2012/12/08

「私は朝鮮人慰安婦を徴用した」(上) 吉田清治


これは1982年に吉田清治が大阪府立ピロティホールで講演した内容。ここで、タイミングよく思い出したが、挺対協の初代(共同)代表であったユン・ジョンオクも9年後、ここで慰安婦の強制連行について講演している

82年の吉田のこの講演は慰安婦騒動への序曲であり、91年のユン・ジョンオクの講演(「何万人もの若い朝鮮人女性が日本の手で従軍慰安婦として強制連行され、悲惨な最期を遂げました」)はその第一章といったところか。

こうして見てみると、慰安婦の強制連行のイメージが吉田の時代からも変化しているのが分かる。例えば吉田は胸に抱いた赤子を引き剥がして母親を連行したなどと語っていたのだが・・・そしてユン・ジョンオク(尹貞玉)も女子挺身隊として連行された朝鮮人女性のうち年齢の高い者が慰安婦にされたと語っていたはずなのだが、現在では14歳であるとか12歳からの少女が連行されたと「被害女性」の幼さ(未成年という点)を強調した解説が目立つ。その方が国際的に慰安婦問題の非人道性をアピールしやすいからだろう。給金や支度金の話もいつの間にか消え、現在では完全に(性)奴隷制として語られている。

ここで吉田が「徴用」という言葉を使っているように、強制連行とは日本政府による徴用を言い表す左翼用語であった。強制連行=「強制的な連行」というのは話のすり替えである。

長いので二回に分ける。


私は朝鮮人慰安婦を徴用した。

吉田清治でございます。私は今日、新幹線で東京からこの会場へ参りましたが、戦後37年も経ってこのような会が、つまり日本人と朝鮮人の戦前・戦後を考える会、そういう会が開かれることにざんきに耐えません。日韓併合が終わって37年も経って今の日本の中で在日朝鮮人65万人の方々が今日のこの差別、行政差別だけではありません。日本人の社会的市民生活におけるひどい差別の中で毎日暮らしているのだと思います。

このような現状を見るにつけ、36年間に及ぶ日韓合併における敗戦前の数年間、つまり第二次大戦中、日本が朝鮮半島に対して行った行為、それを実行した私をはじめ私の周辺の者はその事実を公表しなければならないと考えるのです。朝鮮総督府の関係者、日本の警察関係者、これは100万を超える人々が、直接に朝鮮人に対して残虐な行為を行なっていたのだと、そのことを昭和20年8月15日以降に語ることを誰一人しなかったのです。

そして日本政府、日本の行政機関はすべての朝鮮人強制連行の記録および朝鮮人(ママ)総督府あるいは旧内務省関係の朝鮮人への迫害、この歴史的事実を、公文書記録をすべて焼却処分にしたため、私自身も山口県下関地区の強制連行の記録を、当時の下関警察特高係の署員を指揮して完全焼却致しました。その責任者のひとりでもあるのです。そして戦後30年、私はその事実を隠し名前まで変えて隠れていました。

数年前、やっと私は一冊の本『朝鮮人慰安婦と日本人』を出し、各地でお話したり、テレビで自分たちが行った朝鮮民族に対する残虐行為の事実を少しずつ語りはじめたのです。ほかに呼びかけましたが、現在のところ誰も応じません。今、日本人で強制連行の加害者としての自分が行った事実についてこれを語る日本人はひとりもいないのです。

[...]私は今日、15分から20分の時間をいただきましたので、強制連行について申し上げている時間はありません。私は昭和17年から敗戦までの約3年間、数千人の朝鮮民族を強制連行しました。その中に千人近い慰安婦を強制連行致しました。その山口県における下関地区の最高責任者でございます。時間がありませんので、当時の私たち労務行政を行なっていた者が、どういうやり方で朝鮮人の強制連行をしたか、慰安婦の徴用をどのように行ったか、この事実を15分間、いただいた時間内でお話ししたいと思います。

正確を期するために、私は自分が作った記録をみながらお話しをしていきたいと思います。

昭和18年5月15日に私は山口県警察部に呼ばれまして早朝に下関を発ち山口県庁に参りました。当時山口県から九州地区全域を担当している西部軍指令部というのがございました。その西部軍の司令部付の中尉が来ておりまして、私も相席させられましたが、県の幹部に次の命令が下ったのであります。

九州地区と山口県を含むのですが、2000人の陸軍慰安婦徴用し、そして昭和18年の5月31日までに供出しろという軍命令でした。山口県に対する命令書が西部軍指令官から当時山口県労務報国会会長を兼任した県知事に提出され、この県知事名から、下関地区の支部長は下関警察署長ですが、署長に命が下りました。しかし警察署長が直接強制連行の業務をやるわけでなく、支部の事務局の実態は私が動員部長で職員数40名。その下関支部に下った命令の、これは私が家内に当時しゃべったか見せたかしたので、家内の日記の中にそれがありました。読んでみますと次の内容です。

一、皇軍慰問・朝鮮人女子挺身隊ニ◯◯◯人。年齢一八才以上三◯才未満既婚者も可。但し妊婦を除く。

一、身体強健なる者。医師の身体検査、特に性病の検診を行うこと。

一、期間一年。志願により更新することを得

一、給料、毎月金三◯円也。支度金として前渡金ニ◯円也。

勤務地、中支方面。
動員地区、朝鮮全羅南道済州島。
派遣日時、昭和一八年五月三一日正午。
集合場所西部軍第七四部隊内。

当時、済州島は陸軍部隊によって軍政が敷かれていました。もともと日韓併合中の済州島は行政官はいませんで、警察署長が行政の最高責任者でした。警察署がこれは済州島の済州という中心の町にありましたが、この済州警察署が税金の徴収から出生その他死亡の事務手続きですべて行政を行なっておりました。[...]日本から済州島へは、大阪から一◯◯◯㌧程度の定期船が2隻交互に就航していて、下関に寄港してましたが、私はそれに乗って参りました。私たちは徴用隊と称していましたが、その徴用隊は隊長が私で9人の部下を連れて10人で済州島へ参りました。そして到着した日に陸軍部隊の大尉からいろいろ便宜を受け、軍用トラック2台、それから軍曹以下10名の護衛兵をつける、これは慰安婦を連行する場合に当然なことですが、島民に危害を加えるというわけです。戦時中ですから完全武装の歩兵軍曹以下10名が、私たち10名と同行しました。・・・

につづく)

いま朝鮮の統一と在日は---六・一八日本と朝鮮の戦前・戦後を考える文化の夕べ

 私の戦争犯罪 朝鮮人強制連行 P.154

10年を隔て同じ場所で吉田とユンが講演したのは偶然ではないだろう
ピロティホール(大阪)