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2011/12/01

慰安婦の帰還


挺対協は、「日本軍性奴隷」を独立有功者並、あるいはそれ以上の国家的アイコンに仕立て上げた。これも一種のショーとしての一面もあるのだろう。ノ・スボクの訃報についてはコチラを。タイで亡くなった韓国人元慰安婦の遺体が祖国に帰還する。

タイで死亡した元慰安婦女性の遺体、韓国に戻る

日本軍の慰安婦として連行され、他郷で生涯を送った故ノ・スボクさん(写真)の遺体が、韓国で永眠することになった。

韓国挺身隊問題対策協議会は「90歳のノ・スボクさんが4日に老患で死亡した」とし「30日にノ・スボクさんの遺体を韓国に迎えることにした」と28日、明らかにした。

ノさんは21歳だった1942年、釜山(プサン)影島(ヨンド)橋付近で洗濯をしていたところ、日本軍に連行され、シンガポールやタイなどで慰安婦生活をした。日本の敗戦後、マレーシアの国連軍捕虜収容所に入り、タイに定着した。

ノさんは84年、タイの韓国大使館を通して韓国の家族を捜してほしいと要請した。

2011/11/05

1921年から慰安婦 タイで韓国人元慰安婦亡くなる



1921年で21歳。終戦の1945年には45歳・・・。挺対協はタイに住むこの女性とも接触して、韓国で開催された「第10回日本軍『慰安婦』問題解決のためのアジア連帯会議」にも招聘している。KBSが掲載しているこの古い写真は本人を写したものだろうか?45歳には見えない。

挺対協の過去のソース 閉架には、彼女は21歳だった1942年にプサン近郊の井戸で洗濯している時に日本の警察に強制連行された(그녀는 21세이던 1942년 어느 가을날 부산근교 동구밖 우물터에서 빨래를 하던 중 일본경찰에 강제로 끌려간)と書かれた物もある。

1921年というのは流石に誤植だと思うが、それはともかく、日本の警察に強制連行されたという話は果たして本人がそう言っていたものなのだろうか?韓国社会から遠く離れたタイに暮らし、戦後の反日教育とも90年代の慰安婦強制連行キャンペーンとも無縁だった老女が突如こんな事を口にするだろうか(もちろん、「強制連行」を体験した貴重な証言者であるという可能性もあるにはあるのだが・・・)?

元従軍慰安婦 タイの病院で死去

旧日本軍のための元従軍慰安婦だったノ・スボクさんが、韓国時間で4日夜、タイの病院で亡くなりました。90歳でした。
韓国挺身隊問題対策協議会によりますと、慶尚北道(キョンサンブクド)安東(アンドン)出身のノ・スボクさんは、21歳だった1921年、釜山から旧日本陸軍の従軍慰安婦として日本軍に連れて行かれ、シンガポールやタイなどで、慰安婦をさせられていました。
ノ・スボクさんは、日本が戦争に負けた後、国連軍の捕虜収容所に入れられ、韓国に帰国できずにタイで暮らしていました。
これで元従軍慰安婦の生存者は、65人となりました。

KBS WORLD 2011.11.5

挺対協の幹部は、過去タイまで出向いてこの女性と接触し、後に韓国に呼び寄せている。しかし、彼女たちは自国に今も暮らしているはずの朝鮮戦争時の韓国軍慰安婦には目もくれない・・・。

左の人物が挺対協のユン・ミヒャン ノ・スボク元慰安婦と

2010/12/24

松井やよりの出会ったタイの売春婦【80年代】



松井やよりが80年代のタイで見た売春産業の実態。写真は最近のもの。昨日のエントリーのつづき。





少女たちは、少数民族との混血で美少女が多いといわれる貧しい北部や東北部の農村から、容姿によって5000バーツ(5万円)から1万バーツぐらいで売られてくる。

親たちがそれだけの前借金を受け取っているので、少女たちは一日平均3、4人、祝祭日には10人もの客をとらされても、5バーツ(50円)ぐらいしかもらえない。・・・

13歳の処女だったノイさんを買ったこの男性は5000バーツを払った。バンコクでは、中国旧正月には年若い処女、とくに生理も始まらない9歳10歳の幼い少女の相場がはね上がるといわれる。・・・

親から仕入れてきた商品である少女たちに逃げられては元も子もないと、業者は売春婦たちを監禁同然に拘束する。たとえ外出を許されても、田舎から出てきて西も東もわからない少女たちは、こわくて出歩けないのだ。

ノイさんもバンコクの町さえほとんど見たことがないという。毎日避妊薬を飲み、生理日も休ませてもらえず、病気で客をとるのをいやがると殴られ、ボロボロになっていた。・・・

同じバンコクの歓楽街パッポンは、日本人にもおなじみの、国際的に知られた売春地帯である。ベトナム戦争中は米兵たちの「R&R」(慰安施設)として、その後はそれに代わる政府の観光振興政策で、観光収入がタイの外貨収入の2位を占める”観光立国”の目玉として、栄えている夜の町である。

マンモス・マッサージパーラーで”金魚鉢”と呼ばれるガラスの向こうで番号札を胸に並ぶ厚化粧のマッサージガールたち。・・・ヤワラのティーハウスの少女たちよりやや年齢が高く、といっても圧倒的にハイティーンだが、比較的行動の自由もあり、中にはかなり稼ぐ女性もいるという。客は日本や欧米など外国人観光客も多く、観光売春の名所になっているからだ。





2010/12/23

松井やよりの見たタイの貧困と売春【80年代】



タイのプーケットでは現在も売春婦の数が少なくない(写真)が、松井やよりのこの話は80年代のもの。

アジアでの取材を通してこうした実態を見聞きしていた松井は、「慰安婦問題」 の本質が、実は貧困と売春の問題だということを知っていなかったはずはない。

10人の家族を食べさせるために娘二人を「売った」という母親。僧侶が30万人と言われる仏教国タイで売春婦が二倍以上もいる(80年代当時)という現実。

娼婦が低年齢化するわけ。こういった基礎なしに、慰安婦問題を語ることは出来ない。むしろ、こうした現実をあえて無視して慰安婦問題を語ろうとする人間には気をつけた方がいい。


海辺の美しさは比類ないと宣伝される新しい観光リゾート、タイ南部のプケット島で、市街地が火事になり、焼け落ちた売春宿の地下室から、監禁されていた5人の少女の焼死体が発見された。”地上の楽園”が地獄と化したこの痛ましい悲劇は1984年1月末に起こった。・・・5人の少女たちの年齢はなんと9歳から12歳、そのうちの二人は姉妹であった。

この事件に衝撃を受けたバンコクのタマサト大学演劇科の女性教授、マタニ・ルトニンさんは、少女売春をテーマにしたビデオ「明日、虹は出るだろうか」を作った。・・・ビデオは火事の現場から始まった。燃え盛る炎になすすべもない消防夫たち。焼け跡から運び出される少女たちの炭の塊のようになった小さな遺体が地べたに並べられる。助けを求めるように両手をつき出した形の遺体に思わず顔をおおってしまった。・・・カメラは少女たちの故郷をうつす。

チェンマイ、チェンライ、ランプーン、パヤオなどタイ北部の貧しい農村地帯・・・いかにも農民らしい風貌の両親は茫然としてほとんど無表情だ。母親が低い声で「子どもが10人もいて食べられないので町へ出した。仕方がなかった」と二人の娘を売らなければならなかった事情を訴える。・・・

二人の稼ぎ手を失って、この一家はどうなるのだろう。次はこの子が売られる番だろうか」というナレーションと共に、カメラは7歳の妹をクローズアップする。ぼろぼろの服のはだしの女の子は、無邪気にはにかんだ微笑をカメラに向けていた。姉たちの死も、自分のこれからの運命も知らぬ気に。・・・

仏教国タイには僧侶が30万人ぐらいいるというが、売春婦は70万人にものぼる(タイ警察推定)。・・・売春が大きな社会問題になっているのだ。とりわけ深刻なのが売春婦の低年齢化で、マタニ教授は、その一割は14歳以下と見ている。

84年春、バンコクの警察に”保護”された訳100人の売春婦の大半が13、4歳だった。本人の意思とは無関係に強制される少女売春こそ人身売買であり、人権侵害以外の何ものでもない。しかし、少女売春はどこの国でも急速に拡がる傾向にある。

売春が業者にとって利益の大きい商売であるために、ひともうけをたくらむ業者がふえて競争が激しくなり、より若く、よりフレッシュで商品価値が高く、コントロールしやすいローティーンの少女たちに目をつけるからだ。



後篇に続く。