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2014/10/05

朝鮮日報、一転して吉田証言ロンダリング


あちこちで吉田証言ロンダリングが始まっている。朝鮮日報も、「『吉田証言』が虚構であることは、河野談話が発表されるよりも前に、韓国で暴露されていた」などと今さら力説してみせるのだが、二年前、「日本政府の関係者は、この(吉田清治の)本をしっかり読んでもらいたい」と説教していたのは誰あろう朝鮮日報である(崔さんに指摘してもらうまで自分も忘れてた)。

(強制動員を認めた)河野談話を発表することになったのは、旧日本軍が慰安所の設置や慰安婦の動員に直接・間接的に関与していたことを証明する公書が見つかったからで、日本政府は慰安婦問題をこれ以上否定することはできなくなった・・・。つまりこう。チャ氏(仮名)は、痴漢をしたことを否認していたが、被害者と知り合いであることが明らかになったので、痴漢の事実を認めざるを得なくなった・・・。そんな理屈で有罪にされたらたまらない。

「国連は旧日本軍の慰安婦強制動員を取り上げた96年の報告書で吉田氏の証言に言及したが、同証言について『信ぴょう性をめぐって論争がある』という点も指摘している」・・・で、朝鮮日報が吉田証言の信憑性について疑問を呈したことは、これまでにあったのか?

慰安婦:吉田証言の「作り話」、25年前に韓国で暴露済み

済州島の住民の証言で「本を売るための作り話」が明らかに
河野談話の根拠にはならず

日本の与党・自民党や閣僚たちは、朝日新聞が1982年9月に掲載した吉田清治氏(故人)へのインタビュー記事を取り消したことで、「河野談話」の根拠が崩れたと主張している。吉田氏は自らの体験を基にしたとして、1977年に『朝鮮人慰安婦と日本人』、83年に『私の戦争犯罪』という本を出版した。

だが日本政府は、慰安婦の強制動員を認め謝罪した河野談話(1993年8月)を作成する過程で、吉田氏の証言は参考にしなかったという。

同年8月、元慰安婦の金学順(キム・ハクスン)さん(故人)が初めて公の場で証言したのを皮切りに、韓国はもとより東南アジアでも被害者の証言が相次いだ。

「吉田証言」が虚構であることは、河野談話が発表されるよりも前に、韓国で暴露されていた。済州島の地元新聞は89年、吉田氏が本の中で「女性たちを(慰安婦として)狩り出した」と言及した地域の住民の証言を基に「吉田氏が金もうけのため、でたらめな内容の手記を出版した」と批判した。

日本の政治家たちは、国連や米国で慰安婦問題が提起されたことについても、朝日新聞の吉田氏へのインタビューのせいだという主張を繰り広げている。国連は旧日本軍の慰安婦強制動員を取り上げた96年の報告書で吉田氏の証言に言及したが、同証言について「信ぴょう性をめぐって論争がある」という点も指摘している

東京=車学峰(チャ・ハクポン)特派員

2014/05/11

ホロコースト被害者を利用する朝鮮日報

純粋に自分の話に興味を持ってもらっていると思ったのだろうが、
取材記者の本当の狙いは?

慰安婦騒動をウォッチしていて、一番嫌な気分になるのは、北朝鮮による拉致やユダヤ人ホロコーストといった絶対悪を引き合いに出す手法を目にする時である。慰安婦システムをまったくの無問題とは言わないが、ホロコーストや拉致問題とは一緒に出来ない。味噌も糞も一緒にして論じようとする人々は、政治的な意図があって被害者を利用しているのではないかと思うからである。これもそうだ。朝鮮日報の朴国熙(パク・ククヒ)記者は、ホロコースト被害者者の体験談を聴きに行ったのだろうか?本当は最後の段のコメントを引き出すのが目的だったのではないか?

「旧日本軍に踏みにじられた慰安婦の女性の話をすると、ワイズさんは『考えられない。本当にひどい』といった言葉を繰り返した。ワイズさんは『絶対忘れず絶対許してはならない。それが歴史を否定する日本政府に対する方法だ』と話した」

そうだとすれば、利用されたユダヤ人女性は気の毒である。最近の反日運動家によるホロコースト被害者の政治利用は目に余る。

「忘れない、許さない」 歴史否定する日本への対処法

ユダヤ人女性、ホロコーストの体験談語る
-10歳で姉と共にアウシュビッツに
生体実験の日、ソ連軍がポーランド侵攻…アウシュビッツから解放
-オーストラリアを経てイスラエルに定住
ホロコースト追悼記念館でガイド
「昔の過ちを子孫になすり付けるつもりはない」

ホロコースト(第2次世界大戦中に行われたユダヤ人大虐殺)の生存者は、大きく二つに分けられる。600万人のユダヤ人が虐殺されていく間、神は死んだと思った者、神のおかげで奇跡的に生き延びたと信じる者だ。ホロコーストの追悼日(4月27日)を2日後に控えた先月25日、イスラエルの首都エルサレムで出会ったマタ・ワイズさん(80)=女性=は、後者だった。「ナチスは神様が想像できないことを行ったが、今こうして生きていられるのは神様のおかげだと思います」

「A-27202」。1944年にドイツ軍がワイズさんの左腕に刻んだ入れ墨は、70年がたった今も鮮明に残っていた。「A」は150万人のユダヤ人が虐殺されたアウシュビッツ(Auschwitz)収容所の頭文字だ。ワイズさんは「今もこの入れ墨を見るたびに、生きているという事実に対し神様に感謝する」と話す。

ワイズさんは1934年にチェコのユダヤ教の家系に生まれた。10回目の誕生日を迎えた1944年10月8日、ナチスを避けて暮らしていたワイズさんは、隣家の密告によりドイツ軍に捕まり、1カ月後に3歳年上の姉と共にポーランドのアウシュビッツ収容所に送られた。ワイズさんは「『アウシュビッツはユダヤ人の再教育のための機関』とドイツ軍が説明した」と言う。

「列車に一緒に乗ってきた3000人の『新入り』ユダヤ人を収容する所がなかったんです。ドイツ軍はわれわれを収容する空間を確保するために、あるキャンプにいたロマたちを皆ガス室で殺してしまいました」

捕まってきたユダヤ人たちは、アウシュビッツ軍医官のヨーゼフ・メンゲレの前で列を作って裸にさせられた。後日「死の天使」と呼ばれ、40万人ものユダヤ人を虐殺したメンゲレは、「新入り」たちをガス室に行かせるか、生体実験のための「実験動物」として使用するかで分類した。

ワイズさんは「今も理解できないが、その『化け物(Monster)』は姉と私を双子と勘違いして実験室に隔離した」と話す。メンゲレはゲルマン族の繁栄のための手段として双子研究に対する関心が高かった。手術台に上がることになっていたワイズさんは、1945年1月にソ連軍のポーランド侵攻でアウシュビッツが解放されると、姉と共に脱出した。パンの切れ端と凍った野菜で食いつないできたワイズさんは、体重がわずか17キロになっていた。ワイズさんは「ガス室の煙突から煙が出ると、ユダヤ人の悲惨な死体がユダヤ人たちの手によって火葬場に移された。無惨だった」と当時の記憶をつづった。

 戦争が終わった後、ワイズさんは別々に捕まえられた妹がアウシュビッツのガス室で死んだことを知った。1948年に残った家族はオーストラリアに移住した。
 「悪夢の場所であるヨーロッパからできるだけ遠い所に隠れたかったんです。しばらくは医師のガウンのような制服を着た男性をまともに見ることができませんでした」。戦争当時パスポートを偽造して生きながらえた両親は、死ぬまで50年以上も姉妹にホロコーストについて話さなかった。生死の道を共に歩んだ姉にさえ、悲惨な記憶について話すことができなかった。ワイズさんは「1995年にオーストラリアで開かれたアウシュビッツ解放50周年行事で、姉は講演者として証言した。あの時、姉の記憶を観客席に座って聞いたのが最初で最後」と話した。
 1998年にワイズさんは夢にまで見たイスラエルに定住し、翌年からホロコースト追悼記念館「ヤド・バシェム(Yad Vashem、ヘブライ語で名前を忘れるなの意)」でガイドとしてボランティア活動を開始、今年で15年目を迎えている。ドイツ人旅行客も案内する。「ドイツ人旅行客を案内すると、彼らは常に『今はドイツについてどう思っているか』と私に質問します。昔の世代の過ちを子孫になすり付けるつもりはありません。しかし『絶対忘れず、絶対許さない(Never forget never forgive)』と返事します」
 10代という若さで旧日本軍に踏みにじられた慰安婦の女性の話をすると、ワイズさんは「考えられない。本当にひどい」といった言葉を繰り返した。ワイズさんは「絶対忘れず絶対許してはならない。それが歴史を否定する日本政府に対する方法だ」と話した。ワイズさんは一瞬たりともホロコーストを忘れたことがない。最近でもワイズさんは14人の孫と4人のひ孫に会うたびにホロコーストについて語り「絶対に忘れてはならない」と言い聞かせている。


朝鮮日報日本語版 2014.5.11

2012/09/09

吉田証言は詐欺的連行の告白・・・そうだっけ?


朝鮮日報に、記事企画エディターという肩書きで朴正薫(パク・チョンフン)という人物(写真左)がこの様なことを書いていた。今どき吉田清治かと驚いたが、最後まで読んでますます分からなくなった。

朴曰く・・・

強引に連れていけば、騒ぎになりかねなかった。吉田氏と部下たちは、詐欺を働くことにした。慰安婦ではなく、洗濯・掃除などを担当する雑役婦を募集すると偽ることにしたのだ。[...]月給30円で対馬の病院で働くと宣伝すると、朝鮮人女性が殺到した。[...]吉田氏の慰安婦募集は、銃剣の代わりに『わな』を使った、明らかな人間狩りだった。この1冊だけでも、当時の日本による慰安婦強制連行は十分立証されている」

吉田の著書にこんなエピソードがあったという記憶はないが、ひょっとしたらあったのかもしれない(確認する)。しかし、吉田証言といえば、それこそ銃剣を突きつけての拉致である。彼は慰安婦「強制連行」のイメージの原型を作った人物である。


吉田証言には幾つかバリエーションがあるが、「強引に」連れていくのが基本形

偶然の一致だろうか。銃剣を突きつけての連行はなくとも、病院で働けると(官憲が)騙す強制連行はあった・・・というストーリーは、先日取り上げたドラマ「ガクシタル」と同じである。というより、韓国では慰安婦の「強制連行」を、これからはこのパターンで売り出して行こうとしているような気がする。

まさか実名のコラムで嘘を書くとは思えないが、吉田の著書を確認してからもう一度論評する。今回はメモ代わりに。(追記:「私の戦争犯罪」にはないが、「朝鮮人慰安婦と日本人」にはこの通りの記述が存在する。朴がなぜ有名な「私の戦争犯罪」でなくそちらを持ち出したのかは謎)


看護婦にすると言って騙して連行した・・が最近のパターン?
ドラマ「ガクシタル」より

【コラム】「慰安婦狩り」を告白した日本人

「慰安婦強制連行の証拠はない」と主張する野田首相の発言に憤慨した読者のキム・ウォンテさんが、自身の所有する日本の本を送ってきた。吉田清治という日本人が1972年に書いた手記だった。吉田氏は戦時中、下関で、労働者の徴用機関だった「労務報国会」の動員部長を3年間務めた。吉田氏は、数多くの朝鮮人を強制的に連行して戦地に送ったが、当時の蛮行を悔いて『朝鮮人慰安婦と日本人』と題する本を執筆した。

吉田氏の証言は、現場を見ているかのように詳細かつ具体的だ。吉田氏は、日本政府の指示を受けて韓半島(朝鮮半島)に渡り、朝鮮人を集めた。警察の護送車を先頭に慶尚北道永川一帯を回り、若い男性を連行したという。当時、吉田氏の一行は朝鮮人を強制的に徴用することを「狩り」と呼んだ。確かに、他人の家に押し入って人を連れていくという行為は、人間狩りにほかならない。

吉田氏は、朝鮮人男性の「狩り」に対し、さほど罪悪感がなかったと語った。戦争中だったので仕方がないと思ったという。そんな吉田氏も、女性を軍の慰安婦として徴用することには「嫌悪感」を抱き「恥ずかしく汚いこと」と思っていた。戦場の慰安婦がどれほどひどい目に遭うか、吉田氏はよく分かっていた。吉田氏は「(日本軍の)1個中隊が列を作って待っていれば、慰安婦は1人で20-30人の相手をしなければならなかった」と書いた。

吉田氏に「慰安婦狩り」の指示が下ったのは、1944年の春だった。44年4月3日、「海南島に駐屯する皇軍慰問のための朝鮮人女子挺身(ていしん)隊100人を徴発せよ」という命令書が出された。対象は18歳から35歳まで、月給は30円で、妊婦でなければ既婚者であっても構わないと書かれていた。

30円といえば安くはない額だが、これが欲しくて慰安婦に志願する朝鮮人女性がいるはずはなかった。だからといって強引に連れていけば、騒ぎになりかねなかった。吉田氏と部下たちは、詐欺を働くことにした。慰安婦ではなく、洗濯・掃除などを担当する雑役婦を募集すると偽ることにしたのだ。最終的に、朝鮮に近い対馬の陸軍病院で1年間働く雑役婦を募集するという「偽の脚本」を書いた。

吉田氏の本には「慰安婦狩り」の手法が4章にわたって記録されている。警察署の刑事を含む4人からなる吉田氏のチームは、下関の朝鮮人徴用者部落を回って「狩り」を行った。月給30円で対馬の病院で働くと宣伝すると、朝鮮人女性が殺到した。誰もが、その金を手にして朝鮮に戻りたいという希望に満ちていた。吉田氏のチームは、割り当てられた100人をわずか1週間で集めることに成功した。18歳未満も10人ほどいたが、指針に従い、年齢を18歳に書き換えた。

後に吉田氏は「朝鮮民族に対する犯罪を、私は卑劣にも30年間隠してきた」と告白し、謝罪した。吉田氏は、日本メディアにも自分の行為を打ち明けたが、日本政府は事実でないとして取り合わなかった。吉田氏の慰安婦募集は、銃剣の代わりに「わな」を使った、明らかな人間狩りだった。この1冊だけでも、当時の日本による慰安婦強制連行は十分立証されている。「銃を突き付けなかったから強制的ではなかった」と言い張る日本政府の関係者は、この本をしっかり読んでもらいたい。

吉田氏が募集した慰安婦100人は、4月10日に戦地に向かった。この日、下関港は朝鮮人の女性やその家族で混雑した。「狩られた」女性たちは、自分を待ち受ける過酷な運命も知らぬまま、金を稼いで故郷に戻るという希望を胸に、笑顔の花を咲かせていた。午後1時、2隻の汽船が朝鮮人女性100人を乗せて出発した。目的地は、対馬の病院ではなく、南シナ海の前線にある日本軍の基地だった。吉田氏は埠頭(ふとう)から、いつまでもその光景を見詰めていた。

朝鮮日報日本語版 2012.9.9