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2015/09/06

朝日OB 「イデオロギーに囚われた記者が虚報と混乱をもたらした」


産経新聞が植村隆元朝日新聞記者のインタビューを何回にも分けて連載しているが、長い。まだ終わらない(6日現在)。植村へのバッシングは明らかに行き過ぎで、産経紙上に反論の機会を得たのは植村としては僥倖であった。産経は植村に塩を送る積りはなかったろうが、前半戦では、植村の反論に阿比留記者らがグウの音も出なくなっていた。当然である。産経の慰安婦報道は雑なのである。

産経VS植村の全景は別の機会に見て行くとして、連載後半になって植村が自分の事だけでなく朝日新聞の報道自体について開き直る様子を見せているので、ちょっと、他のOBの意見も取り上げたい。朝日関係者で朝日の慰安婦報道を批判しているのは、前川恵司だけではない。植村は(朝日以外も含めて)記者は皆善意だったと繰り返すのだが・・・。

侵略戦争に対する反省そして植民地支配に対する反省と謝罪、おわび。そういう気持ちがやっぱり社の一つのジャーナリズムの柱だったと思う。だから慰安婦問題も多分そういう流れ。女性の人権の流れ。松井やよりさん、ご存じだと思うんですけども松井やよりさんが、80年代にさまざまな形で発掘してきた、そういう流れがあった。...松井やよりさんは、(韓国挺身隊問題対策協議会代表の)尹貞玉さんとも交流があって、やっておったわけですよね。...朝日新聞がやってきた、アジアへの侵略戦争の反省と、それを伝えようという作業。そういう作業というのは、僕自身、それを誇りに思っている


松井やより
「新聞記者としての振る舞いではなく、活動家のそれでした」(長岡)

では、その松井やよりを同じ朝日OBの長岡昇はどう語っているか。長岡は松井の振る舞いを活動家だったと回想している。「イデオロギーに囚われて、新聞記者としての職業倫理を踏み外した」とまで言っているのである。そういう記者たちが「慰安婦問題の虚報と混乱をもたらした」と。

1978年から30年余り、私は朝日新聞で記者として働きました。体力的にも精神的にも一番エネルギッシュな時期を新聞記者として働き、そのことを喜びとしていた者にとって、慰安婦問題をめぐる不祥事は耐えがたいものがあります。[...]慰安婦報道をめぐる過ちは、勘違いや単純ミスによる記事の訂正と同列に論じるわけにはいきません。[...]「問題の本質は何か」などという論理で逃げるのはおかしい。[...]

慰安婦報道に関して思い出すのは、この問題に深くかかわっていた松井やより元編集委員のことです。彼女は退社した後、私がジャカルタ支局長をしていた時にインドネシアを訪れ、かつての日本軍政時代のことを取材していきました。来訪した彼女に対して、私は後輩の記者として知り得る限りの情報と資料を提供しようとしたのですが、彼女は私の話にまったく耳を傾けようとしませんでした。ただ、自分の意見と主張を繰り返すだけ。それは新聞記者としての振る舞いではなく、活動家のそれでした。[...]イデオロギーに囚われて、新聞記者としての職業倫理を踏み外した人たち。そういう人たちが慰安婦問題の虚報と混乱をもたらしたのだ、と私は考えています。(以下略)

2014/06/21

舘雅子 日本人運動家が韓国に反日を植えつけた

婦人有権者同盟のメンバーとして黎明期を目撃することになった舘

女性運動家市川房江の流れをくむ舘雅子は、1992年の第一回アジア女性連帯会議から慰安婦問題が社会問題・外交問題として拡大していく様を間近で目撃した人物である。

彼女によれば、1988年に日本キリスト教婦人矯風会の高橋喜久江が「慰安婦問題の母」ユン・ジョンオク(尹貞玉)とつながり、この辺りから日韓の運動家による日本叩きのジョイント・プロジェクトが始まったらしい。舘は、この問題が、反男性運動として始まり、反体制運動へ、そして反日運動へと変わって行ったと振り返っている。

「その反日運動がね、非常にねぇ、あのなんて言うのか、キツクやってました」

舘は、日本人が韓国を焚きつけたルートが三つあったと言う。吉田清治、朝日新聞、そして矯風会をベースにした松井やより福島瑞穂(福島は矯風会とは直接関係ないと思われるが)のグループ。これらの日本人の無分別な行動が、韓国社会に(余計な)反日意識を植え付けたようだ。

「これはやっぱり、相当強力に反日的な思想を韓国に植えつけたと思います」「日本のことを悪く言うことが手柄みたいに思ってたんじゃないんですか?」

今でこそ慰安婦問題は韓国によるジャパン・バッシングのように思われているが、90年代までは日本人も主役であった。むしろ、日本叩きの為の情報や理屈作りは日本人が主導していた。現在、韓国と日本の運動家の関係が主従のような関係になっているのは、松井やより亡き後、強力なリーダーが日本に現れなかったのも理由の一つだろう。

「代表団を国連の人権委員会に送り出した。それがね、たぶん戸塚テツロウ(戸塚悦朗)さんだと思います」「松井さんのグループ・・・あのグループが非常に強くなって・・・東南アジア全部かき集めたり、アメリカ行ったり、非常に広く動きました」

運動家たちが慰安婦の証言をコントロールしていたという話は、NHKのディレクターとしてキム・ハクスン(金学順)をテレビに初登場させた池田信夫と共通している(池田によれば、福島瑞穂が「台詞をつけていた」)。婦人運動出身の舘らしい証言と思うのは、婦人運動の負の部分について日本のマスコミが触れようとしないことが、こういった状況を許したという分析。

「婦人運動。それから二つ目は官公労組。・・・この辺がね、悪が一杯あるのに、そのことについては、知ってても一切報道しませんね。だから、出来たんだと思いますよ」




※ チャンネル桜から、慰安婦問題に関する部分だけ書き起こさせてもらった。司会者やアシスタントの発言はほとんど拾っていない。舘雅子の発言は、途中トルコ風呂に関する部分以外はほぼそのまま。

松井やより 戸塚と共に国際問題化に貢献

-- まず、この第一回アジア連帯会議、どのような会議だったんでしょうか?

あの、アジア女性連帯会議って言いましてね。アジア7カ国の人が約120,30人集まりまして、それで日本の慰安婦問題を議論する、大会だったわけです。で、この会には、この会のベースになるのは、韓国の、主催したのが挺対協って言うんですか?挺身隊なになにって言う・・・(今でも)あります、ユンさん(注:ユン・ジョンオク)っていう伊太利の伊の字の人偏がないのを書く方、で李花女子大の、あの教授ですけど、この方と、それから日本の、えー矯風会、婦人矯風会、後で説明いたしますけど婦人矯風会、それから朝日記者の松井やよりさん、それから弁護士の福島みずほさん、この4人の方が非常に大きな役割を果たしていたと思います。

で、私は婦人有権者同盟から、あの誰も参加しないんで行かないかと言われたんで、その頃市会議員を、東久留米市っていうとこで市会議員をしてたんですけど、8月はちょうど休みなもんで、あの3日間くらい行ってまいりました。

禁酒・廃娼運動で有名な矯風会は米国で生まれた

-- 矯風会っていうのはどういった会なんでしょうか?

今でもね、あの新宿の駅から中央線で、八王子の方に向かって行きますと、えー大久保の駅の前、右側ですね、に大きな家があの建物が、婦人矯風会って書いてあんのがあると思いますけど、これは日本キリスト教婦人矯風会っていうのが、あの主な、主なって正式な名前で、明治20年にアメリカから持って来た会なんだそうです。で、もう100年に渡って、えー一夫一婦制だとか、まぁ基本的なもんですけどね、始めのうちはそういう、公序、うん公序良俗を守れというような、そう全うな・・してたんです。で、戦後、というよりもね。昭和47年頃ですか、売春問題に取り組む会というのを作ったんです。で、これはあの国会議員の超党派の国会女性議員が入って(中略)キーセンパーティの反対運動だとか、フィリピンにね、あのぉ観光売春ってその頃よく言ってましたけど、車を何台か売るとご褒美に観光売春に連れて行く。それがね、マニラの町を歩くとね。パレードで軍楽隊がついて置屋に連れて行くんですよね。それを見て日本人からもこれ止めさしてくれという抗議が来たんで、在日フィリピンの、あっ、在フィリピンの日本人から。それで私たち行って、そういうキーセンパーティだとかマニラだとか色んな所に行って見て来まして、そんな運動してたんです。

韓国側に千田夏光を教えたのが高橋喜久江(矯風会)

そこまでは(まとも)だったんですけど、1988年に、ここの矯風会の高橋さん(注:高橋喜久江)って方が、あのー韓国のね、これ反日運動のリーダーだったと思うんですけど、李花女子大のユンさんユン・ジョンオクという教授とつながったわけですね。それでユンさんが日本に来られたり、こちらから向こうに行ったり色々してるうちに、あのー私はこの運動こう思ってるんですよ。始めはね、反男性運動だったのね。そのうちに反体制運動になったそのうちに反日運動になった。その反日運動がね、非常にねぇ、あのなんて言うのか、キツクやってましたね。で、何をやったかといえば、まず第一回にアジア女性大会を開いたんです。

-- こちらが平成4年の会ですけれども、どういった内容だったんですか?

それで、結局、従軍慰安婦の人に話をさせるということで、かつて従軍慰安婦だったと称する人ですね。を、そうね、30人ぐらい集めたのかしら。2,30人。それでその中の二人が口こもごもにね、自分たちは17歳の時に日本軍のトラックに連れて行かれて天津に行って、それでもう口では言えない苦労をしたという話を綿々とするわけ。それから舌を噛み切って死んだ人もいるとか、まぁいわゆるお涙頂戴の話を延々としたわけですね。それで、これ後で分かったんですけど、この二人だけが本物で、後の方はなんかそうじゃなかったようなんですね。だからこの間ね、橋下徹さんが、話がとぶけど、韓国の慰安婦と話し合うって言った時、断るだろうって私は思いました。みんなね訓練されてんです。こういう風に言えって風に、だからちょっと突っ込まれたらすぐバレてしまうから、偽もんだってことが。うん、だから大多数は偽もんだったようです。

一晩一緒の、一緒に泊まって。話をしようといっても、こちらも言葉が分かりませんし、向こうも分からないで、ただワイワイ言ってて、一人ね、ちょっと日本語と朝鮮、韓国語の分かる人がいて通訳してましたけど。何もそういう話ありませんでしたね。朝鮮の自分はどこの出身だとか、そんな話をしてました。

-- 実際この三人の元慰安婦と称する方々は、特に話をしても、慰安婦時代の話などは・・・。

全然しなかった。ええ。(実際の体験が無かったから?)それもあるでしょうけど、話しちゃいけないと言われてたようですね。色々。(本物とされる二人について)その方が17歳の時にトラックに連れて行かれたとか、森の中に逃げ込んでって言うんですけど、これは後で聞きますとね、親がね、みんなもう、すでに業者に売ってたんですよね。ええ。両親がね、その頃韓国の農村はすごい疲弊していて、娘を売るのは普通だったんですよね。日本でもねぇ、そうだったんですよ、昭和ね。あの、東北の農村でね。

日本軍は(強制連行と)関係まったく無くて、むしろ業者がね、韓国の業者とか日本の業者が関係あったと思いますけど、軍隊は関係ないですね。で、その頃の韓国のね、一般の初任給が15円とか20円で、陸軍大将が300円で、従軍慰安婦は400円だったの。月給がね。そうするとね、それはねぇ困ってたら行きたく、子供を売りたくなりますよね。ところが子供にはあなたを売ったとは言えないから、連れに来られたら、自分は強制連行されたっていう風には、言うと思いますね。それは。

慰安婦問題について語る議員になる前の福島瑞穂
慰安婦に台詞をつけていたという証言も

そういう韓国に対してね、反日的な運動したルートが三つあったと思うんですね。で、一つは、あのぉ吉田清治というね、自分が実は申し訳ないけど強制連行しましたって嘘を言って、ええ、詐欺師がソウルまで行って土下座して謝ってんですよね。だから向こうが信用しちゃってる部分があるのね。それが浸透して、嘘だってことをマスコミが言いませんからね。それが一つのルートで、もう一つは朝日新聞の捏造記事やなんかがあって、これもまた全然違うことを書いてね。日本がいかに悪かったかってことを書いてる。それが二つ目。それから三つ目がこの大会の、婦人矯風会をベースにした、朝日新聞の松井やよりさん、それから福島みずほさんたちが一緒になったこの会、これはやっぱり相当強力に反日的な思想を韓国に植えつけたと思いますね。

(写真を見ながら)一番こっちの人が矯風会の会長さんで、非常に強い方で、もう一筋に、慰安婦に申し訳なかったってことを言ってる方ですね。であの、セックススレイブ(性奴隷)っていう言葉、最近よく言いますけど、私がいる頃から、その言葉は使ってましたね。・・・やっと今ね、そんなこと言ってんで、なんだずいぶん古いこと言ってんなと思いました。

--この人は本気でそう思ってんですか?

本っ気で思ってます。もうね、私たち会でも反論出来ないんです、もう。全部、全て正しくて。それだもんで、実は市川房江さんと仲が悪かったんです。でね、市川さんや 紀平悌子さん、婦人有権者同盟からこの会全然来ないんですよ。それでね、みんな嫌がって行かないんですよ。それで私が行かされたんです。実は。

戸塚悦郎は、国連に性奴隷問題として持ち込んだ

(慰安婦の話を)ほとんどの人は信じたと思いますね。それで、そこから二日目に代表団を国連の人権委員会に送り出した。それがね、たぶん戸塚テツロウ(注:戸塚悦朗)さんだと思いますね。・・・戸塚テツロウさんが行ったんだと思います。私は、そこを見てなかったんです。送り出すって言ってみんなが拍手したんですけど見えなかったんです。大勢、みんな立ち上がって拍手して送り出してましたね。

この後ね(アジア女性会議は)5回、4回ありましたね(注:前年の暮れに第11回が開催されている)。で、私はいませんでしたけど、その間に松井(やより)さんのグループのバウネットですか?あのグループが非常に強くなって、松井さんは語学の堪能な人ですから、もう東南アジア全部かき集めたり、アメリカ行ったり非常に広く動きましたね。松井さんが。・・・で、福島さんは弁護士だから弁護士仲間で色々動いたと思うんですけど。

で、それが初めて国連に持ち出した最初だと思います。それから向こうに広がっちゃったんですね。

-- 外国の感じから言えば、嘘をついてまで自国の恥をさらす必要はないから、本当のことだと取るのが当たり前だと思うんですけど。

そうなんですね。・・・それでね。その点、松井やよりさんって方は、名前はひらがなで「やより」ですけど、本当はね、耶蘇教の耶っていう字に人偏の依ね、耶蘇に依って書くの。で、お父様はこの渋谷の、あの区役所に行く途中の坂の左に、山手教会の牧師さんで、あれをお作りになった方で、松井さんはだから耶蘇に依るってお名前になったの。で、キリスト教だから余計外国で受けがいいんですよね。それに朝日新聞っていうバックがついてますからね。だからみんな今、信じ込んで日本叩き、国際的にね。その結果が叩かれてるんだと思いますよ

--韓国の中でも日本を庇ってくれた女性の方がいるとお話しなさっていましたけど。

キム・セイレイさんと仰ってね。あの朴・・・えっと何と言ったかな。朴正煕じゃない。その後の、全斗煥(大統領)の時の厚生大臣です。で、韓国婦人有権者同盟の会長してた方。肝っ玉母さんって言われていて、とっても人気のあった方で、女性の地位の為にね、色んないい法律を作られた方です。で、この方は非常に親日的でね、この今のアジアの会議の時に、私たちの、休憩時間に、貴女達は本当に気の毒だと、自分たちが悪いこともしないのにね、みんなから責め立てられて、謝るばかりが脳じゃないってことを仰ったんですよね。でもうね、こういう事は早く終わって忘れないと、もういつまで経っても仲良く出来ないから、もう忘れましょうっていう事を盛んに仰いました。だから韓国にはそういう方もいるけど、そういう方の勢力は弱いんです。

--韓国でさえそういう人もいるのに、松井さんにしても福島さんにしても、なんでですか?

なんかねぇ、日本のことを悪く言うことが手柄みたいに思ってたんじゃないんですか?当時の朝日新聞の体制とか。それで私よく思ったの。この人ホントに日本人かしらと思いました。

これは今訊いてみたい、松井さんは亡くなりましたけど、どう思ってるんだか訊いてみたいですね。こういう風になると。(自虐史観が原因か?)そう思います。あの矯風会の高橋喜久江さんたち見てると、ホントに日本人が悪いことして申し訳ない申し訳ない、それ一点張りなんですよね。それで賠償金を日本政府から出さそうとしたのが、私は一つの目的だったと思いますけど。

-- アジア連帯会議をマスコミは取り上げたんですか?

あまり取り上げていませんね。マスコミいっぱいいましたけど。それほど取り上げていなかったようですね。・・・戦後のマスコミに私がもの凄く言いたいのはね、4つのことを避けて通るか、聖域にしたり、色々してると思うんですけど、ええ、一つはね、まず婦人運動。それから二つ目は官公労組。えーそれから、自治、自治労って言うの?それから各自治体の職員組合(?)。この辺がね、悪が一杯あるのに、そのことについては、知ってても一切報道しませんね。だから、あのぉ、出来たんだと思いますよ

2011/01/01

松井やよりが語ったフィリピンの米軍慰安所





松井やより「女たちのアジア」から。この引用は初刷り(87年)ではなく94年発行の19刷からだが、87年の初刷りから変更がないとすれば、「慰安婦騒動」が始まる前に書かれたものである。(写真は現在のアンヘレスの売春婦たち)  

94年としても、92年の「慰安婦ビッグバン」から二年、松井が慰安所に関わった人間を処罰するとしてアジア女性戦犯法廷を開催する2000年に先立つこと6年である。

この頃から松井は東南アジアにおけるアメリカ軍の買春システム、その施設を「慰安所」と呼んでいたのである。

松井は、貧しいアジアの女性たちが家父長制や植民地主義の犠牲になり性的搾取を受けているとして、米軍も日本軍も区別なく糾弾していたのである。にも関わらず、平気で「性奴隷制を持っていたのはナチスと日本だけ」といったような伝説が作られていくのである。プロパガンダに利用されていたことを松井が知らなかったはずはないが、多くの「良心的日本人」同様、彼女は見て見ぬふりを続けたのである。


タイではベトナム戦争の終結と共に過去のものとなった「基地売春」という深刻な問題を、フィリピンは今もかかえている。オロンガポのスービック米海軍基地アンヘレスの米空軍などだ。83年秋、マニラから北へ約110キロのオロンガポを訪ねた。かつては静かな漁村が、ベトナム戦争中「R&R」、つまり米兵相手の慰安所として栄える基地の町となり、今も、米第七艦隊の母港として機能し、20万人の人口は性産業と基地労働に依存している。

基地ゲートに通じるメインストリート、マグサイサイ通りは両側にナイトクラブやディスコや両替屋が並び、300軒を超える慰安施設一万六、七千人もの女性が働いている。一軒のクラブをのぞくと、16歳から30代の女性60人が、ビキニ姿でかわるがわる舞台で踊っていたが、米艦船が出港したあとなので客は少ない。

舞台からおりてきたベティさん(20)は二人の子持ち、ビサヤ地方から稼ぎに来たという。客の払う300ペソ(3600円)のうち、彼女の取り分は100ペソだが、客のない日はドリンクで、20~30ペソにしかならない。彼女は6000人もの市公認ホステスの一人で、二週間ごとの性病チェックの証明書を見せてくれた。

翌朝、市の社会衛生クリニックをのぞくと、500人もの女性がベンチに並んで順番を待っていた。米兵の性的サービスのために市がホステスを公認し、アメリカ側は、米兵の性病対策のためにこのクリニックを70年に開いた。米比当局がタイアップして基地売春を支えている構図である。

クリニック所長の女医マリアーノ博士は「アメリカ側は性病コントロールを強く求めており、感染率は3、4%に収まっている」と胸を張った。ところが、なんと9歳から14歳までの12人の少女が、悪性の性病にかかって病院に収容されるという事件があった。病院のシスターからの密かな通報で、かけつけたアイルランド人のシェイ・カレン神父が、年若い少女たちの人権侵害にショックを受け、当局の圧力に屈せず少女売春の実態を明るみに出したのだった。

・・・カレン神父は、憤慨した口調で語った。「少女たちはスラムの子どもや孤児などで、シンジケートの手で、米兵相手に売春をさせられ、10~60ペソをもらっていた。幼いものを犠牲にする非道な行為を黙認できず、彼女たちの証言をテープにとり、写真もとった。市長や米軍司令官から発表するなと強い圧力がかかったが、マスコミを通して告発したわけだ」。

・・・このケースも、より若く、フレッシュな少女が売春を強制されたわけで、神父は「こうした少女売春はレイプ、性的暴力と呼ぶべきだ」と、米軍の人権侵害に抗議し続けていた。

ベトナム戦争以来、アジアで有数の売春地帯と化したオロンガポに流れてくる女性たちも、ほとんどが貧しい農村からだ。「外部の都合で発展させられた従属経済の典型例だ」と・・・コロンバ大学のマスリーナ教授は、女性たちの状況をこう分析する。

「固定給なく、休日なく、社会保障なく、団結権なく・・・・・・。不安定きわまりない職場で、つねに性病、中絶、麻薬中毒などと隣り合わせ、社会的蔑視にさらされる。働けるのはせいぜい30代半ばまでで・・・性底辺に沈殿し、娘がいれば売春に出す・・・」

2010/12/24

松井やよりの出会ったタイの売春婦【80年代】



松井やよりが80年代のタイで見た売春産業の実態。写真は最近のもの。昨日のエントリーのつづき。





少女たちは、少数民族との混血で美少女が多いといわれる貧しい北部や東北部の農村から、容姿によって5000バーツ(5万円)から1万バーツぐらいで売られてくる。

親たちがそれだけの前借金を受け取っているので、少女たちは一日平均3、4人、祝祭日には10人もの客をとらされても、5バーツ(50円)ぐらいしかもらえない。・・・

13歳の処女だったノイさんを買ったこの男性は5000バーツを払った。バンコクでは、中国旧正月には年若い処女、とくに生理も始まらない9歳10歳の幼い少女の相場がはね上がるといわれる。・・・

親から仕入れてきた商品である少女たちに逃げられては元も子もないと、業者は売春婦たちを監禁同然に拘束する。たとえ外出を許されても、田舎から出てきて西も東もわからない少女たちは、こわくて出歩けないのだ。

ノイさんもバンコクの町さえほとんど見たことがないという。毎日避妊薬を飲み、生理日も休ませてもらえず、病気で客をとるのをいやがると殴られ、ボロボロになっていた。・・・

同じバンコクの歓楽街パッポンは、日本人にもおなじみの、国際的に知られた売春地帯である。ベトナム戦争中は米兵たちの「R&R」(慰安施設)として、その後はそれに代わる政府の観光振興政策で、観光収入がタイの外貨収入の2位を占める”観光立国”の目玉として、栄えている夜の町である。

マンモス・マッサージパーラーで”金魚鉢”と呼ばれるガラスの向こうで番号札を胸に並ぶ厚化粧のマッサージガールたち。・・・ヤワラのティーハウスの少女たちよりやや年齢が高く、といっても圧倒的にハイティーンだが、比較的行動の自由もあり、中にはかなり稼ぐ女性もいるという。客は日本や欧米など外国人観光客も多く、観光売春の名所になっているからだ。





2010/12/23

松井やよりの見たタイの貧困と売春【80年代】



タイのプーケットでは現在も売春婦の数が少なくない(写真)が、松井やよりのこの話は80年代のもの。

アジアでの取材を通してこうした実態を見聞きしていた松井は、「慰安婦問題」 の本質が、実は貧困と売春の問題だということを知っていなかったはずはない。

10人の家族を食べさせるために娘二人を「売った」という母親。僧侶が30万人と言われる仏教国タイで売春婦が二倍以上もいる(80年代当時)という現実。

娼婦が低年齢化するわけ。こういった基礎なしに、慰安婦問題を語ることは出来ない。むしろ、こうした現実をあえて無視して慰安婦問題を語ろうとする人間には気をつけた方がいい。


海辺の美しさは比類ないと宣伝される新しい観光リゾート、タイ南部のプケット島で、市街地が火事になり、焼け落ちた売春宿の地下室から、監禁されていた5人の少女の焼死体が発見された。”地上の楽園”が地獄と化したこの痛ましい悲劇は1984年1月末に起こった。・・・5人の少女たちの年齢はなんと9歳から12歳、そのうちの二人は姉妹であった。

この事件に衝撃を受けたバンコクのタマサト大学演劇科の女性教授、マタニ・ルトニンさんは、少女売春をテーマにしたビデオ「明日、虹は出るだろうか」を作った。・・・ビデオは火事の現場から始まった。燃え盛る炎になすすべもない消防夫たち。焼け跡から運び出される少女たちの炭の塊のようになった小さな遺体が地べたに並べられる。助けを求めるように両手をつき出した形の遺体に思わず顔をおおってしまった。・・・カメラは少女たちの故郷をうつす。

チェンマイ、チェンライ、ランプーン、パヤオなどタイ北部の貧しい農村地帯・・・いかにも農民らしい風貌の両親は茫然としてほとんど無表情だ。母親が低い声で「子どもが10人もいて食べられないので町へ出した。仕方がなかった」と二人の娘を売らなければならなかった事情を訴える。・・・

二人の稼ぎ手を失って、この一家はどうなるのだろう。次はこの子が売られる番だろうか」というナレーションと共に、カメラは7歳の妹をクローズアップする。ぼろぼろの服のはだしの女の子は、無邪気にはにかんだ微笑をカメラに向けていた。姉たちの死も、自分のこれからの運命も知らぬ気に。・・・

仏教国タイには僧侶が30万人ぐらいいるというが、売春婦は70万人にものぼる(タイ警察推定)。・・・売春が大きな社会問題になっているのだ。とりわけ深刻なのが売春婦の低年齢化で、マタニ教授は、その一割は14歳以下と見ている。

84年春、バンコクの警察に”保護”された訳100人の売春婦の大半が13、4歳だった。本人の意思とは無関係に強制される少女売春こそ人身売買であり、人権侵害以外の何ものでもない。しかし、少女売春はどこの国でも急速に拡がる傾向にある。

売春が業者にとって利益の大きい商売であるために、ひともうけをたくらむ業者がふえて競争が激しくなり、より若く、よりフレッシュで商品価値が高く、コントロールしやすいローティーンの少女たちに目をつけるからだ。



後篇に続く。