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2013/06/23

日本の金でベトナム(ライダイハン)に賠償するという偽善


このニュースは、Eiji Nakanoさんも触れていたと思う。「韓国軍性暴行被害者は...一人で子供を育てたり、二世も日雇い労働者や街頭での行商などをしながら、不安定な生活を送っている」・・・いわゆるライダイハン問題。

しばしば、韓国が慰安婦を持ち出すならこっちはライダイハンを問題化させようというような議論を見かける。自分もライダイハンについて触れることはあるが、ライダイハン問題をカウンターの為に持ち出すのは違うような気がする。もともと韓国人はこの問題をあまり気にしていない。どこの国にもあった不祥事と見なされているからだろう。挺対協は元々女権論者の集団だから、韓国軍の性暴力にも批判的である。ユン・ミヒャンは著書の中で、日本のようになるな!と言って韓国人に反省を促している(苦笑)。ただし、彼女たちは韓国軍にも慰安婦がいたことには口を噤んでいる(理由は明らかだろう)。

日本の金でベトナムに恩を売ろうという挺対協は賢く、そして戦略的である。普通に考えれば、彼女たちと深い繋がりのある女性家族部(韓国政府)に救済措置を促すのが先だろうという話である。恩を売るというのは、彼女たちの国際ネットワーク作りの一環でもあるのだろう。

慰安婦被害ハルモニ ベトナム戦争性暴行被害者 助ける

日本軍慰安婦被害者のハルモニが、ベトナム戦争性暴行被害者のために支援基金を出した。

韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)は、日本政府から受ける法的賠償金である「ナビ(蝶々)基金」から、ベトナム人のグエン・バン・ルオン氏(43)、グエン・ティ・キム氏(女性・43)にそれぞれ6千ドル、4千ドルを送ったと17日、明らかにした。

挺対協は、日本軍慰安婦被害者の金福童(キム・ボクトン)ハルモニ(87)、吉元玉(キル・ウォンオク)ハルモニ(84)の意思により、ベトナム戦当時、派兵した韓国軍による性暴行で生まれたルオン氏とキム氏を助けることになったと明らかにした。日雇いでエビ獲りの仕事をしていたルオン氏は、挺対協の支援により、30年契約で畑を借り、農作業をすることができるようになった。キム氏は建物を借りて商店を開く予定だ。挺対協関係者は「ベトナム現地にいる韓国軍性暴行被害者は、大部分が(正式に)結婚できずに一人で子供を育てたり、二世も日雇い労働者や街頭での行商などをしながら、不安定な生活を送っている」と話した。

挺対協は、昨年3月慰安婦被害者ハルモニが、日本政府から法的賠償金を受けることになれば、戦争性暴行被害者を助けるのに使う予定だと明らかにした。しかし、日本政府が依然として賠償しておらず、ハルモニの意思に賛同する市民の寄付金でナビ基金を用意した。歌手のイ・ヒョリ氏が初代推進委員として500万ウォンを寄付し、約300団体と個人が参加して7千万ウォン以上が集まった。挺対協は、昨年コンゴ民主共和国の内戦での強姦被害者であると同時に他の被害者や子供たちを助けているレベッカ・マシカ・カチュバ氏を初の支援対象に選定して、毎月500ドル以上の活動費を送っている。

挺対協関係者は、「ハルモニの夢は平和だ。その意思がよく伝わるよう、必要なところに基金を送っていく」と話した。


追記: 木村幹神戸大学教授のツイート (2013.7.9)

木村幹教授がソウルの慰安婦博物館でインタビュー。「勿論、日本での議論も意識しての事です」、と博物館側。やはり、そういう事情もあったのか。しかし、そうした議論にすばやく対処できるのが挺対協の強みだろう。

2012/05/07

韓国軍の慰安所 キム・キオック(金貴玉)

キム・キオック(金貴玉)は朝鮮戦争世代ではない。男であれ女であれ、朝鮮戦争を体験した世代ならまた別の感想があったかもしれない。彼女の主張は、日本のフェミニストが語る慰安婦論に近い。

訳者の配慮かもしれないが、「」つきで「慰安婦」と表記し、軍の統計表を見て「慰安の強要」の回数だと言う(たぶん、資料には強制とは書かれていないだろう)。彼女によれば、韓国政府は日本政府と同様に「女性の身体を管理・統制して軍人の身体を保護するという、身体の政治学を活用した」のだそうだ。

戦後教育を受けた世代だけに、彼女も日帝嫌いで独立派贔屓であるようだ。日本軍を「日本帝国主義の戦争代理人」(この言葉の発案者は別人)と呼び、韓国軍の慰安所作り携わった韓国軍人の日本統治時代の経歴を、独立派に対する抑圧者として語るところからも、そんな心情が滲み出ているようである。

キムは1996年には韓国軍にも慰安婦が存在した事に気づいていたが、日本の「極右」を利するなどという警告もあり、長くこれを公表しなかった。冷静に考えれば、韓国軍慰安婦の存在を公にする事がなぜ日本の右翼を利するのか意味不明である。日本糾弾派の日本叩きがやり難くなるだけの話である。とはいえ、彼女は日本叩きに配慮して公表を躊躇ったわけではないだろう。彼女が韓国ではなく日本(立命館大学でのシンポジウム)でこの事実を発表したのはやはり不自然で、韓国では言い出せる雰囲気ではなかったというのが真相なのかもしれない。

彼女は日本の「右翼(保守派)」に対する偏見を隠そうとしないが、彼女自身認めているように、韓国の進歩的な人々も、韓国軍の慰安所も性奴隷制度だという彼女の考えに必ずしも同調してくれない。日本の場合も同じなのである。慰安所を「性奴隷制度」だと見做さないのは、何も右翼に限った事ではない。彼女が右翼と呼んでいる日本人の中には、比較的中立な立場の人もいるはず。

また、彼女は日本軍慰安婦を公娼と同列に扱う事に反発する韓国の運動家たちが「韓国軍『慰安婦』問題に対しては『公娼』であるとし、議論の余地のないものとする」という事にも気づく。そして、彼女が韓国軍の慰安所について発表してから、韓国政府は関連資料の閲覧を禁止した。あれほど執拗に日本政府に情報公開を迫る挺対協は、そのことについて何も言わない。

結局、日本軍の慰安所システムとは何だったのか?韓国では世界史上に類例を見ないとか戦争犯罪などと言われるが、彼女も察しているように、こういったシステムは洋の東西を問わず昔から存在したのである。しかし、彼女はまだそれを全面的に肯定する気持ちにはなれないようである・・・。

キムは、「インドシナ戦争時にフランス軍によって『移動式娼婦村』がつくられ、ベトナム戦争当時に米軍専用のベトナム女性の『売春宿』が設けられたように、軍『慰安所』はあらゆる戦争の必要悪なのか」と疑問を呈しながら、けっきょく答えをはぐらかしている。


1991年8月の金学順さんの証言があるまで、日本軍性奴隷問題は周知の事実でありながらも、正史としてとりあげられてこなかった。

歴史を変えたこの証言(金学順証言)の後、日本軍性奴隷問題は韓国のみならう朝鮮民主主義共和国、日本、中国などを含む、まさに世界的な問題として関心を集めることとなった。[...]私は、1996年に[...]朝鮮戦争当時、大韓民国陸軍が徴集した軍「慰安婦」が存在したことを知った。だが、この事実を公開するまでには7年の月日がかかった。 
[...]韓国の国防部所属資料室にあった韓国軍「慰安婦」関連資料の閲覧は禁止され、ほとんどのメディアも示し合わせたかのように沈黙した。「日本軍『慰安婦』問題でもないのに・・・・」と言葉をにごらせたのだ。

この時、私はあることに気づいた。これまで韓国の学会や女性運動は、日本軍「慰安所」制度と公娼制の連続性があるとする主張に対して辛辣に批判してきたが、一方では韓国軍「慰安婦」問題に対しては「公娼」であるとし、議論の余地のないものとする傾向があるということが見えてきたのである。一部の進歩的な男性たちですら、民族主義の名のもとに私の研究成果を身内の恥をさらすものとみなし、日本の極右の弁明の材料となりうると警告した。私もこうした事実の発見を喜んだわけではない[...]

日本軍と同じように韓国軍が軍「慰安所」を作ったのは、男性の耐え難い生理学的本能が普遍的に存在するからなのか?インドシナ戦争時にフランス軍によって「移動式娼婦村」がつくられ、ベトナム戦争当時に米軍専用のベトナム女性の「売春宿」が設けられたように、軍「慰安所」はあらゆる戦争の必要悪なのか?

ここに出てくるフランス軍の移動式娼婦村とは、Bordels Mobiles de Campagneのこと。遠征用移動式売春宿、といったところだろうか?しばしばBMCと略されるようである。


上の絵は、第3次リーフ戦争の一コマを描いたもの。もったいぶった足取りで「慰安所(BMC)」へ歩いて行く高級軍人を、部下たちが背後で笑っている。色黒の女性(慰安婦)たちはモロッコ人だろうか?当時モロッコはフランスの保護国であった。コリア・ヘラルドなどは、植民地の女性たちを使って売春宿を開設したなど世界史上例はないと言っていたが、そんな事はない(厳密に言うと、リーフ地方の支配者はスペイン)。

現時点で私は、大韓民国陸軍本部が1956年に発刊した『後方戦史(人事篇)』意外に軍「慰安所」に関する文書を探し出せていない。[...]以前私は、朝鮮戦争前後の国家暴力により女性に加えられたさまざまな性暴力を、4種類に類型化したことがある。[...]軍人の拉致あるいは強制結婚や性奴隷型も少なからずあった[...]一人、あるいは少数の女性たちが軍人により軍部隊へ拉致され、昼には「下女」として働き、夜には「慰安」を強要された[...]

私が1999年にインタビューした、朝鮮戦争に参戦した米国人ポール・フェンチャー(Paul Fancher)が属していた米軍部隊にも軍「慰安所」があった。また、韓国軍により体系的に「特殊慰安隊」が作られ、そこで軍「慰安婦」たちは軍人たちを「慰安」するよう強要されたのだ。[...]軍「慰安所」には、一定の場所に軍人が行くものと、「慰安婦」が軍部隊へと出張するものの二つの運営形式があったといわれている。

[...]設立当時、陸軍は軍「慰安所」を「特殊慰安隊」と呼んだ。この資料(引注:「後方戦史」)によれば、「特殊慰安隊」の内容は次のようなものである。
表面化された理由のみをもって、簡単に国家施策に逆行する矛盾した活動であると断じるなら別だが、実質的に士気昂揚はもちろん、戦争に伴う避け難い弊害を未然に防止することができ、それのみならず、長期間の代価なき戦闘で後方来往がなくなることにより、異性に対する憧憬が惹起され、その生理作用により性格の変化などの憂鬱症及びその他の支障をきたすことを予防するため、本特殊慰安隊を設置することになった。
軍記録によれば設置の表向きの目的は、第一に軍人たちの士気昂揚、第二に戦争による避け難い弊害に対する予防措置、第三に性欲抑制に伴う欲求不満や性格変化に対する予防であるとまとめられている。こうした設置目的は日本軍が「慰安所」を設置した主な理由、すなわち「節制しえない性欲」と性犯罪予防という理由と変わらない

[...]設置時期は不明確だが、1951年夏ごろに戦線が現在の休戦ライン付近で膠着状態に入ってからと思われる。閉鎖されたのは1954年3月である。


ここで彼女が「国家政策に逆行」と言っているのは、韓国では1947年に公娼制度が廃止されていたからである。日本軍慰安婦制度は当時の国内法にも違反!とはよく聞くフレーズだが、韓国でも慰安所政策は法のグレーゾーンに置かれていたようだ。そして、慰安所の設置目的は日本軍の場合と変わらないと。出張形式があったのも日本軍と変わらない。この話はイ・ヨンフン教授も書いている

米軍部隊専用の慰安所があったとも言っているが、「日本の謝罪を引き出し、再び女性が暴力の犠牲にならないことに役立つ」などと啖呵を切ったアメリカの議員たちから何かコメントが欲しいところである。

あなた方も当事者です

「慰安隊」設置の場所

①ソウル地区
第一小隊 ソウル特別市中区忠武路四街一四八番地
第二小隊 ソウル特別市中区草洞一〇五番地
第三小隊 ソウル特別市城東区神堂洞二三六番地

②江陵地区
第一小隊 江寮郡成徳面老巌里

③その他 春川、原州、束草など

[...]束草の軍「慰安所」は休戦以降私娼に変わり、その一帯に集娼地が形成されたものと考えられる。[...]1980、90年代初頭に至るまでこの私娼たちは一種の軍「慰安婦」としての役割を果たすことを強いられていたという。

予備役将軍、蔡命新(チェミョンシン)の証言によれば「当時わが陸軍は士気を振い立たせるために60余名を一個中隊とする慰安部隊を三、四個運営していた」という。60名一個中隊が三、四個ならば軍「慰安婦」の数はおおよそ180~240名前後と考えられる。

[...]上の実績統計表(引:後方戦史人事篇P.150)によれば、一人の「慰安婦」が一日に6回以上「慰安」を強要されていたことがわかる。

蔡命新の回顧録によれば、前線での「慰安部隊」の利用はチケット制であった。しかし誰にでもチケットが配られたわけではない。戦場で勇敢に戦い、功を挙げた順番に配られる。もちろん勲章をもらえば優先権が与えられ、羨望の対象となった。また、功勲の程度によってチケットの枚数は変わったという。

このように日本軍性奴隷たちが強要された「慰安」回数との間にそれほど差はなかったといえる。

「慰安」の回数まで日本軍の場合と差がなかった、慰安婦の健康管理についても日本軍と韓国軍のやり方に違いはなかったと彼女は言っている。

衛生検査

「慰安婦」は一週間に2回、軍務官の協力により軍医官の厳格な検診を受け、性病については徹底的に対策が講じられたという。言うなれば公娼制や日本軍「慰安婦」制度における性病対策と同じやり方で、韓国も女性の身体を管理・統制して軍人の身体を保護するという、身体の政治学を活用したのである。

[...]連隊一課にて中隊別第五種補給品(軍補給品は1~4種しかなかった)受領指示があったため見てみると、わが中隊にも週8時間を限度として6名の慰安婦が割り当てられていた。これは過去日本軍従軍経験があった一部連隊幹部たちが部下の士気昂揚のために発想したもので、わざわざ巨額の厚生費をかけてソウルから調達してきたものである。(引注:当時尉官将校であった金喜午・キムヒオの回顧録より)

[...]日本軍出身幹部たちが身につけた日帝の軍隊文化は、それほどまでに彼らの意識と無意識の奥深くに内面化されていたのである。こうしたなか、日本軍性奴隷制度を当然視してきた彼らにとって、それを模倣することは別段おかしなことではなかったのかもしれない。[...]韓国軍「慰安所」は、継続する植民地主義の一つの表れであり、韓国軍「慰安所」制度は日本軍「慰安所」制度の延長とみることができる。

「日帝が諸悪の根源」というのが彼女の結論らしい。日帝の軍隊文化が悪いから、それに染まった親日派軍人たちも悪い考えを持つようになった?しかし、再び本当にこれは日本(軍)に固有な習慣だったのであろうか?

[...]韓国軍「慰安所」設置の直接的な責任の所在を考えるにあたって、陸軍本部恤兵監室を外すことはできない。ここで 恤兵監室の前身の厚生監室を1949年に設立した朴(王へんに景)遠がどのような人物かを見なければならないだろう。彼は朴正煕 政権下で4代にわたり内務長官を含む長官職を5回歴任、日帝時代には学徒兵として参戦し開放直前に少尉として除隊、開放後には軍事英語学校を経て中将として予備役に編入された経歴を持つ。韓国現代史の支配勢力の一人であるといえる。[...] 朴(王へんに景)遠は、木浦(モッポ)商業学校で皇民化教育を受け、卒業後学徒兵として太平洋戦争に参戦、九州八○六一部隊高射砲中隊の小隊長を歴任した。[...]日本軍参戦過程で「慰安所」と軍性奴隷経験を自然に受け入れたであろうことは十分考えられる。その結果、韓国軍にも「慰安所」を設立する企画を立てたのではないだろうか。

また朝鮮戦争当時の軍位階序列からみて、恤兵監室より上位の陸軍本部が当然「慰安所」設立自体を承認していたであろう。また、1950年7月に大韓民国政府は軍作戦識見を国連軍(事実上米軍)に譲渡していたため、軍「慰安所」に対する最終的な承認は米軍が行っていたと考えられるが、未だ決定的な文書資料は発見できていない。ただ最近聞き取り調査で証言した薫定は、米軍専用「慰安婦」たちが前方まで連れていかれて活動していたのを目撃したという。

韓国軍関係者が日本軍時代の経験を通じて慰安所のノウハウを吸収したのは容易に想像できる。しかし、日本軍の文化に染まったから性奴隷制を「自然に受け入れた」とまで言っていいのか。その理屈なら、ベトナムでアメリカ軍が日本軍のとよく似た(秦郁彦)「慰安所」を設置した理由も、日本占領期の経験と関連があるのだろうか?やはりここでも、キムがドイツ軍などのケースとの対比を放棄してしまったのが惜しまれる。

また余談だが、イタリア軍にも「慰安婦」が存在した。下は映画「国境は燃えている(Le Soldatesse)」 (1965年/イタリア)の一シーン。この娼婦たちは、イタリア軍がギリシャで調達して来た女性たちである[要確認]


[...]国家機構であるところの陸軍本部は当時、軍「慰安所」の性格を「公娼」としてとらえていたといえる。[...]例えば太平洋戦争のころに極少数でも、日本人「慰安婦」のなかには天皇に対する忠誠心と愛国心を抱いていた女性が、自らすすんで「慰安婦」になった場合があったと考える。では、朝鮮戦争期の韓国女性のなかにも、国家への忠誠心と愛国心の発露として軍「慰安婦」になった者がいたと考えられるだろうか。[...]公開募集をしたという記録も見つけることはできていないが、金喜午の回顧録に、その女性たちのほとんどが、かならずしも器量良しには見えない幼い女性たちであるとしており、戦争前に私娼で働いていた女性だとは考えにくい。実際に軍「慰安婦」として働くことになった女性たちの例からは、「自発的動機」がほとんどなかったのではないかと思われる。ある女性は十代後半の未婚女性で、1951年春まで咸鏡南道永興郡に住んでいた。ある日、韓国軍情報機関員、いわゆる北派工作員たちにより拉致され、一日で韓国軍の軍「慰安婦」へと転落した。彼女はこのことに関する証言を拒んだが、拉致した北派工作員二名によりこの事実が証言された。

内戦という事もあり、韓国の慰安所政策は日本の場合よりも余裕のない中で計画されただけに、もしかしたら日本軍以上に過酷だった部分もあったのかもしれない。

すべての軍「慰安婦」たちがこのようであったと推定することは難しい。だが、他の「慰安婦」にされそうになった女性の証言からは、いわゆる「アカ」と疑われた状況におかれたため、軍人に殺されるかもしれないという恐怖心から軍「慰安婦」となることを拒めなかったことがわかる。また、強姦の結果、「慰安婦」とならざるを得なくなったケースもある。戦争による貧困と、家族から保護・扶養されることが難しいという困難な条件が幾重にも重なり、女性たちは軍「慰安婦」にならざるを得なくなったのかもしれない。こうしたことを考えてみても、また、朝鮮人女性たちの伝統的家父長制的純潔意識を考慮してみても、朝鮮戦争当時、特に未婚女性たちが自発的に軍「慰安隊」に志願したと判断することには無理がある。

よって国家の立場からみれば公娼であったとしても、女性たちの立場からみれば韓国軍「慰安婦」制度はあくまで軍による性奴隷制度であり、女性自身は性奴隷であったといえるだろう。そして、何人かの男性の証言にもあるが、1954年3月に軍「慰安隊」が閉鎖されたとき、日本軍と同じように、大部分の女性たちを捨てたにちがいないのである。

一応日本軍の場合、慰安婦を連れ戻す努力はしている。

この後もキムは色々と悩んでいるが、なぜ韓国では日本軍慰安婦は性奴隷として認識されているのに韓国軍のそれはそうならないのか、それは考えなくても分かる(分かるからこそ、彼女は煩悶するのだろう)。運動家や一部の「専門家」以外の日本人が慰安婦を奴隷とは思っていないように、普通の韓国人は韓国軍慰安婦を奴隷とは考えないのである。

北朝鮮の軍隊についてのキムの評価も当たっている部分もあろうが、実は中国軍にも「性の問題」があったのである。いつか紹介する機会があるかもしれない。北朝鮮や中国に対して甘くなってしまうのも、進歩的韓国人の特徴なのかもしれない。

韓国軍「慰安婦」問題が語られない理由は何だろうか?[...]日本軍「慰安婦」問題と比較するならば[...]日本軍による犯罪行為だと認識することにより「性奴隷」概念が受け入れられるようになった。しかし、韓国軍「慰安婦」問題に関してはどうだろうか。[...]朝鮮戦争時に軍「慰安婦」と接した経験を持つ男たちが「韓国軍『慰安婦』は「日本人」とでなく「韓国人」とそうしたのだから、それでもましだろう」という弁明をしているが、この言葉からは、この問題の隠蔽に関して民族主義イデオロギーと家父長制イデオロギーの双方が同時に作用していることを確認できる。
[...]朝鮮人民軍もまた、戦時性暴力の問題から自由ではなかったようだ。軍による性暴力事件が時々発生し、その処理問題のために苦心した痕跡があるのだ。しかし、韓国軍とは違い、軍の立場は明確だったようだ。民心を得るためには民衆に好感を持たれなければならないというのが、人民軍と中国軍の徹底した村民政策の立場だ。[...]朝鮮人民軍もこうした規則を遵守し、性暴力事件が発生した際には即決処分も厭わなかったと考えられる。[...]このため、朝鮮人民軍に軍「慰安婦」制度があったという証言や資料がどこからも出てこないのは、ある意味で当然ともいえる。[...]正当性を認められるためには民衆に危害を加えてはならず、また物的基盤が脆弱ななかで軍の紀綱を保つためには、厳格な法を示す必要があったという現実的な理由が作用した結果だと考えられる。いずれにしても、これらの点で日本軍出身者が主導的に作り出した韓国軍とは明確な差異があったのである。

[...]韓国軍「慰安婦」問題に接近する過程でわかったことは、この問題が日本軍「慰安婦」問題と別個のものではなく、植民地主義が続く過程で現れたものであるという事実である。

軍隊と性暴力 20世紀の朝鮮半島



自国にも慰安所があったことが明らかにされた韓国の研究者は(国防軍事編纂研究所の関係者にとっては、既知の事実であったはず)、「日本軍が・・・一般庶民を強制に連れてきて運営した従軍慰安所とは違う」と弁解している。ここでも、ポイントは「強制性」や「関与」ではなく、「強制連行」であるようだ。

「韓国戦争中にも軍慰安婦存在」韓国教授が主張

日本軍の慰安婦制度を真似た慰安婦制度が、韓国戦争当時、韓国軍にもあったという主張が提起されたと朝日新聞が24日報道した。

韓国の慶南(キョンナム)大学の客員教授の金貴玉(キム・キオック、40)氏は、23日京都の立命館大学で開かれた国際シンポジウムでこのように発表したと同新聞は伝えた。

金教授は「1996年以後、5年間『直接慰安所を利用したことがある』、『軍にら致され、慰安婦になった』など男女8人の証言を聴取した」と明らかにした。

金教授はまた「韓国陸軍本部が1956年編さんした公文書『後方戦史』に『固定式慰安所-特殊慰安隊』と記録された部分を発見し、これには4カ所で89人の慰安婦が1952年に限って20万4560回の慰安活動をしたという統計資料が添付されていた」と同新聞は付け加えた。

一方、国防軍事編纂研究所の関係者は『当時、軍は売春婦と合意の下で場所を提供した。また慰安行為の対価は部隊運営費から支給されたと聞いている」とし「しかし、日本の植民地時代に日本軍が人権を無視し、一般庶民を強制に連れてきて運営した従軍慰安所とは違う」と説明している。

2011/12/31

tweet


2011/11/27

韓国政府は情夫だった [韓国の慰安所とキーセン観光]



現実と理想の間にグレーゾーンを作っていたのは日本政府ばかりではなかった。韓国も米軍もまた建前と本音を駆使して現実に対応しようとした。公娼制度は当時でも違法---よって戦争犯罪であるという「強制連行派」の言い分は建前論の世界でしか通用していない。・・・少なくとも、(建前であっても)韓国やアメリカでは慰安所に「関与」した事で罪に問われた人はいない。しかも、一方では、売春する権利を求めて闘う女性たちもいるのである。

韓国軍の慰安所については今までも指摘されてきた。ハンギョレの記事も、新しい発見として報じている雰囲気はない。新聞記者のレベルならば今や韓国軍の慰安所の存在は知っていて当然なのだろう。それでも日本のケースのみを糾弾し続ける市民団体に苦言の一つも呈しようとはしない。特にハンギョレは、尹貞玉(ユン・ジョンオク)が慰安婦問題を引っさげてデビューした新聞である。


大韓民国政府が情夫だった

売春取り締まるふりをして女性を外貨稼ぎ手段と考えていた韓国政府…朝鮮戦争の時は慰安所設置、独裁政権は駐韓米軍・日本人対象に売春を助長

大韓民国では売春は違法だが、不法でない。 赤線地区の一角に派出所が共存する奇怪な風景は我が国では今更である。 こうした乖離はどうして生じたのか?

その答えの前に国家の二重的売春政策を見る必要がある。 パク・ジョンミ漢陽大HK研究教授(社会学)が今年書いた論文「韓国売春政策に関する研究」は売春に対する国家の意図的沈黙と統制の過程を暴いた。 400ページを越える分厚い論文の中で大韓民国政府は売春に一方の手では不法化の烙印を押しながら、残り一方の手では放任をしたり時には積極的に「情夫」の役割までこなした。

国連軍の為の慰安所運営

売春をめぐる国家のダブルスタンダードは1946年米軍政期まで遡る。 日本帝国主義を押し出した米軍政は先んじた植民統治との差別性を浮き立たせる必要があった。 1946年5月17日に宣言された「婦女子売買または、気売買契約の禁止令」はそのような背景から出た。 公娼制を維持した日帝とは明確に一線を引く措置と見えた。 新生国家の市民はこれを歓迎した。 1946年5月28一致<東亜日報>は「朝鮮が解放されたので…遊郭の女性たちが解放されなければならないことは当然」と報道した。

実際の米軍政の意図は違った。 ロチュィ軍政長官は「(禁止令が)公娼廃止でないのはもちろん、私娼には何の関係がない。 …本人が自発的に結んだ契約の下で従事するのは関係ない」と明らかにした。 すなわち個人が他意によって売春をすることになるのは不法だが、自発的に売春をするならば公娼でも私娼でも関係ないという言葉だった。 米軍は逆に日本強制占領期間の時から維持されてきた接客女性対象登録・検診関連規定をそのまま維持した。 米軍政の関心は韓国の売春女性と接触した米軍たちの間で広がりうる性病を制御するのことに限定された。

公娼制度を公式に廃止した側は新生国家の立法府であった。 南朝鮮過渡立法議員は1947年8月「公娼制等廃止令」を通過させた。「売春禁止主義」を法律で明らかにした最初の事例であった。 ところが法の力は微小だった。 1948年1月<京郷新聞>は「予算は皆無の状態で、中央庁に対し国庫補助を要請したが、これが見込みがなくてただ嘆くばかり」と報道した。
戦争を経て国家は自ら法を破った。 政府の1956年資料を見れば、陸軍本部はソウルと江陵など4ヶ所で慰安所を運営した。 資料で確認された「慰安婦」の 数は79人だった。 1952年この女性たちを訪れた男性は延べ人数が20万4560人だった。 陸軍本部は「(兵士たちが)異性に対する渇望から引き起こされる生理作用による性格の変化などでうつ病およびその他支障を招くということを予防するため」と趣旨を説明した。 チェ・ミョンシン将軍も回顧録「死線を越えて越えて」で「当時私たちの陸軍は志気の盛り上げのために60人余りを1個中隊でする慰安婦対を三,四個運用した」と書いた。
政府は国軍だけでなく、国連連合軍のため「慰安所」も運営した。 <釜山日報>の1950年9月記事を見れば、馬山市が「数日中に市内に連合軍の労苦に報いる連合軍『慰安所』5ヶ所を新・旧馬山に設置することになり、これに対する許可証をすでに発行した」. 当時政府保健婦防疫国で出した「清掃および接客営業衛生事務取り扱い要領」資料でも連合軍慰安所と慰安婦に対する指示事項を含んでいる。 政府が売春を斡旋した「情夫」役割を引き受けたと証言する文書は悲しくも、たくさん溢れていた。

米軍を代替した日本人「キーセン観光」

1960年代登場したパク・チョンヒ政権は「革命公約」で売春取り締まりを強化すると公言した。 1961年に制定された「売春行為など防止法」は新しい政権の意志を表した。 21組でなされた売春行為防止法は国家の売春禁止原則を再確認したことだった。 しかし翌年6月保健社会部は全国104ヶ所に売春を許容する「特定地域」を設置して、その中で9ヶ所をソウルに割り当てたと発表した。 同じ口から簡単に二つの話が出た。

国家はなぜ売春禁止原則を守ることができなかったのだろうか? 1961年交通部企画調整官室が出した公文書を見ればその答えがある。 公文書は「現在の我が国で最も容易に誘致できる観光客は駐韓国連軍」とし「外国人相手ホステス」を対象に教養講習を推進するという内容を入れた。 当時米軍兵士は主に日本や香港に休暇で出かけた。 1961年3月13日付の<東亜日報>は「我が国により多くの外貨を落とすようにするという点では、すべての消耗品に国産を充てるのが理想かもしれないが…酒も外国酒、ヌードの女子も外国女子、その上外貨まで使うと…」と嘆いた。 国家の先決課題は「ヌードの女子」を「国産」で代替することだった。 1962年4月25付<ソウル新聞>はソウル市警が「4千人に達する観光接客営業所(ダンスホール・キャバレーなど)のサービス ガールらに対する接客業務教育を実施」したとしその理由が「外国人らにより効果的なサービス」を提供するためのものだったと報道した。

1966年<新東亜>の記事はいっそ率直だった。 「洋公主が持つ巨大な力がある。 日陰に咲くこれらは皮肉にも私たちの国家政策の至上課題になったかのような外貨獲得の担い手になっている」 <新東亜>は当時全国190ヶ所の国連軍専用ホールから出る外貨が年に1千万ドルに達すると推定した。 1966年当時我が国が貿易で稼ぐ外貨は2億5千万ドルであった。

1970~71年駐韓米軍の規模が1万8千人減った。 政府は非常事態になった。 1971年8月内務長官が各警察に送った公文書で「保健当局と協力して慰安婦の性病予防策を講じて…教養を強化」しろと指示した。 ところが離れる米軍を捉えることはできないさだめだった。 米軍の空席は「キーセン観光」をしに来た日本人が満たした。 1965年韓-日修交が契機であった。 キーセン観光が絶頂に達した1977年韓国を訪れた日本人の96.8%は男性だった。 経済成長に没頭した政府は観光収入と観光客目標値を提示した。 一線旅行斡旋業者にも‘割当量’が落ちた。 目標を達成できなければ各種恩恵が消えたり、激しい場合、許可が取り消しになった。 1979年<新東亜>は「脱線観光がきわめて当然に当局の黙認の下成り立つ。 …妓生パーティーはほとんどすべての日本人観光客らに与えた」と報道した。 もちろん政府もずっと一役買った。 1972年ソウル市の資料を見れば、(引用者注:米軍)基地村接客営業所女性512人、観光料亭接客営業所女性1795人を対象に教育した記録が残っている。

今も変わらぬ国家の原罪

1980年代、国内経済が成長しながら内国人売春「客」の比重は増えた。 1982年夜間通行禁止が解除され、1984年ぜいたく性風俗店に対する規制を緩和した。 売春業者が育つ土壌はより一層肥沃になった。 アメリカのスポーツ週刊誌<ザ・スポーティング ニュース>は1985年10月ソウル オリンピック特別号で韓国料理を紹介してあるホテル食堂で広がった「妓生パーティー」の写真を掲載した。 当時取材過程で政府が便宜を図った事実が明らかになり、波紋が生じたこともあった。 キーセン観光を通じて観光客を誘致しようとする「政策」は当時までも維持されたわけだ。

事実上スローガンに終わった政府の売春禁止政策は1990年代と2000年代を経て少しずつ効力を発揮した。 1996年「売春防止法」と2004年「性売買禁止法」は主要な契機になった。 しかし相変らず売春という違法は「慣行」というマスクを使って2010年代大韓民国街を闊歩している。 その背景には国家が自ら行った「原罪」がある。


ハンギョレ21 2011.11.28号  [B-U]


대한민국 정부가 포주였다 [2011.11.28 제887호]


[표지이야기] 성매매 단속하는 척하며 여성을 외화벌이 수단으로 여겼던 한국 정부… 한국전쟁 때 위안소 설치하고, 독재정권은 주한미군·일본인 대상 성매매 조장해


대한민국에서 성매매는 불법이지만 불법이 아니다. 홍등가의 한편에 파출소가 공존하는 기괴한 풍경은 우리나라에서 새삼스럽지 않다. 이런 괴리는 왜 생긴 것일까?


답을 하려면 먼저 국가의 이중적 성매매 정책을 볼 필요가 있다. 박정미 한양대 HK연구교수(사회학)가 올해 쓴 논문 ‘한국 성매매 정책에 관한 연구’는 성매매에 대한 국가의 의도된 침묵과 통제 과정을 파헤쳤다. 400쪽이 넘는 두툼한 논문 속에서 대한민국 정부는 성매매에 한 손으로는 불법화의 낙인을 찍으면서, 나머지 한 손으로는 방임을 하거나 때론 적극적으로 ‘포주’ 노릇까지 떠안았다.


유엔군 위한 위안소 운영


성매매를 둘러싼 국가의 이중적 태도는 1946년 미군정기까지 거슬러 올라간다. 일본 제국주의를 밀어낸 미군정은 앞선 식민통치와의 차별성을 부각할 필요가 있었다. 1946년 5월17일에 선포된 ‘부녀자 매매 또는 기 매매계약의 금지령’은 그런 배경에서 나왔다. 공창제를 유지하던 일제와는 분명히 선을 긋는 조처로 보였다. 신생 국가의 신민들은 이를 환영했다. 1946년 5월28일치 <동아일보>는 “조선이 해방되었으니… 유곽의 여성들이 해방되어야 할 것은 당연한 일”이라고 보도했다.


정작 미군정의 의도는 달랐다. 러취 군정 장관은 “(금지령이) 공창의 폐지는 아닌 것은 물론 사창에는 아무 관계가 없다. …자기 자신이 자진해서 맺은 계약 아래에서 종사하는 것은 무방하다”고 밝혔다. 즉 개인이 타의에 의해 성매매를 하게 되는 것은 불법이지만, 자발적으로 성매매를 한다면 공창이든 사창이든 상관없다는 말이었다. 미군은 오히려 일본강점기 때부터 유지돼온 접객여성 대상 등록·검진 관련 규정을 그대로 유지했다. 미군정의 관심은 한국의 성매매 여성과 접촉한 미군들 사이에서 퍼질 수 있는 성병을 통제하는 데 한정됐다.


공창제도를 공식적으로 폐지한 쪽은 신생 국가의 입법부였다. 남조선과도입법의원은 1947년 8월 ‘공창제 등 폐지령’을 통과시켰다.‘성매매 금지주의’를 법으로 천명한 첫 번째 사례였다. 그렇지만 법의 힘은 미미했다. 1948년 1월 <경향신문>은 “예산은 전무 상태이고, 중앙청에 대하여 국고 보조를 요청했으나 이것이 가망성이 없어 그저 한탄만 하고 있다”고 보도했다.





전쟁을 거치며 국가는 스스로 법을 깼다. 정부의 1956년 자료를 보면, 육군본부는 서울과 강릉 등 4곳에서 위안소를 운영했다. 자료에서 확인된 ‘위안부’ 수는 79명이었다. 1952년 이 여성들을 찾은 남성은 연인원이 20만4560명이었다. 육군본부는 “(사병들이) 이성에 대한 동경에서 야기되는 생리작용으로 인한 성격의 변화 등으로 우울증 및 기타 지장을 초래함을 예방하기 위하여”라고 취지를 설명했다. 채명신 장군도 회고록 <사선을 넘고 넘어>에서 “당시 우리 육군은 사기 진작을 위해 60여 명을 1개 중대로 하는 위안부대를 서너 개 운용했다”고 썼다.
정부는 국군뿐 아니라, 유엔 연합군을 위한 ‘위안소’도 운영했다. <부산일보> 1950년 9월 기사를 보면, 마산시가 “수일 내로 시내에다 연합군의 노고에 보답하는 연합군 ‘위안소’ 5개소를 신·구 마산에 설치하기로 되어 이의 허가증을 이미 발부했다”. 당시 정부 보건부 방역국에서 내놓은 ‘청소 및 접객영업 위생사무 취급요령’ 자료에서도 연합군 위안소와 위안부에 대한 지시사항을 담고 있다. 정부가 성매매를 알선한 ‘포주’ 노릇을 맡았다고 증언하는 문서는 서글프게도, 차고 넘쳤다.


미군을 대신한 일본인 ‘기생관광’


1960년대 등장한 박정희 정권은 ‘혁명공약’에서 성매매 단속을 강화하겠다고 공언했다. 1961년에 제정된 ‘윤락행위 등 방지법’은 새 정권의 의지를 드러냈다. 21개 조로 이뤄진 윤락행위방지법은 국가의 성매매 금지 원칙을 재확인한 것이었다. 그러나 이듬해 6월 보건사회부는 전국 104개소에 성매매를 허용하는 ‘특정 지역’을 설치하고, 그 가운데 9개소를 서울에 할당했다고 발표했다. 한 입에서 두 말은 쉽게 나왔다.


국가는 왜 성매매 금지 원칙을 지키지 못했을까? 1961년 교통부 기획조정관실이 내놓은 공문을 보면 답이 있다. 공문은 “현재 우리나라에서 가장 용이하게 유치할 수 있는 관광객은 주한 유엔군”이라며 “외국인 상대 접대부”를 대상으로 교양강습을 추진하겠다는 내용을 담았다. 당시 미군 병사들은 주로 일본이나 홍콩으로 휴가를 떠났다. 1961년 3월13일 <동아일보>는 “우리나라에 보다 많은 외화를 떨어뜨리게 한다는 견지에서는 모든 소모품을 국산으로 충당하는 것이 이상적이겠지만… 술도 외국 술이요, 벌거벗은 아가씨도 외국 아가씨, 게다가 외국돈까지 쓰니…”라고 개탄했다. 국가의 선결 과제는 ‘벌거벗은 아가씨’를 ‘국산’으로 대체하는 것이었다. 1962년 4월25일치 <서울신문>은 서울시경이 “4천 명에 달하는 관광접객업소(댄스홀·카바레 등)의 서비스 걸들에 대한 접객업무 교육을 실시”했다며 그 이유가 “외국인들에게 보다 효과적인 서비스”를 제공하기 위한 것이었다고 보도했다.


1966년 <신동아>의 기사는 차라리 솔직했다. “양공주들이 갖는 거대한 힘이 있다. 음지에 피어 있는 이들은 아이로니컬하게도 우리 국가정책의 지상 과업이 되다시피 한 외화 획득의 한 역군이 되고 있다.” <신동아>는 당시 전국 190개소의 유엔군 전용 홀에서 나오는 외화가 1년에 1천만달러에 이를 것으로 추정했다. 1966년 당시 우리나라가 무역으로 벌어들이는 외화는 2억5천만달러였다.


1970~71년 주한미군의 규모가 1만8천 명 줄었다. 정부에서는 비상이 걸렸다. 1971년 8월 내무장관이 각 경찰에 보낸 공문에서 “보건 당국과 협조하여 위안부의 성병 예방책을 강구하고… 교양을 강화”하라고 지시했다. 그렇지만 떠나는 미군을 잡을 수는 없는 노릇이었다. 미군의 빈자리는 ‘기생관광’을 하러 온 일본인이 채웠다. 1965년 한-일 수교가 계기였다. 기생관광이 절정에 이르던 1977년 한국을 찾은 일본인의 96.8%는 남성이었다. 경제성장에 몰두한 정부는 관광수입과 관광객 목표치를 제시했다. 일선 여행 알선 업체에도 ‘할당량’이 떨어졌다. 목표를 달성하지 못하면 각종 혜택이 사라지거나, 심한 경우 허가가 취소됐다. 1979년 <신동아>는 “탈선관광이 극히 당연하게 당국의 묵인 아래 이루어진다. …기생파티는 거의 모든 일본인 관광객들에게 베풀어졌다”고 보도했다. 물론 정부도 계속 한몫했다. 1972년 서울시의 자료를 보면, 기지촌 접객업소 여성 512명, 관광요정 접객업소 여성 1795명을 대상으로 교육한 기록이 남아 있다.


오늘도 여전한 국가의 원죄


1980년대 국내 경제가 성장하면서 내국인 성매매 ‘고객’의 비중은 늘었다. 1982년 야간통행금지가 해제됐고, 1984년 사치성 유흥업소에 대한 규제를 완화했다. 성매매 업소가 자라날 수 있는 토양은 더욱 비옥해졌다. 미국 스포츠 주간지 <더 스포팅 뉴스>는 1985년 10월 서울 올림픽 특별호에서 한국 음식을 소개하며 한 호텔 식당에서 벌어진 ‘기생파티’ 사진을 실었다. 당시 취재 과정에서 정부가 편의를 제공한 사실이 밝혀져 파문이 일기도 했다. 기생관광을 통해 관광객을 유치하려는 ‘정책’은 당시까지도 유지됐던 셈이다.


사실상 구호에 그쳤던 정부의 성매매 금지 정책은 1990년대와 2000년대를 거치며 조금씩 효력을 발휘했다. 1996년 ‘윤락방지법’과 2004년 ‘성매매금지법’은 주요한 계기가 됐다. 그러나 여전히 성매매라는 탈법은 ‘관행’이라는 마스크를 쓰고 2010년대 대한민국 거리를 활보하고 있다. 그 배경에는 국가가 스스로 저질러온 ‘원죄’가 있다.