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2016/11/19

釜山の91歳女性、新たに登録申請


昨年末の「日韓合意」以降4人が新たに元日本軍慰安婦として名乗り出ているらしい。例年こんな調子なのか、10億円がなせる業なのか。満ち足りた生活を送るナヌムの家の慰安婦らが「癒し金」を拒否する中、分け前に預かりたい人もいるだろう。果たして慰安婦として名乗り出ることを望んだのは本人か、それともその家族か・・・。女性家族省(部)の役人に本物を見分ける能力があるとは思えないので、申請がはねられるのはよほど信憑性が乏しいケースか。

91歳のお婆さんの告白「私も慰安婦だった」
釜山で二例目…面談・登録進行

釜山在住の90代のお婆さんが自分も日本軍の慰安婦被害者だったと難しい(?)告白をした。

釜山市沙下区に住むキム・マルスン(仮名・91)お婆さんが、日本軍慰安婦被害者として登録するために17日の午後、女性家族部の慰安婦専門調査員と面談した。これに先立ち、キムお婆さんの家族は9月に慰安婦被害の事情を少ない申込書を提出した。

釜山で慰安婦被害者の新規登録申請は、1月のパク・ソルリプ(90)お婆さんに続きキムお婆さんが2例目だ。 慰安婦被害者の登録は最低3ヶ月、長くて6ヶ月かかる。

登録までには日本軍による被害状況の証言と資料の検証がなされる。 女性家族部パク・ノギョン書記官は「高齢の申請者が老いから被害状況を上手く証言できないケースが多いが、 キムお婆さんは比較的細かく話した」と述べた。

慰安婦登録が完了すればキムお婆さんは「日本軍慰安婦支援および記念事業法」により生活費と医療給与を支援される。慰安婦被害者登録が始まってから計245人が名を連ねた(?)。現在の生存している被害者は40人。今年新しく登録を申し込んだ4人の中で登録を終えた人はまだいない。

国際新聞 2016.11.17[2]
91세 할머니의 고백 "나도 위안부였다"
부산서 두 번째…면담·등록 진행

부산의 90대 할머니가 자신도 일본군 위안부 피해자라며 어렵게 고백했다.

부산 사하구에 사는 김말순(가명·91) 할머니는 일본군 위안부 피해자로 등록하기 위해 17일 오후 여성가족부·위안부 전문조사원과 면담했다. 앞서 김 할머니 가족은 지난 9월 위안부 피해 사연을 적은 신청서를 제출했다.

부산에서 위안부 피해자 신규 등록신청은 지난 1월 박선립(90) 할머니에 이어 김 할머니가 2번째다. 위안부 피해자 등록은 짧게는 3개월에서 길게는 6개월 시간이 걸린다.

등록까지는 일본군에 의한 피해 상황 증언과 자료 검증이 이뤄진다. 여성가족부 박노경 서기관은 "고령인 신청자들이 노환으로 인해 피해 상황을 증언하기 어려운 경우가 많다. 김 할머니는 비교적 소상히 진술했다"고 말했다.

위안부 등록이 끝나면 김 할머니는 '일본군 위안부 지원 및 기념사업법'에 따라 생활비와 의료급여를 지원받는다. 위안부 피해자 등록이 시작된 이후로 총 245명이 이름을 올렸다. 현재 생존한 피해자는 40명이다. 올해 새로 등록을 신청한 4명 가운데 등록이 완료된 사람은 아직 없다.  

2015/09/09

強制動員名簿で認定された慰安婦、連行時10歳

どう考えても慰安婦ではない

83歳。終戦時は13歳くらい。12歳で日本に連れて行かれたと言うが、国民学校4年生なら、満年齢で9~10歳か。原爆が投下された1945年には広島にいた。この時、13歳。

1992年に慰安婦として韓国政府に認定されたような事が書かれているが、92年と言えば、韓国のマスコミが戦時中の学籍簿を漁って小学生が従軍慰安婦に動員された大騒ぎした年。その顛末は、産経の黒田記者の説明が分かり易い。中央日報も、学籍簿には学徒たちに対する説得過程・動員経緯・出発の日付・場所まで記録されていた、日本政府が体系的に従軍慰安婦の動員に関与していたことが証明されたなどと騒いでいたようである

本人は、思い出せない悪夢を口にしたくないと言っているが、断片をどう読んでも慰安婦の体験談とは思えない。戦後70年。高齢の女性から亡くなって行くと、ますますあり得ないような年齢の「被害者」が目立ってくる。今年の6月には、80歳の元慰安婦の訃報がニュースになった。一応、今年は戦後70年である。

<慰安婦生存者13人証言>12歳で経験した悪夢…その痛みを包んだ暖かいコート

  先月12日、慶尚南道昌原(チャンウォン)の金福善(キム・ボクソン)さん(83)の家を訪問すると、金さんは壁に静かにもたれてテレビを見ていた。ニュースが放送されるテレビから安倍晋三首相の名前が聞こえた。金さんはすぐに背を向けた。「安倍の話が出てくればテレビを消してしまう。あまりにも憎くて。以前の首相はまだこれほどではなかったが、この人は違う。私たち慰安婦被害者の話を少し聞くべきなのに…」。 

  金さんは12歳の時に日本に連れて行かれた。当時は国民学校(小学校)4年だった。誰かが当時のことを尋ねると、金さんは「はっきりと思い出せない」と答える。あまりにも幼かったということもあるが、それよりは悪夢を口に出したくないからだ。しかし金さんは「言葉で表現できない、日本は…」としながら話を続けた。「私たちが貧しく、もやしを育ててご飯を食べさせたが、警察や日本の人が来て器を足で蹴飛ばした。よい印象がない、日本は。慰安婦の時もあちこちに連れて行かれ、どこかはっきりと分からなかったが、本当に苦しかった」。

  金さんは広島の原爆の恐怖も振り返った。「広島県に爆弾が落ちた。その爆弾が落ちたところの近くに私たちがいた。それで布団などを持ってみんな出て行き、堀端に隠れていた。爆弾を受けないように。それははっきりと覚えている」。

  解放後に韓国に戻った金さんは遅れて中学校に入った。当時は中学校まで行くケースが多くなかったため、金さんが自慢する記憶だ。その後は結婚して子どももできた。みんなが貧しかった時代、金さんも子どもの腹を満たすためにあらゆる苦労をした。最初に始めたのは木の器を売る商売だった。休む間もなく働いていると、いつのまにか子どもが成長してかわいい孫が生まれ、小さな家も持った。しかし金さんの傷は癒えなかった。

  慰安婦被害者調査・登録が始まった1992年、政府は金さんが通った小学校の強制動員名簿を確認し、金さんを被害者として登録した。その後、一度だけ放送に出て被害事実を証言したが、当時に受けた傷のため二度と被害事実を述べたり写真を撮影したりはないという。

  「当時、近所の女性たちが私について『ああ、あの人の家はどれほど貧しかったのか…。あんなところに連れて行かれて』と話していた。私の中学校の同窓生もまだ近所に暮らしていたが、親しい友人も同じだった。それでいかなる行事に行っても絶対に写真も撮らず話もしない。私は…」。

  周囲の誰にも堂々と話すことができず、むしろ罪人のように暮らした。冷たい視線を向けられるのでは、子どもが被害を受けるのでは、と思うと怖かった。その金さんに小さな慰めになったのは別の被害女性だった。金さんは数年前から近い地域にいる被害女性と親しくなり、外出したりもする。小さな喜びも享受する時間は多くない。金さんはあきらめることなく日本政府から謝罪を受ける日を待っている。認知症にならないよう外出して人に会い、歌の教室にも通っている。金さんに最も重要なのは女性家族部から昨年贈られた冬用のコートだ。

  「これは私がデパートに行って自分で選んだ。本当に気に入って冬によく着た。健康が悪化して認知症になってはいけないので、できるだけ外に出ようと思う」。



2014/04/17

台湾馬総統 「慰安婦問題は下関条約のせい」

旧知の元慰安婦に駆け寄る馬総統

慰安所(軍中茶店)の写真と言われるもの
米兵も利用者だった(要確認)

シリカ太郎さんが教えて下さった時事の記事によると、台湾の馬総統が総統府に慰安婦を招いたのは三度目だそうだ。

「台湾の馬総統は・・下関条約が、鄭さんらの運命を決めたとして、従軍慰安婦問題を日本の統治による傷跡との考えを示した」・・・国民党軍(台湾)にも慰安所があり、金門島では90年代まで存在したと言われているのだが、90年代ということは日本で慰安婦問題が持ち上がった頃も台湾では慰安所が現役だったということになるのだが・・・。

このサーチナの記事では、編集者である如月隼人の解説が良い。

台湾・馬英九総統に新たな動き・・・台湾籍元慰安婦の女性と面会、尖閣諸島の主権を改めて強調

台湾の馬英九総統は17日、総統府に台湾籍の元慰安婦を招いて面会した。馬総統は同日、尖閣諸島問題についてのシンポジウムに出席し、「主権はわが方にある」と述べた。台湾の中央通信社が報じた。

馬総統は17日、総統府に旧日本軍の元従軍慰安婦の鄭陳桃さんと陳蓮花さんを招いた。2人は先に着席して馬総統の到来を待っていたが、入室した馬総統は足などの状態がよくない鄭さんが立ち上がるのに苦労するのを見て、駆け寄って助ける起こすなどした

馬総統は、日清戦争の講和条約として119年前に結ばれた下関条約が、鄭さんらの運命を決めたとして、従軍慰安婦問題を日本の統治による傷跡との考えを示した。

従軍慰安婦については、「国連人権委員会が1995年、性奴隷であり、人権を深刻に侵害した戦争犯罪のひとつと明確に結論づけた」と述べ、日韓で従軍慰安婦を巡る問題が深刻化していることについて「日本側が過去のことがらを正面から見ることが、正しい態度だ」と述べた。

台湾では5人の元慰安婦が暮らしている。馬総統は元慰安婦について、「1人も、(自分の人生を)後悔したり落胆していないことには喜びを覚える。すばらしいことだ」と述べ、政府は元慰安婦に毎月1万5000台湾ドル(約5万円)の生活費を支給し、医療保護、深刻な傷病の際には看護も手配していると説明した。

馬総統は、元慰安婦との面会に先立つ午前、中央研究院近代史研究所が主催したシンポジウム「多元的な視野による釣魚台(尖閣諸島の台湾側通称)問題についての、新たな議論」に出席した。

同シンポジウム出席に際して馬総統は改めて「主権はわれにある。争議は据え置く。平和互恵の共同原則」が政府の一貫した立場だと述べた。

シンポジウム会場の外では、主催の中央研究院関係者らが、「318公民運動の後、政府はいまだに善意ある対応をしていない」、「馬英九は人民の声を聴け」、「憲政を行え」などのプラカードを掲げて抗議した。

318公民運動とは、馬英九政権側が大陸とのサービス貿易協定の締結を強行しようとしたことで、学生が3月18日に立法院(国会)に突入し占拠したことに始まる、一連の大規模な抗議活動を指す。馬英九総統に対する支持率は長期間にわたって10%に満たない状態で推移している。

**********

◆解説◆
馬総統が論じた旧日本軍の従軍慰安婦についての「1995年の国連人権小委員会における結論」とは、同年に提出されたマクドゥーガル報告書を指すと考えられる。

同報告書は戦時における性奴隷問題全般について報告し、附属文書として日本の慰安婦について取り上げた。同報告書は旧日本軍の慰安所を「強姦収容所」、慰安婦を「性暴力を受けた性奴隷」であるとして、日本に国家責任があると主張した。

ただし、強制連行については問題として取り上げず、「日本軍の要請で慰安所を経営したもの、および利益を得た民間人のした行為に責任がある」とした上で、日本政府については「慰安婦への被害を防止できず加害者を処罰できなかったこと自体に責任がある」との見方を示した。

同報告書には、「作成にあたって使用した」と主張する資料と矛盾があるとの指摘もある。また、同報告書は従軍慰安婦が20万人存在としているが、この数字を疑問視する研究者も多い。

第二次世界大戦で、インパール作戦、サイパンやグアム、テニアンにおける日本軍玉砕、マリアナ沖海戦、台湾沖航空戦など激戦が続くとともに、日本がますます劣勢になった1944年時点で、陸海を合わせた日本の総兵力は400万人弱とされている。

従軍慰安婦は1日20人程度の接客を強制されたというが、従軍慰安婦が20万人存在したとすれば、ジャングルや中国大陸奥地の最前線にいた将兵を含めた平均で、旧日本軍人は1日に1回程度は慰安所に通っていた計算になる。

第二次世界大戦終結までの日本側の行為については、日本の責任を強調したいがために、誇大な数字が用いられる場合があるとの見方も少なくない。

日本人の間に自然な感情として、「できることならば、過去の非道な行為を認めたくない」との気持ちがあったとしても不思議ではない。そのため、戦前・戦中の日本の責任を追及する際に、根拠のはっきりしない誇大な数字などを使ったとすれば、多くの日本人が「やはり、事実とは異なる。ありえない話だ」と考え、正当な主張に対しても耳を傾けなくなる可能性がある。

過去における日本の責任を追及することの大きな目的は、日本人にも「過去の事実」を認めさせ、納得させることだろう。とすれば、誇大な数字や事実と異なる主張を盛り込むことは、過去の日本の責任を追及する上で逆効果ということになる。(編集担当:如月隼人)


サーチナ 2014.4.17

「日本は歴史直視を」=元慰安婦2人と会見-台湾総統

台湾の馬英九総統は17日、総統府で元従軍慰安婦の台湾人女性2人と会った。その際、慰安婦問題に関する16日の日韓協議に触れ、日本に対して「勇気を持って歴史の真相に向き合うことを望む」と注文を付けた。

従軍慰安婦について、馬総統は「国連人権委員会が性奴隷と位置付けており、人権侵害の重大な戦争犯罪だ」と指摘。日韓協議で具体的な進展が見られなかったことを「遺憾だ」と述べた。

馬総統が総統府に元慰安婦を招いたのは3回目

時事 2014.4.17
http://www.peeep.us/f425c05d

2013/07/09

NY市立大で再び慰安婦=ホロコーストキャンペーン


2011年には韓国からパク・ソニョン議員が参加

ニューヨーク市立大クイーンズボロー(区)コミュニティ・カレッジ(QCC)を中心に展開されている「慰安婦=ホロコースト」キャンペーンについては、お伝えし切れていない話が一杯ある。簡単に言うと、パリセイズパーク市に慰安婦碑を建てた連中が現地のホロコースト・センターの関係者の協力を取り付けることに成功。それ以来、学生向けに講座を開設したり、慰安婦とホロコーストサバイバーの出会いの場を作ったり、展示会を開催したりしている。これに、韓国の国会議員が参加したり、韓国の市民団体が連携している。

QCCとホロコースト、韓国系団体の人間関係

QCCで催された最初の「慰安婦=ホロコースト」キャンペーン
KACEの関係者とフルーグ、カバルロ (2011)

中央:ホロコーストセンターのフルーグ所長
左:S.カバルロ(慰安婦碑のデザイナー)
右:パリセイズパークの碑を管理するペク・ヨンヒョン

QCCのDiane B. Call学長

KACEとフルーグは慰安婦問題(戦争犯罪)を教育する講座をQCCに開設 (2012)

元慰安婦2人が訪米へ 国際社会に訴え

【広州聯合ニュース】ソウル近郊の社会福祉法人「ナヌムの家」(京畿道・広州)は8日、同所で共同生活する元旧日本軍従軍慰安婦の李玉善(イ・オクソン)さんと姜日出(カン・イルチュル)さんが10~23日に米国を訪れ、自身の悲惨な体験を国際社会に訴えると明らかにした。

11日にはニューヨーク市立大学クイーンズボーロ(ボロー)コミュニティ・カレッジカッファバーグ・ホロコースト・センターで開かれる旧日本軍従軍慰安婦とホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)被害者の共同行事に出席する。

17日にはワシントンで、日本政府に慰安婦問題での歴史的責任を認めるよう求めた下院決議採択6周年の記念式典に参加する。同決議採択で中心的な役割を果たしたマイク・ホンダ下院議員らとも再会する。式典には民主党のナンシー・ペロシ下院院内総務、エドワード・ロイス下院外交委員長らも出席する予定。

元慰安婦の被害女性らがいずれも80代という高齢を押して長時間の移動を伴う訪米に乗り出すのは、残された時間が少なくなり存命中に解決したいとの切実な思いからだ。ナヌムの家のアン・シングォン所長は、日本政府が責任を否定し歴史を歪曲(わいきょく)していると批判し、「日本の変化を促すために米国の役割が一層必要な時期だ」と強調した。


2013/07/08

橋下大阪市長、中国元慰安婦が懲戒請求へ


もちろん、高齢の元慰安婦がこんな事を思いつくはずはないわけで・・・。

橋下市長の発言問題で中国元慰安婦が懲戒請求へ

 日本維新の会の共同代表を務める橋下徹大阪市長が、旧日本軍の従軍慰安婦について「当時は必要だった」と発言した問題で、中国山西省に住む元慰安婦の女性3人が今月中にも、橋下氏が所属する大阪弁護士会に対し、懲戒請求する準備を進めていることが8日、女性らの関係者への取材で分かった。

 関係者によると、請求するのは、いずれも80代の李秀梅さんら。6月にも発言の撤回と謝罪を求め、大阪市などに抗議文を送っている。

 懲戒請求では、3人が「旧日本軍によって心身ともに大きな傷を負わされた」とした上で、橋下氏の発言について「旧日本軍の行為を弁解し、再び傷つけられた」「非常に怒りを感じる」などと訴えるとしている。

 李さんは1996年、ほかの3人とともに日本に国家賠償を求めた東京地裁の口頭弁論で、中国人元慰安婦として初めて法廷で陳述した。

 橋下氏は弁護士から政治家へ転身。慰安婦問題をめぐる発言では、大阪弁護士会の弁護士有志も5月に懲戒請求した。(共同)

サンスポ 2013.7.8

2013/03/31

対馬の盗難仏像問題とイ・ヨンス


慰安婦の政治利用の一例。出て来たのはイ・ヨンス。引っ張り出したのは、韓国ウォッチャーの間では有名なヘムン僧侶

盗難仏像「1体だけ日本に返還するべきだ」韓国団体が訴え

長崎県対馬市から盗まれた仏像2体が韓国で回収され「略奪された」と日本への返還反対運動が起きている問題で、朝鮮半島由来の文化財を日本から韓国側に返還する運動を続けてきた団体が、1体は早期に日本に返すべきだと主張していることが29日、分かった。

団体は、慰安婦だった女性らとともに、来月1日にソウルで記者会見を開き、仏像返還を訴えるという。

今回、団体が返還を呼び掛けるのは、2体のうち海神神社から盗まれた「銅造如来立像」。もう1体の観音寺から盗まれた「観世音菩薩坐像」については、韓国裁判所が当面日本に引き渡すことを差し止める仮処分決定を出している。

団体代表の僧、慧門さんは、銅造如来立像について「日本に奪われたことを示す何の証拠もなく、真実と良心に基づき盗品は元の場所に返すべきだ」と指摘。日本にある他の多くの文化財を韓国に返還する運動にも良い影響を与えると述べた。(共同)

産経 2013.3.30

2011/11/19

日韓基本条約は無効 元慰安婦が挨拶



いろいろな場所でスポークスウーマンとして活躍する元日本軍慰安婦だが、その中でもイ・ヨンスはエース格。野球に例えればダルビッシュかマー君かといったところ。

日韓基本条約が有効な条約であるというのは歴史認識の誤りから来る誤解(併合条約がそもそも無効)、と主張する団体が韓国で旗揚げ。写真は、その発足式で挨拶をするイ・ヨンス・ハルモニ。

韓日請求権協定の再交渉求める市民団体 韓国で発足

国交回復の際に締結された韓日請求権協定(1965年)の全面再交渉を求める市民団体「韓日協定の再交渉国民運動」が18日、ソウルのプレスセンターで発足式を行った。

同団体は創立宣言文で、協定は1905年に韓国の外交権を日本の外務省に一任した「乙巳条約」(第二次日韓協約)と1910年の韓日併合条約が法的に有効だとする誤った歴史認識に基づいていると説明。韓国を植民地化した日本の反省はどこにも見当たらないと指摘した。

また、日本の独島に対する領有権主張が続き、当時被害を受けた韓国国民の個人的賠償問題が解決されない根本的な理由は不当に締結された韓日請求権協定のためだと強調した。

メンバーには前政権で、開かれたウリ党(現民主党の前身)議長を務めた李富栄(イ・ブヨン)氏や挺身隊問題対策協議会、民族問題研究所など市民団体関係者ら620人余りが名を連ねている。

同団体は政府と国会に協定無効を公式に発表することを促す一方、強制動員被害者の訴訟支援、日本に持ち出された文化財の返還運動などを展開する。

聯合ニュース 2011.11.18

2011/11/05

1921年から慰安婦 タイで韓国人元慰安婦亡くなる



1921年で21歳。終戦の1945年には45歳・・・。挺対協はタイに住むこの女性とも接触して、韓国で開催された「第10回日本軍『慰安婦』問題解決のためのアジア連帯会議」にも招聘している。KBSが掲載しているこの古い写真は本人を写したものだろうか?45歳には見えない。

挺対協の過去のソース 閉架には、彼女は21歳だった1942年にプサン近郊の井戸で洗濯している時に日本の警察に強制連行された(그녀는 21세이던 1942년 어느 가을날 부산근교 동구밖 우물터에서 빨래를 하던 중 일본경찰에 강제로 끌려간)と書かれた物もある。

1921年というのは流石に誤植だと思うが、それはともかく、日本の警察に強制連行されたという話は果たして本人がそう言っていたものなのだろうか?韓国社会から遠く離れたタイに暮らし、戦後の反日教育とも90年代の慰安婦強制連行キャンペーンとも無縁だった老女が突如こんな事を口にするだろうか(もちろん、「強制連行」を体験した貴重な証言者であるという可能性もあるにはあるのだが・・・)?

元従軍慰安婦 タイの病院で死去

旧日本軍のための元従軍慰安婦だったノ・スボクさんが、韓国時間で4日夜、タイの病院で亡くなりました。90歳でした。
韓国挺身隊問題対策協議会によりますと、慶尚北道(キョンサンブクド)安東(アンドン)出身のノ・スボクさんは、21歳だった1921年、釜山から旧日本陸軍の従軍慰安婦として日本軍に連れて行かれ、シンガポールやタイなどで、慰安婦をさせられていました。
ノ・スボクさんは、日本が戦争に負けた後、国連軍の捕虜収容所に入れられ、韓国に帰国できずにタイで暮らしていました。
これで元従軍慰安婦の生存者は、65人となりました。

KBS WORLD 2011.11.5

挺対協の幹部は、過去タイまで出向いてこの女性と接触し、後に韓国に呼び寄せている。しかし、彼女たちは自国に今も暮らしているはずの朝鮮戦争時の韓国軍慰安婦には目もくれない・・・。

左の人物が挺対協のユン・ミヒャン ノ・スボク元慰安婦と

2011/10/30

黒田勝弘 元慰安婦は独立有功者なみ



これまで産経新聞紙上で繰り返してきた黒田記者の主張であるが、元慰安婦が「独立有功者」並に扱われている、支援団体が慰安婦を押し立てた反日運動を内外で展開しているという分析は正しいと思う。善意でこの運動を支援している日本人は多い。なぜこれくらいの事が分からないのか、と思うが、たぶんそれは韓国でも現場は「可哀想なハルモニの為」「韓日の不幸な歴史の精算の為」にやっている人が多いからだろう。そういう人々と接触した一部の日本人は同情して彼らと共闘するようになる。しかし運動の本質や主導者たちの本音は・・・。

独立有功者並に扱われている元慰安婦に「回復されるべき名誉」などあるのだろうか?


韓国にとって最大の反日テーマとなっている慰安婦問題。いまや彼女たちは独立の功労者のような扱いになっているという。産経新聞ソウル支局長の黒田勝弘氏がレポートする。
* * *
韓国では今でも、日本統治時代の昔、抗日独立運動など日本の支配に抵抗した経歴のある人を「独立有功者」として顕彰している。これを決めるのは「国家報勲処」という政府機関で、指定された人には国から手当など褒賞があり、亡くなると顔写真付で必ず死亡記事が出る。

ところが近年、戦時中に日本軍相手の慰安婦をしたことがあると、政府に届けている元慰安婦の老女たちも似たような処遇を受けている。政府が生活支援をしているほか、亡くなると必ず顔写真付で経歴を紹介した死亡記事も出る

死亡記事は政府がやっているのではなく、支援団体からマスコミに連絡が行くからだ。マスコミもそれを受けて律儀に伝える。だから元慰安婦の老女たちは、支援団体とマスコミによって今や「独立有功者」並みになってしまったのだ。

ただ、皮肉に考えれば彼女らだって「独立有功者」かもしれない。慰安婦問題は近年、韓国にとって最大の反日テーマになっているからだ。

「チョンデヒョプ(挺対協=挺身隊問題対策協議会)」を先頭にする支援団体は、彼女らを押し立てた反日運動を内外で展開してきた。1990年代以来、毎週、ソウルの日本大使館前での「水曜デモ」はこの年末で1000回を数えるという。この反日の組織力と執拗さはすごい!

NEWSポストセブン 2011.10.27
(SAPIO2011年11月16日号)

2011/10/02

ソウル市長候補、慰安婦を訪う




韓国の国民的アイドルとなった元日本軍性奴隷を、韓国の政治家が表敬訪問するのは珍しくない。ある意味、元日本軍慰安婦は現代の抗日戦争の英雄なのかもしれない。抗日という表現は少し違うかもしれないが、対日本(外交)戦争の闘士としての人気なのかもしれない。

パク・ヨンソン、ソウル市長候補が水曜デモを訪れる。

日本軍「慰安婦」問題解決のため第989回需要デモが開かれた28日午後、ソウル、中学洞の日本大使館の前を探した民主党パク・ヨンソン ソウル市長候補がハルモニたちと挨拶を交わしている。 日本軍「慰安婦」問題に対するわが国政府のニ者協議の提案に日本政府は拒否立場を繰り返しているなか、去る25日のソン・ナムイ、ハルモニの逝去で現在知らされた生存「慰安婦」被害者は67人に減った。

Nocut News 2011.9.28

'위안부' 피해 할머니 만난 박영선 후보


일본군 '위안부' 문제해결을 위한 제989차 수요시위가 열린 28일 오후 서울 중학동 일본대사관 앞을 찾은 민주당 박영선 서울시장 후보가 할머니들과 인사하고 있다. 일본군 '위안부' 문제에 대한 우리 정부의 양자협의 제안에 일본정부는 거부 입장을 반복하고 있는 가운데 지난 25일 송남이 할머니의 타계로 현재 알려진 생존 '위안부' 피해자는 67명으로 줄었다.

2011/09/03

謝罪したい側と謝罪させたい側の心理



韓国人慰安婦に深々と頭を下げ謝る若い日本人女性。韓国のニュースソースは「ごめんなさい。そして愛しています(미안합니다 그리고 사랑합니다)」「日本人を包み込むおばあちゃんの手(일본인 감싸는 할머니 손)」というタイトルをつけている。先月24日の水曜デモ(984回)での光景。

一方で誇らしげに日本を糾弾するプラカードを掲げる若い韓国人女性たち「日本は(こんな事で)誇らしいですか?」。これも同じ日に撮影された写真(いずれもニューシスの報道から)。


慰安婦騒動は日韓有志による共作である。これは確か産経の黒田記者も指摘していたと思うが、一方で日本を糾弾することで溜飲を下げる韓国人がいる。もう一方で懺悔し許しを請うことにある種の満足感を得る日本人がいる。こういった心情が噛みあって慰安婦問題は大きくなっていったのだろう。

しばしば「反日」の一言で片付けられてしまうが、懺悔することに満足感を覚える一部の日本人の心理はそれほど単純ではないように思える。謝罪派の中にキリスト教系が少なくないという事実も何かを示唆しているのかもしれない。

下の写真は今年3月の水曜デモで演じられた寸劇のワンシーンで、演じているのは両方とも韓国人だと思われるが、直立する韓国(の国旗を胸にした女性)の横で、深々と頭を垂れている日本という構図。これこそ、日本の謝罪派と韓国の糾弾派の満腹中枢をくすぐる光景なのだろう。彼女たちが満足するまで「慰安婦問題の真の解決」はないだろう。

2011/07/17

表彰される慰安婦



元日本軍慰安婦ファン・クムジャとイ・オクソンが李明博大統領から表彰された。財産を公共の福祉の為に寄付した功績が認められた。ファン・クムジャの寄付のニュースに関しては以前のエントリー参照。



李明博大統領が15日大統領府で開かれた「分かち合いと奉仕の主人公褒賞」の行事で生涯に集めた財産1億ウォンを寄付した日本軍慰安婦被害者ファン・クムジャ氏に国民勲章椿章を歩いてくれている。 イ大統領はこの日行事で「分かち合いと奉仕の美しい香りが全国津々浦々に広がることを願う」と明かした。 褒賞受賞者は国民勲章7人、国民褒章9人、大統領表彰5人、国務総理表彰3人...

이명박 대통령이 15일 청와대에서 열린 ‘나눔과 봉사의 주인공 포상’ 행사에서 평생 모은 재산 1억원을 기부한 일본군 위안부 피해자 황금자씨에게 국민훈장 동백장을 걸어주고 있다. 이 대통령은 이날 행사에서 “나눔과 봉사의 아름다운 향기가 전국 곳곳에 퍼지기를 바란다”고 밝혔다. 포상 수상자는 국민훈장 7명, 국민포장 9명, 대통령 표창 5명, 국무총리 표창 3명이다. 최고 등급인 국민훈장 무궁화장은 아프리카 수단에서 의료봉사활동을 펼치다 지난해 숨진 고 이태석 신부에게 돌아갔다.


イ・ミョンバク大統領が15日大統領府で開かれた国民が直接選んだ「分かち合いと奉仕の主人公」褒賞式および昼食会で、日本軍慰安婦被害者で2千万ウォンを報恩郡(ポウングン)民奨学会に寄付したイ・オクソン(81)ハルモニに国民褒章を授与している。




박동욱 기자 = 이명박 대통령이 15일 청와대에서 열린 국민이 직접 뽑은 '나눔과 봉사의 주인공'포상식 및 오찬에서 일본군 위안부 피해자로 2천만원을 보은군민장학회에 기부한 이옥선(81) 할머니에게 국민포장을 수여하고 있다.




イ・オクソンに関して、先月のニュースから・・

家の前の門に太極旗を掲揚して愛国精神を強調して有名税をせい減らしたイ・オクソン(女・81・写真・報恩郡(ポウングン)、俗離山面(ソンニサンミョン)社内リ)氏が政府褒賞国民推薦国民褒章受賞者に選ばれた。

国民推薦褒賞制は難しい環境で奉仕と寄付、先行を持続実践した隠れた功労者を国民の手で発掘して政府次元で褒賞するために導入した制度だ。 イ氏は日本軍慰安婦被害者で政府の基礎生活需給金と女性部が慰安婦被害者にあたえる生活安定支援金などを節約して一生集めた全財産2000万ウォンを報恩郡(ポウングン)民奨学会に寄付した。

イ氏は幼い時難しい生活環境で学習の夢をあきらめなければならなかっただけでなく慰安婦被害によってひっそりと静まって生涯を生きていくべきである痛みがあったが“国が富強にするなら人材を育てなければならなくて、それでもう二度と国を失う不幸がないように人材を育てなければならない”面人材養成に強い情熱を現わした。

今でもイ氏は学習に対する情熱で読書と文を書くのに熱中するなど学習を継続している。

집 앞 대문에 태극기를 게양하며 애국정신을 강조해 유명세를 탓던 이옥선(여·81·사진·보은군 속리산면 사내리)씨가 정부포상 국민추천 국민포장 수상자로 선정됐다.


국민추천 포상제는 어려운 환경에서 봉사와 기부, 선행을 지속 실천한 숨은 공로자를 국민의 손으로 발굴해 정부 차원에서 포상하기 위해 도입한 제도다. 이씨는 일본군 위안부 피해자로 정부의 기초생활수급금과 여성부가 위안부 피해자에게 주는 생활안정지원금 등을 절약하여 평생 모은 전 재산 2000만원을 보은군민장학회에 기부했다.


이씨는 어린시절 어려운 생활환경으로 배움의 꿈을 접어야 했을 뿐만 아니라 위안부 피해로 인해 남몰래 숨죽여 평생을 살아가야 하는 아픔이 있었지만 “나라가 부강하려면 인재를 키워야 하고, 그래서 두 번 다시 나라를 잃는 불행이 없도록 인재를 키워야 한다”면 인재양성에 강한 열정을 나타냈다.


지금도 이씨는 배움에 대한 열정으로 독서와 글쓰기에 열중하는 등 배움을 이어가고 있다.

東洋日報 2011.6.29

2011/04/21

ハーバード大で証言するイ・ヨンス(2007年)




ここで彼女が何を語っているか分からないが、彼女のこれまでの証言には色々と矛盾が指摘されている。

일본군에 의해 16살때 납치돼 '위안부'(성노예) 생활을 했던 이용수 할머니가 28일 미국 하버드대 케네디스쿨의 한 강의실에서 100여명의 청중을 상대로 당시의 참혹했던 삶에 대해 증언하고 있다.

日本軍によって16歳の時に拉致され、『慰安婦』(性奴隷)の生活をしていたイヨンスさんが28日、米ハーバード大学ケネディスクールの一教室で、100人余りの聴衆を相手に、当時の悲惨な生活について証言している。

[B-U] Jpn, Nico, PV

2011/03/14

地震で宋神道ハルモニ行方不明



ソ・シンド(宋神道)の証言は日本語でも公刊されているが、彼女は日本軍に連行されてはいない。彼女は母親の知り合いを名乗る朝鮮人の女性に騙されて「紹介所」に連れて行かれたと話している。

日本での史上最悪の大地震と津波が襲ってから3日目、死者と行方不明者が約5,000人を超えた中で、日本に住む慰安婦ハルモニ(お婆さん)が行方不明状態である事が判明した。

14日、韓国挺身隊問題対策協議会(以下、挺身隊対策協)によれば、日本の大震災被害地域である宮城県に住むソン・シンドさん(89歳・女)は、地震が起きた後に連絡が途絶えた。

忠南(チュンナム)・儒城(ユソン)出身のソンハルモニは、16歳の時に日本軍に連れて行かれて中国で慰安婦生活を強要された。戦争が終わってから日本で在日同胞と結婚した。ソンハルモニは日本で慰安婦被害者を明らかにした唯一の生存者として知られ、切なさを招いている。

ソンハルモニが日本政府を相手に謝罪と賠償を要求して、10年間法廷闘争を行った過程を描いたドキュメンタリー『私の心は負けていない』は、去る2009年に韓国で公開されている。

挺身隊対策協は、「現在、日本の『在日朝鮮人慰安婦を支援する集い』でハルモニの状況を各方面から調べていて、挺身隊対策協も外交通商部にハルモニの生存確認と救助要請を行っている」と話した。

NAVER 2011.3.14
HONEY MILK φ訳 2ch

追記: 無事が確認された。http://p.tl/2cwA なによりでした。韓国各紙の報道

日 대지진으로 위안부 할머니 행방불명

[아시아경제 김승미 기자]일본 사상 최악의 강진·쓰나미가 강타한지 사흘째, 사망자와 실종자가 5000여명이 넘어선 가운데 일본에 거주하는 위안부 할머니가 행방 불명 상태인 것으로 알려졌다.

14일 한국정신대문제대책협의회(이하 정대협)에 따르면 일본 대지진 피해 지역인 미야기현에 사는 송신도(89) 할머니는 지진이 난 이후 연락이 두절됐다.

충남 유성 출신인 송 할머니는 16살에 일본군에 끌려가 중국에서 위안부 생활을 강요당했으며 전쟁이 끝난 뒤 일본에서 재일교포와 결혼했다. 송 할머니는 일본에 위안부 피해자를 밝힌 유일한 생존자로 알려져 안타까움을 사고 있다.

송 할머니가 일본 정부를 상대로 사죄와 보상을 요구하며 10년 동안 법정 투쟁을 벌인 과정을 담은 다큐멘터리 '내 마음은 지지 않았다'는 지난 2009년 국내에서 개봉된 바 있다.

정대협은 "현재 일본의 '재일조선인 위안부를 지원하는 모임'에서 할머니 상황을 백방으로 알아보고 있으며 정대협 역시 외교통상부에 할머니의 생존 확인과 구조 요청을 하고 있다"고 말했다.

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2011/03/07

カナダ議会で証言した韓国人慰安婦亡くなる




挺対協はこの元慰安婦の名前を明かしていないが、カナダで慰安婦決議が採択された2007年当時のカナダの新聞によると、Jam-Dol Jangという韓国人慰安婦がカナダ議会で証言したことになっているので、たぶんこの人だろうと思われる。この女性は14歳の時にソウルで日本軍に誘拐され、8年間に及ぶ監禁生活中、四度出産したという。三人は死産であったが、その時の娘の一人は二十歳まで生きて心臓病で亡くなったというからよく分からない。日本兵により水攻めの拷問を受けたり、同僚は(日本兵に)殴り殺されたとも話している。取材したカナダ人の記者は、彼女が生き延びたのは奇跡だと書いているが、事実なら確かに奇跡だろう。

ちなみに、この時カナダでの慰安婦たちの証言を段取りしたのが、アルファという団体である。一部では反日団体とも言われいる。自分もその認識は正しいと思う。

確証はないが、右の写真の人物がJam-Dol Jangと思われる。


日本軍慰安婦被害ハルモニがまた一人、天国へ旅立った。 7日韓国挺身隊問題対策協議会(挺隊協)は「6日の夕方京畿道に居住されたハルモニが目をとじられた」と明らかにした。 死亡されたハルモニの名前を明らかにしなかった。

ハルモニの葬儀は「家族葬」で行われる。 現在の国内生存慰安婦被害ハルモニは74人だけだ。 挺身隊対策協は「ハルモニは家族の中で、最後道を行く予定」としながら「多くの方々が共に冥福を祈って下さることを望む」と明らかにした。

このハルモニは忠北(チュンブク)、ヨンドンを出て満州、シンガポールなどで日本軍「慰安婦」としてであくどい苦痛を味わわれたと分かった。 解放後慶尚道とソウルなどで暮らし、晩年には京畿道で安住の場所を開いてすごされたこと。

このハルモニは2000年代の初めに被害者として登録し、その後日本政府に対し名誉と人権の回復を要求する活動にも積極的に参加した。このハルモニは2006年オーストラリアドイツで開かれた証言集会、2007年カナダ議会決議採択の時、現地で証言と呼び掛け活動に参加した。

挺隊協は「難しい状況でも訂正(冷静?)さを失わず意志が強いお婆さんだったが、最近は健康が悪化し、病院に入院してから、気力がかなり弱くなり、ついに昨夕他界された」と明かした。

また、この団体は「この前病院で会ったハルモニは普段とは違い、涙を見せたりもしたが、暖かい春の日がくれば外出もし、また「水曜デモ」にも出てこられるといったが結局は長い別れてしまった」と惜しんだ。


カナダで証言した四人の慰安婦(右から二人目?)

追記: 3月8日の連合ニュースの日本語版でも報じられたが、やはり名前は伏せられていた。
追記: 3月8日のハングル版ではチャン某(장모)となっている。
追記: 3月9日挺対協の梁路子が日本向けのニュースとして女性の名前がチャン・ジョムドルであると明かしている。チャン・ジョムドルは16歳で連行されたとだけ書かれている。韓国のニュースにも日本軍(兵)によって誘拐されたことを仄めかす下りはないようだ。

"할머니, 편히 잠드소서."

일본군 위안부 피해 할머니 한 분이 또 하늘나라로 가셨다. 7일 한국정신대문제대책협의회(아래 정대협)는 "6일 저녁 경기도에 거주하시던 한 할머니께서 눈을 감으셨다"고 밝혔다. 별세하신 할머니의 이름을 밝히지 않았다.

할머니의 장례는 '가족장'으로 치러진다. 현재 국내 생존 위안부 피해 할머니는 74명뿐이다. 정대협은 "할머니는 가족의 품에서 마지막 길을 가실 예정"이라며 "많은 분들이 함께 명복을 빌어주시기 바란다"고 밝혔다.

이 할머니는 충북 영동에서 나셔서 만주, 싱가포르 등에서 일본군 '위안부'로 모진 고통을 겪으신 것으로 알려졌다. 해방 후 경상도와 서울 등에서 지내시기도 하셨고 말년에는 경기도에서 보금자리를 트고 지내오셨던 것.

이 할머니는 2000년대 초반 피해자로 등록했으며, 그 뒤 일본정부를 향해 명예와 인권회복을 요구하는 활동에도 적극 나오시기도 했다. 이 할머니는 2006년 호주와 독일에서 열린 증언집회, 2007년 캐나다의회 결의 채택 당시 현지에서 증언과 호소 활동에 참여하기도 하셨다.

정대협은 "힘든 상황에서도 정정함을 잃지 않으시고 의지가 강하셨던 할머니셨는데 최근 건강이 악화되어 병원에 입원하신 뒤로 기운이 많이 약해지셨다가 끝내 어제 저녁 눈을 감으셨다"고 밝혔다.

또 이 단체는 "얼마 전 병원에서 만난 할머니는 평소와 달리 눈물을 보이시기도 했지만, 따뜻한 봄날이 오면 나들이도 가고 다시 '수요시위'에도 나오시겠다고 했는데 결국은 긴 이별을 하고야 말았다"며 안타까워했다.

2011/02/01

タイに住む朝鮮人ハルモニ




ノ・スボク・ハルモニ、安東(アンドン)が故郷である彼女は今年92才だ。 彼女は21才だった1942年の秋ある日、釜山近郊東欧の外井戸の場所で洗濯をしている間に日本の警察に強制的に引きずられて行った後、東南アジア戦線に配置され約3年間日本軍の性奴隷生活を強要された。1945年日本が降参した時、同じ年頃の朝鮮人日本軍「慰安婦」女性一人と共にマレーシアにあった日本軍収容所を逃がれ出た。


'위안부' 피해자 노수복 할머니가 부르는 '아리랑'
태국 핫야이에 살고 있는 일본군 '위안부' 피해자 노수복 할머니
11.01.10 17:00 ㅣ최종 업데이트 11.01.10 17:01

노수복 할머니, 안동이 고향인 그녀는 올해 나이 92세이다. 그녀는 스물 한 살이던 1942년 가을 어느 날, 부산 근교 동구밖 우물터에서 빨래를 하던 중 일본경찰에 강제로 끌려간 후 동남아전선에 배치되어 약 3년간 일본군 성노예 생활을 강요당했다. 1945년 일본이 항복을 하던 때에 또래 조선인 일본군 '위안부' 여성 한 명과 함께 말레이시아에 있던 일본군 수용소를 도망쳐 나왔다.

전쟁은 끝났지만 노수복은 고향으로 돌아오지 못하고 말레이시아 잇포에서 가정부생활을 하다가 다시 핫자이로 거처를 옮겨 조그만 태국음식점 종업원으로 일하며 타국에서 전쟁같은 삶을 계속해야 했다. 그러던 중 중국계 태국인 첸 차오씨를 만나 결혼을 했다.

그러나 노수복이 일본군 '위안부' 후유증으로 아이를 낳을 수 없었기에 남편은 두 번째 부인을 맞아들였다. 해방이 되었지만 그녀의 고난은 연속이었다. 한국말도 잊어버렸다. 태국에 살면서도 태국인으로 귀화하지 않고 계속 한국 국적을 갖고 있는 그녀는 매년 비자갱신을 하면서도 국적을 포기하지 않고 살고 있었다. 나라가 그녀를 위해 해 준 것이 무엇이 있다고. 일본군의 '위안부'로 끌려가게 방치하고, 전쟁이 끝난후에도 버렸던 조국이었는데….

그녀는 그렇게 조국을 잊지 않으려고 힘든 삶을 자처하며 감내하고 있었다. 그래서 그녀는 의료보험 등 사회보장제도의 혜택을 전혀 받지 못해 병원비도 다른 노인들보다 갑절이 많다.

현재 노수복은 말레이시아와 가까운 태국 핫야이에 홀로 살고 있다. 할머니와는 전혀 관계가 없는 남편의 동생의 딸들이 할머니와는 전혀 혈육관계가 아님에도 주변에서 계속 보살피고 있다. 그나마 낮에는 조카들이 일하러 나가야 해서 돌볼 이가 없는 형편이다. 게다가 지난 2010년에 할머니는 폐의 한쪽을 절개하는 수술을 하느라 병원빚을 많이 졌다고 한다.

이 소식을 들은 한국정신대문제대책협의회(이하 정대협, 상임대표 윤미향)는 할머니의 어깨에 얹힌 삶의 무게를 조금이나라 덜어들이고 싶어 지난해 8월, 약 두 주간에 걸쳐서 인터넷 모금을 했다. 그 결과 할머니가 안고 있는 은행빚에 해당하는 약 200만 원의 성금을 모았다. 그 성금도 전달하고, 고향의 소식도 전할겸, 정대협 일행은 노수복 할머니를 만나기 위해 지난 1월 5일~8일에 태국 핫야이를 방문했다.

정대협 일행이 방문했을 때 할머니는 때마침 태국에 비가 많이 와서 집이 물에 잠기는 바람에 조카의 집으로 옮겨 지내고 있었다.

할머니께 고향소식으로 드리려고 갖고간 일본군 '위안부' 할머니들의 활동사진첩, 유자차, 김, 한과, 전통부채, 홍삼제품 등을 할머니앞에 풀어놓으니 할머니의 얼굴에 함박꽃이 피어났다. 같은 일본군 '위안부' 피해자들의 사진을 볼 때는 슬픈 듯, 반가운 듯한 표정들을 표해내기도 했다.

병원비로 진 빚을 갚으라며 성금을 건네니 할머니는 "뭘 이런 걸 주느냐"며 받지 않으려 하였다. 고향사람들의 마음이라고 간곡히 부탁하며 드리니 받아들고는 이제 병원빚은 다 갚게 되었다며 아주 좋아하셨다.

어린 나이에 고향을 떠나 타국에서 사느라 한국말은 알아듣기도 힘들어 했고, 더군다나 한국말은 전혀 하지 못했다. 그러나 노수복 할머니는 자신이 살았던 곳이 안동시 삼동면 안심리라고 우리말로 표현했고, 아버지, 동생들 이름도 정확하게 기억을 하고 있었다.

고향을 그리는 듯, 지난 아픈 역사의 상처를 호소하는 듯 '아리랑' 노래를 토해내셨다.

"아리랑~ 아리랑~ 아라리~요. 아리랑 고~개~를 넘어간다. 나를 버리고 가시는 님은 십리도 못~가서 발병난다. 아리랑 아리랑 아라리요~"

오래간만에 고국의 냄새를 느껴서일까? 자청해서 도라지 노래를 부르겠다고 하더니 "도라지 도라지~ 백도~라~지..." 숨이 차는지 더이상 노래를 잊지 못하였다. 다른 것은 다 잊어버려도 고향만큼은, 아리랑 노래만큼은 잊어버릴 수 없었던 할머니의 삶이 아픔으로 다가왔다.

할머니는 생일이 언제인지 몰라 해방되던 8월 15을 생일로 기념하고 있었다.

올해 2011년 생일에 할머니를 초청하겠다고 말씀드리니 혼자서는 못 온다고 하신다. 그래서 조카님과 함께 모시겠다고 하니 그러겠다며, 선물로 드린 홍삼도 열심히 먹고, 운동도 열심히 해서 건강관리를 잘하겠다고 한다. 귀가 잘 들리지 않아 소리를 질어야 하는 불편함이 있었지만, 의사소통이 되지 않아 통역자가 중간에서 마음을 전달해야 하는 불편함이 있었지만 가슴따뜻하고, 할머니 얼굴에 핀 웃음을 볼 수 있어서 좋았다.

할머니께 보청기도 보내드리고, 홍삼도 계속 끊기지 않게 보내드리겠다고 약속을 하고 왔다. 간병인을 쓸 수 있도록 지원방안도 만들어보겠다는 약속을 했다. 올해 아흔 두 번째 생신은 할머니가 그리워 하는 부산 영도다리도 모셔가고, 안동 고향에도 모셔가며 한국에서 생일잔치를 해드리겠다고도 약속했다.

많은 약속을 했지만 지난 90평생 힘들게 살아온 노수복 할머니의 고난의 삶에 조금이나마 함께하는 방법은 이 약속을 지키는 일이라고 생각한다. 지금부터 따뜻한 생일잔치를 준비해야겠다. 생일잔치에 함께 참여할 가족이 될 사람들도 모아야겠다.

'노수복 할머니를 고향에 초대하는 사람들 모임'에 함께 참여하고 싶은 사람들의 손길이 많아지길 기대해본다. (노수복 할머니 후원 문의는 정신대문제대책협의회)

2011/01/31

イ・オクソンの最後の願い



イ・オクソンという人は、当初は兵隊に誘拐されたとは言っていなかった。彼女の証言の変遷については、こちらのサイトに詳しい(名前が紛らわしくて申し訳ないが、当サイトとは無関係)。彼女は最近オランダのラジオ局の取材を受けていたが、その証言はさらに過激になっていた。いずれ紹介できると思う(こればっか)。

とにかく、韓国の新聞は、英字版だとかなりハメを外すキライがある。

国史が選択科目になる云々という話は、先日もちらっと出て来たが、こういった細かい所でもハルモニを政治利用しているのを見ると、ちょっとどうかな、と思う。

84歳のイ・オクソン(李玉仙)は、手の上のハガキの山を読みながら裏返す。ハガキには「ハルモニ、サランヘヨ(お婆ちゃん、愛してる)。Happy New Year」と書かれている。

最後の三つだけ英語で、あとは韓国語だ。短いが心温まるメッセージは、李がアメリカカナダの人々から受け取る沢山のメッセージの一つだ。

「この若い女性は歴史の先生なの。私の話を聞いてから、歴史をもっと理解し教えることが出来るようになったからと、毎年お礼にカードを送ってくれるんです」と特別な物語を持つ李は言う。彼女は、第二次大戦中、朝鮮半島を侵略した日本軍によって性奴隷として動員された「慰安婦」の数少ない生き残りの一人だ。現在、李は京畿道広州市にある元慰安婦の為のグループ・ホームで暮らす。

李がウルサン(蔚山)で日本の軍人たちに誘拐されたのは15の時だった。ちょっと用たしに出た所を捕まった。日本軍によってさらわれた他の少女たちと一緒に李は中国へ送られ、日本軍のバラックで慰安婦として三年間過ごした。李によると、休日になると50人もの兵隊がドアの外に並んだという。

兵士による激しい暴行のため、李の聴力と視力は激しく損なわれた。あまりに酷かったので、彼女は「台無しになって帰ってきた」。

1966年、李は自分の体験談を持って公に出る決意をした。

「私たちは『慰安婦の印を掲げる(かける)』と言ってるの」と李は言う。

李は米国、中国、日本、カナダやフィリピンといった沢山の国々を旅するようになる。慰安婦の真実を伝えるために。

「歴史を語って欲しいと言われて、他に選択肢はなかったの」女性センターの彼女の部屋の中で、外国の学生たちと撮った数えきれない自分の写真に囲まれて李は語る。

今となっては彼女の話ははかない思い出である。なぜなら李は病んでおり、生存する少ない慰安婦の殆ども同様だからだ。

「心臓も肝臓も悪いんです。死ぬ前に(日本から)謝罪を受けなければならないんです」狭心症も患う李は言う。彼女は昨年心臓の手術をし、時間が残されていないと気に病んでいると言う。

2010年の初めの時点で、韓国政府に登録された慰安婦は88人いた。しかし、たった一年でその人数は76人にまで減った。9人が昨年亡くなり、1月13日にさらに二人が亡くなった。

「まだまだ我が国には慰安婦問題について知らない人がたくさんいます。私は『慰安婦のサイン』を掲げて彼らに知らせているのです」。彼女の声は次第に小さくなった。

韓国の高校で国史の授業が選択科目になると聞いて、李は言葉を失った。

「私たち老いたお婆ちゃんは世を去る時なの。若い人たちは歴史を知るべき。私たちの純潔は15歳の時に奪われ、踏みにじられました。だけど(日本人は)、そんな事はしなかったと言ってるの」と李は言った。「私たちの娘たちは、歴史を知らなかったからといって同じ目に遭ってはならないのです」。

JoongAng Ilbo 2011.1.22

Last wish of former ‘comfort woman’

Lee Ok-sun, 84, turns over a pile of cards in her hands as she reads the words of one, which says: “Halmoni, Saranghaeyo [Grandmother, I love you]. Happy New Year.”

With the last three words in English and the rest scrawled in Korean, the short but heartfelt message is one of many Lee has received from people in the United States and Canada.

“This young woman is a history teacher. She sends me cards every year to thank me, saying she understands and teaches history better since she listened to my lecture,” said Lee, who has a special story to tell. She is one of the few remaining “comfort women” of Korea, who were drafted by the Japanese military as sex slaves during the Japanese invasion of the Korean Peninsula in World War II. Lee now lives in a group home for former comfort women in Gwangju, Gyeonggi.

Lee was just 15 when she was kidnapped by Japanese soldiers in Ulsan. She had just come outside to go on an errand when she was taken. Along with other young girls who were snatched by the Japanese military, Lee was sent to China and spent three years as a comfort woman in the Japanese barracks. According to Lee, on holidays as many as 50 soldiers would be lined up outside her door.

Because of the severe beatings from the soldiers, Lee’s hearing and vision were greatly impaired, so much so that she “came back mutilated.”

In 1996, Lee made the decision to go public with her story.

“We call it ‘hanging up the comfort woman sign,’” Lee said.

Lee began traveling through numerous countries — including the U.S., China, Japan, Canada and the Philippines — to tell the truth about the comfort women.

“I had no choice but to speak, when [they] were pleading for me to tell them about the history,” said Lee, surrounded by countless pictures of herself with foreign students in her room at the women’s center.

Now the lectures are fond memories because Lee is ailing, as nearly all of the last few comfort women are.

“My heart is bad. My kidneys are bad, too. I should receive an apology [from Japan] before I die,” said Lee, who also suffers from angina. She had heart surgery last year and says she is worried she is running out of time.

As of early 2010, there were 88 former comfort women registered by the Korean government.

But in just a year, their numbers have dwindled to 76. Nine women passed away last year and three others passed away on Jan. 13.

“There are still so many people in our country who don’t know about the comfort women issue. I put on the ‘comfort woman sign’ to let them know...” she trailed off.

Lee was at a loss for words when she was informed that history would become an elective course for Korean high school students this year.

“It is time for us old grandmothers to die. Young people should know the history and help. Our purity was taken away from us and trampled on at fifteen. But [the Japanese] are saying that they didn’t do it,” said Lee. “Our daughters shouldn’t have to go through the same thing because they don’t know the history.”

2011/01/24

あっぱれ、コリア・ヘラルドの英作文




さすがに今にもなっても、「朝鮮半島だけで20万人」の女性が慰安婦として連行されたなどとは、韓国のメディアでも書かないだろうと思ってよく見れば・・・これは、なかなか上手く書かれている。ある意味、アッパレである。

よく目を凝らしてみると、朝鮮半島から20万人の少女が、sent to war zones in Asia or some factories in Japan(アジアの戦場か日本の一部の工場に送られた)と書いている。

つまり内地に送られた女子挺身隊と、戦場へ送られた慰安婦の数を合算しているわけだ。

挺身隊は法律に基づき動員される(写真は日本人)。現代の韓国の徴兵のようなものである。慰安婦(所)というのは、軍が他の行政機関の了解も得て事業を誘致したものである。最近で言うと、国土交通省が音頭をとった「ようこそ、ジャパン」キャンペーンみたいなものか(ちょっと違うか?)。

90年代前半なら挺身隊と慰安婦を意図せず混同してしまうという事もあったろうが、2011年ともなると、これはわざとだろう。しかもmobilized(動員された)少女たちはアジア中の戦場か、some(いくつかの)日本の工場に送られたと言うのだから、知らずに読めば20万人の大部分が慰安婦にされたような書き方である。

さらに言えば、some girls(一部・少数の少女)ではなく、some factories(少数の工場)となっているから、文法的には「工場へ送られた少女は少数で、多くは慰安婦としてアジアの戦場に送られた」とも言っていないのである。読み手がそう錯覚したとしても、それはコリア・ヘラルドのせいではない、ということなのだ。

困ったものである。

Two old women whom the international media had called “former comfort women for the Japanese imperial army” died last week, ending their long hard lives. The deaths of Kim Seon-yi at a hospital in Ulsan on Thursday and Im Jeong-ja in Masan on the same day left 76 women of similar experiences alive. Kim was 83 and Im was 89.

世界のメディアが「日本帝国陸軍のための慰安婦」と呼んだ二人の老女が先週亡くなり、長い苦難の人生を終えた。木曜日に蔚山の病院で亡くなったキム・ソニと、同じ日に馬山で亡くなったイム・ジョンジャは、同様の経験をした76人の女性たちを残して先だった。キム83歳、イは89歳であった。

Last year, which marked a century since Japan’s annexation of the Joseon Kingdom, 10 former comfort women passed away. Because of their advanced ages, the number of surviving women will rapidly be reduced while there is little hope that they will be able to fulfill their ardent wishes ― the Japanese government’s admission of guilt on the state level.

日本による李氏朝鮮併合100周年の昨年、10人の元慰安婦が亡くなった。高齢のため、生存する女性たちは急激に減っていく。彼女たちの切なる-日本政府が国家レベルの責任を認めるという-願いが満たされる望みが殆どない中で。

The old women from the government-arranged shelter, the House of Sharing, and some others from provinces have held their weekly demonstrations in front of the Japanese Embassy in Seoul to urge the Tokyo government to end its silence and make sincere apology and compensation. Young activists join them in the Wednesday rallies, which they say will continue until Japan changes its attitude and until the last comfort woman dies.

政府の用意した収容施設ナヌムの家や地域の老女たちが、日本政府に沈黙を止めて誠意ある謝罪と賠償をするように促すべく、ソウルの日本大使館の前で毎週恒例のデモを行った。水曜日デモには若い運動家たちが合流し、日本政府が態度を改めるか最後の慰安婦が亡くなるまで続けると言っている。

When Japan offered compensation in the name of a private foundation in 1995, the then administration of President Kim Young-sam rejected it and took relief measures for the unfortunate women. Various records revealed as many as 200,000 young girls were mobilized from across Korea from the late 1930s and were sent to war zones in Asia or some factories in Japan.

日本が1995年に民間基金の名で補償を申し出た時、当時の金永三政府はそれを断り、不運な女性たちの為に救済手段を講じた。様々な記録が、1930年代の朝鮮全土から20万人もの幼い少女がアジアの戦場と、一部は日本の工場に送られたことを明らかにした。

In wars, armies kill civilians but there was no known precedent of any military systematically operating brothels with women taken from a colony. Japan simply cannot recognize and accept these most shameful deeds in its history. But it cannot extricate itself from the state-level responsibility for the inhumanity by just denying it.

戦争では軍隊は市民を殺すものだ。しかし、これまで軍隊が組織的植民地から女性を調達して売春宿を運営したなどという例は知られていない。日本政府は、単純にこの歴史上もっとも恥ずかしい自らの行為を認めることができない。しかしそれを否定したところで、この非人道的行為に対する国家責任からは逃れらない。

Ten or 20 years from now, there may no longer be a witness to testify the crime. Yet the souls of the victims would still be waiting for words of conscience from the authorities in Tokyo.

10年か20年後には、この犯罪を証言する証人もいなくなっているかもしれない。それでも、犠牲者の魂は日本政府の良心の声を待ち続けているだろう。



戦争では兵士による不法行為は起こりうる(韓国軍も例外ではない?)。しかし日本軍の慰安所は特別だ、という主張は昨日紹介した絵本作家クォン・ユンドクの主張と同じ。

最後は、被害者は死んでも魂は不滅だという形で結んでいる。

2011/01/09

慰安婦の思い出【NYT】1995年



[メモとして、ざっと要点のみ] 1995年のニューヨーク・タイムズに掲載された在米韓 国人元慰安婦のインタビュー。インタビュアーは、有名なノリミツ・オオニシではなく、JANE H. LIIという記者。本当の話とそうでない部分が混ざったような印象。前半はちょっと怪しいかな?




1944年のことだった。16歳の時、日本政府の為に働いていた役所の事務員が日本人警官と共に家にやって来て、女子挺身隊として天皇陛下の為に働くために郡の役所へ出頭しなければならないと告げた。他の愛国女性たちと軍需工場で働き給料がもらえると言われた。

母親は拒否したが、数日後再び警察が来た。母親も自分も泣いた。しかし郡の役所に引きずられて行った。そこには30人の少女が集められていた。そこからトラックで近くの軍用列車まで運ばれた。日本の兵隊が護衛していた。

満州のQiqiharにある陸軍の基地に到着すると、日本の将校が服を破こうとした。

「最初の頃は抵抗しました」「しかし酷く殴られたのです」

新入り(処女)は将校用でした。将校が済むと兵隊の番でした。

到着すると、毛布とタオル、軍服を支給され鉄条網で囲われた軍の食堂に入れられた。中は小さく区切られていて、週7日、朝の10時から夜の10時まで日本兵とのセックスを強制された。しばしば将校の相手をした。兵は軍票で8円を支払った。日本人の管理人(経営者?)からは家に帰る時にお金をもらえると聞かされた。

時に慰安所のない遠方の基地に出張した。

何度か脱獄を試みたが、捕まり捕獲者たち(captors)に激しく殴られた(文脈からは日本兵にと読める)。ある日トラックから飛び降りたところ、怒った兵士たちが彼女の指を切り落そうとしたと、彼女は傷を見せた。

性病治療の注射や受けた暴行で、体はダメになった。

1945年のある日、目が覚めたら戦争が終わり日本人の捕獲者たち(Japanese captors)はいなくなった。女たちは見捨てられた。約束のお金はもらえなかった。韓国に帰り、Munsanの米軍基地の近所に住んだ。それから釜山に移った。

叔母を通じて母にあった。家に帰った来るよう言われたが断った。母と妹に自分の試練を伝えたのは何十年も経ってから。1979年に姉妹の招きでアメリカへ。

日本政府に賠償を要求する韓国人慰安婦の動きを注視している。1993年になってようやく日本は公式に強制売春に関与していたことを認めた。

彼女の弁護士キム氏は、韓国系アメリカ人挺身隊連合(Korean-American Coalition on Jungshindae)のメンバー。


LOOKING BACK; The Memories of a Comfort Woman
By JANE H. LII
Published: September 10, 1995

WEARING a skirt that covered her ankles and a Korean-style linen shirt, the old woman sat on a bamboo floor mat in her studio apartment in central Queens and told her story slowly. At first she was calm as she methodically peeled apples, apple pears and Korean white-fleshed peaches for the visitors. Her figure was erect, her eyes cast down, her ageless face stoic. But as she continued, her shoulders slumped toward her knees, and she curled up like a ball.

"I'm just waiting to die," the woman, D. Kim, said.

It was a bright fall day in 1944, she remembered, and the persimmon leaves were turning a shade of purple-red. She had become accustomed to living as part of a conquered people in the Japanese-occupied village of Ulsan in southern Korea. She was forced to take a Japanese name, speak Japanese in school and bow to Japanese soldiers whenever they passed and twice a day to the portrait of Emperor Hirohito that hung in her classroom.

But on this day, a Korean town clerk working for the Japanese Government and a Japanese policeman came to her home. She was now 16 years old, they said, and must go to the county office to join Jungshindae, the Women's Volunteer Labor Corps, to fight for the Emperor. She would be working in a military factory along with other patriotic women, and she would even be paid for her work, they said.

Her mother refused. But a few days later, the police came again. "My mother cried," she said. "I cried. She didn't want me to go." But this time they dragged her to the county office, where some 30 girls had been assembled. They were trucked to a military train nearby. For the next week, they endured a grueling trip across the Yalu River in a windowless boxcar lighted by candles. Japanese soldiers with bayonets stood on guard.

"I was scared during the trip," said Miss Kim, who insisted that her first name not be used and spoke through the translation of her lawyer, John H. Kim, who is not related. "We had no idea where we were going. I thought we were going to work at the military factory."

Miss Kim said she realized what was happening to her soon after she arrived in an army base in Qiqihar in Manchuria, in northern China, when a Japanese officer tried to rip off her clothes.

"I fought them during the first days," she said. "But they beat me so badly."

The new arrivals -- virgins -- were reserved for officers and became "comfort women," Miss Kim said. It was only after the officers were done with the women that the soldiers would get to them.

After arrival, each woman was given two blankets, one towel and a military uniform and settled in a barbed-wired wooden mess hall, which was divided into small cubicles with single-size mattresses on the floor. There, from 10 A.M to 10 P.M., she was forced to have sex with Japanese soldiers who lined up outside the hall. She served up to 50 soldiers a day, seven days a week.

"Often I had to spend the night with an officer," Miss Kim said. "Each soldier paid eight yen in military coupons. The Japanese keeper told us that the money would be given to us when we returned home."

Often, the women were trucked to military bases when the soldiers were stationed too far away to travel to "comfort stations."

Miss Kim said she tried to escape several times, but was caught and severely beaten by her captors. One night, she jumped off a truck. In addition to beating her, the angry soldiers tried to cut off her fingers with a knife, she said. She showed the scars.

In the "comfort stations," the women were frequently inspected by Japanese military doctors and were given shots for venereal diseases. "Sometimes I received the shots," Miss Kim said, her voice cracking as she sobbed uncontrollably. "I was bleeding. My body is completely ruined from the medication and the beatings I received."

ONE day in August 1945, Miss Kim awoke to find her Japanese captors gone. The war was over. The Japanese had surrendered. And the women had been abandoned, without the money they had been promised.

"I had mixed emotions," she said. "I was glad that the war was over. But I was so angry and ashamed about my situation."

With no place to stay, Miss Kim decided to return to Korea. Without a penny to her name, she began the long, two-month journey on foot. In Korea, she first settled near the American military base in Munsan, then in Pusan, living in shame, not wanting to disgrace her family. Some years later, she met her mother through an aunt. Her mother had invited her home, but she refused.

"What could I have done?" she asked. "I didn't want anybody to know."

It was decades before Miss Kim finally told her mother and her younger sister about her ordeal.

In 1979, at the invitation of the sister, who was living in New York, Miss Kim immigrated to America to forget her miseries and to live a life in anonymity.

Her ordeal had lasted one year. Her life was ruined forever. Miss Kim lives alone on Social Security disability checks and the generosity of her sister. She has few friends and receives virtually no visitors.

She carefully watches the efforts of Koreans who are suing Japan to get reparations for the comfort women. It was only in 1993 that Japan formally recognized its involvement in the forced prostitution. Mr. Kim, her lawyer, is part of a group that is fighting for the reparations, the Korean-American Coalition on Jungshindae. Last week, Korean officials raised the issue at the United Nations's women's conference in Beijing.

"Many nights I lay awake, awaiting my death," Miss Kim said, trembling from anger. "I could not erase those horrible images from my mind. How can they ignore me like this after trampling down on an ignorant, weak teen-ager to suffer for the rest of my life?"

2011/01/06

夫は日本人?【亡き慰安婦】出頭したところを連行?




これは前のエントリーに追記しようと思ったのだが、量が多くなったので別立てとすることにした。

昨年末亡くなった元慰安婦チョン・ユンホンについて、韓国の各紙は夫の存在には触れていたが、名前までは出していなかったように思う(とりあえずYahoo!Koreaに転載された7紙の記事の中にはなかった)。

ところが、挺対協の声明をヤン・ノジャ(写真)が日本語で発信しているのだが、それによると、夫の名前は「ニシハラ」と言ったらしい。ということは、日本人(内地人)か1939年の「創氏改名令」以前から日本風の名前を名乗っていた朝鮮人(半島人)ということになる。

もしもニシハラが日本人であれば、 徴用令は1939年から適用される。よって、夫が1940~41年に徴用されたという話と矛盾しないことにはなる。しかし、普通日本人には「(強制)連行」という言葉は使われない。

なぜか日本人の場合は強制連行と言わないのだが、実際には多くの日本人が兵士として戦場に「強制連行」され、あるいは慰安婦や従軍看護婦として「強制性」の下で働いていた。しかし、彼(女)たちがサバイバーや「被害者ハルモニ」などと呼ばれることはない。朝鮮半島から徴用される内地人が徴用の義務 を免除されていた半島人を羨んでいたという話もある。 

チョン・ユノンハルモニは
1920年に忠清南道唐津で生まれ
1933年に15歳でニシハラ氏と結婚し二人の子どもをもうけました。
1942年ごろに徴用で連行された夫の死亡通告を受けて出向いたところ
22歳で「慰安婦」として連行され中国で日本軍性奴隷として生きなければなりませんでした。



これはつまり役所か警察に出頭したところ、その場で慰安婦として拘束されてしまったケースということなのだろうか?この人が満12~3歳で結婚しているのも驚きである。


(写真: チョン・ユンホン)