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2014/03/03

[参考] (強制)連行被害者?が日本政府から勲章をもらった話


ちょっと在庫処分。昨年の東京新聞より。

戦時中、労働力を補う為に日本に渡ったのは、朝鮮人女子挺身隊だけではない。もちろん、全てはお国の為という空気の中、誘いを断れなかったケースもあったろう。しかし、戦後こういった事象に「(強制)連行」という言葉をあてた進歩的日本人や一部の在日朝鮮人もまた強引ではなかったか?

台湾の元少年工に旭日小綬章 日台交流かけ橋

 戦争中に「高座海軍工廠(こうしょう)」(神奈川県座間市、大和市など)で働いていた台湾人元少年工約二百五十人が八日に訪日する。今年は元少年工が働きはじめてから七十年にあたり、座間市内で歓迎大会が開かれる。元少年工は戦後、「台湾高座会」を結成して日台交流に貢献。会長の李雪峰さん(86)には旭日小綬章が贈られる。 (台北・迫田勝敏)

 高座海軍工廠では、戦時下の労働力不足を埋めるため、一九四三(昭和十八)年から計約八千四百人の台湾人少年工が集められた。戦闘機「雷電」などを生産しながら訓練所で勉強した。

 李さんは「少年工はみんな俺も日本人だという意識があった。日本に貢献したいと、親の目を盗んで申請書にはんこを押した人もいた」と話し、少年工らが志願してきたと強調する。「当時の台湾人の気持ちは日本人には分からない」とも。

 李さんは働きはじめて間もなく、少年工千八百人のリーダーとして名古屋市の三菱重工に派遣された。四四年十二月に空襲に遭い、二十五人の仲間を失った。少年工は旧制中学の卒業資格が得られるとの条件で募集されたが、終戦でもらえなかった。李さんは戦後、少年工の卒業証明の取得に奔走し、十年前に念願をかなえた。

 元少年工の平均年齢はすでに八十代半ば。高座会の会員は年々減り、現在は約千六百人。十年ごとに開かれてきた歓迎大会は日台交流に貢献してきたが、李さんは「八十周年は難しい。これが最後」と話す。

 今回の歓迎大会は座間市役所前の「ハーモニーホール座間」で開かれ、森喜朗元首相が李さんら元少年工に感謝状を手渡す。予定されていた台湾の李登輝元総統の講演は体調不良で中止になった。

東京新聞 2013.5.8

2014/02/27

[参考] 戦時徴用ら三菱重工を提訴(韓国)


戦地での強制連行はあったが朝鮮半島ではなかった、民間人による強制連行はあった?違います。強制連行は戦時中朝鮮半島で行われた。ただし、慰安婦の強制連行は確認されていない。最近では左派系の人々も強制連行という言葉を使わなくなったが(慰安婦問題に特化?)、こういうのを昔は「強制連行」と言っていた。

戦時徴用の韓国人ら三菱重工を提訴へ 光州地裁

 太平洋戦争末期に「女子勤労挺身(ていしん)隊員」として朝鮮半島から徴用され、三菱重工業の名古屋の軍需工場で働かされた韓国人女性と遺族の計4人が、同社に1人あたり1・5億ウォン(約1430万円)~2億ウォンの損害賠償を求めて27日にも韓国の光州地裁に提訴する。支援者が25日明らかにした。

 同工場での朝鮮人徴用をめぐっては光州地裁が昨年11月の判決で、元徴用工らの個人請求権を認めた上で、慰謝料として1人あたり1・5億ウォンの支払いを命じ、同社が控訴した。この地裁判決後、元徴用工や遺族らからの問い合わせが支援関係者に相次いでいるが、新たな提訴は初めて。日本企業を相手にした提訴が増える可能性がある。

 元徴用工の請求権では2012年、韓国大法院(最高裁)が韓国での徴用先の日本企業に対する請求権を認めた。これを踏まえた昨年7月のソウル、釜山高裁の同様の判決に対して、日本企業2社が上告。大法院の判断が注目されている。

朝日 2014.2.26

2013/09/02

毎日 「韓国司法は理解を超える判断を繰り返してる」


過去記事。新エントリーの為の参照資料として。
韓国司法:日本側の理解超える判断繰り返し…摩擦の根に

【ソウル澤田克己、大貫智子】慰安婦問題での韓国政府の「不作為」を違憲だとする韓国憲法裁判所の決定から、8月30日で2年となった。韓国ではその後、日本から「理解しがたい」と批判の強い司法判断が相次いで出されており、今や日本側の対韓不信の中心は「韓国の司法」の様相だ。一方、韓国の朴槿恵(パククネ)政権は歴史認識問題での強硬姿勢を崩していない。安倍晋三首相と朴大統領は5日からロシアで開かれる主要20カ国・地域(G20)首脳会議で顔を合わせるが、首脳会談は開催されない見込みだ。

韓国憲法裁は2011年8月30日、「日本国によって行われた組織的かつ持続的な不法行為によって人間の尊厳と価値を深刻に傷つけられた自国民の賠償請求権を実現させ、保護すること」が憲法によって求められているとして、韓国政府が外交努力を講じなかったことを「違憲」とする決定を出した。

韓国政府はその後、元慰安婦の賠償問題に関する政府間協議の開催を日本に求めた。

日本側は、韓国との戦後補償問題の解決を図った1965年の日韓請求権協定で慰安婦問題などは「解決済み」という立場で、韓国側の求めに応じていない。11年末に京都で開かれた日韓首脳会談は、慰安婦問題を巡り首脳間の感情的対立に発展した。

日本側をさらに驚かせたのは、韓国最高裁が昨年5月、元徴用工の個人請求権を認め、協定で「解決済み」という日韓両政府の一致した見解を覆したことだ。

最高裁は、三菱重工業と新日本製鉄(現新日鉄住金)の2社を相手取った損害賠償請求訴訟で、植民地支配の合法性などについて日韓両国の合意がない中で締結されたことを理由に「協定で個人請求権は消滅していない」という判断を下した。審理はソウル、釜山の両高裁に差し戻され、今年7月に原告勝訴の逆転判決が出た。両社は最高裁に上告中だ。

韓国政府は盧武鉉(ノムヒョン)政権だった05年、戦後補償問題が日韓請求権協定で解決されたかどうかを検討。慰安婦問題などは「未解決」としたが、元徴用工については「(解決したと)見なさざるをえない」としていた。それだけに「特に徴用工に関する司法判断には韓国政府も困惑しているようだ」(ソウルの日本大使館幹部)。

今年に入ってからも、韓国司法は日本側の理解を超える判断を繰り返している

毎日 2013.9.1

2012/12/09

「私は朝鮮人慰安婦を徴用した」(下) 吉田清治

帯にも注目 「抹消された歴史の暗部」
「元『戦犯』日本人が書き残す朝鮮慰安婦の強制連行の実態!」

朝鮮人慰安婦の徴用(強制連行)がどのように行われていたのか、聴衆を前に吉田清治はこのように証言した。吉田によれば、これは懺悔ではなく「何十年か先に私たち日本人の子孫が日韓併合中の日本人がざんきの涙にむせびながら反省していた、せめて一人でもそういう人間がいたと言うことを知ってくれれば先祖に対して絶望しないだろう」という思いで語られたもの、ということである。

労務報国会の職員とそれを護衛する軍の部隊が送り込まれ、銃剣を突きつけ、木刀で打ちのめして女性を徴用したのである。そして兵士たちには役得があった。日本政府により徴用された女性たちは兵士たちに強姦されるのである。一部始終を目撃した吉田は言う。

「(トラックの)幌の中から人間の声とは思えないような悲鳴が聞こえて参りました。しかしそれも1分か2分で終わりました」・・・そしてこうした行為は、日本の歴史から意図的に消されてしまったのだと。

そして10年後の1992年、朝日新聞と吉見義明は「軍の関与」の証拠を発見したと発表する。いわゆる慰安婦問題ビッグバン(秦郁彦)である。


そして一週間にわたって予備人員も入れて205名の徴用をしました。その徴用場所は済州島の海岸線を幹線道路が一周していますが、その幹線道路に沿って東に進み、あるいは西に進み3日間、済む州を中心にして徴用を行い、その後は西帰浦(ソキボ)という南側の済州島第二の町ですが、そこで海女を徴用しました。

最初の徴用は済州から東の方へ軍用トラック2台で進みまして、20分か30分走ると、幹線道路の側の小さな村がみえました。2台の先頭の車の助手席に、私と軍曹が坐っておりましたが、その部落をまず徴用場所に選んで部落のすぐ前にトラックを停めて、10人の徴用隊と10人の武装兵が一緒にその部落に入っていきました。

ご承知のように済州島の部落は非常にみじめな部落です。その小さな部落に入りましたらどの家も人がいません。これは時間的にみんな働きに出て行っていたと思いました。済州島は部落の家の回りに石垣が立てられています。これは、風を防ぐためと家畜の侵入を防ぐためにあるのですが、その石垣の上によじ登って部落内を偵察しましたら、すぐ近くの割合大きな家の中に20人ばかり女が集まって何か作業をしていました。双眼鏡で確かめますと朝鮮帽子ですね、あれは馬のしっぽの毛で作るのですが、伝統的な朝鮮人の帽子なのです。その帽子を家内作業で作っておきました。すぐ私は、軍曹を通じて兵隊と徴用隊の隊員に命じてそこへ突入させました。これは済州島における最初の徴用でしたので、みんな様子がわからずいきなり飛び込んで行って、30歳未満と思える女に跳びかかって腕をねじあげて引きずり出したのです。

私は石垣の上から双眼鏡で見ておりました。もちろん、すさまじい悲鳴や絶叫が聞こえて参りました。そしてそれを聞きつけたのか、どこから出てきたのか、半裸体の男性たち、これはみな漁師たちですが、その男性たちが数十人集まってその家に跳び込んできました。兵隊はすぐ銃剣を突きつけました。兵隊は銃剣を突きつけただけではありません。現在とは違いまして、叫んで反抗してくれば本気で突くつもりでその男たちの方へ向かっていきました。そして徴用隊員たちは、若い女性を手をねじあげ引きずるようにしてトラックの前に連行しました。

泣き叫び、部落中に非常な叫び声と悲鳴があがって、男性たちも大声でわめいていました。兵隊が銃剣で周りを取り囲み、8人の女性をひきずってトラックの近くまで連れてきました。ところが、トラックを見て女性たちは生命がけで抵抗しました。しかし、これも2~3分で結局手をねじりあげられて、トラックの中に入れられてしまいました。そのトラックの幌の中に、みんなを押し込むとともに2台のトラックに隊員が乗って、すぐに出発しました。そして10分ぐらい経ってから、私の横に坐っていた軍曹が私に次のことを言いました。

徴用の警備は兵隊たちが役得を当てにしています。この先で30分小休止して、兵隊たちを遊ばせてやります」。そして軍用トラックは幹線道路から横に入り、道のない草原を通ってちょうど岩山の裏側の幹線道路から見えない地点にトラックを停めました。トラックから隊員たちが跳び降りて来ると軍曹の命令で兵隊たちは銃を組んで立て、それが終わると、同時に9人の兵隊たちは8人の女性が乗った幌の中へ突進しました。

その間、幌の中から人間の声とは思えないような悲鳴が聞こえて参りました。しかしそれも1分か2分で終わりました。約30分の距離にある非常に近い部落、その部落で朝鮮帽子編んでいた20人ばかりの部落民の中の若い女性8人が私の命令で慰安婦にさせられるために連行され、そして10分後には日本陸軍部隊の兵隊たちによって、慰安婦にさせられたのであります。

トラックはそれから約1時間ほど走りまして、済州島の東側の町、そこは漁業が盛んで貝細工の貝ボタンを作っていましたが、製品は全部当時の陸軍納めで、その工場がその日の慰安婦徴用の目的地でありました。

長い石塀にかこまれたかなり大きな工場が建っていて、そこに100人ぐらいの島民の女性が働いていました。私たちは、私以下9人の徴用隊員だけで連行することにして、銃剣を持った軍曹以下10人の兵隊に警備してもらいました。隊員たちは徴用に慣れていますので、まず工場の事務室に入り、責任者を連れて中へ入って、そこで徴用しました。この時もみな隊員たちは木剣をもっていて、打ちのめして連行しました

もっとはっきりご説明したいのですが事件がございません。しかし、そういう行為が行われていたことは日本の歴史から今消えております。私は今後生命のあるかぎりこの事実を本に書いたりお話ししたりするつもりです。それは私が懺悔することではありません。この年になって戦争犯罪人の私がいまさら気休めの懺悔するためではありません。ただ私1人でもそのことを書き残しておけば、何十年か先に私たち日本人の子孫が日韓併合中の日本人がざんきの涙にむせびながら反省していた、せめて一人でもそういう人間がいたと言うことを知ってくれれば先祖に対して絶望しないだろう。そんなことを思って証言しているのです。

いま朝鮮の統一と在日は---六・一八日本と朝鮮の戦前・戦後を考える文化の夕べ



「私は朝鮮人慰安婦を徴用した」(

2012/12/08

「私は朝鮮人慰安婦を徴用した」(上) 吉田清治


これは1982年に吉田清治が大阪府立ピロティホールで講演した内容。ここで、タイミングよく思い出したが、挺対協の初代(共同)代表であったユン・ジョンオクも9年後、ここで慰安婦の強制連行について講演している

82年の吉田のこの講演は慰安婦騒動への序曲であり、91年のユン・ジョンオクの講演(「何万人もの若い朝鮮人女性が日本の手で従軍慰安婦として強制連行され、悲惨な最期を遂げました」)はその第一章といったところか。

こうして見てみると、慰安婦の強制連行のイメージが吉田の時代からも変化しているのが分かる。例えば吉田は胸に抱いた赤子を引き剥がして母親を連行したなどと語っていたのだが・・・そしてユン・ジョンオク(尹貞玉)も女子挺身隊として連行された朝鮮人女性のうち年齢の高い者が慰安婦にされたと語っていたはずなのだが、現在では14歳であるとか12歳からの少女が連行されたと「被害女性」の幼さ(未成年という点)を強調した解説が目立つ。その方が国際的に慰安婦問題の非人道性をアピールしやすいからだろう。給金や支度金の話もいつの間にか消え、現在では完全に(性)奴隷制として語られている。

ここで吉田が「徴用」という言葉を使っているように、強制連行とは日本政府による徴用を言い表す左翼用語であった。強制連行=「強制的な連行」というのは話のすり替えである。

長いので二回に分ける。


私は朝鮮人慰安婦を徴用した。

吉田清治でございます。私は今日、新幹線で東京からこの会場へ参りましたが、戦後37年も経ってこのような会が、つまり日本人と朝鮮人の戦前・戦後を考える会、そういう会が開かれることにざんきに耐えません。日韓併合が終わって37年も経って今の日本の中で在日朝鮮人65万人の方々が今日のこの差別、行政差別だけではありません。日本人の社会的市民生活におけるひどい差別の中で毎日暮らしているのだと思います。

このような現状を見るにつけ、36年間に及ぶ日韓合併における敗戦前の数年間、つまり第二次大戦中、日本が朝鮮半島に対して行った行為、それを実行した私をはじめ私の周辺の者はその事実を公表しなければならないと考えるのです。朝鮮総督府の関係者、日本の警察関係者、これは100万を超える人々が、直接に朝鮮人に対して残虐な行為を行なっていたのだと、そのことを昭和20年8月15日以降に語ることを誰一人しなかったのです。

そして日本政府、日本の行政機関はすべての朝鮮人強制連行の記録および朝鮮人(ママ)総督府あるいは旧内務省関係の朝鮮人への迫害、この歴史的事実を、公文書記録をすべて焼却処分にしたため、私自身も山口県下関地区の強制連行の記録を、当時の下関警察特高係の署員を指揮して完全焼却致しました。その責任者のひとりでもあるのです。そして戦後30年、私はその事実を隠し名前まで変えて隠れていました。

数年前、やっと私は一冊の本『朝鮮人慰安婦と日本人』を出し、各地でお話したり、テレビで自分たちが行った朝鮮民族に対する残虐行為の事実を少しずつ語りはじめたのです。ほかに呼びかけましたが、現在のところ誰も応じません。今、日本人で強制連行の加害者としての自分が行った事実についてこれを語る日本人はひとりもいないのです。

[...]私は今日、15分から20分の時間をいただきましたので、強制連行について申し上げている時間はありません。私は昭和17年から敗戦までの約3年間、数千人の朝鮮民族を強制連行しました。その中に千人近い慰安婦を強制連行致しました。その山口県における下関地区の最高責任者でございます。時間がありませんので、当時の私たち労務行政を行なっていた者が、どういうやり方で朝鮮人の強制連行をしたか、慰安婦の徴用をどのように行ったか、この事実を15分間、いただいた時間内でお話ししたいと思います。

正確を期するために、私は自分が作った記録をみながらお話しをしていきたいと思います。

昭和18年5月15日に私は山口県警察部に呼ばれまして早朝に下関を発ち山口県庁に参りました。当時山口県から九州地区全域を担当している西部軍指令部というのがございました。その西部軍の司令部付の中尉が来ておりまして、私も相席させられましたが、県の幹部に次の命令が下ったのであります。

九州地区と山口県を含むのですが、2000人の陸軍慰安婦徴用し、そして昭和18年の5月31日までに供出しろという軍命令でした。山口県に対する命令書が西部軍指令官から当時山口県労務報国会会長を兼任した県知事に提出され、この県知事名から、下関地区の支部長は下関警察署長ですが、署長に命が下りました。しかし警察署長が直接強制連行の業務をやるわけでなく、支部の事務局の実態は私が動員部長で職員数40名。その下関支部に下った命令の、これは私が家内に当時しゃべったか見せたかしたので、家内の日記の中にそれがありました。読んでみますと次の内容です。

一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊ニ◯◯◯人。年齢一八才以上三◯才未満既婚者も可。但し妊婦を除く。

一、身体強健なる者。医師の身体検査、特に性病の検診を行うこと。

一、期間一年。志願により更新することを得

一、給料、毎月金三◯円也。支度金として前渡金ニ◯円也。

勤務地、中支方面。
動員地区、朝鮮全羅南道済州島。
派遣日時、昭和一八年五月三一日正午。
集合場所西部軍第七四部隊内。

当時、済州島は陸軍部隊によって軍政が敷かれていました。もともと日韓併合中の済州島は行政官はいませんで、警察署長が行政の最高責任者でした。警察署がこれは済州島の済州という中心の町にありましたが、この済州警察署が税金の徴収から出生その他死亡の事務手続きですべて行政を行なっておりました。[...]日本から済州島へは、大阪から一◯◯◯㌧程度の定期船が2隻交互に就航していて、下関に寄港してましたが、私はそれに乗って参りました。私たちは徴用隊と称していましたが、その徴用隊は隊長が私で9人の部下を連れて10人で済州島へ参りました。そして到着した日に陸軍部隊の大尉からいろいろ便宜を受け、軍用トラック2台、それから軍曹以下10名の護衛兵をつける、これは慰安婦を連行する場合に当然なことですが、島民に危害を加えるというわけです。戦時中ですから完全武装の歩兵軍曹以下10名が、私たち10名と同行しました。・・・

につづく)

いま朝鮮の統一と在日は---六・一八日本と朝鮮の戦前・戦後を考える文化の夕べ

 私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行 P.154

10年を隔て同じ場所で吉田とユンが講演したのは偶然ではないだろう
ピロティホール(大阪)

2012/05/27

良い徴兵(用) 悪い徴兵



そもそも日韓基本条約とは何だったのかを改めて考えてみた方がいいかもしれない。

「植民地支配と直結した不法行為」・・・そういえば、韓国のメディアは、現韓国政府も徴兵制度を採用しているにも関わらず、戦前の徴兵を「強制徴兵」などと書く。日帝時代の徴兵(徴用)は、悪い(不法)な徴兵で、韓国政府の徴兵は良い徴兵ということらしい。

韓国:対日個人請求が活発化…戦時徴用、解決難しく

【ソウル澤田克己】戦時中に徴用された韓国人元労働者が未払い賃金と慰謝料の支払いを日本企業に求めて韓国内で提訴する動きが表面化した。韓国最高裁が24日、個人請求権の消滅を定めた65年の日韓請求権協定の効力を元徴用工には認めないという新しい判断を示したためだ。日韓両政府間では決着済みとされてきた問題だけに解決策を探るのは簡単ではなさそうだ。

26日、勤労挺身(ていしん)隊として三菱重工業名古屋航空機製作所(当時)などで働いた女性(84)ら9人が1人当たり1億ウォン(約670万円)の支払いを求める損害賠償訴訟を韓国内で起こす準備を進めていることが判明。代理人の李尚甲(イ・サンガプ)弁護士は毎日新聞の取材に「他にも提訴の準備を進めているグループがある」と話す。元徴用工は約6万人が存命とされ、遺族にも提訴の動きがあるといわれる。

一方、韓国各紙は26日、協定に基づき日本が供与した請求権資金を受け取ったポスコ(旧浦項総合製鉄)が、韓国政府が設立を準備する元徴用工の支援財団に100億ウォン(約6億7000万円)を寄付すると報じた。

「社会貢献」としているが、ポスコは元徴用工から請求権資金が絡む損害賠償請求訴訟を起こされた(09年会社側勝訴)。他にも資金を受け取った韓国道路公社などが寄付を検討。元徴用工らの裁判を意識したとみられる。

最高裁判決は、国家権力が関与したり、植民地支配と直結した「不法行為に起因する損害賠償請求権が、協定の適用対象に含まれるとみるのは難しい」として、元徴用工の請求権は消滅していないとの判断を示した。

戦時中、日本企業で働かされた韓国人元徴用工9人が損害賠償などを求めた裁判。最高裁は原告敗訴の原判決を破棄し高裁に差し戻した。

毎日新聞 2012.5.27

2011/01/20

徴用とは【징용】韓国語


NAVER [注意: 機械翻訳(Excite)]

徴用-されている徴用--

1. <法律>戦時・事変または、これに準ずる非常事態に、国家権力で国民が強制的に一定の業務に従事することになる。

2. <歴史>日帝強制支配期に、日本帝国主義者などによって朝鮮人強制的に動員されて働かせられる。

* 日帝強制支配期に慰安婦に徴用された私たちの妹らを考えれば国力の重要性を節減することになる。



징용-되다徵用--[발음 : 징용되다/징용뒈다]

1 . <법률> 전시ㆍ사변 또는 이에 준하는 비상사태에, 국가의 권력으로 국민이 강제적으로 일정한 업무에 종사하게 되다.

2 . <역사> 일제 강점기에, 일본 제국주의자들에 의하여 조선 사람이 강제로 동원되어 부려지다.
* 일제 강점기에 위안부에 징용되었던 우리의 누이들을 생각하면 국력의 중요성을 절감하게 된다.

2011/01/06

夫は日本人?【亡き慰安婦】出頭したところを連行?




これは前のエントリーに追記しようと思ったのだが、量が多くなったので別立てとすることにした。

昨年末亡くなった元慰安婦チョン・ユンホンについて、韓国の各紙は夫の存在には触れていたが、名前までは出していなかったように思う(とりあえずYahoo!Koreaに転載された7紙の記事の中にはなかった)。

ところが、挺対協の声明をヤン・ノジャ(写真)が日本語で発信しているのだが、それによると、夫の名前は「ニシハラ」と言ったらしい。ということは、日本人(内地人)か1939年の「創氏改名令」以前から日本風の名前を名乗っていた朝鮮人(半島人)ということになる。

もしもニシハラが日本人であれば、 徴用令は1939年から適用される。よって、夫が1940~41年に徴用されたという話と矛盾しないことにはなる。しかし、普通日本人には「(強制)連行」という言葉は使われない。

なぜか日本人の場合は強制連行と言わないのだが、実際には多くの日本人が兵士として戦場に「強制連行」され、あるいは慰安婦や従軍看護婦として「強制性」の下で働いていた。しかし、彼(女)たちがサバイバーや「被害者ハルモニ」などと呼ばれることはない。朝鮮半島から徴用される内地人が徴用の義務 を免除されていた半島人を羨んでいたという話もある。 

チョン・ユノンハルモニは
1920年に忠清南道唐津で生まれ
1933年に15歳でニシハラ氏と結婚し二人の子どもをもうけました。
1942年ごろに徴用で連行された夫の死亡通告を受けて出向いたところ
22歳で「慰安婦」として連行され中国で日本軍性奴隷として生きなければなりませんでした。



これはつまり役所か警察に出頭したところ、その場で慰安婦として拘束されてしまったケースということなのだろうか?この人が満12~3歳で結婚しているのも驚きである。


(写真: チョン・ユンホン)

2011/01/04

訃報【チョン・ユンホン】Korea Heraldはどう伝えた?




「日本軍慰安婦被害者」チョン・ユンホンが、昨年末90歳で亡くなった。それを報じる韓国の新聞記事を紹介する。一つ目は連合ニュース(ハングル・機械翻訳)。二つ目は、英字紙コリア・ヘラルド。

連合ニュースは22歳で「連行された」、コリア・ヘラルドは夫ともども「徴用(ドラフト)された」としている。ハンギョレには二十歳の時に先に夫が「徴用連行された」とある(20살 때 징용으로 끌려간 남편)。

夫の「連行」が1940~41年のことだとすると、国民徴用令は44年、官斡旋でも42年の3月からだから、 夫の場合も徴用というのは違うような気がする。チョン本人も終戦を待たずに帰国している。


1933年に結婚し二人の子供を産んだが、22才だった1942年連行されて(연행돼)中国で慰安婦生活を送り、1945年解放直前身ごもったまま帰ってきた。
連合ニュース(ハングル) 2011.1.4
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2011/01/03/0906000000AKR20110103029400004.HTML


Jeong was drafted as a comfort woman in 1942. She served in China after learning about the death of her husband, who was also drafted to the war. She was discharged the following year after becoming pregnant. 
チョンは1942年に慰安婦として徴用(draft)された。同じく徴用された夫の死を知った後、中国で働いていた。翌年妊娠を機に解放(discharged)された。

コリア・ヘラルド2011.1.4
http://www.koreaherald.com/national/Detail.jsp?newsMLId=20110103000719


英字紙コリア・ヘラルドの記事はかなり詳しく、チョンを日本兵のための性奴隷制に強制されたサバイバーとして紹介している。慰安婦問題は植民地時代の日韓間の問題としてもっとも困難な問題であり、日本政府は今だ慰安婦は自発的だったとして強く抵抗している、しかしながら国連その他はこれを非人道的な犯罪と定義し、アメリカの議会ではすみやかな解決を促す決議が上がったと解説している。

もちろんここは日本の英字紙が、日本は全ての慰安婦が自発的だったなどとは主張していない、むしろその境遇に同情とお詫びの気持ちを表明していると言った記事を掲載してバランスをとってくれる・・・などという事は期待できない2011年の正月なのであった。 明けましておめでとうございます。

日本語の記事は見当たらなかったので、参考までに3日に亡くなったイ・ギソンの訃報(連合ニュース・日本語版)を紹介する。

旧日本軍の元慰安婦、イ・ギソンさんが3日午前11時半ごろ持病のため病院で死去した。享年87歳。

・・・1923年に慶尚南道・統営で生まれたイ(ギソン)さんは、1939年に中国へ連行され慰安婦として暮らし、第二次世界大戦終戦(植民地支配からの解放)直後に統営に戻った。1993年に慰安婦被害者の申告を行い、地元を中心に慰安婦問題の解決を訴えてきた。

連合ニュース(日本語版)2011.1.4
http://japanese.yonhapnews.co.kr/headline/2011/01/04/0200000000AJP20110104000700882.HTML


한미희 기자 = 일본군 위안부 피해자인 정윤홍 할머니가 지난해 12월31일 오후 9시께 경기도 일산 자택에서 노환으로 별세했다. 향년 90세.

   한국정신대문제대책협의회에 따르면 1920년 충남 당진에서 태어난 정 할머니는 1933년 결혼해 두 아이를 낳았으나 22살이던 1942년 연행돼 중국 동안에서 위안부 생활을 하다 1945년 해방 직전 임신한 채 돌아왔다.

   1982년 경기도 평택으로 옮겨 노점상을 하며 생계를 이어왔으며 1995년 위안부 피해자 신고를 했다.

   앞서 같은 달 10일에는 1942년 싱가포르로 끌려가 위안부 생활을 한 이양근 할머니가 전북 익산에서 87세를 일기로 세상을 떠났다.

   작년에만 9명의 위안부 할머니가 별세해 정부에 등록한 위안부 피해 생존자는 이제 79명으로 줄었다.

連合ニュース2011.1.3
http://www.yonhapnews.co.kr/culture/2011/01/03/0906000000AKR20110103029400004.HTML



Jeong Yun-hong, one of the few surviving former “comfort women,” who were forced into sexual slavery for Japanese soldiers during World War II, died on Dec. 31 at her home in Ilsan, northwest of Seoul, a support group said Monday. She was 90 years old.

Her death reduced the number of the state-registered former Korean comfort women to 79.

Jeong Yun-hong

The Korean Council for the Women Drafted for Military Sexual Slavery by Japan, a civic group seeking compensation for comfort women, said that Jeong was drafted as a comfort woman in 1942. She served in China after learning about the death of her husband, who was also drafted to the war.

She was discharged the following year after becoming pregnant. She made a living by working as a street vendor in Pyeongtaek, Gyeonggi Province after giving birth. She stayed at the support group’s shelter in 2003 and fought to get the Japanese government to recognize and apologize to the victims.

“It is time the government should step up efforts to solve the problem. The witnesses and victims are dying,” a spokeswoman for the KCW told The Korea Herald.

The comfort women is one of the thorniest issues between Seoul and Tokyo regarding Japan’s colonial rule of Korea from 1910-45. Amid strong resistance from the Japanese government, which still claims the women’s sexual service was voluntary, the practice was defined by the U.N. and the International Labor Organization, as well as other international agencies, as an inhumane crime. In 2007, the U.S. Congress also passed a resolution requesting the Japanese government’s swift response to resolve it.

Supporters of the comfort women note time is running out to resolve the issue as many victims are now dying. Nine died last year and the majority of the survivors are in poor health.

Last month, lawyers from Japan and South Korea demanded the Japanese government apologize to the victims and pay them compensation.
A support group member pays tribute to deceased comfort women at a weekly Wednesday protest in front of the Japanese Embassy in Seoul on Dec. 29. (Yonhap News)

In November, activists from all over the world collected signatures of 300,000 people calling for a swift settlement of the issue.

“It is time to make aggressive progress,” Yang Noh-ja, director of the KCW, said in an interview held before the event.

By Bae Ji-sook (baejisook@heraldm.com)

コリア・ヘラルド 2011.1.3
http://www.koreaherald.com/national/Detail.jsp?newsMLId=20110103000719


일본군 위안부 피해자인 정윤홍(사진)씨가 31일 밤 9시 별세했다. 향년 90. 충남 당진에서 태어난 고인은 20살 때 징용으로 끌려간 남편의 사망 소식을 들었고, 22살 되던 해인 1942년 연행돼 중국 동안성에서 위안부 생활을 했다.

1945년 해방 직전 위안소에서 임신한 채 돌아왔고, 그해 9월 출산했다. 1982년 경기도 평택에서 노점상 등을 운영하며 생계를 이어왔다. 1995년 일본군 위안부 피해자 신고를 했고, 2003년 한국정신대문제대책협의회(정대협) 쉼터에서 1년간 머물기도 했다. 이로써 정부에 등록된 위안부 할머니 생존자는 79명으로 줄었다. 발인은 3일 오전 8시 동국대 일산병원에서 한다.

김민경 기자, 사진 한국정신대문제대책협의회 제공