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2012/10/18

引揚者の母は嘘と言う。でもハルモニが証拠

母親は事実を語っていたのに・・・

涙を流して韓国人に恩返しをしたいと言っていた引揚者の母親ですら嘘だと言うのに、当時3歳だった彼女は慰安婦の強制連行(拉致)を信じて疑わない。なぜなら、ハルモニという生きた証拠がいるからだ。

しかし、「恥ずかしい歴史をきちんと教えない日本の教育は問題」「自身も...慰安婦問題を教えたことはない...自分にもよく分からなかったからだ」

「日本政府は...『北朝鮮は横田めぐみさんを拉致した』と興奮して言うことはあっても、元慰安婦たちに『拉致した』という表現は使わない」

なぜ日本政府は朝鮮人慰安婦を拉致(強制連行)したと認めないのか。それは母親が言ったように事実ではないからである。彼女は赤の他人ではなく、亡き母の言葉を信じるべきだった。

「日本政府と極右の人物たちが慰安婦の存在を否定するのが恥ずかしいと語った」「ナヌムの家のおばあさんたちこそ、まさにその証拠」

いい加減にして欲しいと思うが、同レベルでも国会議員でないだけマシか。

7年ということは、内紛でナヌムの家を追い出された村山一兵より古参ということか。

慰安婦:7年間「ナヌムの家」で世話する日本人女性

ナガマ・カズコさん(70)=音訳=は1942年、ソウル市竜山区青坡洞で生まれ、元山(現在は北朝鮮)の近くで暮らしていた。父親が韓半島(朝鮮半島)で体育教師をしていたからだ。ナガマさんが3歳だった45年、日本は敗戦した。ナガマさん一家6人は日本に引き揚げようとしたが、誰も寝る場所を貸してくれなかった。一家は、ロシア兵に捕まり殺される危険を、かろうじて逃れた。

 このとき、25歳の韓国人青年が一家を救ってくれた。日本人に激怒していた周りの人々を説得し、下関まで行く船便を教えてくれたが、特に見返りを求めることはなかった。たった3歳だったナガマさんがこうした経緯を詳細に覚えているのは、母親が「恩返ししたくてももうその青年は見つけられない」と毎日のように涙していたからだ。そんな母親も、テレビに従軍慰安婦の話が出ると「うそだ。実際にあんなことが起きるわけがない」とナガマさんにささやいていた

 認知症を患っていた母親が息を引き取ると、ナガマさんは元慰安婦たちが暮らす「ナヌムの家」(京畿道広州市)に向かった。2004年10月、ナガマさんが62歳になった年のことだった。「私の家族を救ってくれた韓国をありがたく思ったし、元慰安婦の皆さんに申し訳なくて…」という気持ちからだ。

 初対面は衝撃的だった。ナガマさんは「皆さん、日本軍がしたことを覚えていて怖かった。私が日本人だから感じる罪悪感だったと思う。一緒に食事をしているときに涙が込み上げてきた」と話す。元慰安婦たちは日本に帰るナガマさんに「気を付けて行きなさい。そしてきっともう一度来るんだよ」と言って手を振った。

それから7年間、ナガマさんは毎年、ナヌムの家を訪れている。日本に帰ってからも休むことはない。慰安婦関連の討論会を開き、周囲の人々にナヌムの家がどんな場所かを伝えることもある。日本軍からいろいろとつらい目に遭わされた元慰安婦たちは、最初はナガマさんを見て「あの子(日本人)は何でここに来てこんなことをしているのか。来るなと言ってよ」と話していたが、黙々と雑務をするナガマさんを見るうちに、今では「妹のよう」「家族のよう」と話すようになった。

 16日午前、ナヌムの家で会ったナガマさんは、腰を曲げながらも元慰安婦たちを支え、部屋を掃除していた。そして日本語ができるペ・チュンヒさん(89)と一緒に日本の昔の歌を歌った。

 東京で約30年間、小学校教師をしていたナガマさんは「恥ずかしい歴史をきちんと教えない日本の教育は問題」と語った。自身も児童たちに日の丸と君が代の意味を教えたことはあっても、慰安婦問題を教えたことはないという。教師である自分にもよく分からなかったからだ。ナガマさんは、日本人の約80%は慰安婦が正確にどういう意味なのか分からない、と話した。そして「拉致という言葉は強制的に連れていくという意味だが、日本政府はこの言葉をきちんと理解できていない。『北朝鮮は横田めぐみさんを拉致した』と興奮して言うことはあっても、元慰安婦たちに『拉致した』という表現は使わない」と批判した。

 ナガマさんは日本政府と極右の人物たちが慰安婦の存在を否定するのが恥ずかしいと語った。「慰安婦が強制だったという証拠を出せと政治家は言う。ナヌムの家のおばあさんたちこそ、まさにその証拠

京畿道広州= キム・ヒョンウォン記者

朝鮮日報 2010.1017  

2010/12/19

ひめゆり学徒兵に思う






「強制連行」という言葉は、戦時徴用のことを指す。ただし、日本人に対して用いられることはなく、若干の例外を除けば朝鮮人に対してのみ用いられる。この理由を金英達は「恨みをこめて」そういう言い方をするのだと説明している

しかし、志願ではあっても、日本人であるという点を除けば、ひめゆり学徒隊こそ、あえてこの言葉を使うとすればだが、「多くは未成年の少女たち」が「強制連行」されたケースに近いと言えるのではないか。

戦時中、こういった悲劇はたくさんあったに違いない。


太平洋戦争末期の沖縄戦で傷病兵の看護などにあたった「ひめゆり学徒隊」の元隊員宮城喜久子さん(82)=写真=が18日、大阪市浪速区の大阪人権博物館リバティホールで約300人を前に悲惨な体験を語った。  宮城さんが動員されたのは、沖縄県立第一高等女学校4年生で16歳だった1945年3月。「安全な場所で看護にあたる」と聞かされていたが、実際は、近くで爆音が鳴り響く壕(ごう)の中の野戦病院だった。

手足がない兵隊や、傷口にウジがわいた患者もおり、当初は震えていた。しかし、衛生兵に「戦場では当たり前だ」とどなられるうちに、遺体を埋葬しても涙も出なくなるほど感情がまひしたといい、「戦争は人を人でないものにする」と語った。

逃げ惑ううちに荒崎海岸(同県糸満市)の岩場に追いつめられ、米軍の乱射を受けた。目の前で友人たちが倒れ、別の集団は手投げ弾で自決した。生き残った宮城さんは「大事な人をたくさん失って初めて戦争のおろかさに気付いた。とっても悔しい」と絞り出すように話した。

講演は、同博物館で26日まで開かれている企画展「ひめゆり 平和への祈り」の一環。2008年12月に荒崎海岸で見つかった学徒隊員の校章も展示されている。

読売新聞 2010.12.19


「安全なところで」という話は、熾烈な沖縄戦の中でどこかへ消し飛んでしまった。 しかし、それを「甘言を弄して」少女たちを連行したと無茶な解説をする学者はいないし、手投げ弾で自決したのは、天皇のために死ぬことによって模範的な皇民となろうとした沖縄の意識と家父長制ゆえの「強制」だったと言い張る「専門家」もいない。幸いなことに。


http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20101219-OYT8T00097.htm