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2013/03/03

朝日新聞・慰安婦取材班の後悔

市川記者 「慰安婦の為に何か出来る事があると思っただけ」
「韓国メディアが騒ぎ立て、外交問題にした」

慰安婦騒動の黎明期、朝日新聞取材班のリーダーだった市川速水記者と、産経新聞の黒田勝弘記者の対談。朝日VS.産経 ソウル発(朝日新書)より。90年代、善意からであっても結果的に慰安婦騒動に加担してしまった人々の一部は、現在寡黙である。慰安婦問題が日韓関係改善の最大の障害の一つとなってしまった今、朝日新聞の記者にも後悔の気持ちはあるようなのだが・・・。

それにしても市川記者のこの回想(2006年)、徹頭徹尾、他人に責任転嫁している。慰安婦騒動が日韓関係を「ぐちゃぐちゃ」にしたという自覚はあるが、それは産経新聞の黒田勝弘や韓国のマスコミが悪いのだと彼は言う。

市川: 1991~1992年に僕は東京本社の社会部にいて、取材班の中心になってこの問題を追っかけていた。[...]当時、韓国は、まるで新たな問題が発生したかのように、日本がこれまで隠蔽していた問題であるかのようにワーッと騒ぎ立てたわけでしょ。

日本でこの問題を追っていた僕らは[...]、何かできる余地があるんじゃないか、日本政府の責任と関与について日本人として考えるべきなんじゃないか、そういう問題意識でやっていたのに、たとえば韓国マスコミは、挺身隊イコール慰安婦であるとか、誤解を植え付けて、外交問題になって、宮沢首相も謝罪せざるを得なくなって、そのうちに黒田さんが「慰安婦狩り証言はウソだ」という記事をバーンと書いて、日韓関係もぐちゃぐちゃになった[...]結局あれはなんだったんだという忸怩たる思いは今もあります。

宿命的に、この手の話は日本人同士でちょっと考えようと思っても中国・韓国の反応が外交問題に発展したり、その途中で日韓のマスメディア同士が足の引っ張り合いをしたり、必ずしも本質がみんなに理解されないまま、どんどん問題が複雑化してしまうと思うんですけど、どうでしょう。

1992年1月、朝日新聞が「軍関与」の証拠が発見されたとスクープを打ち「慰安婦問題のビッグバン」を引き起こした。秦郁彦は、前年に吉見義明が発見した(実際には新発見ではなかった)資料の公表を朝日新聞が宮沢首相の訪韓(92年1月16日)のタイミングにぶつけたのは、意図的だったと見ている。事実関係を確認する暇がなかった日本政府は混乱し、首相が韓国で謝罪を繰り返した。


”朝日のタツノ(?)記者としかるべきタイミングで発表する話がついていた”(4:40~)

それまで日本政府は慰安婦が国家総動員法に基づいて徴用されたことを示す資料を探していたので、朝日新聞のスクープはミスリードであり、これがその後の騒動のきっかけになった。韓国のマスコミが後から挺身隊=慰安婦という誤解を植え付けたというより、そういう誤解があったところに朝日新聞が「証拠発見」と報じ、宮沢首相が謝罪したことで韓国民が確信を抱くに至ったのだろう。日韓関係を「ぐちゃぐちゃに」したのは、市川ら朝日新聞であり、黒田ではない。当時韓国の女性団体は日本政府に慰安婦の強制連行(徴用)を認めよと要求していたのであり、市川らの真意など韓国民にとって興味の対象ではなかったのである。

日本は65年の日韓協定でカタがついたという。それは法的には確かにそうだと思います。[...]でも、それを日本の側が「終わった」「もう関係ない」「話を聞く必要もない」と言っていいのか。裁判官は終わったと判断したとしても、日本政府として、個人として、日本社会として、何かできることがあればやったほうがいいでしょう。

韓国の市民団体は「何かできることがあればやったほうがいい」ではなく、関係者の(戦争犯罪者としての)処罰まで要求していたのである。実際に挺対協や松井やよりらは、民衆法廷を開き昭和天皇らを犯罪者に認定した。

「慰安婦の強制連行はなかった」という論がまかり通っています。[...]僕の取材でも、(引用者注:韓国では)腕を引っ張られて、猿ぐつわはめられて、連行されたという人は一人も現れていません。だから、強制的ではなかった、さらに慰安婦問題はなかったとさえ言う人がいるわけです。でも、そうじゃなくて、証言の共通項を見ていくと、あの人たちは貧乏な家で、女衒にだまされて、気がついたら戦地に行かされて、中国などで慰安婦をさせられた。僕は10人くらいかなあ、実際に細かく証言を聞いたけど、もちろん好きで行った人はいないし[...]
ではなぜ行かされたのか。本人も親も、抵抗できなかったからです。土地を取り上げられ、それは朝鮮人や日本の小役人のやったことだけど、植民地支配だったから、それまで朝鮮人が持っていた土地を取り上げることがたやすかったからでしょう。そうでなければそういう目に遭わなかった。構造的にみたときに、日本には責任がないとはいえない、という思いがずっとするんですね。

植民地支配もなにか、確かに100%、無条件に悪い、というのは今の価値観でやる暴論ですよ。[...]僕が言っているのは、どの歴史観で裁くにしろ、被害者が存在しているということ。被害者に対しては、日本は謝るべき余地があれば謝るべきではないのかということですよ。

日本が土地を奪ったという話は、韓国内でも異論が出るようになって久しい。また、朝鮮人を上回ったかもしれない数の日本人が慰安婦として外地に出ていたこと、植民地支配がなくともオーストラリアやアメリカに売春婦が遠征して行く韓国の現状を考えると、2006年にもなって、植民地支配という強制性の所為などと言っているのはナイーブ過ぎるように思える。

市川: 慰安婦問題については、95年にアジア女性基金ができたのが一つのゴールだと思います。韓国は猛反発しているし、結果的にうまくいかなかったけれど。政府は関与していないという日本政府の名目上の責任のとり方としては精いっぱいだったと思います。あのあと、朝日新聞も僕も、さらに責任を取れとは言っていないですよ。主に91年から95年、特に93年8月の河野長官談話まではキャンペーンを張りましたし、政府や日本人が知らんぷりをしているということには僕も憤りを感じましたけれども、結局、基金ができた。それでも韓国は納得しない。

僕の取材では、韓国政府は一度は日本の基金設立についてOKのサインを出したが、韓国の市民団体が「民間基金では日本政府の責任が明確でない」と反対し、被害者に一時金の受け取り拒否を勧めた。韓国の内部事情も大きく関係しているわけです。ところが、つい最近の盧武鉉大統領の演説でも、対日批判のくだりで、歴史認識とともに慰安婦問題が入っていましたよね。では、具体的に何を求めてるのかと聞くと、韓国政府の幹部に聞いても返事が返ってきません。その言い方というのはまさに、「歴史問題として法的道義的責任がある」というものですが、それ以上の説明がないというのは、僕も理解できない

黒田: だから、これはさっき言ったように、韓国側の事情なんですよ。ことあるごとに靖国、島、教科書の三点セット、プラス慰安婦を蒸し返して、日本政府に謝罪、反省、補償などを要求するってことは国家として、日本政府に対する外交カードになるということなんですね。心的圧力あるいは道徳的圧力になると思うから、執拗に日本批判をしているんです。

市川: でも、実際、心理的圧力も道徳的圧力もかかっていないじゃないですか。

黒田: しかし彼らはそれを言うことによって、道徳的優位に立ったと思ってるし、朝日をはじめそれに呼応する声が日本にありますからね。[...]


道徳カードとして利用されていると言う黒田に市川は反論するが・・

果たして道徳的圧力はなかったのか。河野談話当時の韓国側の外交担当者はこう回想している。
「・・・私たちの道徳的優位措置で慰安婦問題の流れが変わった。補償局面で日本が政府の責任を認めなければならない局面に変わったのだ」
今年の1月にも朝鮮日報は社説で道徳性を持ち出していたし、それにこれは市川が担当を外れた後の話かもしれないが(93年)、朝日新聞の変わらぬ書生論が事態を悪化させた様子を秦郁彦はこの様に批判している。
「韓国マスコミのなかでも、『朝鮮日報』のように『われわれが補償し、もうこの恥ずかしい過去の幕を下ろそうではないか』(九三年八月五日付)と呼びかけるところが出た。ところが、朝日新聞は「日本の道義が試されている」と題した社説で「だからといって・・・それに甘えるような対応は許されまい・・・<補償は求めない>という韓国側の態度に、安直な対応はできようはずもない」(九三年三月二十日付)と不満を示した。これこそ盧泰愚が嘆いた日本マスコミによる『焚きつけ』の見本だろう」

なんのことはない。日本に道徳的圧力を加えていたのは朝日新聞だったのである。これに対し黒田は、「慰安婦カード」は日本に「教訓を垂れることのできる貴重なカード」として利用されていると看破している。

[メモ] 「従軍慰安婦問題は世界が日本の良識を評価する物差しであり、その気になればすぐにでも解決できる問題だ」 朝鮮日報 (2012.8.16)

2013/01/04

[資料] 安部は日本の道徳性に泥を塗る(朝鮮日報)


「日本の道徳性」

【社説】安倍首相は村山・河野談話を否定し何を狙うのか

安倍晋三首相は先ごろ産経新聞とのインタビューで、日本政府が植民地支配を謝罪した1995年の「村山談話」に代わる「21世紀にふさわしい安倍内閣としての談話」を出したいと語った。また、慰安婦問題について、旧日本軍による募集の強制性と関与を認めた93年の「河野談話」は閣議決定されていない談話だと指摘し、自身が首相を務めていた2007年に閣議決定した「政府が発見した資料の中には軍や官憲による強制連行を直接示す記述はなかった」という答弁書の内容を加味して現内閣の方針を示していくと述べた。

1993年、当時の河野洋平内閣官房長官は日本の警察庁や防衛庁(防衛省の前身)などの資料、米国国立公文書館の資料、日本・韓国・中国の当事者たちの証言を基に「日本軍の要請で慰安所が設置され、慰安所の設置、管理および慰安婦の移送に日本軍が直接・間接的に関与した」と認めた。

村山富市首相が第2次世界大戦の終戦50年を迎え、95年8月15日に発表した談話も「植民地支配と侵略により多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」と謝罪している。安倍首相は日本政府が過去を認め、反省したこの二つの談話を覆そうというのだ。

安倍首相は最初に首相に就任した翌年の07年、「河野談話」を否定する発言で中国や韓国など周辺国の反発を招いたが、姿勢を変えなかった。同年4月にようやく、日米首脳会談という場違いな席で「慰安婦たちが経験した大きな困難に心から同情している。申し訳ない思いだ」と謝罪した。米議会下院は同年7月、日本政府に慰安婦の強制連行を認めて謝罪するよう求める決議案を採択した。被害国に対しては過ちを認めず傲慢(ごうまん)な態度を貫く一方、米国の前では小さくなる安倍首相の姿は、日本の道徳性にまたしても泥を塗った。

安倍政権が今回も過去と同じ態度を取れば、次に起こることは分かりきっている。韓国や中国など周辺国の首脳たちとの会談が難しくなるだけでなく、日本の侵略で苦痛を被った東南アジア諸国も日本への認識を変えるだろう。日本の未来の世代にも手に余る重荷を背負わせることになる。朴槿恵(パク・クンヘ)次期大統領に4日に特使を送るとしておきながら、それに先立ちマスコミに過去の談話を改悪・破棄する意向を示した安倍首相の本心をはかりかねる。

2012/12/17

巧みな外交が日本に強制動員を認めさせた 河野談話裏話


河野談話の舞台裏を明かしたものとしては、石原信雄元官房副長官の証言櫻井よしこによる取材が知られているが、韓国側の証言というのは、自分は読んだことがなかった。やはり貴重な物なのだろうか?本当は韓国語に堪能な人に翻訳をチェックしてもらいたいところなのだが(追記:シンシアリー氏の訳を見ると、大筋では間違っていないようだ)。

インタビューの本文に行く前に、回り道になるが、秦郁彦と石原信雄の話を聞いて予習しておこう。

私は河野談話公表の前夜おそく、外政審議室長からFAXで原案を受けとり、コメントを求められた。一読して、募集段階で官憲が強制連行したかのような印象を与えるのはまずいと思った。
いくら政治的妥協とはいえ、たしかな証拠なしに強制連行を認めるかのような表現を入れると、必ずや将来に禍根を残すだろうと私は切言したが、時間切れだという。

慰安婦と戦場の性 P.250 (1999)

秦の予感は現実のものとなる。もう一つ。日本側で折衝にあたった石原官房副長官の証言。インタビュアーは産経の阿比留記者。

Q 国家賠償請求につながるとは思わなかったのか

石原氏 全く想定していない。[...]われわれはあの談話によって、国家賠償の問題が出てくるとは全く想定していなかった。当然、当時の韓国側も、あの談話をもとに政府として要求するということはまったくありえなかった

[...]日本政府として強制したことを認めたとか、誇大に宣伝して使われるのはまことに苦々しくて仕方ない。もちろん、こういうものをいったん出すと悪用される危険はある。外交関係とはそういうものだから。だけど、あまりにもひどいと思う。

(河野談話発表の)あのときは、これで日韓関係は非常に盤石だ、お互い不信感がとれたと日韓間で言っていた。韓国側も、自分たちが元慰安婦たちの名誉のために意に反してというのを認めろと求めたのを日本が認めた。これで未来志向になると言っていた。それが(韓国は)今日まで、いろんな国際会議で日本政府が政府の意図で韓国女性を強制的に慰安婦にしたと言っているが、全く心外そのものだ。


この時から20年が経とうとしているが、未だに「(早く賠償しなければ)問題解決の機会を永遠に逃す」と韓国の大統領にせっつかれているのである。

さて、本題の韓国側の関係者のインタビュー。道徳的優位という言葉が頻繁に出てくる。慰安婦への補償は我が方でやる、と宣言する事で日本を精神(道徳)的に追い込み、事実上日本に「強制動員」を認めさせることに成功した。韓国建国以来最高の外交だったと当事者は誇っている。そして、補償は我が国でやると言っていたはずなのに・・・。

騙された格好の日本側。石原官房副長官は、あまりにも酷いと泣いているが、肝心の河野洋平は、談話に反発する日本人は「知的に誠実でない」と逆ギレしている。こういう人だから、道徳的に攻める戦術は有効だったのだろう。

<外交列伝(熱戦)> 「慰安婦強制動員認定」の河野談話が出るまで

韓国の先手「道徳的優位措置」に日本立地狭くなり

強制動員認定」表現終盤まで妥協難航・・・ユ・ビョンウ前大使回顧

(ソウル=聯合ニュース)カンビョンチョル記者= 「私は日本軍慰安婦だった」

1991年8月14日。 日本軍慰安婦被害者の中で最初にキム・ハクスン(金学順)ハルモニが記者会見を行い日帝の蛮行を告発した。 慰安婦被害者の公開証言が初めて出てきたのだ。

これを契機に慰安婦問題は1990年代初期の韓日間の最大の懸案に浮上した。

慰安婦問題解決に進展がなければ韓日関係の維持も難しい状況にまで発展したわけだが、日本では問題解決とはほど遠い世論が形成され始めた。

すでに1965年の韓日協定で補償問題は全て終わっているのに、さらに補償を受けようとする目的で慰安婦問題を提起してきたのではないかという誤った認識だった。

このような状況下で1993年2月25日スタートしたキム・ヨンサム(金泳三)政府は格別の対策を出す必要性が大きくなった。

◇発足後17日で誕生した「道徳的優位」アクション=金泳三政権発足した日に局長になったユ・ビョンウ外務部アジア局長(当時)は「新政府の勢いを利用して仕事をしなければならない」とし、直ちに大統領職引継ぎ委員会の時から構想していたプランを推進した。

日本でなく、我が国政府が立ち上がって慰安婦被害者に補償をしようという内容だった。

彼は先にハン・スンジュ外務部長官から承認を受けてから、大統領府の首脳部の説得に入った。 すぐに予算が必要なことに加え、業務自体は福祉部事業的な性格が強く、大統領府の総括的な調整が必要だった。

パク・クァンヨン秘書室長とキム・ジョンナム教育文化首席などと常時協議し、こういったことを大急ぎで進めた。 私たちが道徳的優位に立ち、こういった措置を取らなければならないという説得に大統領府の人々も一緒に動いたのだ。

結局、当時金泳三大統領は、3月13日首席秘書官会議で「日本政府に物質的補償を要求しない方針で、これに対する補償は来年から政府予算でするように」とし「そうすることで、道徳的優位を持って新しい韓日関係に近づけるだろう」と指示した。

ユ局長が道徳的優位措置の準備に入って17日で結果が出たのだ。

我が方のこのような措置は、慰安婦問題の本質補償問題で薄れることを防ぎながら日本に道徳的な打撃を与える効果を見せた。

即座に被害者の補償要求に対する否定的世論が少なくなかった日本で「先手を取られた」という反応が出た。

補償を前面に出して責任認定問題を避けることができる機会を逸したという日本側の内部評価も出てきた。

実際、日本は当時被害者に支援するための基金(後のアジア平和女性基金。1995年発足)を民間団体を通じて作ることもした。 政府の直接補償は責任認定問題が従うので民間団体を通した人道的支援という手を使ったのだ。

しかし私たちの道徳的優位措置で慰安婦問題の流れが変わった
補償局面で日本が政府の責任を認めなければならない局面に変わったのだ。

このような理由から、我が方では既に「建国以来最も新鮮な外交的イニシアチブ(ホン・スンヨン当時外務次官)」という評価が出ていた。

◇「総じて本人意思に反した」・・・日本、強制動員初めての容認= 1993年8月4日。日本は初めて慰安婦強制連行を認める政府発表を出した。

慰安婦問題が大きくなった時、日本は政府や軍が関与したことはなく強制動員もないという態度を取った。 そうするうちに1992年軍が関与したことまでは認定(加藤談話)したが、依然として強制動員の有無は分からないという態度を取ったが、これよりさらに進展した立場を河野洋平官房長官が政府を代表して出したのだ。

この談話はわが政府が道徳的優位措置を法制化(日本軍慰安婦生活安定支援法)してから1ヶ月余りで出てきた。

「昨年12月から調査を進めたが今回結果が整理されて発表する」ということを表向きの理由にしたが、わが政府の道徳的優位措置で雰囲気が反転しながら出てきた結果だというのが大まかな評価だ。

実際の河野談話を発表する前まで、韓日外交チャネルの間では談話の文章表現を置いて水面下の協議があった。 「日本が処理する問題」だというのが当時ユ局長の考えだったが慣例により東京で外交協議が進行された。

協議は発表直前まで続いた。 最後まで残った問題は強制動員の部分の表現だった。

日本側からは「100%が強制動員ではない」という認識が強かったし、このような理由で「概して本人意思に反した」ということを事実上のマジノ線にした。 このような立場の差で両側間交渉は難航に陥った。 外交部の一部では日本の頑固な立場を勘案して彼らの要求を受け入れようという現実論も出てきた

ユ局長は交渉担当者に「もう少し頑張れ」と言い、我が方の立場をそのまま死守しろと繰り返し指示した。

結局何日か後、日本は「(慰安婦の)募集、移送、管理なども甘言・強圧によったことで、『総体的に』本人の意思に反して実施された」という案を持ってきた。 ユ局長はその時この案を受諾した。

当時交渉を指示したユ・ビョンウ前トルコ大使は聯合ニュースとのインタビューで「日本語では総体的という話と全体的という話を区別して使うが、その程度の表現なら99%オーケーだと考えた」と話した。

日本がそれなりに総体的という表現を探す努力をしたのは、河野長官の傾向も影響を与えたと評価される。 自民党内では多少進歩的であり、過去問題を認めるのにケチでないためだ。

◇「日本の総理だって大学を出たのではないのか」 =河野談話が発表された3ヶ月余り後。11月6日。金泳三政権発足後初めての韓日首脳会談が慶州で開かれた。

(日本の河野「歴史否定は浅はかな民族主義)

慣例通りなら、この会談を控えても韓日間の過去の問題について交渉しなければならなかった。

金泳三政府で日本総理の初めての訪韓であるだけに過去の問題に対してどんな方法ででも言及するべきなのに、どの程度まで言及しこれに対する答をどうするかを事前に調整し、首脳会談で事故が起きることを防ぐための措置だった。

しかし我が方はこの問題に関する交渉を行わなかった。 ユ局長の指示にともなう措置だった。

会談まで数日しか残されていない状況で、日本の外務省アジア局長から電話がきた。 今からでも交渉をしなければならないのではないかという問い合わせだった。

ユ局長は「日本の首相も大学は出たのではないのか。 私は首相の哲学を聞きたい」と言い、「もし首相の発言が満足なら我が国民が惜しみなく評価するだろうし、誤った発言なら日本が後始末をしなければならないだろう」と話した。

事前交渉を省略したまま首脳会談の日となり、金泳三大統領と細川護煕総理の慶州会談が進行された。

分野別で対話を続け、過去の歴史問題について話をする番になった。 同席した韓日の局長の間にも緊張が流れた。 細川総理はワイシャツのポケットからメッセージ一枚を取り出した。 題名程度だけの簡単なメモであった。

細川総理はメッセージを参考にしながら「日本の植民地支配によって韓国人が母国語教育の機会を剥奪され、名前を日本式で改名された上、従軍慰安婦、徴用などの色々な形態で苦しさと悲しみにあったことに対し、加害者として心から反省して深い謝罪を差し上げる」と話した。

具体的な行為まで言及した前向きな謝罪発言だった。

この発言は1995年発表された村山談話の土台を作ったという評価を受けている。

ユ前大使は「慣例のどおり交渉していれば、『痛惜の念』などと普段使わないおかしな表現が出ていただろう」とし、「別途交渉をしないことで、かえって心を打つ話が出た」と回顧した。

彼は「過去には韓日関係などがあり、独島などの問題が大きくなっても、問題は発展せず互いに収拾する雰囲気があった」としながら韓日関係発展のためには共通の利害関係を作らなければなければならないと助言した。

◇ユ・ビョンウ前大使=外交部内で自他共に認める最高の日本専門家だ。

日本に勤めながら多様な人脈を構築、各種懸案業務を推進した。 単刀直入的で直接的な話法を駆使するスタイルで各種対日交渉で主導権を行使するのに大きい役割をしたという評価を受けている。

聯合ニュース 2012.12.17

※ ここでも「河野談話=強制動員を認めたもの」として扱われている。

追記: 韓国人ブロガーシンシアリー氏もこの記事を取り上げた。彼もこの記事の内容は支離滅裂だと感じたようである。

この記事は、いったい何が何なのかまったく理解できません。[...]私が思うには、単に「要求通りに応じてやれば、仲良く出来るだろう」という、日本側の一方的な片思いの失敗、でしかありません。


韓国側の交渉責任者ですら日本側が決めることだと言っていたにも関わらず、文書作成作業に韓国側のスタッフを参加させるなど、日本側の甘さは目を覆うばかり。挙句の果てに、当時河野洋平が調査の結果判明したと言ったのも表向きの理由で、日本政府は最初から強制動員(連行?)の事実を承知していた事にされている。「知的に誠実でない」のは、この件について釈明しようとしない河野洋平の方である。

<외교열전> `위안부 강제동원 인정' 고노담화 나오기까지

한국의 선(先) "도덕적 우위조치"에 일본 입지 좁아져

`강제동원 인정' 표현 막판까지 타협난항..유병우 전 대사 회고

(서울=연합뉴스) 강병철 기자 = "나는 일본군 위안부였다."

1991년 8월14일. 일본군 위안부 피해자 중 최초로 김학순 할머니가 기자회견을 열고 일제의 만행을 고발했다. 위안부 피해자의 공개증언이 처음으로 나온 것이다.

이를 계기로 위안부 문제는 1990년대 초반 한일간 최대 현안으로 부상했다.

위안부 문제 해결에 진전이 없으면 한일관계의 유지도 어려운 상황까지 발전한 것이지만 일본에서는 문제 해결과는 거리가 먼 여론이 조성되기 시작했다.

이미 1965년 한일협정으로 보상문제는 다 끝났는데 보상을 더 받으려는 목적으로 위안부 문제를 계속 제기하는 것 아니냐는 잘못된 인식이었다.

이런 상황에서 1993년 2월25일 출범한 김영삼 정부는 특단의 대책을 낼 필요성이 커졌다.

◇출범 17일 만에 탄생한 `도덕적 우위' 조치 = 김영삼 정부 출범 당일 국장이 된 유병우 당시 외무부 아주국장은 "새 정부의 기세를 이용해 일을 해야 한다"면서 곧바로 대통령직 인수위원회 때부터 구상한 안을 추진했다.

일본이 아니라 우리 정부가 나서서 위안부 피해자에 보상을 해주자는 내용이었다.

그는 한승주 외무부 장관으로부터 먼저 승인을 받은 뒤 청와대 수뇌부 설득에 들어갔다. 당장 예산이 들어가는 일인데다가 업무 자체는 복지부 사업 성격이 강해 청와대의 총괄적인 조정이 필요했다.

박관용 비서실장과 김정남 교육문화 수석 등과 수시로 협의해 이런 일을 초고속으로 진행시켰다. 우리가 도덕적인 우위에 서서 이런 조치를 해야 한다는 설득에 청와대 인사들도 같이 움직인 것이다.

결국 당시 김영삼 대통령은 3월13일 수석 비서관회의에서 "일본 정부에 물질적 보상을 요구하지 않을 방침으로 이에 대한 보상은 내년부터 정부 예산에서 하라"면서 "그렇게 했을 때 도덕적 우위를 갖고 새 한일 관계에 접근할 수 있을 것"이라고 지시했다.

유 국장이 도덕적 우위 조치 마련에 들어간 지 17일 만에 결과물이 나온 것이다.

우리측의 이런 조치는 위안부 문제의 본질이 보상 문제로 흐려지는 것을 막으면서 일본에 도덕적인 타격을 주는 효과를 보였다.

당장 피해자의 보상 요구에 대한 부정적 여론이 적지 않았던 일본에서 "선수를 뺏겼다"는 반응이 나왔다.

보상을 앞세워 책임 인정 문제를 피할 수 있는 기회를 놓쳤다는 일본측 내부 평가도 나왔다.

실제 일본은 당시 피해자에게 지원하기 위한 기금(추후 아시아평화여성기금으로 1995년 발족)을 민간단체를 통해 조성하기도 했다. 정부의 직접 보상은 책임 인정 문제가 따르기 때문에 민간단체를 통한 인도적 지원이란 수를 쓴 것이다.

그러나 우리의 도덕적 우위 조치로 위안부 이슈의 흐름이 바뀌었다.
보상 국면에서 일본이 정부의 책임을 인정해야 하는 국면으로 판이 바뀐 것이다.

이런 이유에서 우리측 내에서는 "건국 이래 가장 신선한 외교적 이니셔티브"(홍순영 당시 외무차관)라는 평가가 나왔다.

◇"총체적으로 본인 의사에 반했다"..日, 강제동원 첫 시인 = 1993년 8월4일 일본은 처음으로 위안부 강제연행을 인정하는 정부 발표를 내놨다.

위안부 이슈가 불거졌을 때 일본은 정부나 군이 관여한 바 없으며 강제동원도 없다는 태도를 취했다. 그러다 1992년 군이 관여한 것까지는 인정(가토 담화)했지만 여전히 강제동원 여부는 모른다는 태도를 취했는데 이보다 더 진전된 입장을 고노 요헤이(河野洋平) 관방장관이 정부 대표로 내놓은 것이다.

이 담화는 우리 정부가 도덕적 우위 조치를 법제(일본군 위안부 생활안정지원법)화한 지 한 달 여 만에 나왔다.

"작년 12월부터 조사를 진행했는데 이번에 결과가 정리돼 발표한다"는 것을 표면적인 이유로 내세웠지만, 우리 정부의 도덕적 우위 조치로 분위기가 반전되면서 나온 결과라는 게 대체적인 평가다.

실제 고노 담화를 발표하기 전까지 한일 외교채널 간에는 담화문 표현을 놓고 물밑 협의가 있었다. "일본이 알아서 할 문제"라는 게 당시 유 국장의 생각이었지만 관례에 따라 도쿄에서 외교 협의가 진행됐다.

협의는 발표 진전까지 계속됐다. 끝까지 남은 문제는 강제동원 부분의 표현이었다.

일본측에서는 '100% 다 강제동원은 아니다'는 인식이 강했고 이런 이유로 "대체로 본인 의사에 반했다"는 것을 사실상 마지노선으로 삼았다. 이런 입장차로 양측간 교섭은 난항에 빠졌다. 외교부 일각에서는 일본의 완고한 입장을 감안해 그들의 요구를 수용하자는 현실론도 나왔다.

유 국장은 교섭 담당자에게 "며칠 밤만 더 새워라"면서 우리 입장을 그대로 사수하라고 거듭 지시했다.

결국 며칠 뒤 일본은 "(위안부의) 모집, 이송, 관리 등도 감언·강압에 의한 것으로, '총체적으로' 본인들의 의사에 반하여 실시됐다"는 안을 가져왔다. 유 국장은 그때야 이 안을 수락했다.

당시 교섭을 지시한 유병우 전 터키 대사는 연합뉴스와의 인터뷰에서 "일본어에서는 총체(일괄)적이란 말과 전체(개별의 합계)적이란 말을 구별해서 쓰기는 하지만 그 정도 표현이면 99%는 됐다고 생각했다"고 말했다.

일본이 그나마 총체적이란 표현을 찾는 노력을 한 데는 고노 장관의 성향도 영향을 준 것으로 평가된다. 자민당 내에서는 다소 진보적이었고 과거 문제를 인정하는데 인색하지 않기 때문이다.

◇"일본 총리도 대학은 나왔을 것 아니냐" = 고노 담화가 발표된 뒤 석 달 여 뒤인 11월6일 김영삼 정부 출범 후 첫 한일 정상회담이 경주에서 열렸다.

관례대로라면 이 회담을 앞두고도 한일간 과거사 문제에 대한 교섭을 해야 했다.
김영삼 정부에서 일본 총리의 첫 방한인 만큼 과거사 문제에 대해 어떤 식으로든 언급해야 하는데 어느 정도까지 언급하고 이에 대한 답을 어떻게 할지를 사전에 미리 조율, 정상회담에서 사고가 나는 것을 막기 위한 조치였다.

그러나 우리측은 이 문제에 관한 교섭을 하지 않았다. 유 국장의 지시에 따른 조치였다.

회담을 며칠밖에 안 남긴 상황에서 일본 외무성 아주국장으로부터 전화가 왔다. 이제라도 교섭을 해야 하는 것 아니냐는 요구였다.

유 국장은 "일본 수상(총리)도 대학은 나왔을 것 아니냐. 나는 수상의 철학을 듣고 싶다"면서 "만약 수상의 발언이 만족스러우면 우리 국민이 아낌없이 평가할 것이고 잘못된 발언이면 일본이 뒷감당을 해야할 것"이라고 말했다.

사전 교섭을 생략한 채 정상회담의 날이 밝았고 김영삼 대통령과 호소카와 모리히로(細川護熙) 총리간의 경주 회담이 진행됐다.

분야별로 대화를 이어가다 과거사 부문에 대해 이야기를 할 차례가 됐다. 배석한 한일 국장 사이에도 긴장감이 흘렀다. 호소카와 총리는 와이셔츠 주머니에서 쪽지 한 장을 꺼냈다. 제목 정도만 적은 간략한 메모였다.

호소카와 총리는 쪽지를 참고해가면서 "일본의 식민지 지배에 의해 한국인이 모국어 교육 기회를 박탈당하고 이름을 일본식으로 개명당했으며 종군위안부, 징용 등 여러 형태로 괴로움과 슬픔을 당한 데 대해 가해자로서 마음으로부터 반성하며 깊은 사죄를 드린다"고 말했다.

구체적인 행위까지 언급한 전향적인 사과 발언이었다.

이 발언은 1995년 발표된 무라야마(村山) 담화의 토대를 닦았다는 평가를 받고 있다.

유 전 대사는 "관례대로 교섭했다면 '통석의 념(念)'과 같이 쓰지도 않는 이상한 표현이 나왔을 것"이라면서 "별도 교섭을 하지 않으면서 오히려 심금을 울리는 말이 나올 수 있었다"고 회고했다.

그는 "과거에는 한일간 유대관계 등이 있어 독도 등의 문제가 불거져도 이슈로 발전하지는 않고 서로 수습하는 분위기가 있었다"면서 한일관계 발전을 위해서는 공통의 이해 관계를 만들어야 한다고 조언했다.

◇유병우 전 대사 = 외교부 내에서 자타가 공인하는 최고의 일본 전문가다.

일본에 근무하면서 다양한 인맥을 구축, 각종 현안 업무를 추진했다. 단도직입적이고 직설적인 화법을 구사하는 스타일로 각종 대일 협상에서 주도권을 행사하는 데 큰 역할을 했다는 평가를 받고 있다.