2013/12/21

尹貞玉を訪ねて【日本の人格が問われてる】朝日新聞

ピロティホール 「若い母親が慰安婦として連行された」そう信じた日本人も多かった

挺対協の初代(共同)代表ユン・ジョンオク(尹貞玉)が90年代、すなわち慰安婦騒動が持ち上がった頃、日本人の聴衆に何を語っていたか。(再掲)

乳の張った若い母親が慰安婦として連行されたという話は、吉田清治の影響と思われる。現在では若い母親の話は出てこず、むしろ日本は12(14)歳からの少女が連行したという風に、「被害者」の幼さがアピールされることが多いようだ。

「私は無知でした」と「加害者」として打ちひしがれる日本人女性。ユン・ジョンオクは、挺身隊として動員された少女の一部が慰安婦に回されたと語っていたから、彼女の苦悩もひとしおだったろう。この時期、慰安婦 問題は、「朝鮮人」女性の問題として認識されていたらしいことも記事の中から透けて見える。

このインタビューは91年頃のもの。取材は朝日新聞の井上裕雅記者。女たちの太平洋戦争は、新聞紙上の連載をまとめたもの。

何万人もの若い朝鮮人女性が日本の手で従軍慰安婦として強制連行され、悲惨な最期を遂げました。今生きている人も心身ともに破壊されています。日本は責任をとろうとはしません。経済大国になったといわれますが、本当の”大国”とはいえないのではないでしょうか」。

韓国・梨 花女子大の前教授で、韓国挺身隊問題対策協議会共同代表の尹貞玉(ユン・ジョンオク 65)はこう言って私の顔をじっと見た。日本各地で慰安婦たちの足跡を調べるために1991年8月末に来日した尹さんに、強行日程の中、短い時間だったが、インタビューに応じてもらった。

日本政府は信用できない

日本の植民地下で少女時代を送ったため、尹さんの日本語は流暢だ。

「アジアの平和をいうなら、日本は歴史を整理する必要があります。加害者としての日本、つまり侵略した責任を処理しなくては」

「相手が小さいと無視しようとする。その日本の”人格”が今問われています」

「・・・日本政府は信用できない。でも、日本政府と日本国民は違います。『アジアの平和と女性の役割』についてのシンポジウムが1991年5月末から6月初めにかけて東京と神戸で開かれましたが、そのとき日本の女性たちは真剣に取り組んでいました」

・・・日本を追及する言葉の内容とは逆に、疲れを柔らかい笑顔に包んでいた。その表情が心に残った。

尹さんは、私との会見の中で、従軍慰安婦 問題について責任を認めようとしない日本政府と、日本人は別だ、といった。が、「考える集い」では、在日女性の間から「日本の民衆も謝罪を」「日本の女性は加害者の立場にいたのだ」という意見が出た。・・・



8月24日の夜、大阪・森ノ宮ピロティ小ホールで開かれた「『朝鮮人従軍慰安婦 問題』を考える集い」には在日韓国・朝鮮人の女性をはじめ、男性、日本人らが参加した。その数300人で、会場に入りきれないぐらい。従軍慰安婦問題に対する関心の高まりがみえた。

尹貞玉さんの講演をはさんで十余人の参加者が同問題などについて自分の考えを発表、最後に「8・24アピール」を採択した。

大きな拍手に迎えられて登壇した尹さんはよくとおる声で話し始めた。日本語だ。メモをとる参加者が多い。

「慰安婦たちは『モ ノ』扱いだった。天皇の『下賜品』でした。『突撃一番』というコンドームをつけない軍人もいた。梅毒にかかり精神が錯乱した女性もいた。目が見えなくなっても軍人の相手をさせられた人もあったのです」

尹さんの講演に先立って語った日本人女性は声をしぼり出すようにして語った。

「世の中で一番いとしいものは自分の乳を飲んでいる赤ん坊ではないでしょうか。その若いお母さんたちが、何時に広場に集まれといわれ、赤ん坊を寝かせて集まると車に乗せられ、従軍慰安婦として連行されました。張る乳をおさえながらどんなに日本人を恨んだことでしょう。私は1944年、ソウルの朝鮮人の子供たちの学校に勤めていました。命令で子どもたちも軍需工場へ、ということで毎晩のように家庭訪問しました。私は無知でした。親御さんにとって私は鬼のように思えたことでしょう」

「日本の女性は従軍慰安婦のことをほとんど知らない。慰安婦のことがちゃんとされないと私は安心して死ねません」

加害者側にいた自分をさらけ出した話だった。