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2013/10/14

日本人慰安婦の証言 「誰を恨むわけではないが・・」


反日団体のスポークスウーマンと化した一部の慰安婦のせいで、慰安婦に対する偏見が酷いことになっている。好きで売春していたとか、腹が立つのは分かるがあの時代娼婦として生きるというのがどういうことだったのか、謝罪・賠償運動とは無縁の日本人慰安婦の証言から。・・・こういった話を英訳することで、海外の人に慰安婦問題の本質を知ってもらうという手もあるのではないか。慰安婦問題というのは、貧しかった頃の日本の女性悲話である。

なお、この証言は西野瑠美子の著書より取ったものだが、読む際には注意が必要だろう。彼女は証言者を慰安婦、証言者が働いていた場所を(国内の)慰安所街としているが、厳密な意味でこれらを慰安婦や慰安所と呼ぶべきか疑問である。

 当時木更津には、三軒町と六軒町という慰安所街があった。三軒町にあった慰安所は、「純粋な」軍隊慰安所である六軒町とは異なり、一般客とともに軍人も来ていたところだ。しかし国内の慰安所の実態がなかなか見えない中にあって、そこにいた女性に会えるということは大変な巡り合わせだった。

(中略)

一九一九年(大正八年)生まれの彼女の人生は、戦争を抜きにして語ることはできなかった。

「私は埼玉の生まれなんですよ。父は新潟の生まれで、屋根まで雪が積もるような地で育ったけれど、母と結婚してから埼玉に移り住んでいました。父は鉄道に勤め、ごく普通の家庭だったのですが、私か十六になった年に、生後百日ぐらいの弟を残したまま、母は赤痢で亡くなってしまったのです。私は長女で、下には四人の弟と妹が一人いましたから、高等小学校を出るとすぐに私は弟たちの面倒をみるため家に入り、家族の世話に明け暮れました。

ところが母が死んで四年後に、今度は父が脳溢血で倒れ、そのまま亡くなってしまいました。弟たちの面倒は、長女の私にすべて降りかかってきたのです。父が残したお金はすぐに使い果たし、食べていくために私は働きに出なくてはなりませんでした。といって、その頃六人家族を支えるような給金をもらえる仕事は、そう簡単に見つかりませんでした

そんなとき、私の従姉妹が訪ねてきたのです。彼女は木更津の遊郭に五年間いたのですが、年季が明けたといって帰ってきました。そして私の事情を知ると、『あんたも木更津に行きなさい。私か紹介してあげるから』と勧めたのです。他に就職のあてもなかった私は、従姉妹の『そこに行けばお金が儲かる』という言葉に魅かれて、ついに行く決心をしました。

鈴木楼に行き、契約を済ませると一二〇〇円の前借金をもらいました。二〇〇円は私の着物代などに当て、残りの1000円を家族に渡したのです。弟たちには、住み込みの工場に働きに出るのだと言いました。どうして遊郭に入るなどと言えたでしょう。家にはばあやか来てくれることになり、弟たちの面倒の心配はなくなりました。

私か鈴木楼に行ったのは、昭和十六年のことです。私は二三歳になっていました。三軒町には、鈴木楼のほかにあと二軒の遊郭があり、女は三人から五人ぐらいの小さな家でした。六軒町は航空隊ができてから建てられたものですが、三軒町は昔からあった遊郭です。鈴木楼には(私のほかにも親に売られて秋田から来た娘もいました。主人は私に『登志子』という名前をつけました。ほかにも『かおる』『絹子』『信子』といった女性がいました。

店を入ったところに私たちの写真と名前が貼ってあり、客はそれを見て女を決め帳場でお帳場さんに料金を払い、選ばれた女が呼ばれたのです。そこに来るのは一般人に混ざって兵隊もいました。しつこい人やいやなことを要求する人もいて……ひどい乱暴を受けることはありませんでしたが。

下士官は一日おきに外泊ができ、日曜日に限らず平日でもやってきました。来ても戦争のことは一言も話しませんでした。私も聞きはしませんでした。ただ、兵隊が大勢来た日など、兵隊たちはぼっそり『明日、敵地に行くんだ』と言ったものです。そうすると私もついつい慰めてあげたいという気持ちになったものです。あの頃は、こんな商売でもお国のためになるんだと思っていました。

一時間二円で、一日十人から十二、三人ぐらいがやってきました。一晩に泊まりが五人いて、かけもちで回ったこともあります。いつも眠くて眠くて、朝飯を食べるとすぐに眠ってしまうのですが、すぐにまた起こされて。

鈴木楼にいったとき、私は処女でしたからとても辛かった……囗では言えません。でも、逃げ出したら家族に迷惑がかかると思うと、それもできませんでした

それでも楽しみもあったんですよ。毎週、木更津の映画館に行くことが許されていたんです。その帰りにおしるこを食べたり葛餅を食べたりしたこともありました。楽しい思い出といったら、それだけですね。わずかな小遣いの使い道でした。給料は、十日ごとに計算されましたが、借金や食いぶちとか雑費などが引かれて、手元には十円ぐらいしか渡されない。それも映画を観たり髪結いさんに行ったりすればすぐに無くなってしまいます。それでも弟たちのことを考えると、少しでも貯金しなくてはと思い、日掛けで一日五〇銭を貯金のため主人(楼主)に渡しました。暮れになると主人からもらって、正月の準備に使うようにと、家に送りました。もちろん正月に私が帰ったことなどありません。弟たちには手紙を出しました。工場の仕事が忙しくて帰れないと・・・・・・。

兵隊の場合は、必ずコンドームを二個ずつ持ってきました。性病の検診は週に一回、千葉から来る医者に診てもらいました。木更津にも産婦人科の医者はいたのですが。そのときに梅毒の予防だといって六〇六号の注射を射たれました。検査のときには、他の家の女たちと一緒になるのですが、ほとんど話すことはありませんでした。愚痴をこぼすことはあっても、みんな自分の素性は話しません。こんな中で、親しい友人なんてできるわけがないですよ。みんな自分のことで精いっぱい。他人を頼ろうなんて考えもしませんでした。

(中略)

一緒にいた女の中にはそのままGHQ相手の慰安所に残った人もいます

でも、私の幸せも朿の間でした。四年後に夫は事故で亡くなってしまったのです。何年かして再婚しましたが、結局子どもは生まれませんでした

(中略)

「自分の人生を振りかえると、ただただ情けない。弟や妹のために仕方なかったけれど、両親さえ生きていたなら、私はこんな人生を歩まなくても良かったのにと、ついついそんなことを考えてしまいます。生きていくためだったけれど、一度狂った人生は、もう二度とやり直すことなんてできないですよね。恨むといっても、だれを恨むわけではないが……」


2012/10/10

美輪明宏と日本人慰安婦


美輪明宏が語った日本人慰安婦。(音源データは、一時撤去しています)

で今度は、あの、女の人のね、今従軍慰安婦のことでね、モメたりもしてますけれどもね。あれはねぇ、ま、私が戦後仲良くなった従軍慰安婦で帰って来た人達はね、みな日本人でしたよ。貧しい農家のね、娘さんたちが、あたしが売られて行けば、父ちゃんも母ちゃんも弟たちも餓え死にせんですむからっていうことでね、でそれで、満州にいい働き口があるって言われて、行ってみたらそれが従軍慰安婦でね。それでね。あの、敵が来るとね、あの、銃を渡されてね男たちと一緒に戦ったんですって。でそして、あの、とにかく、流れ弾に当たって死んだりするでしょ?そうするとね、日本婦人までも戦わせてそういうことをしたって、日本軍の恥になるからってんでモンペを脱がされちゃって、あの、中国服にね、着替えさせられて放り出されちゃって、後は野ざらし雨ざらし。線香一本上げてもらえない。埋めてももらえない。そういう状態だったって。

でそして帰って来たら帰って来たで、村の人達に、とにかく、慰安婦やってたって、汚らわしいどの面下げて帰って来たかって。うちでも家名に泥を塗ったって言われて。うちの為、国の為にあたしたちは行ったのに、なんだこれはって、もうボロボロボロボロ涙を流して。あたしはホントもらい泣きしましたよ。可哀想でね。 で、それがね。私の歌を聞いてね。ああこれで私は成仏できますって言ってくれた時に、ホント私は良かったですけどね。ま、戦争というものはね、いろんなことがあるの。もう二度としちゃ駄目ですよね。ですから日本ももっとプライドを持ってね。えーとにかく今度は知性と凛とした気概を持ってね。ご先祖様に恥をかかせないように、気概を持って政治家も何も、官僚も全てが生きて行ってもらいたいですね。

TBSラジオ 2012.8.12

それで作ったのが、この曲なのだろう。「男はなんていいんだろう、羨ましいじゃないか、死ねば死んだで名誉の戦死とやらで・・・」 美輪明宏、作詞作曲。「祖国と女たち」は慰安婦の悲しみを歌った歌。1970年代の曲である。



北は青森から 南は沖縄
売られ買われて 今日も旅行く
違うお国訛りで 慰めあいながら
捕虜の女囚も 同じ仲間さ
荒れ果てた肌に やせこけた頬
今日も覚悟の最後の衣装
万歳 万歳

毎日百から二百 兵隊相手に
朝日が昇り 月が落ちるまで
いずれ死んでゆくことが 決まっている男
虚ろに空を 見つめる女
涙も渇れはて痛みもないさ
そこには 神も仏もない
万歳 万歳

誰の子かわからぬ 赤子残して
死んだ女やら 銃を片手に
愛する若い兵士と散った女やら
歌える女は 子守唄を唄う
あまりの怖さに狂った女
嫌な将校に斬られた女
万歳 万歳

男はなんていいんだろう羨ましいじゃないか

死ねば死んだで 名誉の戦死とやらで
立派な社に奉られるんだろ
私も男に生まれていたら
今ごろきっと勲章だらけ
万歳 万歳

戦に負けて帰れば 国の人たちに
勲章のかわりに 唾をかけられ
後ろ指さされて 陰口きかれて
祖国の為だと死んだ仲間の
幻だいて 今日も街に立つ
万歳 万歳
ニッポン 万歳
大日本帝国 万歳 万歳 万歳


そういえば、ソン・シンド(宋神道)も兵隊と一緒に歩哨に立った話をしていた。

美輪が聞いた慰安婦の話は、多少誇張されていたのかもしれない。しかし、苦労された人も実際多かったのだろう。

2011/06/05

兵士が見た多面的な慰安婦像とバイアス


昔を知らない私たちは、当時の人の証言と聞くと真に受けてしまいがちである。慰安婦の証言を疑うのはセカンド・レイプだという主張は論外としても、当時を体験した人の証言であっても「後知恵」によって本来の理解が曇らされてしまっている例もあるはずだ。

戦争の悲惨さを後世に伝えようと著述、講演活動をしていたこの曽根一夫は、戦場で慰安婦と接した体験を持つ旧軍兵士であった。彼は自分の体験から、

「私が戦地で見た限りでも、慰安婦の中で水商売経験者が占める率が圧倒的に大きかった。私もその種の仕事をしていたという慰安婦と幾人か接した。その慰安婦たちを通して感じたのは、男をあしらうテクニックを心得ていて、仕事の点では、素人の女と比較にならない程上手だった。しかし、この種の女が全部とはしないが、中には男擦れした女がいて、「将兵を優しく慰撫する」という目的に沿わない者が少なくなかった。

と当時の事を振り返っている。しかし、現在では「慰安婦の70%は朝鮮人」であり、朝鮮総督府が強制連行したものだとも信じている。これは彼が後年接した情報によって本来の像が歪んでしまった結果だろう。

彼はまた、戦地において慰安婦から直接「特殊看護婦」や「娯楽施設」の従業員の名目で騙されたという話を聞き取ってもいる。その事を彼は、

商売している女は作り身の上話が上手だから、といわれる方があるかも知れないが、語ったときの真剣な態度から私は信用できると思った。仮に話半分とうけとっても、軍の威光を背景にして民間業者があの手、この手を用いて募集したのを知ることができる。

と、冷静に振り返っているが、多分この辺が真相なのだろう。

彼が聞かされた「わたしは女学校に進学いたしました。それもお嬢様学校といわれた女学校でした。卒業してからはお華の稽古、茶道を習うなどして、花嫁修業をいたしておりました。そのまま順調にいったならいまごろは、奥様と呼ばれていたことでしょう(P.28)」という話は、娼婦の罪のない嘘だったのかもしれないが、女衒の手練手管に騙された女性は存在したのだろう。

ついでだが、「特殊看護婦が慰安婦だと知ったのは玄界灘を超えた直後」だったと話している事からも分かるように、この証言者は日本人女性であるらしい(曽根は中国戦線に出征していた)。ということは、慰安婦「被害者」には日本人もいたということである。賠償の対象から日本人を排除してきた国会議員や運動家たちは、この事についてどう説明するつもりなのだろうか(実は彼らなりの「言い訳」は存在する)?

戦争体験者としての曽根の記憶と認識は正しかったに違いない。しかし、90年代に入り次々に発表される後付の情報によって彼の考えは補正(?)されていく。

日韓併合や戦時動員についての彼の認識についても言えることだが(ここでは慰安婦問題に特化する)、彼の認識は、戦後の情報によりかなりのバイアスがかかっている。以下に見えるように尹貞玉(金一勉)の影響らしき物も見える・・慰安婦制度=民族抹殺政策説の信奉者なのである。

軍部、政府は、従軍慰安婦を内地女性だけで充足するのが難しいとみてとると、朝鮮半島を供給源とした。...朝鮮半島には健康的で若い女性がたくさんに在住している。若くて純真で、それに植民地政策下にあって忍従生活に慣れていたから、従順であった。...朝鮮総督府の権力を行使して集めることができる。朝鮮全土に配置してある警察官を総動員して当たらせたなら、万単位の女性を短期間に集めるのは容易である。

そうして強引に集めても、朝鮮の人は抗議することはできない。...朝鮮の女性を慰安婦とするのは、当時の軍部、政府にとっては、赤ん坊の手をひねるよりも容易なことであった。

それに、朝鮮民族から若い女性を引き抜くことにより、民族の繁殖抑止ができる。それがひいては朝鮮民族抹殺政策につながることになる。日本の国にとっては一石二鳥であった。軍部、政府はそれらに着眼して、朝鮮半島を慰安婦の供給源としたとされる。

しかし、最初は総督府の手を直接わずらわせずに、腕利きの周旋屋に依頼して、金と甘言によって募集した。...そうして募集していた間に戦地では従軍慰安婦の需要がいよいよ増した。そこで軍は、民間業者による募集だけでは供給に追いつけないとみて、強硬な手段を用いた。朝鮮総督府の権力による女集めであった。それは募集によるなど生易しいことでなくて、女狩りであった。朝鮮総督府は軍から依頼をうけると、朝鮮全土の警察官に指令して、16歳から20歳までの未婚の女性を対象としてリストを作らせた。そのリストを台帳として必要に応じて人数を牛蒡抜きにしたのだった。

出頭するよう指令された者はいかなる事情があろうとも、拒否することはもちろん、弁解することさえ許されなかった。日本人官憲の手から逃れるには、この世から消えてしまう以外になかった。中には、悲観してのあまり身を投げて自殺した娘があった。逃避しようとして山中に入り、人喰い虎の餌食となった母娘があった。といわれる。しかし、自殺したなら親がその責任を問われたから、この世から消えるのも容易でなかった。結局は悲運と諦めて、いうとおりに従うしか仕方なかった。

リストを作るには、警察機構の末端に在る駐在所巡査があたり、現地人補助警、面長(村長)に命じて人別したのだから、該当した女性は一人も洩れなかった。だから、朝鮮半島に在住していた該当年齢の女性は、全員が慰安婦とされる対象となったのだった。そうして朝鮮半島全域にわたって狩り集めたのだから、軍が要求した人数を満たすのは容易にできた。

...そのような女狩りが9年もの間つづいたのだから、狩り出されて慰安婦とされた朝鮮女性の人数は、膨大であったと推測できる。その間、朝鮮の人たちは、恐怖で心の休まる間はなかったと推測できる。


彼は現在では評判の悪い、吉田(清治)証言すら真に受けていた。曰く「その根拠がどこにあるのかは知らないけれど、慰安婦を体験したわたしには頷けるものがある」。


当時、山口県労務報国会下関支部に属して、動員部長として実際に朝鮮人を徴用したという吉田清治という方が健在しておられるので、その方の話を紹介する。私は、直接に面談したことがないので講演などで、知り得たことである。...この話から想像すると、徴用したというよりか、略奪したに等しいとうけとれる。吉田さんは、動員部長として朝鮮人徴用にあたった約3年の間に、強制連行した人数は男女合わせた約6千人、女性は少なくみても、950人はいたといわれる。

下関支部だけでそれほどたくさんの朝鮮人を連行したのだから、他の支部を合わせて累計したなら、膨大な数字になると推測できる。...吉田さんは、「私が強制連行した朝鮮人のうち、男性は半分、女性は全部が死んだと思います」と言っておられる。その根拠がどこにあるかは知らないけれど、慰安婦を体験した私には頷けるものがある。


体験者だからといって、その話が正しいとは限らないのである。彼の文章には「・・と推測できる」と書かれた部分が散見される。その推測の根拠になっているのは、戦後の「慰安婦論」であったりするのである。戦地で、これは慰安婦に限った話ではないが、悲惨な戦場の現実を見て来ただけに、こういった「慰安婦論」に取り込まれ易かったのかもしれない。

戦争の悲惨さを後世に伝えるつもりで、知らぬうちに非常に政治的な論争に巻き込まれてしまった。その為に自らの著書の価値を毀損してしまっている。気の毒なことである。