聞いたと言っているのは、どう考えるべきなのか・・・。

日本帝国によって性奴隷にされた朝鮮人慰安婦の話は、韓国人にとって民族叙事詩になりつつあるのかもしれない。イタリア人が狼に育てられた双子の話をするように、韓国系は日本帝国の軍隊によってハンティングされた朝鮮人少女の伝説を語り継いで行くつもりなのかもしれない。

「わたしは、今86歳だよ。実際に戦争に行ったんだよ。10代のときに、日本軍が家にやって来て、男子は全員無理矢理戦地に連れて行かれたんだ。女子みんなも無理矢理連れて行かれたんだ。この目で見たんだ。」

「戦争に行ったっていうのは、日本軍の軍人として戦ったっていうことですよね?」

「そうだ。」

「この目で見たって、実際に何を見たって言うんですか?

女の子達がみんな酷い目にあったのを見たんだ。でも僕たちコリアンはコリアンガールには指一本触れなかったよ。」

そこで奥さんが横から言った。

「みんなこんなに小さな箱に入れられたよ。」

そう言うと、奥さんはおじいさんの背中に隠れるようにその場を離れた。

「キミたちは知らないんだ。ボクたちは見たんだ。」

ボクは、例え年老いたこの人たちと議論して論破できたとして何の意味があるんだろうかと思い、最後には「話をシェアしてくれてありがとう。」と言って愛想笑いをした。おじいさんが少しだけ表情を緩めた。

その間、ボクには、なんだか彼らが、どこかでボクを怖がっている感じがしてならなかった。慰安婦像設置の翌日に銅像にへばり付いている日本人がいるなんて想像もしなかったのかもしれないから、少しも不思議ではない。でも、それはボク個人を怖がっているというよりも、昔、戦時中に自分を苦しめた日本兵の姿をボクに重ね合わせて、当時言いたかったことをボクに向かって言っているようにしか見えなかった。

ジャパラ(一部) 2013.8.1

※ ジャパパラのモリサワ氏の記事は良記事です。一読をお勧めします。(彼がこのような碑には断固反対の立場であることも付記しておきます)

Joel Kwan, 68, drove from Irvine to take pictures of the monument to frame in his home. He was born in Korea around the end of the war and remembers his grandmother telling him stories of Japanese soldiers “hunting” teenage girls.(ジョエル・クワン<68>は家に写真を飾るためにIrvineから車でやってきた。彼は戦争の終わり頃に朝鮮で生まれ、祖母が日本の兵隊たちが十代の少女たちを「ハンティング」していた話をしてくれたことを覚えている)

※1 Glendale News-Press(一部) 2013.7.31

※1
'Comfort women' statue draws curious questions
July 31, 2013|By Brittany Levine

Maria Garcia from Compton huddled around the 1,100-pound monument Wednesday afternoon with her cousins as they waited for a family member to finish a test at the adjacent Central Library.

As they read the inscription, Garcia's cousin, Vanessa Santos, was shocked to learn that the young Korean girl sitting next to an empty chair represented nearly 200,000 Korean, Chinese, Filipino and other women who were taken as sex slaves by the Japanese Imperial Army during World War II.

The slaves would become known as “comfort women.”

“It's crazy to know that this happened,” said Santos, a 20-year-old from Torrance. “I had no idea.”

But Garcia’s initial reaction to the metallic statue was one of confusion.

“Why is the statue here?” the 19-year-old thought.

It’s a question other park-goers may have in the coming weeks — or at least those who aren’t clued into the political drama surrounding the comfort women issue and how it was focused on Glendale in the weeks leading up to the statue’s dedication on Tuesday.

While Korean groups want to raise awareness of the atrocities from decades ago, a group of Japanese nationalists who say comfort women willfully worked as prostitutes sent thousands of emails to Glendale officials protesting the memorial.

Glendale officials said the statue was a memorial to the suffering endured by comfort women that experts agree represents the true historical record.

It was a move heralded by hundreds of supporters on Tuesday, and one that continued to attract people from far and wide.

Joel Kwan, 68, drove from Irvine to take pictures of the monument to frame in his home. He was born in Korea around the end of the war and remembers his grandmother telling him stories of Japanese soldiers “hunting” teenage girls.

Kwan, who wasn't the only onlooker snapping photos, said he planned to ask his City Council to install a similar monument, which is actually a replica of one in front of the Japanese embassy in Seoul.

Glendale's is the first comfort woman statue on the West Coast, but Korean groups hope to install more — an intent that has riled Japanese nationalists.

The official Japanese government line — despite an apology issued in the 1990s — is that the history of comfort women should not be a diplomatic or political issue.

Several bouquets of flowers and a white lei from the unveiling ceremony the day before remained on the statue Wednesday. They inspired Mike Bievenouer, 67, to buy flowers too as he sat on the grass about 100 feet from the statue.

The Glendale resident was surprised to see the memorial at his regular lunch spot because he expected it to be in Los Angeles' Koreatown, unaware that 5% of Glendale's population is Korean.

After learning about comfort women at an exhibit inside the adjacent library, he thought it was an important symbol, but he hoped it wouldn't cause friction between Japanese and Korean communities.

“It's a terrible thing, but at some point you have to move on,” he said. “You can't build a future if you're stuck in the past.”

2013/08/04

韓国からも河野談話の裏づけ証言公表の声


河野談話の裏づけとなった証言を行った16名のうち、生存しているのは二人だけ。本人たちは「事実上」証言の公開に同意している、と聨合ニュースは伝えている。

「河野談話」から20年 根拠になった証言の公開要求=韓国

旧日本軍従軍慰安婦の強制性を認め、1993年に当時の河野洋平官房長官が日本政府の公式見解として謝罪を表明した「河野談話」が発表されてから4日で丸20年となった。この間、河野談話の根拠となった日本政府の聞き取り調査に協力した元慰安婦の証言者16人のうち生存者は、わずか2人に減った。慰安婦問題解決を目指す韓国の市民団体などは、時間との闘いという危機感の下、日本が政府調査団の聞き取り資料を公開して真相解明につなげることを求めている。

 従軍慰安婦問題の解決に取り組む「韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)」によると、93年に来韓した日本調査団の聞き取り調査で証言した被害者のうち生存しているのは87歳と82歳の2人だけだという。挺対協は1~2カ月に1回のペースで2人のもとを訪問しているが、1人は深刻な認知症を患い、もう1人は高血圧と糖尿病に苦しんでいるという。

 河野談話については、日本与党・自民党を中心とした保守勢力が「自虐史観」などと批判の対象にしているほか、「慰安婦の強制性を示す証拠はない」などとする意見が出ている。日本政界では河野談話の修正を求める声も上がっている。

 こうした中、高齢の元慰安婦は次々と亡くなっている。2011年8月には70人だったが、ここ2年で56人に減った。このため一刻も早く、日本政府から誠意のこもった謝罪と反省を引きだす必要があるとの指摘が出ている。

 93年に日本政府が16人に対して実施した調査の被害者証言を公開するよう、韓国政府が日本政府に対し強く要求すべきだとの声も出ている。

 日本政府は被害者の人権保護を理由に証言を非公開にしているが、韓国政府が発刊した被害者の口述資料が存在することなどを根拠に、日本が非公開を貫くのは無理があるとの見方も多い

 朝鮮半島からの強制徴用被害者の賠償訴訟を勝訴に導いた崔鳳泰(チェ・ボンテ)弁護士は「河野談話の根拠になった証言資料を公開することで、日本政府は慰安婦動員の強制性に異議をはさむ余地がないことを明らかにすべきだ。証言者は事実上、証言の公開に同意している。韓国政府がどれだけ強い意志を持って日本政府に公開を求められるかが鍵だ」と話す。

2013/07/18

欧米と日本で使い分ける「慰安婦証言」

イ・オクソンと抱き合うドノバン郡長
李は信用できる証言者なのだろうか?

慰安婦の証言が紹介される度に「嘘」だと脊髄反射するネット上の風潮も残念だが、確かに元慰安婦の中には問題のある人もいるし、支援者が「証言」をコントロールしている気配もある。例えば、最近では日本で慰安婦が証言する場合、荒唐無稽な話はしない。初期にはあったらしいが、日本ではいろいろと突っ込みが入るので無難な発言に終始しているようである。あるいは証言者自体も支援団体によって選別されているのかもしれない。ところが、欧米で証言する場合、日本では聞けないような話がしばしば現れる。

イ・オクソンが日本の軍(人)によって拉致されたという話を(アメリカで)語ったのは初めてではない。ただ、二年前の中央日報の記事では、アメリカでの発言とは断定し難かった(前後の文章からその可能性は高いと思われるが)。今回は、確実だろう。朝鮮日報によれば、彼女は「近所を歩いていたら日本軍に無理やり連行された」などとアメリカで話している。また、憲兵が二度と逃げられないようにしてやると言って軍刀を腕や足に打ち下ろしたとも語っている。スパイならいざしらず、なぜ憲兵が慰安婦を拷問するのか?日本では到底通用しない話でも、アメリカでは十分通用する。イ・オクソンの話を聞いてバーゲン郡のドノバン郡長は、涙を流し彼女の肩を抱いたという。

ドノバンにはスミア(中傷)キャンペーンに加担しているという自覚はないだろう

運動家たちは欧米と日本とで証言を(そして時として証言者も?)使い分けている。「欧米では女性の尊厳の問題と捉えられている」「関与があった事は否定できない」などと言っている日本人は、もう少し引いた視点でこの騒動を眺めた方がいい。イ・オクソンは、元々韓国でもこんな話はしていなかったのである(「従軍慰安婦問題を考える/慰安婦証言/李玉善」を参照)

慰安婦:「慰安所はと殺場のようだった」

李玉善さんが訪米、慰安婦としての体験語る

「15歳のとき、近所を歩いていたら日本軍に無理やり連行された。それから3年間いた場所は、人が住む所ではなく『と殺場』だった」

米国ニュージャージー州バーゲン郡庁舎の会議室で15日午前(現地時間)、元慰安婦の李玉善(イ・オクソン)さん(86)が70年ほど前のつらい経験を打ち明けた。李さんは「筆舌に尽くし難い苦痛を被った。家族と連絡を取ることができず、毎日強制的に日本軍人の相手をさせられた。自殺さえできなかった」と振り返った。

慰安所から逃げ出して捕まり、連れ戻されたこともあったという。日本軍の憲兵は「二度と逃げられないようにしてやる」と言って軍刀を李さんの腕や足に打ち下ろした。李さんが袖をまくると、右腕に4-5センチの刀痕が2本くっきりと現れた。

証言を聞いていたキャサリン・ドノバン郡長たちの目に涙がにじんだ。ドノバン郡長は証言を終えた李さんに花束を手渡し、肩を抱いた

李さんは在米韓国人の利益団体「市民参与センター」の招きで訪米。この日、ドノバン郡長の案内で、バーゲン郡の裁判所前に建立された慰安婦犠牲者を追悼する「慰安婦の碑」を訪れた。李さんは花を供えた後、しばらく無言で碑石を見詰めていた。碑石の銅板には英語で「第2次世界大戦の際、日本帝国主義の軍隊により性的奴隷にさせられた韓国と中国、台湾、フィリピン、オランダ、インドネシア出身の数十万人の女性と少女たちを追悼する」と記されている。

この慰安婦の碑は昨年10月に来韓したドノバン郡長が元慰安婦たちと面会し、建立を約束したもので、今年3月に設置された。同裁判所の前には米国の奴隷制度の犠牲になった黒人、ナチスに虐殺されたユダヤ人、英国の収奪に苦しめられたアイルランド人など全世界の人権被害者を悼む碑石が置かれている。

ドノバン郡長は庁舎で李さんを迎え入れながら「韓国での約束を守れてうれしい。李さんを案内できて光栄だ」と語った。李さんは「日本からの謝罪がないことがずっと無念だったが、米国でこんな風に私たちを記憶してくれて感謝する。恨みがずいぶん晴れた」と答えた。李さんは同日午後、ニュージャージー州パリセイズパーク市にある米国で最初に設置された慰安婦の碑も訪問した。


2013/07/13

慰安婦、ホロコーストサバイバーと再会


「돼지 풀과 사료를 주며」という部分を、どう訳すのか分からなかったが、「豚の草と飼料」を与えられたと訳した。間違っていたら指摘して下さい。食事に絡めた日本軍による虐待というイメージなのだろうが、食事の献立は慰安所の主人か賄いが決めるのである。豚の餌を食わされたとしても、それは経営者ががめつかったという話で日本軍は関係ない。しかし、何人の人が、彼女が「主語抜き」で話をしていることに気づいたか?

イ・オクソンは海外講演も多く、アメリカやカナダからもファンレターをもらうらしい。中央日報の英字版は、2年前、彼女が日本の軍人に拉致されたと紹介していたが、彼女の過去の証言と照らし合わせると疑わしい。

慰安婦被害イ・オクソン・ハルモニ「反省ない日本政府の態度に怒り」

日の慰安婦蛮行知らせようと再び米国訪ねたイ・オクソン・ハルモニ、ニューヨークでホロコースト生存者と再会…生き生きした証言に米大学生「驚くべきだ」

2011年12月米国、ニュージャージー州パリセイズパーク市に建てた海外初の日本軍慰安婦記念碑を訪れ、黙黙と涙を流して米国人の心を打ったイ・オクソン・ハルモニ(87). 彼が1年半ぶりに再びニューヨークとニュージャージーを訪れた。 高齢で10時間を越える飛行機搭乗も大変だったが変わらない日本政府の態度に我慢できなかったと話した。

11日(現地時間)午後、ニューヨークのクイーンズ・コミュニティカレッジのカッファバーグ・ホロコーストセンターを訪れた彼女は、当時一緒に会見に出たホロコースト(ナチのユダヤ人大虐殺)生存者のお婆さんとの再会の抱擁を交わした。 イ・ハルモニは「日本の反省ない態度に腹が立つ」として出ない声を力いっぱい振り絞って話した。 同席したチャールズ・レビン、ロン・キム・ ニューヨーク州下院議員など地元の政治家たちも首を縦に振った。

この日、地元の画家の日本軍慰安婦ハルモニをテーマにした美術展が同時に開かれ特別な来客も目についた。 今回の行事を主管した市民参加センター(注:KACE)が昨年から韓国などの辛い歴史を知らせるために開設した「東北アジア歴史の正義インターンシップ」に参加している米国大学生だ。 彼らはイ・ハルモニの証言に大いに驚いたようだった。

「慰安所に行ってみると、人住む所でなく屠殺場同じだった。 幼い少女に豚草と飼料をやって(? 돼지 풀과 사료를 주며 )延命するようにしてたし、死の淵(?)も数回渡さなければならなかった。 日本軍が強制的に私を引っ張っていったが日本は介入しなかったというと・・・」

イ・ハルモニが1942年16才の年齢に日本軍慰安婦に引きずられて行き、中国吉林省の延吉で解放された年まで体験した仕事を生き生き伝えると、すぐに大学生の質問が多くなされた。 イ・ハルモニは疲れることも忘れたまま一つ一つ答えた。 ある学生は「学校で一度も触れたことがない話」だったと話した。

イ・ハルモニは15日記念碑を再び訪問した後17日にはワシントンで開かれる日本軍慰安婦決議案連邦下院通過6周年記念行事に参加する。

東亜日報 2013.7.13

2年前の様子
イ・ヨンス(右端)は今回同行せず

위안부 피해 이옥선 할머니 “반성 없는 일본 정부의 행태에 분노”

日의 위안부 만행 알리려 다시 미국 찾아간 이옥선 할머니
뉴욕서 홀로코스트 생존자와 재회… 생생한 증언에 美대학생들 “놀랍다”

2011년 12월 미국 뉴저지 주 팰리세이즈파크 시에 세워진 해외 첫 일본군 위안부 기림비를 찾아 묵묵히 눈물만을 흘려 미국인의 심금을 울렸던 이옥선 할머니(87). 그가 1년 반 만에 다시 뉴욕과 뉴저지를 찾았다. 고령으로 10시간이 넘는 비행기 탑승도 힘들었지만 달라진 것이 없는 일본 정부의 행태를 참을 수 없었다고 말했다.

▶본보 2011년 12월 17일자 A6면 참조… “한국도 못한걸…” 美 위안부 추모비 앞 떠나지 못한 할머니들

11일(현지 시간) 오후 뉴욕 시 퀸스커뮤니티칼리지 쿠퍼버그 홀로코스트센터를 찾은 그는 당시 함께 회견에 나섰던 홀로코스트(나치의 유대인 대학살) 생존자 할머니와 재회의 포옹을 나눴다. 이 할머니는 “일본의 반성 없는 행태에 분노한다”며 나오지 않는 목소리를 힘껏 짜내 얘기했다. 자리에 함께한 찰스 래빈, 론 김 뉴욕 주 하원의원 등 지역 정치인들도 고개를 끄덕였다.

이날 현지 지역 화가들의 일본군 위안부 할머니를 주제로 한 미술 전시회가 함께 열려 특별한 손님도 눈에 띄었다. 이번 행사를 주관한 시민참여센터가 지난해부터 한국 등의 아픈 역사를 알리기 위해 개설한 ‘동북아 역사정의 인턴십’에 참가하고 있는 미국 대학생들이다. 이들은 이 할머니의 증언에 적잖이 놀라는 듯했다.

“위안소에 가 보니 사람 사는 곳이 아니라 도살장 같았다. 어린 소녀들에게 돼지 풀과 사료를 주며 연명하도록 했고 죽음의 고비도 수차례 넘겨야 했다. 일본군이 강제로 나를 끌고 갔는데 일본은 개입하지 않았다고 하니….”

이 할머니가 1942년 16세의 나이에 일본군 위안부로 끌려가 중국 지린(吉林) 성 옌지(延吉)에서 광복되던 해까지 겪었던 일들을 생생히 전하자 대학생들의 질문이 쏟아졌다. 이 할머니는 피곤함도 잊은 채 하나 하나 답했다. 한 학생은 “학교에서 한번도 접해 보지 못한 이야기들”이라고 말했다.

이 할머니는 15일 기림비를 다시 방문한 뒤 17일에는 워싱턴에서 열리는 일본군 위안부 결의안 연방 하원 통과 6주년 기념행사에 참석한다.

2013/07/05

慰安婦問題は100年戦争になるのか--山谷哲夫

左右両派ともよく調べてから発言すべきと山谷
(水曜デモに参加する日本人)

山谷哲夫については、旧ブログ時代に一二度紹介した。彼は、70年代に慰安婦問題を告発したパイオニアの一人である。にも関わらず、現在の支援運動家らのやり方には批判的である。

贖罪派には、日本の戦後責任をハッキリさせる会の原田信一のような人もおり(ハッキリ会に対する評価は別)、全てに賛同は出来ないにしろ、本気で、そしてまっとうな方法で日韓の友好を模索している人たちもいるのである。ところが、悪貨が良貨を駆逐してしまい、こういう人たちは殆ど表舞台に出て来なくなった。

山谷でさえ、慰安婦問題は反日の切り札と成り果て、どれだけ謝っても無駄だと見ている。彼は、これが100年戦争になると予言する(自分は、せいぜいその半分で沈静化すると思うが)。山谷も、運動家らの発言の中にはヘイト・スピーチまがいの物があると指摘している。「これでは日本の右翼が騒ぐわけである」、テキサス親父ことトニー・マラーノも同じような事を言っていた。山谷が言うように、一部の右派の極端な慰安婦バッシングを生んだのは、この問題を反日に利用した慰安婦支援者たちの側だろう。

※ 南京事件については、私は皇軍の栄光に泥を塗る事件だったと思っているが、勉強していないので「あったか無かったか」という議論は、ここでは勘弁して欲しい。ただ、戦場になった中国やフィリピンが深刻な被害を蒙ったのは否定のしようがないだろう(韓国の運動家は、「占領地」という言葉で韓国を中国などと故意に混同させようとしている)。

「韓国の過激な糾弾、中国の重い沈黙」-慰安婦問題を支えるもの

[...]35年ぶりに再び「慰安婦」を学びなおす事にした。これは、少なくとも韓国では日本の歴代の首相がどれだけ謝っても、門前払いし、結果として膠着状態にし、反日の「切り札」とし、100年戦争になるとぼくが予測したからである。

「慰安婦」問題を支援している日韓の女性たちは、余りにも「慰安婦」の実情を知らなすぎる。あくまで、いたいけな少女たちが「強制連行」で、中国等の戦場に投入されたと決め付けている。実際はそんな少女も混じってはいたが、大半は元伎生(きーせん)か、親に身売りされた女性、もしくは元もとの売春婦だった人も多い。「強制連行」は今の所、朝鮮半島では証拠が見つかっていない。

冷静に元「慰安婦」たちの証言を読んでみれば、上記の事実が見えてくる。ぼくは「文玉珠 ビルマ戦線 盾師団の「慰安婦」だった私」(梨の木舎 96)を勧めたい。元「慰安婦」の人たちのほうが支援する人たちよりも率直だし、声高ではない。

しかし、日韓の支援者たちの間では「ヘイト スピーチ」(憎悪表現)に近いことを平気で言う人が散見される。これでは日本の右翼が騒ぐわけである。「論より証拠」、もっと事実を良く調べてから、左右両派は発言しなくてはならない。

誤解を招くことを承知で書いて置きたい。実は「慰安婦」の問題は、韓国よりも中国の方がもっと深刻である事実である。[...]特に「南京事件」では、「皇軍」兵士が一体どれだけの中国人女性を強姦し、その後に殺したことだろうか!もちろん、正確な数字は掴めない。[...]ぼくは未だに大規模な南京から告発、糾弾がないことを不思議に思う。この重い沈黙はどこから来ているのか?(以下略)

渋谷区民オンブズマン(一部) 2013.7.4 [BU]

2013/06/14

「被害者」の証言は鵜呑みに出来るか?

いい思い出しか語らない者もいれば、辛い思い出ばかり語る人もいる

「被害者」の証言は、どこまで信用出来るものなのだろうか?いつも思い出すのは、千葉ロッテにいた金泰均。国に帰った後「本塁打を打っても(外国人だから)ハイタッチもしてもらえなかった」と日本での野球生活を振り返るのだが、映像がしっかり残っているわけで↓ 



人は自分の思い出を操作する。時に意識して、時に無意識に。これは野球選手でも慰安婦でも変わらないはずだ。昔ご隠居さんの所で知った話。

追記: 記事を差し替えた。この記事によると、キムは、”コーチが”ハイタッチを求めて来なかったとも言っている。コーチ連としっくりいっていなかったという事は、あったのかもしれない。

野球:金泰均、千葉時代の苦悩語る

[...]23日、大田市内のカフェで会った金泰均は、日本での挑戦を投げ出したことについて「全く後悔はありません。今は本当に幸せ」と言った。記者が「まだ納得できないファンが多い」と言うと、金泰均は重い口を開いた。

「地震は日本を離れることになった理由のごく一部です。僕はただ、ずっと好きだった野球が嫌になりそうで、それが怖かった。こう言うと、またいろいろ言う人がいるでしょうが、入団契約後、初めて日本の空港に着いた瞬間から息が詰まりました」

「僕は自由に楽しむタイプ。僕とは全く違う日本の野球のムードに慣れるのは難しかったんです」。金泰均は日本での1年目に4番打者で打率2割6分8厘、21本塁打、92打点を上げた。1年目としては無難な成績だ。前年リーグ5位だった千葉ロッテは、その年の日本シリーズで優勝も果たした。しかし、金泰均は優勝の感激を全く感じなかったそうだ。

「(チームで)誰も僕に『よくやった』『苦労したな』と肩をたたいてくれる人がいませんでした。傭兵はチームの成績に関係なく、とにかく自分の成績で結果を出さなければなりません」

このころからストレスが雪だるま式に増え始めた。「野球をしていて、いつも『チームの成績は個人よりも優先』と考えてきましたが、それを一瞬にして変えるのは簡単ではありませんでした」。打席でも楽しさを感じなかった。日本の選手がホームランを打つとコーチたちがハイタッチを求めてくるが、自分が打つと「傭兵だから当然」とでもいうように手も出さなかったという。

「僕はとても気が小さく敏感な性格なので、小さな音が聞こえても眠れません。小さなことが積もり積もって、僕のすべてをささげた野球がだんだん嫌になりました」[...]