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2017/08/12

ミンディ・カトラーの「血の中傷」

慰安婦決議6周年イベントでのカトラー

キム・ヒョンジョンらが、アトランタで一度は失敗した「少女像」をブルックヘブン市に持ち込むことに成功したが、日本からの抗議に加え、周辺住民にまで顰蹙を買ってしまった。そこへアメリカ下院決議の頃からこの問題に関わっている反日屋ミンディ・カトラーが登場。市はこの像を誇りに思うべきだという意見を新聞に寄稿した。ところが、コメント欄にはカトラーに賛同する声は殆どなく、反論の方が目につく。もっとも、Reporter Newspapers 紙は、これまでにも何度かこの問題を取り上げておりマイケル・ヨンがフェイスブックで紹介したから、マイケル・ヨン経由の論者が集まった(そして一般のアメリカ人は、この問題に興味がない)という事情もあったかもしれない。日本擁護がコメント欄の多数派という例は珍しい。

幾つかあった反論の中で、ユダヤ系アメリカ人が、カトラーの「血の中傷」だと批判していたのが興味深かった。血の中傷とは、ユダヤ人に対する迷信的なデマで、ユダヤ人がキリスト教徒の子供を攫い、その血を儀式に使うなどという、最も深刻な民族的偏見であり中傷である。反ユダヤキャンペーンは、「キリスト教徒の子供の安全」という口実で行われたとこのユダヤ人は言う。人身売買防止を口実にするカトラーのやり方は、まさしくこれだと。

私は、第二次世界大戦の歴史について連邦議員などにアドバイスを行うワシントンDCの学者です。

私は、2014年にニューヨークタイムズに書いた「慰安婦と、事実を巡る日本の戦い」の中で、日本帝国に性奴隷として使役された慰安婦女性(と少年)は、戦争における人身売買と性暴力犯罪という、より大きな問題の象徴であるという事を明らかにしようと試みました。

ブルックヘブンのメモリアル(訳注:慰安婦像)は、時代を超越したこの終わりなき戦争の悲劇のシンボルなのです。事実として、第二次世界大戦中、日本帝国は合法的な売春の枠外に、国家が認可し管理した戦時性奴隷システムというユニークなシステムを持っていたのです。

あなた方に聞こえてくる反対意見のほぼ全ては、日本の右翼と嫌韓集団によって仕組まれたものなのです。彼らは人種差別と戦時中の日本の栄光に対する妄想という有毒な化合物に突き動かされているのです。これらのグループとそのスポンサーは、日本の首相と彼の党の政治的基盤でもあるのです。

こういうわけで、あなた方のブルックヘブン市で、日本の外交官たちがホロコースト否定論者のようにコソコソと歴史を否定し恥を晒しているのです。だから注目されるのは韓国ばかりで、オランダ人の母親だったり、ドイツの宣教師だったりフィリピンの農家の娘だったり、台湾の原住民だったり、インドネシアの村人だったり、ベトナムの女学生だったり、タミール人労働者の妻だったり、オーストラリア人の遭難者だったり、はたまた上海で徴発された売春宿のフランス人やイギリス人娼婦が注目されないのです。

何人が慰安婦システムに放り込まれたのか、誰にも分かりません。安全の為に村の大人たちによって提供された者だろうと、自分の子供を飢えさせまいと我が身を犠牲にした者だろうと、路上で拉致された者だろうと、望んで慰安婦になった者はいません。太平洋の島々や中国や西洋人の抑留所での数千にも及ぶ「機会」を計算に入れれば、その数は、20万を軽く超えます

戦地へ「売買」された女性の多くは朝鮮人のようですが、基本的な事実として、日本帝国の陸海軍の若い士官たちは、「慰安所」を設置し「支給品」を徴発する訓練を受けていました。

第二次世界大戦中にアジア(とアジア人)に限定されない、少女と女性たちに対する犯罪の記念碑を設置しようというのは、ブルックヘブン市にとって名誉であるはずです。これは滅多にないことです。ブルックヘブンの皆さんは、日本の右翼集団のレイシズムに屈してはいけません。ホロコースト記念碑に反対する組織に屈してはいけないのと同様に

これは(訳注:日本人)差別ではありません。アメリカ市民の過去から学び、それを称えることがアメリカなのです。

ミンディ・カトラー

アジア・ポリシー・ポイント代表

ワシントンDC

Reporter Newspapers 2017.7.23(原文[2]

「カトラーのやり方は、血の中傷

カトラーは、左派系?の日本人や外国人(非日本人)からもコメント欄で批判されている。その中から一つだけ、ユダヤ系アメリカ人であるスティーブン・ゴードン氏のコメントを紹介する。ゴードンは、人身売買問題を隠れ蓑にする事を思いついたのはカトラーではなくアナベル・パクだと言っている。慰安婦問題に詳しい人物のようである。この指摘は正しいと思う。

カトラー氏は事実に関していい加減で、情に訴える彼女のやり方は説得力がない。

2007年の下院決議のキャンペーンの為に(慰安婦問題を)普遍的な人身売買の話に拡大したのは彼女ではなく、パク氏(訳注:アナベル・パクか)だった。カトラーは自分の反日キャンペーンに夢中で、(マイク)ホンダの計画の役に立たなかった。

アメリカにおいて注目を集めるには、慰安婦詐欺を人身売買と戦時性暴力の防止の為と誤魔化せばいいと理解し、真の意図をカモフラージュしたのはパク氏に外ならなかった。ミンディ・カトラーは、その事実を自分の手柄にしようとしているだけだ。

付け加えるならば、彼女は、G8最大の女性の人権侵害国である共産中国に対する自分の支援と深いつながり伏せている。彼女は、現在の中国の人口統計上の時限爆弾を作った強制堕胎などによる女性虐殺(一人っ子政策)に起因する3千万から4千万の伴侶のいない男の需要を満たす為に、中国の「独身村」に誘拐され性の提供を強制されている数十万人の東南アジアの女性については触れない

最後に、彼女は反ユダヤ主義者らが、バカげた血の中傷の中で使ったのとそっくり同じ手法を慰安婦問題で使っている。この問題はとても良く似ている。「血の中傷」といった多くの反ユダヤキャンペーンは、「キリスト教徒の子供たちの安全を守る為」という建前で、情に訴え嘘を押し通した。

カトラーは、先入観のない学者からはほど遠い年季の入った反日屋で、反ユダヤ主義者の同類だ。アトランタは(訳注:南北戦争の経験から?)、このレイシズムに基づく嘘に騙されることは決してない土地だと私は思っていた。

私は「日本の右翼」から最も遠い存在だ。お蔭様で、私は前世紀と今世紀にユダヤ人に向けられたlashon haraというか中傷を憎むとても進歩的なユダヤ系アメリカ人なのだ。

コメント欄より




2016/08/29

ワシントンD.Cに慰安婦像、12月に除幕式

「米国と国際社会に知らせるための努力の一環」
「政治的、地域的象徴性を考慮」・・と関係者

挺対協は、ワシントンD.Cに慰安婦像を建てるつもり。現地の支援グループも認めているように、彼女らにとってアメリカの首都に建てるというのは象徴的な意味合いが大きいのだろう。

挺対協は数年前にシンガポールに慰安婦像(少女像)を建てようとして失敗した。これに懲りたのか、その後は海外でのモニュメント設置の動きに挺対協の影はあまり感じられなくなった。ところが、昨年の日韓合意以降、挺対協は慰安婦像の海外設置を宣言し、再び火が着いたようになった。

まず狙われたのはオーストラリアのシドニー(計画自体は「合意」前から)。ここでは現地の日本人の抵抗にあって動きが取れなくなっている。そして次に狙ったのが、ワシントンD.C.というわけである。シドニーでは、オーストラリア慰安婦の友と連携したように、ここでも挺対協は現地のグループと連携している。ただしウィリアム・アンドリュースの慰安婦小説を宣伝した「平和の蝶ワシントン」ではなく、昨年の日韓合意以降に登場した新興団体らしい。韓国から船で輸送し除幕式までどこかに保管して置くという段取りの良さはシドニーの時と同じ。

フェアファクスに慰安婦碑を建て韓国政府にも顔が利くワシントン挺対委の姿がないのが、個人的にはちょっと興味深い。

「ワシントンD.C.に『慰安婦少女像』年内建立」

希望の蝶、韓国挺対協と共同推進「12月10日除幕目標、場所は未定」

米国の首都ワシントンD.C.に「慰安婦少女像」が年内に建てられる。

日本軍慰安婦問題関連の活動をしてきた韓国人団体「ワシントン希望の蝶」は26日「韓国挺対協と共同でワシントンDCに慰安婦少女像の設置を推進することになった」として「これは慰安婦問題をアメリカと国際社会に知らせるための努力の一環」と公表した。

ワシントンの慰安婦少女像は、68回目の世界人権宣言記念日である12月10日に除幕することを目標に推進される。(設置)場所は未定。

チョ・ヒョンスク ワシントン希望の蝶幹事は「政治的、地域的象徴性を考慮しワシントンDに設置する計画で、場所を探している」としながら「少女像はすでに韓国で製作され設置場所さえ決まれば船に載せ保管して除幕日に合わせて設置する予定だ」と話した。

少女像設置の財源は寄付金などを充てる計画。

チョ幹事は「希望の蝶も募金運動をしているが、匿名で全費用を後援してくれるという人もいる」とし「9月から建立推進委を発足して本格的に活動する」と明かした。

ワシントンD.C.に「慰安婦少女像」が出来れば2014年5月バージニア州のフェアファックス郡政府庁舎に造成された「慰安婦記念碑」に続きワシントン地域で二番目の慰安婦関連のモニュメントになる。

慰安婦記念碑はワシントン挺対委員で韓国人社会とフェアファックス郡の協力を得て建てられた。

「ワシントン希望の蝶」は韓日間の慰安婦合意に抗議して今年1月駐米日本大使館の前でデモを行った参加者らが結成した団体で現在10人余りが活動している。


“DC에‘위안부 소녀상’연내 건립”

희망나비, 한국 정대협과 공동추진 “12월10일 제막 목표, 장소는 미정”

미국의 수도 워싱턴 D.C.에 ‘위안부 소녀상’이 연내에 세워진다. 
일본군 위안부 문제 관련 활동을 해온 한인단체인 ‘워싱턴 희망나비’는 26일 “한국정신대문제대책협의회와 공동으로 워싱턴 DC에 위안부 소녀상 건립을 추진하기로 했다”며 “이는 위안부 문제를 미국과 국제사회에 알리기 위한 노력의 일환”이라고 밝혔다. 

워싱턴 위안부 소녀상은 제68주년 세계 인권선언 기념일인 오는 12월10일 제막을 목표로 추진된다. 장소는 아직 미정이다. 
조현숙 워싱턴 희망나비 간사는 “정치적, 지역적 상징성을 고려해 DC 안에 설치할 계획으로 장소를 물색 중”이라며 “소녀상은 이미 한국에서 만들어져 있어 건립 장소만 결정되면 선박으로 실어와 보관하다가 제막일에 맞춰 세울 예정”이라고 말했다. 

소녀상 건립 재원은 기부금 등으로 충당한다는 계획이다. 
조 간사는 “희망나비도 모금운동을 하고 있지만 익명으로 전체 경비를 후원하겠다는 분도 있다”면서 “9월부터 건립 추진위를 발족해 본격적으로 활동할 것”이라고 밝혔다. 

DC에 ‘위안부 소녀상’이 생기면 지난 2014년 5월 버지니아 페어팩스 카운티 정부 청사에 조성된 ‘위안부 기림비’에 이어 워싱턴 지역에서 두 번째 위안부 관련 조형물이 된다. 
위안부 기림비는 워싱턴정신대문제대책협의회에서 한인사회와 페어팩스 카운티의 협력을 받아 세운 것이다. 

‘워싱턴 희망나비’는 한일 간의 위안부 합의에 항의해 올 1월 주미 일본 대사관 앞에서 시위를 한 참가자들이 결성한 단체로 현재 10여명이 활동하고 있다. 

2015/09/22

ドイツで慰安婦問題国際会議 林博史・挺対協が参加


ヨーロッパツアー中のキム・ボクトンを招き、ベルリンで慰安婦問題をテーマにした会議が開催される。国際会議と銘打つのは少々オーバーな気もするが、日本から林博史教授が参加。そして挺対協のユン・ミヒャンも講演するらしい。林教授は、確か昨年(?)もユン・ミヒャンらとヨーロッパで行動を共にしていた。挺対協としては、韓国の研究者よりも日本の「専門家」の方が頼りになるようである。日本批判に理論的裏づけを提供するのは、女性戦犯法廷の頃から日本人の役割だった。ちなみに、「アジア・太平洋戦争」というのも、日本の左翼言葉だったと思う。

現地の韓国系の団体のウェブサイトには、アジア・太平洋戦争中、14歳で日本軍によって誘拐されたキムは20万人の「慰安婦」の数少ない生き残りと紹介されている。日本の安倍首相は、悪いのは民間業者で国に責任はないと言い張っている、と。

現地時間23日には、ベルリンの日本大使館前で水曜デモが執り行われる。写真は、若い頃のキム・ボクトン。[ソース]

追記: ベルリンの水曜デモは、韓国人と日本人のグループにより執り行われた。キム・ボクトンが大使館内に入ろうとしたが拒否されたという噂。


2015/08/07

シカゴ市議会、慰安婦決議案採択


「同じようなことが再び繰り返されないようにさまざまな努力を傾けてきた」・・・それは手遅れというものである。君たちも朝鮮戦争で手を汚したのだから。

もちろん彼らは建前で言っているのである。「日本が・・・20万人に達する女性を就職名目で徴集して従軍慰安婦として強制動員した」・・・さすがにアメリカでも強制連行(徴用)説は苦しくなってきたか。これも原文を読んでないので、一応コメントは控え目に。シカゴでは、早ければ今月中にも慰安婦像が建てられるという話も

シカゴ市議会、旧日本軍慰安婦決議案を採択

  米国シカゴ市議会が第2次世界大戦終息70年を控えて旧日本軍慰安婦決議案を採択した。

  7日、韓国の聯合ニュースによると、シカゴ市議会はこの決議案で日本が第2次世界大戦当時に20万人に達する女性を就職名目で徴集して従軍慰安婦として強制動員した事実を指摘しながら、「韓人はこの悲惨な記憶を回避しようとする代わりに、生存している慰安婦被害者の記憶を保全してこれを広く伝え、同じようなことが再び繰り返されないようにさまざまな努力を傾けてきた」と伝えた。

  引き続き「シカゴ市議会は旧日本軍慰安婦の抑留を含めたすべての人権侵害を糾弾する」としながら「韓人社会が慰安婦被害者問題を公正かつ公開的に記録に残し、この問題に対する認識を高めて教育するために注いでいる努力に対して拍手を送る」と強調した。

  シカゴ市議会は今月15日(現地時間)、韓人会が主催する光復節記念行事で決議案の写しを韓人社会に配布する予定だと同メディアは伝えた。

2015/06/01

キム・ボクトン「自由のために戦う英雄100人」に 国境なき記者団


ネットには何とか繋がるものの、まともにブログの管理など出来ない環境から、二三日東京に戻っています。忙しさも今週がピークなので、コメントに返事せずにいる無礼をもう暫くお許し下さい。

「国境なき記者団」は・・・「1938年から45年まで日本軍に連行され、性的奴隷として過ごしたアジアの女性20万人のうち大部分は韓国人だった・・・」と説明

コリア・タイムズを信じるならば、The majority of 200,000 Asian women taken by the Japanese military to provide sex to Japanese troops between 1938 and 1945 were Koreans.というのがキャプションだったらしい。この写真では小さすぎて確認出来ないが、それが世界の常識というものだろう。性奴隷とは書いてないようだが、日本軍によって連れて行かれたとは書かれている。

「自由のために戦う英雄100人」に元慰安婦・金福童さん

「国境なき記者団」が選定
過去にはマンデラ氏やキング牧師も

フランス・パリに本部を置く「国境なき記者団」と同国のAFP通信が共同で選定する「自由のために戦う英雄100人」に、旧日本軍の元慰安婦の金福童(キム・ボクトン)さん(89)が選ばれた。言論の自由の擁護を目的として設立された非政府組織(NGO)の「国境なき記者団」は最近、創立70周年を迎えるに当たり、全世界で「自由のために戦う英雄100人」を選定し、その写真を掲載した画報を出版している。金さんは南アフリカで初の黒人大統領になった故ネルソン・マンデラ氏や、米国の黒人人権運動家の故マーティン・ルーサー・キング牧師などとともにこの「100人」の中の一人とされた。

金さんは現在も、在韓日本大使館(ソウル市鍾路区)の前で元慰安婦と支援者が行っている「水曜集会」に毎回欠かさず出席している。「国境なき記者団」は、2011年12月14日に行われた1000回目の水曜集会で金さんが発言する場面の写真を画報に掲載し、その下には「1938年から45年まで日本軍に連行され、性的奴隷として過ごしたアジアの女性20万人のうち大部分は韓国人だった。生存している元慰安婦たちは92年以来、相次いで日本政府の謝罪や補償を求めているが、日本政府は応じていない」という説明を加えた。

「国境なき記者団」のクリストフ・ドゥルアール事務局長は画報の中で「この画報は国境なき記者団が過去30年間、情報公開など自由を守る過程で共に歩んだ英雄的な人物を称える頌詩だ」と述べた。


2014/12/07

韓国の子供が学校で教わる慰安婦 (読売新聞取材班)

慰安婦問題を学ぶ中学生(蔚山)

読売新聞の取材班は、90年代以前にも韓国の教科書には微妙な表現があったと言う。確かに、若い女性が強制的に戦場に連行されたという記述は微妙である。ただ、これは本当に微妙。ハッキリと慰安婦の名が教科書に登場するのは、韓国より日本の方が早かったと言われる(要確認)。日韓いずれが先だったにせよ、90年代に始まった慰安婦騒動で状況が一変したのは間違いないらしい。

2002年の韓国の教科書にある、女性を強制動員して軍需工場などで酷使させ一部を慰安婦にしたというのは、本来の意味の「慰安婦の強制連行」である(吉田清治が証言したのもこれ)。2012年からは「広義の強制連行」へのシフトと見られる記述が現れるが、2014年になっても挺身隊の一部を慰安婦にした・・説が韓国の教科書には生き残っているという状況らしい。

2010年から民間会社が教科書を製作する体制になり、歯止めがかからない状況になったであろうことは容易に想像出来る。取材班は「写真やイラストなども加わり・・・記述が一層充実化する傾向にある」と報告している。比較的ドライに記述した教学社の教科書がバッシングに曝されるという事件もあった。言うまでもないが、教育現場における左翼系の影響(黒田勝弘)は日本も同じで、日本の教科書の中には韓国紙のお墨付きを得る物もあったくらい。しかし、国内にはこれにブレーキをかけようという動きもある。しかし、こと慰安婦問題に関する限り韓国ではそういった動きは期待出来そうにない。

※ なお、ブログ主は歴史の光も影も教えるべきだと言う立場で、ホルホル教育には組しない。一応。


韓国では2002年まで、歴史教科書は、中学、高校とも国定教科書の1種類だけ。そこに慰安婦に関連する記述が初めて登場したのは、1968年の高校用だった。「か弱い女性も女性挺身隊という名で強制動員した」と記述された。

当時の韓国では、慰安婦と挺身隊が混同されていたため、慰安婦のことを指すのかどうか判然としない記述だ。

79年には中学の「国史」にも、「はなはだしきは若い女性も産業施設と戦線に強制的に連行した」と記述された。82年改定の中学用では、「韓国の女性も侵略戦争の犠牲にした」、90年改定の中学用では「女性も挺身隊という名で侵略戦争の犠牲となった」との表現に変わるが、まだ間接的な表現にとどまっている。

しかし、90年代初めの朝日の報道などを受けて慰安婦問題が日韓の間で外交問題化したのを境に教科書の表現も具体化していった。

96年改定の高校国史で「女性まで挺身隊という名で連れて行かれ、日本軍の慰安婦として犠牲にもなった」と初めて慰安婦という単語が登場する。97年の中学国史でも「女性も挺身隊という名で連れて行かれ、日本軍の慰安婦として犠牲になった」とした。

2002年改定ではより表現が過激になっている。中学が「日本は、多くの女性を強制的に動員して日本軍が駐屯しているアジアの各地域に送って軍隊慰安婦にして非人間的な生活をするようにした」、高校が「若い女性を強制動員して軍需工場などで酷使させ、その一部は前線に連行して日本軍慰安婦にする蛮行を犯した」となった。

そして国定から、民間の複数の教科書から選択できる検定制度に完全移行した2010年以降は、写真やイラストなども加わり、慰安婦に関する記述が一層充実化する傾向にある。

キョウハク図書『中学歴史(下)』(2012年発行)では、「歴史との対話」という別コーナーで慰安婦問題を1ベージで特集。日本軍慰安婦の宿所の写真や、元慰安婦の強制連行の様子を描いた絵画とともに「ある日、男が良い職場を紹介してやると言って私を連れて行った」などとする「ある日本軍慰安婦のおばあさんの証言」を掲載している。元慰安婦の支援団体「韓国挺身隊問題対策協議会」(挺対協)が毎週、ソウルの日本大使館前で行っている水曜デモについて写真入りで紹介している。

水曜デモについては、「現在、日本政府は日本軍慰安婦の募集、移送、管理などに日本軍が日本軍が介人したことを認めながらも法的な賠償ではない慰労金レベルで問題を解決しようとした。これに日本軍慰安婦の被害者の中の多数は、慰労金名目でお金を受け取ることを拒否して今も水曜デモを続けている」となっている。

良い本新思考社の『中学校歴史②』(2013年発行)も「性奴隷生活を強要された日本軍慰安婦」を1ページで特集した。「妊娠した朝鮮『日本軍慰安婦』」のキャプションがついた写真や挺対協の水曜デモの模様を日本大使館前に設置された少女像の写真入りで紹介している。

朝日が2014年8月に「虚偽」と認めて取り消した吉田清治氏の以下の証言も、「日本軍慰安婦の真実」として紹介されている。

「6000人ほど直接連行した。村に到着すればまず女性全員を道路に引っ張り出した。逃げ出したら木刀でなぐり、若く健康な女性を選んでトラックに乗せた・・・」

この部分について、教科書本文の記述では「数十万人の女性を軍需工場に動員し、はなはだしくは若い女性を日本軍慰安婦という名目で強制動員して性奴隷生活を強要した」となっている。

ピサン教育『中学校歴史2』は、慰安婦問題をめぐる日本政府の対応について
批判的に記述している。

「日帝は韓国をはじめ中国、台湾、インドネシアなどで数十万人に達する女性を強制的に動員した」とし、「しかし、日本は日本軍慰安婦たちが受けた被害を認めておらず、『自発的に軍について行った』という意味の『従軍慰安婦』という表現を使っている」と事実誤認の内容も含まれている。

さらに「資料の調査を通じて日本軍慰安婦について整理してみよう」として日本軍慰安婦についてまとめたインターネット上の動画映像のアドレスなども記述した。

高校教科書では、慰安婦問題について生徒に考えさせる問題も提示している。
チハク社『高等学校韓国史』(2014年発行)では、「水曜デモに関連した資料を調べ、このようなデモが続いている理由を書いてみよう」とし、条件として「関連する新聞記事やおばあさんの証言などを活用すること」としている。

歴史的に定かでない数字も独り歩きしている。チョンジエ教育『高等学校韓国史』(2014年発行)では、「日本軍慰安婦として動員された女性は約20万人と推定されている」と記述している。

読売新聞が調べた中学用13冊と高校用5冊の計18冊のうち、強制連行された慰安婦の数が「20万人」と記述している教科書は3冊。強制連行されたと記述しているのが10冊、性奴隷という表現を使っているのが11冊。少女豫の写真を掲載したのが9冊、慰安婦の写真を掲載したのが6冊だった。

各教科書の主な記述は以下の通り。

DAEKYO『中学校歴史(下)』

本文では「女性達の場合、女子勤労挺身隊という名前で軍需工場に連行され、労働力を搾取された。さらに多くの女性を日本軍が駐屯する地域に送り、強制的に日本軍慰安婦にした」と記述。歴史特集「日帝の侵略戦争で被害を受けた韓国人」では徴用被害者、被爆者とともに慰安婦を取り上げ、元慰安婦の証言を掲載した。

「朴トゥリおばあさんは17歳たった1940年に村を訪れた日本人募集業者の日本工場に入れてあげるという言葉にだまされ台湾に連行され日本軍慰安婦になった。20人余りの韓国人女性だちと共に5年ほど生活した。そこではフジコと呼ばれた。日本語を使えと強要され、食事もまともに与えられずいつも空腹だった。慰安所で右ももがひどく腫れる病気にかかり手術をしなければならなかった。慰安所の主人と管理人にひどくなぐられたことが原囚で耳も遠かった」

ミレエン社『中学校歴史2』

本文では「女子勤労挺身隊などの名前で女性も連行され労働力を搾取され、そのうち一部は日本軍慰安婦として連行された」と記述。これとは別に「日本大使館前の定期水曜デモ、1000回の叫び」とのタイトルで挺対協が実施している水曜デモを特集している。

「日帝は、中日戦争と太平洋戦争を起こし、日本軍が駐屯する地域に軍隊慰安所を設置して、占領地の多くの若い女性を強制連行して日本軍の性奴隷の役割を強要した。日帝時代に日本軍慰安婦として連行された女性は20万人余りと推定されている。日本軍慰安婦としての生は長い間、歴史の陰に埋もれていたが、日本軍慰安婦のおばあさんだちと市民団体は1992年から毎週、日本大使館前で水曜デモを実施し、日本政府の公式謝罪と賠償を要求している。しかし、日本政府は国家として日本軍慰安婦を募集したことはないといい、これまで公式謝罪や賠償を拒否している」

チョッジエ教科書『中学校歴史2』

本文とは別に「女性勤労挺身隊、日本軍慰安婦のおばあさん」とのタイトルで慰安婦を特集。「第2次世界大戦中、日本は韓国女性達を勤労挺身隊といって軍需工場に追い立て、そのうち一部の女性達を日本軍慰安婦(JAPANESE Military Sexual Slavery)として連行した。該当地域の日本軍が降伏を拒否して自爆する際、秘密の流出を防ぐ狙いから共に死ぬことを強要されたりもした。国連人権理事会は2008年、日本の慰安婦動員に対する責任の認定と謝罪、補償を求めたが、日本は日本軍慰安婦が自発的な活動だったと言い、これまで補償を拒否している。これに抗議して1992年1月から現在まで日本大使館前で日本軍慰安婦のおばあさんたちが毎週水曜集会を開いている

ミレエッ社の水曜デモの記述とも共通するのは、日本政府が1995年に国民の募金などで設立したアジア女性基金を通じた「償い金」など1人当たり計500万円の支給事業や首相のおわびの手紙の交付に取り組んできたことに全く触れていないことだ。

チハク社『中学校歴史2』では「日帝の蛮行を糾弾する声」として水曜デモを特集。「1000回目を迎え、韓国だけでなく世界各国の人々から注目されている。こうした努力の結果、1998年、国連人権委員会の小委員会は日本政府に日本軍慰安婦問題の解決に乗り出すよう勧告した。2007年、米国議会では、被害者たちに対する謝罪を求める決議案を採択した」と記述し、韓国の主張が国際世論の支持を得ていると強調している。

2014/10/19

英語でベストセラー作ろう韓国系が結集(Daughters of The Dragon)

「ドラゴンの娘たち」

韓国人の少女を養子に迎えたアメリカ人の物書きが韓国の歴史に目覚め、たどり着いたのが日本軍性奴隷(慰安婦)の物語。韓国へ飛び、ナヌムの家で歴史の真実を知り本を執筆。

アメリカにおける慰安婦プロパガンダが止むことはないだろう。一部の韓国系が自分たちを「悲劇の主人公」として売り出すことを覚えてしまったからである。日本にGODZILLAやNINJAがあるなら、韓国にCOMFORT WOMENがあってもいいだろう(他に適当なコンテンツはないのかという気もするが)。しかし、アートや小説を通じてこの民族悲劇を売り出す、あるいは利用するのは自由なのだが、問題はアンドリュースに日本人に「先祖が犯した罪を悟」らせると宣言させたように、特定の民族の悪徳を誇張して喧伝することで自分たちの悲劇性を引き立たせようとするやり方である。

最近の日本の安倍総理の相次ぐ慰安婦関連妄言に関し、アンドリュースは「この本がもっと広く知られ、特に日本人たちに読まれて彼らの先祖が犯した罪を悟り、再びこのようなことが起きないよう(?)歴史を通じて学習しなければならない」と力説した。
ウィリアム・アンドリュース
養子に読ませるなら洋公主の物語の方が良かったのでは?

本のストーリーはというと、第二次大戦中、日本人達は20万人の朝鮮人に性奴隷となることを強制した。主人公とその姉妹に、母親は二つの竜の頭を飾った櫛を授けた。戦争が終わり、一人生き残った主人公は・・・といった内容らしい。アンドリュースは広告業界の出身。現在は著実業に専念している[ソース]。しかし、こういう人ははるばるナヌムの家まで取材に行くのに、サラ・ソーの本すら読んでいない気配が濃厚。誰か手引きする人がいるからかもしれない。娘は現在整形外科医として独り立ちしているという。

米amazonでは127のコメ、4つ星半と好評(2014.10.19)

アンドリュースの経歴を読んでいると「ホテル・スプレンディッド」を書いたカナダ人劇作家ミューラーを思い出す。彼女もアンドリュース同様ナヌムの家で「正しい歴史教育」を施され、創作意欲に火をつけた。ドイツは反省したのに日本は反省していない、これは過去の問題ではない式の韓国仕込みのプロパガンダを叫ぶところも一緒である。なお、アンドリュースの出版記念会にはマイク・ホンダからもお祝いのメッセージが寄せられたらしい



慰安婦小説「竜の娘たち」ベストセラーを作ろう」米韓国人社会総力

ワシントンで作家翻訳家出版サイン会盛況

正しい歴史教育のためにこの本を私達が​​知ろうと(?)しています」

アメリカの作家が書いた「慰安婦小説」。英語版とハングル版のサイン会が同時に開催され関心を集めている。 4日バージニアの州都の長老派教会で開かれた「ドラゴンの娘たち(Daughters of the Dragon)」の出版記念会には著者であるウィリアム・アンドリュースとこの本を翻訳したキム・ソギョンが一緒に登場し、本にまつわる話を聞かせてくれた。

この日のイベントは平和の蝶ワシントン(代表幹事엔지 김)と人が生きる世の中(会長カン・チャング)の主催で、先月27日のハングル版出版サイン会に続くもの。イベントに先立ちマーク・ワーナー前バージニア州知事が祝電を送り、民主党の韓国系議員ケネスプラム、グレース、ハン·ウルフ議員などが参加して激励する姿だった。

ミネソタから来たウィリアム・アンドリュースは本を書くことになった動機を「韓国人の子供を養子に向かえて親になったのに、その子供が12才になるまで韓国について殆ど知らなかったということに罪悪感を感じたのが動機だった」と話した。

彼は「韓国について研究し勉強して慰安婦問題を知るようになり、直接韓国を訪れ慰安婦のお婆さんにインタビューし、小説を通じて多くの人々に知らせなければならないという義務感を持つようになった」と話した。

アンドリュースは「慰安婦問題は過去の悲劇だけではない、今でも世界各国で人身売買につながって行われているということを理解させる。人類愛の回復にこの本が役に立つことを願う」と話して拍手を受けた。

「ある慰安婦の話(A comfort woman's story)」という副題がついた「ドラゴンの娘たち」は慰安婦として連行されたジャ・フイの生と死をテーマに1月に出版された。アンドリュースはこの作品で「独立出版界のオスカー賞」と呼ばれるIPPY賞を受賞した。

この本を翻訳したキム・ソギョン作家は「外国の作家の胸に書かれた(?)言葉を再び私たちの言葉に変えた翻訳者として、再び胸が振えるを感じる」とし「この小説を通じて亡くなった方々を賛え、生きておられる方々を暖かく抱擁して差し上げることができるようになるように願う」と話した。

キム作家は「ドラゴンの娘たちの本箱(?)を開けば『名誉は一人で成し遂げることはできない(?)』という孔子の言葉がある。現在のアマゾンで英語版がベストセラーの1位を走っているだけにいつかはハングル版もベストセラーに登板することができるようになるように願う」と述べた。

バージニアの韓国人団体は「ドラゴンの娘たち」を優先的にアメリカ韓国人社会に広く知らしめる活動に力を結集する。ワシントン統合韓国人老人連合会?(会長우태창)は「出版記念会に先立ちその時代を最も近く生きてきた世代として、その時代の痛みに一緒に参加する」という意でハングル版と英文版を団体購入することもした。

イベントを主催した平和の蝶ワシントンと人が生きる世の中ワシントンはもちろん、ワシントンアメリカ韓国人財団(会長ホ・インウク)、ワシントン湖南(?)郷友会(会長カン・テヒョン)メリーランド湖南(?)郷友会(会長カン・チャング)、米州韓人の声(会長ピーター・キム)など、これまで関心を払ってくれた多くの団体も積極的に広報に出る予定だ。

最近の日本の安倍総理の相次ぐ慰安婦関連妄言に関し、アンドリュースは「この本がもっと広く知られ、特に日本人たちに読まれて彼らの先祖が犯した罪を悟り、再びこのようなことが起きないよう(?)歴史を通じて学習しなければならない」と力説した。
NEWSis 2014.10.6

※ 追記

日本談児さん紹介の別ソースで、アンドリュースは基地村売春についても触れている。ただ、彼はこれを日本軍の慰安所のようには悪質ではなかったと考えているようである(上手く翻訳出来ないので、正確な所は分からない)。

アンドリュースの罪の意識は米軍が世界各国の基地村で行った行動にもつながる。 アンドリューは「最近までも米軍はわが軍が基地村で行ったこと、すなわち少女を騙し彼女らがそこを抜け出すことが出来ない状況に追い込んだことと同様の一部不法で非倫理的な行いについて目を閉ざしている」と言った。 彼は「米軍が基地村の女性たちにしたことが日本軍が慰安婦にした***(?)残忍で悪質だったという話ではない」としながらも「本の中のジャフイがクロフォード大佐に話すように少女の視点で見た時、はたして両者にどんな違いがあるのかという話だ」と話した。
앤드루스의 죄의식은 미군이 세계 각국의 기지촌에서 저질러온 행동에도 이어진다. 앤드루스는 “최근까지도 미군은 우리 군대가 기지촌에서 한 일들, 즉 소녀들을 속이고 그들이 그곳을 헤어날 수 없는 상황으로 몰아간 일과 같은 일부 불법적이고 비윤리적인 일들에 대해 눈을 감고 있다”고 했다. 그는 “미군이 기지촌 여성들에게 한 일이 일본군이 위안부들에게 한 일만큼 잔인하고 나빴다는 얘기는 아니다”라면서도 “책 속의 자희가 크로퍼드 대령에게 말하듯이 소녀들의 관점에서 볼 때 과연 둘 사이에 어떤 차이가 있느냐는 얘기”라고 말했다.

京郷新聞(一部) 2014.10.5

“위안부소설 ‘용의 딸들’ 베스트셀러 만들자” 美한인사회 총력

워싱턴에서 작가 번역가 출판사인회 성황

【뉴욕=뉴시스】노창현 특파원 = “올바른 역사교육을 위해 이 책을 우리가 알려야 합니다.”

미국작가가 집필한 ‘위안부 소설’이 영문판과 한글판의 사인회가 한꺼번에 열려 관심을 모으고 있다. 4일 버지니아의 수도장로교회에서 열린 ‘용의 딸들(Daughters of the Dragon)’ 출판기념회엔 작가 윌리엄 앤드류스와 이 책을 번역한 김서경 작가가 함께 나와 책에 얽힌 이야기들을 들려주었다.

이날 행사는 평화나비 워싱턴(대표간사 엔지 김)과 사람사는 세상(회장 강창구)가 주관한 것으로 지난달 27일 한글판 출간 사인회에 이은 것이다. 행사에 앞서 마크 워너 전 버지니아주지사가 축전을 보냈고, 민주당의 한인의원 케네스 플럼, 그레이스 한 울프 의원 등이 참석해 격려하는 모습이었다.

미네소타에서 이곳까지 온 윌리엄 앤드류스 작가는 책을 쓰게된 동기에 대해 “한국 아이를 입양해서 부모가 되었는데도 그 아이가 12살이 될 때까지 한국에 대해서 너무 몰랐다는 것에 죄책감을 느낀 것이 동기가 되었다”고 소개했다.

그는 “한국에 대해 연구하고 공부하면서 위안부 문제를 알게 되었고 직접 한국을 방문해 위안부 할머니와 인터뷰를 하면서 소설을 통해 많은 사람들에 알려야 한다는 의무감을 갖게 되었다”고 말했다.

앤드류스 작가는 “위안부 문제는 과거의 비극만이 아닌, 지금도 세계 각국에서 인신매매로 이어지고 행해지고 있다는 것을 일깨워준다. 인류애의 회복에 이 책이 도움이 되기를 바란다”고 말해 박수를 받았다.

‘한 위안부의 이야기(A comfort woman’s story)’라는 부제가 달린 ‘용의 딸들’은 위안부로 끌려간 자희의 삶과 죽음을 다룬 내용으로 지난 1월 출간됐다. 앤드루스 작가는 이 작품으로 ‘독립출판계의 오스카상’이라 불리는 ‘IPPY 상’을 받기도 했다.

이 책을 번역한 김서경 작가는 “외국작가의 가슴으로 쓰인 언어를 다시 우리의 언어로 바꾼 번역자로서 또다시 가슴이 뭉클해짐을 느낀다”면서 “이 소설을 통해 돌아가신 분들을 기리고, 살아계신 분들을 따뜻하게 포옹해드릴 수 있게 되길 바란다”고 말했다.

김 작가는 “용의 딸들의 책장을 열면 ‘명예란 혼자 이룰 수 없다’는 공자의 말이 있다. 현재 아마존에서 영문판이 베스트셀러 1위를 달리고 있는만큼 언젠가는 한글판도 베스트셀러에 등극할 수 있게 되길 바란다“고 말했다.

버지니아의 한인단체들은 ‘용의 딸들’을 우선적으로 미주한인사회에 널리 알리는 활동에 힘을 모으기로 했다. 워싱턴 통합한인노인연합회(회장 우태창)는 “출판 기념회에 앞서 그 시대를 가장 가깝게 살아왔던 세대로서, 그 시대의 아픔에 같이 동참하겠다”는 뜻에서 한글판과 영문판을 단체 구입하기도 했다.

행사를 주관한 워싱턴평화나비와 사람사는세상워싱턴은 물론, 워싱턴미주한인재단(회장 허인욱), 워싱턴호남향우회(회장 강태현) 매릴랜드호남향우회(회장 강창구), 미주한인의목소리(회장 피터 김) 등 그간 관심을 기울여준 많은 단체들도 적극적으로 홍보에 나설 예정이다.

최근 일본 아베 총리의 잇단 위안부관련 망언과 관련, 앤드류스 작가는 “이 책이 보다 널리 알려지고 특히 일본인들에게 읽혀져서 그들의 선조들이 저지른 죄과를 깨우쳐서 다시는 이러한 일이 일어나지 않게 역사를 통해서 배워야 할 것”이라고 힘주어 말했다.

2014/01/27

アルジャジーラ「日本のTVのトップ、戦時性奴隷を否定」


アルジャジーラ: 「新しいNHKのトップ、第二次大戦中に征服した女性たちを売春宿に強制的に入れた日本政府の政策を『どこの国にもあった』と発言」。

よく読むと、河野談話を慰安婦(性奴隷)らが蒙った被害に関して日本(政府)が果たした役割について認めたもの(acknowledged Japan's role in causing their suffering)、とするなど部分部分は間違っていなかったりするのだが、なにしろ最大20万人の女性たちが日本政府によって売春宿に強制的に入れられたという前提だからどうしようもない。この部分を日本政府が明確に否定しないからいけない。

繰り返しになるが、アルジャジーラは河野談話を「日本(政府)が性奴隷たちの蒙った被害に関して果たした役割について認めた」としか書いていないのであって、ここに間違いはない。河野談話を撤回しなければ始まらないというのは、ちょっと違うと思う。

Japan TV chief dismisses wartime sex slavery日本のTVのトップ、戦時性奴隷を否定

New NHK boss says Japan's World War Two policy of forcing conquered women into brothels was "common in every country"新しいNHKのトップ、第二次大戦中に征服した女性たちを売春宿に強制的に入れた日本政府の政策を「どこの国にもあった」と発言).

The head of Japan's influential public broadcaster has used his first public comments to say that Japan's World War Two policy of forcing conquered foreign women into sex slavery was "common in any country at war".

Katsuto Momii, who was appointed to lead NHK by the prime minister, Shinzo Abe, said on Saturday at a public news conference that sex slaves, known as "comfort women" in Japan, were also used in Europe.

"Can we say there were none in Germany or France? It was everywhere in Europe," the AFP news agency quoted him as saying. "Comfort women [were] bad by today's morals," he added. "But this was a fact of those times."

Up to 200,000 women from Korea, China, the Philippines and elsewhere were forced into brothels for use by Japanese soldiers in territories occupied by Japan during the war, according to many mainstream historians多くの主流派の歴史家によれば、最大20万人の朝鮮、中国、フィリピンその他の女性たちが占領地の日本兵の為に売春宿に強制的に入れられた).

The issue is a scar on contemporary relations between the affected nations, and Momii's comments are the latest to apparently dismiss or excuse the policy.

"[South] Korea's statements that Japan is the only nation that forced this are puzzling. Give us money, compensate us, they say, but since all of this was resolved by the Japan-Korea peace treaty, why are they reviving this issue? It's strange," Morii added.

The Asahi Shimbun newspaper said Morii later retracted his comments.

Controversial remarks

In a landmark 1993 statement, then chief Japanese government spokesman Yohei Kono apologised to former sex slaves and acknowledged Japan's role in causing their suffering.

But in comments in 2007 that triggered a region-wide uproar, Shinzo Abe, the current prime minister, said there was no evidence that Japan directly forced women into the brothels.

Last year the mayor of Osaka, Toru Hashimoto, suggested that the women served a "necessary" role by keeping battle-stressed soldiers in check.

Momii, 70, who previously served as a vice chairman of trading house Mitsui, is rumoured to have been Abe's preferred choice as NHK chairman, Kyodo news agency said.

2014/01/17

[再掲・参考]


旧ブログのエントリー(2009年)。後ほどリライトする予定。



インドの新聞(ネット)がフィリピンの慰安婦支援団体Lolas Kampanyera の関係者とのインタビューを元に慰安婦問題を紹介している。

・・・Maria Rosa Henson またの名をLola Rosaは1992年9月12日に公式に名乗り出た最初のフィリピン人慰安婦である。彼女のお陰で50年間秘密を抱えたまま生きていた沢山のフィリピン人が名乗り出て、真実の告発と謝罪を求めて訴えるきっかけをもらった。

マリアが強姦され慰安所に押し込まれたのは15歳の時だった。9ヶ月に渡って日本兵によって強姦される苦難の日々であった。

女性の中には6年もこのような待遇に耐えた人もいた。



彼女(マリア)の本の中で彼女は詳しく物語る「食事も喉を通らなかった。痛みが激しく、膣が腫れ上がりました。母親を呼んで泣き暮らしました。兵隊を拒否することは出来ませんでした。殺されるかもしれないから。他にどうしようもないでしょう?毎日午後2時から夜の10時まで兵隊が私の部屋の前に並んでいました。他に6人の女性がいました。暴行の後、体を洗う間もありませんでした。

express buzz 2009.3.30

以下が、このインドの(インターネット)新聞の日本軍慰安婦に関する解説。

WW II “Comfort Women” are the 200,000 girls and women abducted by the Japanese Imperial Army during WWII and forced to experience a life of systematic rape and enslavement. They are now mostly in their 80’s. They were taken from Korea, China, Indonesia, the Philippines and Taiwan. Around 1,000 girls were abducted in the Philippines.
(第二次大戦の「慰安婦」とは、日本軍によって誘拐され組織的なレイプと奴隷としての生活を強制された20万の少女と女性たちのことである。彼女らは朝鮮、中国、インドネシア、フィリピンそして台湾から連行された。フィリピンからは1000人ほどの少女が誘拐された)

Champion of comfort women’s rights

BANGALORE: Nelia Sancho, National Coordinator of Lolas Kampanyera — an organisation of WWII Filipino Comfort Women, Survivors of Japanese Military Sexual Slavery, was in the city to participate in an International Reflection/ Roundtable on the Courts of Women titled “Towards New Forms of Justice’’. She tells Jayadevan PK the tale of the fight for justice by women who were forced into prostitution as a form of sexual slavery by the Japanese military during World War

Maria Rosa Henson, or Lola Rosa, was the first Filipino Comfort Woman of WWII to come forward publicly on September 12, 1992. Because of Lola Rosa, many other Filipinos who had been living with this secret for over 50 years found the courage to come forward and speak their truth and ask for their apology.

Maria was 15 when she was gangraped and forced into slavery at a comfort station. Her ordeal of daily rape by Japanese soldiers lasted for about nine months.

There are women who have endured up to six years of such treatment.

Maria suffered permanent damage due to head injuries at the hands of angry soldiers. Her speech was slurred, and she sometimes drooled. She could not find a job. After a couple of years in recovery, she was married and gave birth to three children. However, the trauma of sexual assault had long lasting effect on her.

In her book, Comfort Woman: Slave of Destiny, Maria recounts: “I could not eat. I felt much pain and my vagina was swollen. I cried and cried, calling my mother. I could not resist the soldiers because they might kill me. So what else could I do? Every day, from two in the afternoon to ten in the evening, the soldiers lined up outside my room and the rooms of the six other women there. I did not have time to wash after each assault.

At the end of the day, I just closed my eyes and cried.” Winding up the story, Nelia says, “There are thousands of other women who have shared the same fate as Maria. We demand justice, an official apology has to be legislated and legal compensation must be paid to victims by the Japanese government.”

WW II “Comfort Women” are the 200,000 girls and women abducted by the Japanese Imperial Army during WWII and forced to experience a life of systematic rape and enslavement. They are now mostly in their 80’s. They were taken from Korea, China, Indonesia, the Philippines and Taiwan. Around 1,000 girls were abducted in the Philippines.

2013/11/08

プサン訪れた世界の教会関係者、慰安婦蛮行に「神よ!」

日本軍は子宮を焼き腹を裂いた
驚きの表情で?写真を見つめる世界のキリスト教関係者

ソウルのものほど有名ではないが、釜山の慰安婦博物館。資金不足で閉館の瀬戸際に立ったこともあったが、その後なんとか持ち直した。で、この度、世界教会協議会(WCC)の総会が釜山で開かれるのを機会に、関係者相手にこんな事をレクチャーしている。

日本軍は勉強させてやるなどと騙し朝鮮人少女を慰安婦として連行、焼けた棒を子宮に突っ込んだり腹を裂いた。こんな話、今どき北朝鮮でしか聞かれないと思ったが・・・。

日本ウェズリー財団とは、公益財団法人Wesley Foundationのことだろうか(要確認)?日本人牧師が、韓国人慰安婦はお金の為に働いていたと思っていたと語ったというのは話が出来すぎのような気がする。

WCC第10次総会参加者、日本の慰安婦実状に驚き…釜山総会に公式提起

世界教会協議会(WCC)第10次総会の参加者が日本軍慰安婦問題を釜山総会に公式提起することにした。 慰安婦問題が全世界の教会の「国連」と呼ばれるWCC総会で扱われれば、日本政府に相当な圧迫になると予想される。

総会週末プログラム参加者40人余りは2日、釜山、水営洞の「日本軍慰安婦ハルモニのための民族と女性展示館」(館長キム・ムンスク)を訪問。日本軍慰安婦の実状に接し、衝撃と怒りに震えた。 女性歴史館ホ・ポクヒ幹事は彼らに「1937年から日本軍が朝鮮人の10代少女に『勉強をさせてお金を稼がせてやる』と言っておびき出したり拉致して慰安婦として連れて行き、性的欲求を満たした」としながら「そうして引っ張っていった女性が20万人」と説明した。 引き続き「日本軍将校に性病を移したとし火に熱した棒で焼き子宮を摘出(?)したり妊娠したという理由で腹を裂いた(?)こともあった」とし「彼らは言葉どおり性奴隷であった」と伝えた。 参加者は「オオ!」 「Oh my god(神よ)」などと嘆き日本軍の蛮行に身震いした。
こちらに展示された文書と写真、動画資料などを見た参加者は、慰安婦問題をWCC総会に公式提起すると明らかにした。日本ウェズリー財団の総務ゴカイ・ヒカリ(52・女)牧師は「このような話は学校でも習ったことも聞いたこともない。 これまで韓国女性たちが単純に金を儲けるためにそのような仕事をしたと理解していた」としながら「日本人のひとりとして非常に心が痛み恥ずかしい」と謝った。

世界YWCAのニヤラドゥジャイクムボンズバンダ総務は「日本から必ず謝罪を受けなければならない」と言い「この問題をWCC総会に公式提起する」と話した。 参加者は帰ってくるバスの中で緊急会議を開き、総会女性代議員名義で日本政府を糾弾する声明を発表し、WCCの最終決議案にもこの問題を含ませることに同意を集めた。




WCC 제10차 총회 참가자들, 日 위안부 실상에 경악… 부산총회에 공식 제기

세계교회협의회(WCC) 제10차 총회 참가자들이 일본군 위안부 문제를 부산총회에 공식 제기하기로 했다. 위안부 문제가 전 세계 교회의 ‘유엔’으로 불리는 WCC 총회에서 다뤄지면 일본 정부에 상당한 압박이 될 것으로 예상된다.

총회 주말프로그램 참가자 40여명은 2일 부산 수영동 ‘일본군 위안부 할머니를 위한 민족과 여성 전시관’(관장 김문숙)을 방문, 일본군 위안부의 실상을 접하고 충격과 분노에 빠졌다. 여성역사관 허복희 간사는 이들에게 “1937년부터 일본군이 조선인 10대 소녀들에게 ‘공부를 시켜주고 돈을 벌게 해 주겠다’며 꾀어내거나 납치해 위안부로 끌고 가 성적 욕구를 충족시켰다”면서 “그렇게 끌고 간 여성만 20만명”이라고 설명했다. 이어 “일본군 장교에게 성병을 옮겼다며 불에 달군 막대기로 지져 자궁을 들어내거나 임신했다는 이유로 배를 가른 일도 있었다”며 “그들은 말 그대로 성노예였다”고 전했다. 참가자들은 “오우!” “오 마이 갓!” 등으로 탄식하며 일본군의 만행에 몸서리를 쳤다.

이곳에 전시된 문건과 사진, 동영상 자료 등을 살펴본 참가자들은 위안부 문제를 WCC 총회에 공식 제기하겠다고 밝혔다. 일본 웨슬리재단 총무 히카리 고카이(52·여) 목사는 “이런 이야기는 학교에서도 배운 적도, 들어본 적도 없다. 그동안 한국 여성들이 단순히 돈을 벌기 위해 그런 일을 한 것으로 알고 있었다”면서 “일본인의 한 사람으로서 매우 고통스럽고 부끄럽다”고 사과했다.

세계YWCA의 니야라드자이 굼본즈반다 총무는 “일본으로부터 반드시 사죄를 받아야 한다”면서 “이 문제를 WCC 총회에 공식 제기하겠다”고 말했다. 참가자들은 돌아오는 버스 안에서 긴급회의를 열어 총회 여성 대의원 명의로 일본 정부를 규탄하는 성명을 발표하고 WCC의 최종 결의안에도 이 문제를 포함시키기로 뜻을 모았다.

2013/10/20

ミルピタス市での動き (JCAST)


韓国大使(中央)

JCASTの記事は、シリカ太郎さんからもご指摘があった

在米韓国大使が招かれていたということだが、大使が出て来たということは、韓国大使館も裏で動いていたのだろうか(要確認)?事実が裏付けられた段階で公式に謝罪を求めるというならむしろ望むところだろう。謝罪の要請がなければ事実が裏づけられなかったということになるからだ。

この件については、すでに姉妹都市であるつくば市がミルピタス市長に信書を送っており、一定の効果があったようである。動きの取れない日本政府に代わり、姉妹都市などのつてを利用して地方自治体を動かすというやり方もあるだろう。グレンデール市で見られたように、反論する必要はない、デリケートな外交問題だと先方に理解させるだけで十分。

日本側に対抗して再度火付けを図ろうとする動きもあるようだが、こうなると難しいのではないか。

今度はシリコンバレーで「慰安婦問題調査」決議 慰安婦像建立のうわさは否定

米カリフォルニア州「シリコンバレー」にあるミルピタス市で、戦時中の「従軍慰安婦」の問題について市議会が米政府に調査を依頼する決議を採択した。大阪市の橋下徹市長が2013年5月、慰安婦制度は必要だったと発言したことが原因となっている。

米国では近年、在米韓国人団体が中心となって慰安婦の記念碑や像の建設を働き掛け、すでに数か所で実現している。ミルピタス市も、慰安婦像の設置構想が動いているとのうわさが持ち上がっている。

在米韓国大使が市長と記念写真

ミルピタス市議会が米国時間2013年8月6日に決議したのは、「第2次世界大戦における性奴隷制度と大阪市長による関連発言」と題された内容だ。「慰安婦」を表す際に用いられる「comfort women」ではなく、「sex slavery」との表現が使われている。「歴史学者によると戦時中、20万人の女性が『慰安婦』と呼ばれる性奴隷状態に置かれた」と説明、韓国人だけでなく日本人や中国人、オランダ人など多くの国の女性を含むとした。

決議では、橋下市長が5月の記者会見で慰安婦問題について、戦場にいる兵士を「休息」させるためにも必要だったとの趣旨を話したことを取り上げた。さらに「各国政府から非難されたにもかかわらず、本内容を撤回していない」と指摘した。

これまでに分かったことが事実なら」と前置きしたうえで、議会は橋下市長の言動に抗議すると同時に、戦時中日本が「慰安婦制度と称して占領地で女性を強制的に性奴隷として扱い、さらに今日の日本政府がこのような非人道的行為の責任を認識していないことも非難する」という。続けてオバマ大統領と米議会に対して、橋下発言に関するさらなる調査を徹底するよう要求し、事実が裏付けられた段階で橋下市長と日本政府に対して公式に抗議、謝罪を求めるとした。

決議内容に関して議員による討論や市民の意見聴取はなく採決も取らずに市長が署名した。実はこの日、議場には在米韓国大使と「米州韓人会総連合会」の代表者が招かれていた。朝鮮戦争休戦60年を記念して現地の人をねぎらう意味合いもあったのだが、ふたりは決議文を手に持って市長と記念写真に収まった。大使は慰安婦問題について「韓国だけでなく、中国やインドネシア、フィリピンなど多くの国を含む問題」とあいさつしたが、なぜ韓国大使が被害者を「代表」して決議の場に立ち会ったのかは不明だ。

慰安婦問題で対日強硬派議員のおひざ元

決議を期に、インターネット上にはミルピタス市にも従軍慰安婦の像が建てられるのではとのうわさが広がった。同じカリフォルニア州のグレンデール市に6月、慰安婦像が設置されたこともあり、このような動きが加速するのではないかとの見方だ。

ミルピタス市と姉妹都市として交流のある茨城県つくば市は9月5日、決議に関してホセ・エステベス市長に見解を確認し、内容をウェブサイト上で発表した。「現時点でミルピタス市はいかなる(特定の)立場もとっておらず、今後これ以上の動きをとる予定はない」という。「市が慰安婦像を建てる」とのうわさが流れていることは知っているとしながらも、「このような事実は全くなく、検討したこともない」と全面的に否定している。

2010年実施の米国勢調査によると、ミルピタス市の人口は6万6790人で、うちアジア系が4万1536人と全体の62%を占める。割合そのものも大きいが、10年前の2000年は52%だったことを考えると急速に膨れ上がっているのだ。民間の人口データを見ると2000年当時はフィリピン系が最も多く、中国系やベトナム系が続く。韓国系はむしろ少数派だ。いずれにしろアジア系の影響力が強い街なのは間違いない。

ミルピタス市にはもうひとつ、特徴がある。慰安婦問題について対日強硬路線をとるマイク・ホンダ下院議員の選挙区なのだ。ホンダ議員は2007年、日本政府に対して元慰安婦に謝罪を求める決議案を下院に共同提出した。橋下市長の発言に対しては「卑劣で不快」と厳しく批判、また2013年6月28日付の朝日新聞のインタビューでは、「(米国)各州の議会に慰安婦に関する決議を働き掛けている」と明かしている。ミルピタス市は州ではないが、ホンダ議員のおひざ元だけにその影響力は無視できなさそうだ。

ホンダ議員のフェイスブックには、10月16日付で、韓国女性家族相・趙允旋氏と面会して、慰安婦問題で日本政府の謝罪の重要性について話し合ったと書かれていた。趙氏は10月11日にニューヨークで開かれた国連総会で、慰安婦問題について日本政府の姿勢を厳しく批判した人物だ。

アジア系が6割を占める自治体、慰安婦問題で急先鋒に立つ大物議員の存在、市議会の決議の日に招かれた韓国大使と在米韓国人団体の代表者――。諸条件を考えると、ミルピタス市ではこれからもひと波乱ありそうだ。

JCAST 2013.10.18

2013/10/07

NYで日本人が目にした「求む慰安婦」ポスター

慰安婦問題について語るLeeの映像も存在する(埋め込み不可)

イ・チャンジン(Chang-Jin Lee)の現代アートCOMFORT WOMEN WANTED展を取り上げた過去のエントリーにこの様なコメントを頂いた。そう、Leeはその後もこの作品展をあちこちで開催している。先月はコロンビア大学でも。タイムズスクウェアの他、コリアタウンやチャイナタウン、そしてリトルトーキョーの電話ボックスにポスターを貼りまくっているから、コメントを下さった方が見たのもその一枚だろう。彼女は5年前に日本を訪れ、Wamの関係者とも接触している。彼女のブログを読む限り、反日というよりは(ミスリードされた)真面目系なのだと思う。

じてんしゃ2013年10月5日 14:04

こんにちは。
今日、NYでこのポスターをみてショックを受けたものです。NYのいわゆる日本街のようなところに、翻訳もなくこのポスターの日本語版のみが貼ってあったので、日本人への嫌がらせかと思いましたが、作品だったんですね。悲しいです。一緒にいた台湾人の友だちもショックを受けていました。
芸術作品としてはインパクトがあって、人にショックを与える、ということで成功なんでしょうか…


ポスターというより、パブリックアートの一種らしい

リーのブログから:
COMFORT WOMEN WANTED brings to light the memory of 200,000 young women, referred to as "comfort women,"who were systematically exploited as sex slaves in Asia during World War II,and increases awareness of sexual violence against women during wartime.Ad-like Billboards, Kiosk street posters, prints, audio and multichannel video installation

2013/09/29

日本人写真家とドイツ人記者のコラボ記事


ドイツ版BBCといったところなのだろうか、ドイチェ・ヴェレに掲載された「慰安婦の悲しい物語」は、ドイツで活動する写真家、矢嶋宰の写真15枚を使った日本軍慰安婦問題のレポートである。この記事はコメント欄で凧さんから教えて頂いた

キャプションを書いたのはSonja Ernst。最初、解説がかなり「巧み」に慰安婦支援団体側の主張に沿って書かれているので、ドイツ人が書いたものではないだろうと思ったが、Sonja Ernstは南アジアや韓国を専門にするフリージャーナリストで、韓国滞在中には中央日報の英字版にも関わったらしい。

記事はアジア女性基金には触れておらず、女性基金を拒否することを条件に韓国政府が渋々提供した財政援助についてだけ触れている。朝鮮人の男に騙されたキム・スンドク(金順徳)も、ここではあたかも日本人に騙されて慰安婦にされたように語られている。アジア太平洋戦争という日本の左翼用語由来(?)の言葉も使っている。


矢嶋の考えは分からないが結果的にプロパガンダの拡散に加担してしまっている
The sad story of the "comfort women"

Ruined lives

Lee Sudan, now 88 years old, used to be a "comfort woman." An estimated 200,000 other girls and young women were forced to "comfort" Japanese soldiers during Asian-Pacific War. "Comfort" is the cynical euphemism the Japanese used; it was really prostitution into which the women were brutally forced.

Japanese war

Most of the prostitutes were from Korea, like Lee Sudan. She was 17 years old when she was kidnapped and taken to China. Korea had been a Japanese colony since 1910. In 1937 the war between Japan and China broke out and started the Second World War in Asia. Japan's greed for power and brutal Asian expansion cast a dark cloud over the entire continent.

Coping with the past

The Japanese photojournalist Yajima Tsukasa took portraits of "comfort women" in China and Taiwan. He lived in a South Korean home, "The House of Sharing," for the women from 2003 to 2006. There he took care of and photographed survivors like Pak Duri, who had been kidnapped and taken to Taiwan. The harsh beatings from the soldiers took a toll on her hearing and made her nearly deaf.

中央日報と縁のある記者だけに、ほぼ韓国側の主張に沿った解説

Sex slaves

The Japanese systematically organized forced prostitution; they set up military brothels on the frontlines. The war crimes that happened there were justified with cynical excuses, for example, that the authorities were trying to prevent mass raping from taking place in the occupied territories. Ji Dori was taken to a military brothel in China a few months before the war ended in 1945.

Bridging gaps

Yajima's grandfather was a soldier in China. He avoided the questions his grandson asked him about the war, so Yajima looked for the answers to his questions later as a photographer. The 39-year-old says he wants to bridge the gap that still exists between Koreans and Japanese.

Gaining trust

"I came as a man, a Japanese man no less, and as a photographer to the House of Sharing," said Yajima. "That was not easy for the women in the beginning. But they let me stay." He listened to and helped the women. Slowly but surely he gained their trust and friendship.

Never-ending torture

Kim Sundeok (left) and Oklyon (right) were sex slaves who survived the torture. Pak was kidnapped by the Japanese military and taken to a military brothel in what is now called Papua New Guinea. The girls and young women there had to be available for the men around the clock. They were raped by up to 40 men each day.

金順徳だとすれば、93年の時点では地元民による詐欺という話だった

False promises

Kim Sundeok(金順徳?) was taken to a military brothel in China at the age of 17. She had fallen for a false recruitment for nurses. The Japanese recruited young Korean women to work in China for a few months to earn a little money. Young women from poor families were looking for means to help their families financially. But their dreams ended with humiliation and violence.

Alone and far from home

Yajima Tsukasa visited Pak Seoun in China. The 93-year-old lives in the north eastern city of Jilin. The Korean woman had been taken to China in 1937 at the age of 20. After Japan's capitulation in August of 1945, the Japanese fled and left the "comfort women" behind. The young women were far away from home, traumatized and penniless.

Still alone

Pak Seoun stayed in China. She was too embarrassed to go back to her family. She married twice but both marriages ended in divorce. Her husbands had been unable to accept her past.

Suppressing the memories

After 1945 the comfort women did not speak of their hardships. The shame was too overwhelming and governments and societies never asked questions - neither in Japan nor in the previously occupied territories. Lee Okseon (left) also kept quiet. She had been taken to China at the age of 16 and stayed there. She started a family and didn't return to Korea until the year 2000.

The end

The year 1991 was an important year for Lee Okseon and other comfort women. Hak-Soon from Korea was the first to break the silence that year. She told her story on TV, which inspired other women to tell their stories, like Lee Okseon. The 82-year-old presented herself on an international stage and became active in the fight for recognition.

Japan should apologize

Comfort women from all over Asia came together. They all had a similar past and also shared the same feelings of anger toward the Japanese government, which to this day has still not officially apologized. Comfort women and others demonstrate each Wednesday in front of the Japanese embassy in Seoul. The 900th demonstration took place at the beginning of 2010.

The clock is ticking

Many of the comfort women remained childless and many fell into poverty. South Korea started offering the victims financial help in the mid-1990s. In China and Indonesia, however, many still live in poverty. The comfort women have started a movement and are demanding compensation from the Japanese government.

Fighting for dignity

Up to 1995, 235 comfort women had come out in South Korea; today there are only 82 left. The clock is ticking for the women, who are now over 80 and 90 years old. They broke the silence nearly 40 years after the atrocities happened to demand recognition and an apology from the Japanese government. Author: Sonja Ernst (sb) Editor: Thomas Baerthlein

2013/09/22

在独日本人「誇りを持って慰安婦運動に参加」 シュピーゲル誌

矢嶋の教科書には真珠湾攻撃について書かれていなかった?!

英訳して読んでいるので間違いがあるかもしれないが、シュピーゲルによれば「第二次大戦中日本の兵士たちが数万人の女性を拉致した(記事の中では、20万人が日本人によって拉致されたという説明もある)。彼らはいわゆる『慰安婦』を拷問し、レイプした。日本政府はこの犯罪を認めたことがない」「17ヶ国の出身者のうちの殆どは朝鮮人」だったということである。

はるばるドイツでこういった話を吹聴しているのが、少なくともその一部が日本人であるという話を信じ難い思いで聞く人もいるかもしれない。しかし、先日日本人留学生の方がコメントして下さったように、これは事実のようである。

ベルリン在住の学生です。

僕の友人がこの元慰安婦であったという方の講演会に足を運んでいたので話を聞いたところ、会場は満席で立ち見も出るくらいであり、韓国人やドイツ人だけでなく日本人も多く見受けられたとのことです。

正直ベルリンは土地柄リベラルな考えを持った人が多いと思うので、こういった女性の人権を盾にされてしまうと反論はできません。

(中略)

僕もベルリンで歴史のことについて話すことが何度かありましたが、僕の思う正しい歴史認識など全く相手にされません。史料や事実などは語るだけ無駄・・といった感じです。悔しいですが、土地柄かここに住んでいる日本人も反原発や自虐史観の方が(大変)多いです。[...]


シュピーゲルの記事は在独日本人矢嶋宰イ・オクソンの再会に焦点を当てている。この記事では、「生き証人」であるイ・オクソンは朝鮮人と日本人の私服姿の兵士に蔚山で拉致されたことになっている。日本政府は謝罪もしていないし、事実を認めもしないと。

そして矢嶋の説明だろうか。日本では石器時代や偉大なSAMURAIの時代(!)、広島長崎への原爆は習うが、日本軍の真珠湾攻撃によって戦争が始まったという事実は教えられていないと、日本で教育を受けた人間には到底理解できないような話をシュピーゲル誌は報告している。

独軍の慰安所は問題にしないのか?

矢嶋は、勇敢な『慰安婦』たちの運動の一翼を担っていることを誇りに思うと語っている。


Zwangsprostitution im Zweiten Weltkrieg: Japans Schande

Im Zweiten Weltkrieg verschleppten japanische Soldaten Zehntausende Frauen. Sie vergewaltigten und folterten die sogenannten "Trostfrauen". Die Regierung in Tokio hat die Verbrechen nie anerkannt. In Berlin kommen nun zwei Menschen zusammen, die das nicht hinnehmen wollen.

Tsukasa Yajima hat alles auf seinem Laptop, Schwarz auf Weiß, die Fotos der Überlebenden. Es ist 8 Uhr morgens, er sitzt in einem Bus nach Frankfurt.

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Die Frauen auf seinen Bildern legen Zeugnis ab von den Geschehnissen im Krieg, über die in Japan bis heute meist geschwiegen wird. Lee Ok-Seon, 86, ist der lebende Beweis. Die alte Dame mit dem weiß toupiertem Haar ist ebenfalls auf dem Weg nach Frankfurt, im Flugzeug, aus Seoul, der Hauptstadt Südkoreas.
Drei Jahre haben sie sich nicht gesehen, Tsukasa Yajima und Lee Ok-Seon, der 42-jährige Fotograf und die Frau, deren Schicksal er dokumentiert hat.

"Ich erzähl das nicht gern"

Die Geschichte beginnt am 29. Juli 1942, in der koreanischen Stadt Ulsan, als ein japanischer und ein koreanischer Soldat in Zivilkleidung nach der Hotelangestellten greifen. Lee Ok-Seon ist 15 Jahre alt. Die Männer verschleppen das Mädchen in ein japanisches Armeebordell nach China.

Die Entführer knebeln das Mädchen, fesseln es an Händen und Füßen und werfen es auf eine Lkw-Pritsche. Da sind schon fünf junge Frauen.

Korea war damals japanische Kolonie, als Verbündeter des Nazi-Regimes führte Japan Krieg gegen China und die USA. Noch in derselben Nacht brachten die Männer ihre Gefangenen über die Grenze in die nord-west-chinesische Provinzhauptstadt Yanji. Dort gab es zwei Vergnügungshäuser für japanische Soldaten, kleine Zimmer in Holzbaracken, eine Matte, eine Waschschüssel. Neun Mädchen arbeiteten hier, die Jüngste war elf Jahre alt.

Pro Zwangsprostituierte waren es 40 bis 50 Soldaten täglich, sagt Lee Ok-Seon. Sonntags waren die Schlangen vor den Baracken besonders lang. "Ich erzähl das nicht gern", sagt sie, aber sie müsse jetzt darüber reden. Lee Ok-Seon erinnert sich, dass das elfjährige Mädchen das Pensum nicht schaffte, ein Soldat wurde wütend, er malträtierte das Kind mit einem Messer, dann vergewaltigte er es. Das Mädchen starb an den Verletzungen. Eine andere junge Frau wehrte sich stark, ein Soldat zerrte sie daraufhin nach draußen und tötete sie mit zahllosen Messerstichen.

Bürgermeister verteidigte Bordelle

Die Geschichte von Lee Ok-Seon ist auch die Geschichte von 200.000 Mädchen, die damals von Japanern in Militärpuffs entführt wurden. "Trostfrauen" nannten die Japaner die Sexsklavinnen. Sie stammten aus insgesamt 17 Ländern, die meisten jedoch aus Korea. Von ihnen sind noch 57 am Leben.

Der Krieg endete am 15. August 1945. Japan kapitulierte bedingungslos, doch die Geschichte von Lee Ok-Seon endete nicht. Die japanische Regierung erkennt das Verbrechen bis heute nicht an. Lee Ok-Seon wartet auf eine Entschuldigung. Doch davon scheint Japan noch weit entfernt: Im Mai hatte der Bürgermeister der Metropole Osaka, Toru Hashimoto, die Bordelle sogar verteidigt. Es sei nötig gewesen, um die "Disziplin aufrechtzuerhalten" und den Soldaten, die ihr Leben riskierten, eine Pause zu ermöglichen.

"Ich war schockiert"

Das Gesicht von Lee Ok-Seon ist voller Runzeln, sie hat eine flache Stupsnase und hohe Brauen, beim Reden stützt sich die Greisin auf einen Gehstock aus Holz. Am Dienstag wird sie ihre Geschichte an der Technischen Universität in Berlin erzählen, die Welt soll wissen, was sie erlebt hat.

Tsukasa Yajima hatte nie von den Verbrechen Japans gehört, bis er 29 Jahre alt war. Der Japaner wuchs in Gum auf, einer Stadt in Japan, hundert Kilometer von Tokio. Tsukasa lernte in der Schule über die Steinzeit, erfuhr vom Leben der großen Samurais im 17. Jahrhundert und dass Japan Opfer des Zweiten Weltkriegs wurde, als die Nuklearbomben 1945 auf Nagasaki und Hiroshima fielen. Dann aber war die Schule aus.

Der japanische Überfall auf die US-Pazifikflotte in Pearl Harbour etwa, der im Dezember 1941 zum Kriegseintritt der Amerikaner führte, war im Geschichtsunterricht nicht mal eine Fußnote wert. Irgendwann stand Tsukasa Yajima vor Lee Ok-Seon. Ein japanisch-koreanischer Universitäts-Workshop über Feminismus und Gender-Studien hatte ihn nach Seoul geführt.

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"Ich war schockiert darüber, dass mein Land andere asiatische Länder überfallen und dort so grausam gewütet hatte", sagt der Japaner. Tsukasa Yajima zog ins "House of Sharing", eine private Wohnanlage der überlebenden "Trostfrauen".
Drei Jahre lang lebte Tsukasa Yajima mit den alten Damen, Tür an Tür, ein junger Japaner und die Opfer seines Volkes. Tsukasa Yajima dokumentierte das Schicksal der Frauen mit der Kamera. Er fotografierte die Orte, an denen sie damals festgehalten wurden. Die meisten der Zwangsprostituierten sind inzwischen tot, und wenn sie noch leben, sind sie oft bettelarm. Viele kehrten aus Scham nie in die Heimat zurück, zahllose konnten keine Kinder bekommen, weil Medikamente sie unfruchtbar gemacht hatten. So erging es auch Lee Ok-Seon.

All das hat Tsukasa Yajima auf seinem Laptop gespeichert, auf Schwarz-Weiß-Bildern, die berühren. Der Fotograf lebt inzwischen in Deutschland, auch weil er glaubt, dass dort erfolgreicher mit einer schrecklichen Vergangenheit umgegangen wird als in seinem Heimatland. Am Ende seiner Busfahrt trifft er Lee Ok-Seon am Flughafen. Der Japaner Tsukasa Yajima ist jetzt Teil der Bewegung der mutigen "Trostfrauen". Und stolz darauf.


参考: グーグル訳

During World War II Japanese soldiers abducted tens of thousands of women. They raped and tortured the so-called " comfort women " . The government in Tokyo has never recognized the crime. In Berlin, two people come together now , who do not want to accept .

Tsukasa Yajima has everything. Onto his laptop, black on white, the photos of the survivors It is an 8 clock in the morning, he sits in a bus to Frankfurt.

DISPLAY

The women in his paintings bear witness to the events in the war , is mostly silent on in Japan today. Ok- Seon Lee , 86, is living proof . The old lady with the white hair toupiertem is also on the way to Frankfurt , on the plane from Seoul, capital of South Korea.
Three years they have not seen Tsukasa Yajima and Lee Ok- Seon, the 42- year-old photographer and the woman whose fate he has documented .

"I do not like the narrative "

The story begins on 29 July 1942 , engage in the Korean city of Ulsan , as a Japanese and a Korean soldier in civilian clothes to the hotel staff . Ok- Seon Lee is 15 years old. The men kidnap the girl in a Japanese army brothels in China.

The kidnappers gag the girl , tie it on the hands and feet and throw it on a flatbed truck . There are already five young women.

Korea was a Japanese colony at that time , as an ally of the Nazi regime led war against Japan, China and the United States. That same night, the men brought their captives across the border in the north- western Chinese province capital Yanji. There were two houses entertainment for Japanese soldiers , small rooms in wooden barracks , a mat , a wash bowl. Nine girls working here , the youngest was eleven years old.

Pro forced prostitutes there were 40 to 50 soldiers a day, says Lee Ok- Seon . Sundays were the very long queues in front of the barracks . "I do not like to tell ," she says, but she had to talk about it now . Ok- Seon Lee remembers that the eleven year old girl did not manage the workload , a soldier was angry, he tortured the child with a knife, then he raped her . The girl died from injuries . Another young woman fought back strongly , a soldier dragged her outside and then killed them with numerous knife wounds .

Mayor defended brothels

The story of Lee Ok- Seon is also the story of 200,000 girls who were then kidnapped by Japanese in Militärpuffs (?) . " Comfort women " the Japanese called the sex slaves . They came from 17 countries , but most of them from Korea. 57 of them are still alive.

The war ended on 15 August 1945. Japan surrendered unconditionally , but the story of Lee Ok- Seon did not end . The Japanese government recognizes the crime still not on . Lee Seon - Ok waiting for an apology. However, it seems Japan still far away : in May was the mayor of the city of Osaka, Toru Hashimoto, the brothels even defended. It was necessary to " maintain discipline " and that to allow the soldiers who risked their lives a break.

"I was shocked "

The face of Lee Ok- Seon is full of wrinkles , she has a flat upturned nose and high brows , while talking to the old woman relies on a walking stick made ​​of wood. On Tuesday, she will tell her story at the Technical University in Berlin, the world should know what she has experienced .

Tsukasa Yajima had never heard of the crime in Japan until he was 29 years old. The Japanese grew up in Gunma(?) , a city in Japan , a hundred kilometers from Tokyo . Tsukasa learned in school about the Stone Age, learned about the life of the great samurai in the 17th Century and that Japan victims of the Second World War, when the nuclear bombs dropped on Nagasaki and Hiroshima in 1945 . But then school was out .

The Japanese attack on the U.S. Pacific Fleet at Pearl Harbor about that led to the American entry into the war in December 1941 , was not even worth a footnote in history lessons . Eventually, Tsukasa stood before Yajima Lee Ok- Seon . A Japanese- Korean university workshop on feminism and gender studies had led him to Seoul.

DISPLAY

"I was shocked that my country was invaded other Asian countries and there raged so cruelly ," said the Japanese. Tsukasa Yajima moved into the "House of Sharing" , a private gated community of the surviving " comfort women " .
Three years lived Tsukasa Yajima with the old ladies next door , a young Japanese and the victims of his people. Tsukasa Yajima documented the plight of women with the camera. He photographed the places where they were then arrested . Most of the prostitutes are now dead, and if they are still alive , they are often destitute . Many never returned to his homeland in shame , countless could not have children because of drugs they had made barren. This also happened to Lee Ok- Seon .

All that Tsukasa Yajima has stored on his laptop, on black - and-white images that touch . The photographer now living in Germany , also because he believes that there is dealt successfully with a terrible past than in his home country. At the end of his bus , he meets Lee Seon - Ok at the airport. The Japanese Tsukasa Yajima is now part of the movement of the brave " comfort women " . And proud of it.

2013/09/05

慰安婦のドイツ講演 (イ・オクソン)

誤解を正すぐらいしないと単なる反日活動家になってしまうのでは?

日本政府は変わらないという矢嶋。変わらないのは彼の方かもしれない。本文にもあるように矢嶋は昔、ナヌムの家でボランティアをしていた。ドイツに渡ってからも、運動家らと協力して慰安婦問題をドイツに普及させる活動を行っている。

アメリカでの講演を終えたイ・オクソンはドイツに渡り、矢嶋と再会。彼の通訳でドイツで講演している。ドイツのメディアによれば、彼女はアメリカでの証言と同様、慰安所は屠殺場であった話している。天皇ヒロヒト批判や、自分が(日本)兵によって釜山の路上で拉致されたとも話したようだ。韓国系の団体は、南ドイツ新聞に日本によって拉致された20万人超の慰安婦は主に11歳から15歳の少女であったと説明しているようである。人数のインフレーションと、年齢のデフレーションは相変わらず。

「日本の奴(일본놈)」の声を聞いても気分を悪さない日本人・・・ドイツ慰安婦証言会通訳引き受けた矢嶋氏

「なぜ度々日本の奴と写真を撮れといって!」

3日(現地時間)ドイツベルリン工科大で証言集会を開いた慰安婦被害者イ・オクソン・ハルモニ(86)は通訳を受け持った矢嶋宰(42)氏を示して気兼ねなく「日本の奴」と呼んだ。言葉とは異なり顔には情感が満ちていた。

矢嶋氏とイ・ハルモニの縁は格別だ。名門早稲田大学を卒業後、朝日新聞出版のカメラマンとして普通の生活を送った矢嶋氏は2003年会社を止め、京畿道広州市退村面元堂里のナムヌの家でボランティア活動をした。「加害国の市民の一人としてお婆さんが受けた苦痛を分けて悪い歴史に日本人たちがもう少し関心を持つようにするため」というのが当時彼が明かにした奉仕の弁だった。 イ・ハルモニともここで出会った。

矢嶋氏のボランティア活動は2005年まで続いた。その後、ドイツで写真家として活動、ドイツ人女性と結婚もした。そうするうちにイ・ハルモニが先月28日からドイツの様々な都市を回って証言活動をするという便りを聞いて通訳を自任したのだ。 彼は「日本政府は政権が変わってもまったく変わらない」と話した。

この日証言会では、200席余りの席が一杯になり、一部の聴衆は立ち見になるなど盛況となった。 生き生きした証言が続くと、すぐに一部の聴衆は目をとじたり涙を流した。イ・ハルモニは「(望みは)奪われた人権と名誉を回復することだけ」と答えることもした。
国民日報(聯合ニュース)2013.9.4

‘일본놈’ 소리 들어도 기분 나빠하지 않는 일본인… 독일 위안부 증언회 통역 맡은 야지마씨

“왜 자꾸 일본놈하고 사진을 찍으라고 해!”

3일(현지시간) 독일 베를린공대에서 증언회를 연 위안부 피해자 이옥선 할머니(86)는 통역을 맡은 야지마 쓰카사(42)씨를 가리켜 스스럼없이 ‘일본놈’이라 불렀다. 말과는 달리 얼굴에는 정감이 가득했다.

야지마씨와 이 할머니의 인연은 남다르다. 명문 와세다대를 졸업하고 아사히 신문 출판국 사진기자로 평탄한 삶을 살던 야지마씨는 2003년 회사를 그만두고 경기도 광주시 원당리 나눔의 집에서 봉사활동을 했다. “가해국민의 한 사람으로서 할머니들이 받은 고통을 나누고 나쁜 역사에 일본인들이 좀 더 관심을 갖게 하기 위해서”라는 게 당시 그가 밝힌 봉사의 변이었다. 이 할머니도 이곳에서 만났다.

야지마씨의 봉사활동은 2005년까지 이어졌다. 이후엔 독일에서 사진작가로 활동하며 독일인 여성과 결혼도 했다. 그러다 이 할머니가 지난달 28일부터 독일 여러 도시를 돌며 증언활동을 한다는 소식에 통역을 자처한 것이다. 그는 “일본 정부는 정권이 바뀌어도 도무지 변하지 않는다”고 말했다.

이날 증언회는 좌석 200여석이 꽉 차 일부 청중들이 선 채로 듣는 등 성황을 이뤘다. 생생한 증언이 계속되자 일부 청중들은 눈을 감거나 눈물을 흘렸다. 이 할머니는 “(소원은) 빼앗긴 인권과 명예를 회복하는 것 뿐”이라고 답하기도 했다.

연합뉴스

2013/07/03

東京オリンピックを阻止する署名運動に賛同2万5千人


歴史問題やヘイトスピーチを理由にしているが、実は、こういった署名運動のルーツにも日本に対するヘイトがあるのだろう。もちろん、新大久保のデモの背景にもヘイトはある。この署名活動に対するツイッター上の呼びかけはここ←にまとめてある。といっても、最初の数日分だけだが。

この赤ん坊にも日本に対するヘイトは伝えられていくのだろうか?


米国のサイトで「東京五輪阻止」を呼びかけ 署名すでに2万5000件、大半は韓国から

アメリカで運営されている請願サイトで、東京五輪開催を阻止する署名活動が行われ、3か月余で2万5000件に達した。戦争犯罪への反省がない日本には開催資格がないとするもので、韓国からの支持が多いようだ。

「親戚や友達に知らせてほしい。そして、署名をするように頼んでほしい」

請願サイト「Go Petition」で2013年3月16日に署名活動を始めた米ニュージャージー州在住というDon Towさんは、書き込みでこう訴えた。

「日本は戦争犯罪への謝罪がない」と非難

米請願サイトで署名集め

「2020年の夏季五輪開催地に、東京を選ぶな」。こんなタイトルが、署名には付けられている。

Don Towさんは、第2次大戦中に慰安婦の強制連行(ブログ主注:「第二次大戦中20万人以上の女性や少女が日本帝国陸軍により性奴隷制度に強制された」と書かれている)や南京大虐殺があったにもかかわらず、日本の安倍晋三政権がそうしたことを認めようとしないとし、歴史に学ばなければ再び繰り返すと主張した。そして、欧米の議会からは日本を非難する決議がなされており、IOCが五輪開催地に東京を選ばないように、署名活動に協力してほしいと訴えている。

署名には、韓国からと記すケースがかなり多く、7月2日夕時点までに2万5000件ほどにもなった。韓国のコミュニティサイト掲示板などで、署名活動が紹介されたことが大きいらしい。この数は、請願サイトで57位に入っている。上位の署名活動は、20万件ぐらいあった。

コメント欄には、日本は戦争犯罪への謝罪がないと非難する声のほかに、原発事故で放射能汚染が進んでいて開催地にふさわしくないといった書き込みも多かった。

署名を始めたDon Towさんは、ブログのプロフィール欄を見ると、現在は70代で、物理学の博士号を持っているらしい。韓国との関わりは不明だ。
東京を選ばないようIOCに働きかける動きは、ほぼ同時期に韓国内でも始まっている。

韓国の団体もIOCに反対書簡を送る

韓国の聯合ニュースによると、サイバー外交使節団として韓国の広報活動を展開している「VANK(Voluntary Agency Network of Korea))」は2013年4月5日、東京五輪に反対する書簡をIOCに送付した。さらに米国のニューヨーク・タイムズ紙やCNNといった主要メディアにも同様な書簡を送ったという。

その理由は、日本の嫌韓デモヘイトスピーチは、平和と人類愛を掲げる五輪精神に反しており、それを黙認している日本には、五輪開催の資格はない、というものだ。

VANKはこのほか、日本の竹島を韓国領土と主張したり、日本海を東海の呼称に改めてもらうよう呼びかけたりする運動も同時に続けている。

東京五輪阻止に向けた韓国の動きについて、日本のネット上では、冷ややかな反応が多い。

「日本人差別を堂々と世界にアピールしてどうすんの」「W杯の行動を考えたら韓国に嫌われるのはむしろプラス」「もし東京に決まったら 韓国は出ないんだろうな?」といった声が相次いでいる。

なお、ヘイトスピーチをしたグループについては、警視庁が6月に、対立グループとともに、暴行の疑いで数人を逮捕する事態になっている。

J-Cast 2013.7.2

Do not select Tokyo to host the 2020 Summer Olympics

Petition published by Don Tow on Mar 16, 2013

Target: International Olympic Committee

Region: GLOBAL

Petition Background (Preamble):
During WWII, more than 200,000 women and girls were forced into sexual slavery (so-called “comfort women”) by the Japanese Imperial Army. During approximately a six-week period starting on 12/13/37, about 300,000 Chinese (including many women and children) were slaughtered and about 20,000 women and girls were raped in the city of Nanking alone. During WWII, thousands of chemical and biological weapons of mass destruction were deployed in more than a dozen provinces in China killing more than hundreds of thousands of Chinese, and permanently maiming many more.

Yet Mr. Shinzo Abe, Japan’s current prime minister and her prime minister during 2006-2007 has repeatedly said that “there was no coercion of women into sexual slavery during WWII, and there is no testimony from anyone in Japan.” Shintaro Ishihara, Governor of Tokyo, said in an interview in 1990 that the Nanking Massacre “is a story made up by the Chinese.” Takashi Kawamura, mayor of Nagoya, said in 2012 that “there was no Nanking Massacre, only the results of conventional acts of combat.”

All of these are lies, as these atrocities were well documented by many eye witnesses, including western journalists, businessmen, diplomats, missionaries, educators, and other international observers. Furthermore, the Japanese teacher and journalist Tamaki Matsuoka has interviews of over 250 former Japanese soldiers, with many of these interviews video-recorded, confirming the Nanking Massacre.

Sixty seven years have elapsed since the end of WWII. The Japanese government still has not officially acknowledged and apologized for the massive and inhumane atrocities that the Japanese Imperial Army inflicted on Asia during WWII. Furthermore, their leaders, including prime ministers, have regularly paid tribute at the Yasukuni Shrine in Tokyo where 14 convicted and executed Class A war criminals are enshrined. This is analogous to German chancellors paying tribute at a memorial for Hitler. In addition, starting in the early 1980s, the Japanese government has rewritten their textbooks so that generations of Japanese already do not know about this part of WWII history.

Many governments have already passed resolutions condemning Japan’s position on the comfort women issue, including resolutions passed in 2007 by U.S. House of Representatives, Canadian Parliament, Lower House of the Dutch Parliament, and European Parliament. Apparently words alone are not sufficient to change Japan’s position.

If we don’t learn from history, then history can repeat itself, in the form of another Pearl Harbor attack, Nanking Massacre, Bataan Death March, sexual slavery, germ warfare, etc. For the sake of world peace, the world must take more serious actions than just words.

Therefore, we petition the International Olympic Committee not to select Tokyo, one of three finalists (together with Istanbul and Madrid), to be the host city for the 2020 Summer Olympics.

We ask all peace loving people of the world to sign this petition to urge the International Olympic Committee and the various national Olympic Committees not to select Tokyo to host the 2020 Summer Olympics, unless the Japanese government officially acknowledges and apologizes for their WWII atrocities.

Petition:
Sixty seven years have elapsed since the end of WWII when the Japanese Imperial Army inflicted massive and inhumane atrocities on Asia. Yet, the Japanese government still has not officially acknowledged and apologized for these atrocities.

Instead, Mr. Shinzo Abe, Japan’s current prime minister, has repeatedly said that “there was no coercion of women into sexual slavery during WWII, and there is no testimony from anyone in Japan.” Shintaro Ishihara, Governor of Tokyo, said in an interview in 1990 that the Nanking Massacre “is a story made up by the Chinese.” Takashi Kawamura, mayor of Nagoya, said in 2012 that “there was no Nanking Massacre, only the results of conventional acts of combat.”

All of these remarks are lies, as these atrocities were well documented by many eye witnesses, including western journalists, businessmen, diplomats, missionaries, educators, and other international observers. Furthermore, the Japanese teacher and journalist Tamaki Matsuoka has interviews of over 250 former Japanese soldiers, with many of these interviews video-recorded, confirming the Nanking Massacre.

In order to keep history from repeating itself and to promote world peace, we the undersigned call on the International Olympic Committee in their upcoming September 7, 2013 meeting, as well as various national Olympic Committees, not to select Tokyo (competing with Istanbul and Madrid) to be the host city for the 2020 Summer Olympics, unless the Japanese government officially acknowledges and apologizes for her WWII atrocities.


GoPetition 2013.3.16

2013/05/05

仏で放送された慰安婦ドキュメンタリー

ハルモニは国民的アイドルにして反日のシンボル
国宝と言ったTF1はするどい

既に読まれた方も多いだろう。WJFプロジェクトが、フランスのテレビ(TF1)で放送された日本軍慰安婦に関するドキュメンタリーを翻訳紹介して下さっている。

ドキュメンタリーとしてはかなり出鱈目であるが、これは撮影に協力した挺対協のせいなのか、通訳や(TV局の)翻訳の問題か、参考にした資料が出鱈目なのか。たぶん全てだろう。世界の理解などこの程度である。

皮肉な事に、フランス軍には日本軍の慰安所システムに酷似した野戦売春宿のシステムがあり、第二次大戦後も存続した。もちろんフランス政府は謝罪していない。


彼女たちは、韓国でもっとも有名なおばあさんたちである。いわば国宝である。[...]人々は彼女たちのことを「ハルモニ」と呼ぶ。おばあさんを敬って呼ぶときに使う言葉である。

「ハルモニ、私たちは、あなたたちを愛しています。」

聴衆は、頭の上に掲げた手でハート形を作り、韓国で最も優秀な学生たちがプレゼントを手渡す。

昭和天皇と慰安婦制度を結びつける手法は現在では用いられない
(日本人支援者を増やす障害になったという事情も)

「韓国のヴァギナ」
和服を着ているように見えるが?

[...]彼女たちは、十代の少女だった時、日本軍によって拉致され、アジアの各地に存在した「慰安所」と呼ばれた小さな家屋へと移送された。ちょうどこのような小屋である。そこで、一日中、彼女たちは性奴隷として日本兵たちに奉仕した。日本兵たちは、彼女たちを「韓国のヴァギナ」と呼んだ。この構想全体は、天皇によって確立された[...]20万人の女性がレイプされ虐待された。[...]

正確には、彼女は挺対協の中興の祖

最大の反日団体と言われる挺対協
潤沢な資金は、日本あってこそ
27才の学生だった尹美香はショックを受けた。彼女はプロジェクトを立ち上げ、生存者を捜し出すことに人生を捧げることにした。

ハルモニたちの恵まれた生活も垣間見える

挺対協に従わなかったハルモニは社会的に葬られた
語られない慰安婦騒動の暗黒史
[...]これらの女性たちを受け入れる特別な老人ホームが設置され、李さんも現在そこに暮らしている。一人一人が自分の部屋をもっており、毎週土曜日には鍼治療が行われる。[...]美容トリートメントを受ける権利をもつ女性もいる。[...]毎月、彼女たちは国から、500ユーロを受け取っている。老人ホームの滞在費用は無料である。彼女たちは、過去に失った時間を取り戻そうとするかのように、ここでの日々を満喫している。[...]

「強制連行」を証言するハルモニも

ハルモニにも個性があり、過激派ばかりではないのだが・・・

連中は、私を乱暴に捕まえて、何の説明もしないで、トラックに無理やり乗せたんだ。私が拉致されたときには、家に誰もいなかった。私は両親にさよならも言えなかったんだ。誰も何も見なかったさ。私は台所に隠れようとしていたんだ。でもすぐに彼らに捕まっちまった。」

「あなたは日本人のことを怒っていますか?」

日本人なんか大嫌いさ。軽蔑するね。軽蔑するどころじゃないよ...」

これらのハルモニたちを最も傷つけているのは、日本がこれらの犯罪行為を決して認めないことである。日本の教科書さえ、そのことに触れてはいない。だからこそ、これらのハルモニたちは、最後の戦いを先導しているのである。許すための戦いを。[...]

私たちのお婆ちゃんに謝れ 無邪気な子供に罪はない

「小さなガキ(kid)だって謝り方を知ってるぞ」 書いたのは大人だろう

「私たちのハルモニに謝れ。デモを行おう!」

過去67年間、日本は一度も謝罪していない



下の写真は、フランス軍の「慰安所(野戦移動売春宿)」。モロッコで撮影されたもの。参考までに。

At Camp Arblou l’Arbi
Le B.M.C.