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2012/10/07

外国人活動家に利用される写真家とフェミニスト

韓国の政治運動は常に日本人に助けられている

アン・セホンは韓国挺身隊研究所の関係者だから、普通の写真家より政治色が強い。あまり安易に表現の自由を絡めるのはどうかと思う。例えば嫌韓をテーマにした写真展をニコンサロンが拒否しても、石丸次郎は「悪法もまた法なり」を貫くのだろうか?

韓国の慰安婦支援団体は「女性の人権」を旗印にすることで、日本人女性を味方に引きこんだし、アン・セホンは「表現の自由」を訴えることで日本の同業者を味方につけた

こういう日本人は、外国の政治運動に巧く利用されているのではないか。

石丸は、例えば朝鮮戦争の慰安婦や、キム・グラ騒動についてアンと話し合ったことはあるのだろうか?赤旗の記事を見ても分かるように、(石丸は知るまいが)アンはダブルスタンダードを使っている。



元慰安婦写真展の中止巡りニコンに抗議

9月に大阪・梅田のニコンサロンで開催予定だった元日本軍「慰安婦」の写真展が中止になった問題で、企画者の韓国人写真家、安世鴻(アンセホン)さん(41)が5日、大阪市役所で会見し、会場使用を認めなかったニコンに謝罪と再発防止を求めた。その後、同サロンを訪れて抗議文を提出した。

東京のニコンサロンでの写真展も一時中止されたが、使用を認めるよう命じた東京地裁の仮処分決定を受けて6~7月に開催。だがその際も「過度の警備で観客の人権を侵害し、監視などで妨害した」と主張。「世界的メーカーが表現の自由を抑圧し、人々を失望させている」と訴え、近く損害賠償を求めて東京地裁に提訴すると話した。

写真家ら87人も連名で抗議声明を出した。呼びかけ人代表で会見に同席したジャーナリスト石丸次郎さん(50)は「強圧的な抗議を受けてイベントを中止したり自主規制したりする流れが続いている。この風潮を止めなければ」と話した。

朝日 2012.10.6

「今後また戦争が起これば新しい『慰安婦』制度が生まれるのではないか」と日本人に憂慮して見せるアン・セホンは、自国(韓国)にもまた慰安婦がいたという事実には触れない。

「慰安婦」写真展大阪で

ニコンに抗議こめ開催

多くの人に知ってほしい

戦後、旧日本軍によって中国に置き去りにされた朝鮮人「慰安婦」の写真展が11日から16日まで、大阪市中央区のギャラリーで開かれます。

韓国人写真家・安世鴻(アン・セホン)さん(41)が2001~05年にかけて中国各地で12人のハルモニ(おばあさん)を取材し、そのなかから約40点を展示する予定です。

同写真展は、6月に東京、9月に大阪のニコンサロンで開催することが決まっていましたが、ニコンサロン側は一部の抗議をうけて「政治活動の一環だ」と開催を中止。安さんが会場使用を認める仮処分を裁判所に申し立て、裁判所が「政治性をもっていたとしてもニコンサロンの使用規定にある『写真文化の向上』という目的にもあっている」と判断したことを受け、東京会場では予定通り開催されました。しかし大阪のサロンでの開催は中止にしたままのため、大阪での写真展は抗議の意をこめて開くものです。

安さんは5日、大阪市役所内で記者会見し、「こういう女性たちがいたということを多くの人に知ってほしい。それを認識しないと今後また戦争が起これば新しい『慰安婦』制度が生まれるのではないか。そうなってはならないと思っています」と述べました。ニコンに対しては近く、損害賠償請求訴訟を起こすといいます。

会見後、「慰安婦」の「強制連行の証拠がない」とする橋下徹市長あてに写真展への招待状を届けました。

会場は、大阪市中央区の「****ギャラリー」(地下鉄「心斎橋」駅徒歩1分、*****が入っているビル)。午前11時~午後7時(最終日は午後5時まで)。問い合わせは080(****)2425(「重重プロジェクト」)まで。

赤旗 2012.10.6


表現の自由となると揺るがせにできない日本人カメラマンたち(カメラマン宇田有三のツイート)。

他にも女性の人権と聞けば黙っていられない日本のフェミニストたち、和解や友好と言えば馳せ参じてくれる良心的日本人。アピールの仕方さえ間違えなければ(天皇批判などはタブー)、日本で協力者を得るのは容易く、活動も簡単である。日本人はこれが一方的な愛であっても気にしない。これは北朝鮮と韓国の関係にも言えることかもしれない。

2012/08/06

大高未貴 「アン・セホンは活動家」



昨日のエントリーで写真家のアン・セホンのことを「政治運動とは無縁の大人しい普通の写真家というイメージだったが・・・想像していたより『活動的』な人である」と書いたばかりだが、産経のこの記事を読んで、ああやはり。やはり、彼はその筋の人だった。大高未貴によると、アンは韓国挺身隊研究所の関係者らしい(追記:ナヌムの家で、3年のボランティアも経験[ソース])。

朝日新聞も、まだコソコソと何かお天道様に顔向け出来ないようなことをしているらしい。今もって反省する気配なし。

あの社説は、自分も読んでいて不愉快になった。ところで、黙れとヤジを飛ばした記者は日本人だったのか外国人記者だったのか・・・。

[...]前置きが長くなったが、この6月28日、同クラブを舞台に、同じような茶番が演じられた。会見したのは、安世鴻という韓国人写真家だ。安氏は、カメラメーカーのニコンが運営するイベントスペース「新宿ニコンサロン」で、元「従軍慰安婦」をテーマとした写真展の開催を計画。「反日プロパガンダだ」と抗議が集まる中、ニコンが5月22日に開催中止を安氏に通告すると、安氏は東京地裁に、「ニコンは契約に基づき会場を貸さなければならない」と仮処分を申請。6月22日に地裁がこれを認める決定をし、開催にこぎつけていた。

集まった記者は約30人。登場したのは司会者、安氏、通訳、JVJ(ジャパン・ビジュアル・ジャーナリスト協会)の豊田直巳氏。安氏は「日本のような民主主義国において表現の自由が弾圧されたことを遺憾に思う。トラブルが起きてからというもの、会場には数人の警備員が配備され、モノモノしい雰囲気になってしまった」などと言い、スライドで会場の様子を映してみせた。更に「ネット上に私(安)のメールや電話が公開され、自宅にも脅迫メールや電話が殺到する嫌がらせを受けている」と訴えた。

質疑で、白人記者から「何故このテーマを選んだのか?」と質問されると、安氏は「1996年に初めて慰安婦に会って心を動かされ、何度も彼女達のところに通ううちに写真を撮るようになった」とした。「こんなに物議をかもしているのに何故続けるのか?」という質問には、「表現の自由を守るため一芸術家として戦う。『従軍慰安婦』問題は日本でタブー視されているのでそれらを風化させないよう活動している」と答えた。

多分、これが彼の本音なのだろう。つまり写真家ではなく活動家なのだ。安氏は、ソウルの日本大使館前に慰安婦像を設置した「韓国挺身隊問題対策協議会」の連携団体で、慰安婦博物館の建設に協力した「韓国挺身隊研究所」で活動している。

私も手をあげ質問した。「慰安婦達が日本軍によって強制連行されたという証拠は、いまだに韓国政府からですら提出されていない。彼女達は当時公認されていた売春婦ではないのか?」。安氏は「慰安婦は戦争の前線などに工場で働くなどと騙されて送られた。実際に現地に連行されたら日本兵の性奴隷の脅迫から逃れることはできなかった。証拠がないから、彼女達が慰安婦の契約書を持っていなかったからといって慰安婦でないと断定することはできない。彼女達はサラリーももらっていなかったのだから」。

この回答に、別の日本人記者が噛みついた。「ここに、彼女達が高い賃金を貰っていた資料や、韓国人の名で女性を集めた広告などがあります。こういった資料があっても強制連行だと言い切れますか?」。この記者は資料を外国人記者たちに見せて説明しようとしたが、一部の記者達から「黙れ!」と何度もヤジが飛んだ。これも「表現の自由」の弾圧だと思えたが、誰も文句を言わない。しかも安氏は「私は学者ではなく写真家です」と逃げた。

また、朝日新聞の記者が質問したのだが、ほかの誰もが英語で話したにもかかわらず、韓国語で喋るので何を言っているのかさっぱり分からなかった。他の記者たちに知られたら困るとでもいうのだろうか。(以下略)

産経 2012.8.6 1 2 3 4

2011/01/26

韓国挺身隊研究所の慰安婦論1




挺身隊研究所は、1990年から20年間慰安婦問題を研究してきた韓国唯一の民間研究機関とのこと。ネット情報の弱点として時期が特定し難いが、比較的最近のものだと思う。昔の物と比べると、韓国の慰安婦論も時間と共に変化しているのが分かる。


日帝は軍「慰安婦」女性を特に我が国で広範囲に動員した。 それは植民地女性に対する差別意識と共に国際法を避けることができるということを念頭に置いていた。 日帝は当時「婦人および児童の売買を禁止する国際条約」に加入しながら植民地では適用しないという留保条項を置いていた為だ。 また、日帝の収奪政策で朝鮮では貧困層が増え、特に農村では働き口を得ようとする娘たちが多かったために、これらを動員するのは容易だった。

日帝は自国人である日本人だけでなく戦争で占領した中国、フィリピン、インドネシア、ラバウルなどの現地女性たちまでも「軍隊慰安婦」として動員した。

全部で何人の女性が慰安婦になったのかは正確に分からないが、少ないところで5万から30万程度と推定されている。 そのうち朝鮮人軍「慰安婦」が何人かは推定できないが、ほぼ80%に達するという主張もあるなど、中国や東南アジア各地に幅広く連行された事実からして相当数に達したことは間違いない。

軍「慰安婦」に引きずられて行った当時の女性の年齢は、10代初めの未成年から20代後半の既婚女性もいた。 これら女性は工場に就職させてくれるとか、お金をたくさん儲けられるようにしてやるなどの就職詐欺にあって慰安所に行った場合が多かった。 または、慰安所業者や募集人によって誘拐されて人身売買されたり、官吏、警察、軍によって強制拉致されることもあった。

民間業者が女性たちを集めた場合でも、これら民間業者は関東軍、朝鮮軍司令部などの管理、監督統制下にあった

業者らが引率して慰安所まで移動する時でも、軍用トラックや軍用列車が多く利用された。 船に移動する場合では、たいてい連絡船で日本に行ってから、再び軍貨物船や軍艦に乗った。 このような移動にともなう輸送手段の利用には軍官の許可と協力なしでは不可能なことだった。 色々な資料から推察する時、警察と軍が直接介入したことはもちろんで民間人が動員に関与した場合にもその背後には日本政府と軍があったことをよく知ることが出来る。 どんな形式に引きずられて行こうが当事者が事実を知って同意した事実がないからこれらは強制連行、動員されたのだ。

7) 軍「慰安婦」女性たちの生活は基本的に慰安所規則が適用された。 慰安所利用規則には軍の利用時間、料金、性病検査、休日などに関する細部事項まで規定されていて、特に衛生関連規定が多かった。 しかしこの規則は基本的に軍人のために制定されたのだ。

軍「慰安婦」たちは、大抵朝から宵の口までは兵士を、宵の口から夜7~8時までは下士官、そして遅れた時間(?)には将校を相手にした。 将校は宿泊することができた。 色々な部隊が一緒に駐留した場合には互いに曜日を分けて慰安所を利用したりもした。

軍人一人当たり大概30分や1時間以内と利用時間が制限されていた。 軍「慰安婦」たちは一日に平均10人内外で30人以上の軍人を相手にしなければならなかった。 週末は遥かに多かった。 また、慰安所がない地域に派遣されれば仮設テントでその部隊の全員を相手にしたりもした。

慰安所は利用時間と軍隊慰安婦がどの民族かにより料金が違った。 例えば日本人慰安婦の代金が最も高かった。 軍人らは料金を支払ったというけれど、軍人らが支払った料金は業者の腹(?)だけ呼ばれただけ、軍隊慰安婦の手に入らない場合が多かった。 無料で運営された慰安所も少数あった。

11) 軍「慰安婦」たちは初めは軍人らにさからう事もあったが、歩哨のために逃げる敢えてなせないまま諦めるほかはなかった。 名前も「ハナコ」「ハルコ」など日本式の名前や番号と呼ばれたし韓国語も使わないようにするなど皇国臣民になることを強要された。 酒に酔った軍人らは「慰安婦」たちを手で殴ったり刃物で刺すこともした

軍「慰安婦」たちは一週間~または、2週間に一回ずつ軍医や衛生兵に性病検査を受けなければならなかった。 検査に合格した「慰安婦」だけが軍人を受けることができた。 ところが金儲けに血眼になった主人たちは、検査に落ちても軍人の相手をするよう強要した。

13) 軍人たちは性病予防のために原則的にコンドームを使わなければならなかったがコンドームを使わない軍人も多かった。 その結果「慰安婦」の相当数が性病にかかった。 それで606号注射を打ったり中毒危険が大きい水銀で治療を受けることもあった。 性病が激しくなったり妊娠すれば、ある日慰安所から消えることもあった。 治療を受けられないまま追い出されたのだ。 また、女性たちは性病検査が大きな苦痛だったという。

軍「慰安婦」たちは部隊あるいは慰安所の主人にご飯と味噌汁、若干のおかずがある食事を一日に2~3食提供された。 軍人がとてもたくさん押しかけたり、部隊で派遣された場合には、まともに食事することができなかった。 衣服は軍で提供受けたり、時に購入する場合もあるが借金がなりやすかった。 簡単フクラは簡易福をかける水準が大部分だった。

15) このように軍「慰安婦」たちは軍慰安所で外出も制限されたまま定期的な性病検査を受けて毎日軍人を相手にする性的奴隷として生活した。 慰安婦たちが慰安所を抜け出すことは極めて難しかった。 慰安所の警備が厳重であり、島や荒野他国から脱出など思いもよらないことだった。 脱出を祈って失敗した時には苛酷な罰を受けた後、再び「慰安婦」の役割を果たさなければならなかった。

慰安婦たちは日帝が敗戦するとすぐに徹底して見捨てられた。 さらに日本軍は退却しながらこれらを一ヶ所に集めて殺すこともした。 生き残ったこれらはしばらく連合軍捕虜収容所に収容されて集団に帰国船に乗ったり、一人で実に多くの困難をくぐって故郷に訪れてきた場合もあった。

しかしこれらとは異なり、他国でそのまま留まらなければならなかった場合も多い。 帰ってくる方法を知らなかったり、分かっていても汚れた体で一文無しで帰れないと諦めた場合も少なくない。 また、ある人たちは帰国の途中連合軍の爆撃で船が破壊され集団的に収蔵されたし、自ら命を絶った人々もいた。


● 挺身隊の名で動員(徴用)説からようやく卒業?朝鮮人最多説は捨て切れず?

● 日本の研究者の影響が色濃く出ている部分も。

● 今だに根強い慰安婦殺害説。

「もう一度生まれたら、花に」より

일제는 군'위안부' 여성들을 특히 우리나라에서 광범위하게 동원하였다. 그것은 식민지 여성에 대한 차별의식과 함께 국제법을 피해갈 수 있다는 것을 염두에 두었다. 일제는 당시 '부인 및 아동의 매매를 금지하는 국제조약'에 가입하면서 식민지에서는 적용하지 않는다는 유보조항을 두었기 때문이다. 또한 일제의 수탈정책으로 조선에서는 빈곤층이 늘어났고 특히 농촌에서는 일자리를 얻으려는 딸들이 많았기 때문에 이들을 동원하는 것은 쉬운 일이었다.
일제는 자국인 일본에서 뿐 아니라 전쟁으로 점령한 중국, 필리핀, 인도네시아, 라바울 등의 현지여성들까지도 '군위안부'로서 동원하였다.
모두 몇 명의 여성들이 위안부가 되었는지는 정확하게 알 수 없으나 적게는 5만에서 30만정도로 추정하고 있다. 그 중 조선인 군'위안부' 여성이 모두 몇 명인지 추정할 수 없으나 거의 80%에 달하는 주장도 있는 등 중국, 동남아 각지로 폭넓게 연행된 점으로 보아 상당수에 달하였을 것은 틀림없다.
군'위안부'로 끌려갈 당시 여성의 연령은 10대 초의 미성년에서부터 20대 후반의 기혼 여성도 있었다. 이들 여성은 공장에 취직시켜 주겠다거나 돈을 많이 벌게 해주겠다는 등의 취업사기를 당해서 위안소로 간 경우가 많았다. 또는 위안소업자나 모집인들에 의해 유괴당해 인신매매되기도 하였으며 관리, 경찰, 군에 의해 강제 납치당하기도 했다.
민간업자가 여성들을 모은 경우에도 이들 민간업자들은 관동군, 조선군사령부 등의 관리, 감독 통제 아래 있었다.
업자들이 인솔하여 위안소까지 이동할 때도 군대트럭, 군용열차가 많이 이용되었다. 배로 이동할 경우에는 대개 연락선으로 일본으로 간 후 다시 군화물선이나 군함을 탔다. 이같은 이동에 따른 수송 수단의 이용에는 군관의 허가와 협조 없이는 불가능한 것이었다. 여러 가지 자료로 미루어 볼 때, 경찰과 군이 직접 개입한 것은 물론이고 민간인이 동원에 관여한 경우에도 그 배후에는 일본 정부와 군이 있었음을 잘 알 수 있다. 어떤 형식으로 끌려갔든 당사자가 사실을 알고 동의한 사실이 없기 때문에 이들은 강제연행, 동원된 것이다.

군'위안부' 여성들의 생활은 기본적으로 위안소 규칙이 적용되었다. 위안소 이용규칙에는 군의 이용시간, 요금, 성병검사, 휴일 등에 관한 세부사항까지 규정되어 있으며, 특히 위생관련 규정이 많았다. 그러나 이 규칙은 기본적으로 군인을 위해 제정된 것이다.
군'위안부'들은 대개 아침부터 초저녁까지는 병사를, 초저녁부터 밤 7~8시까지는 하사관, 그리고 늦은 사건에는 장교를 상대하였다. 장교는 숙박할 수 있었다. 여러 부대가 같이 주둔한 경우에는 서로 요일을 달리해서 위안소를 이용하기도 하였다.
군인 한사람당 대개 30분이나 1시간 이내로 이용시간이 제한되었다. 군'위안부'들은 하루에 평균 10명 내외에서 30명 이상의 군인을 상대해야 했다. 주말이면 훨씬 더 많았다. 또 위안소가 없는 지역에 파견되면 임시 막사에서 그 부대의 전 인원을 상대하기도 하였다.

위안소는 이용시간과 군위안부가 어느 민족인가에 따라 요금이 달랐다. 예컨대 일본인 위안부의 가격이 가장 비쌌다. 군인들은 요금을 지불했다고 하지만, 군인들이 지불한 요금은 업자의 배만 불렸을 뿐, 군위안부 수중에까지 들어가지 못한 경우가 더 많았다. 무료로 운영된 위안소도 소수 있었다.
군'위안부'들은 처음에 군인들에게 반항하여 맞기도 하였으나 보초 때문에 도망갈 엄두를 못낸 채 체념할 수밖에 없었다. 이름도 '하나코', '하루코' 등 일본식 이름이나 번호로 불렸고 우리말도 쓰지 못하게 하는 등 황국신민이 될 것을 강요당했다. 술에 취한 군인들은 '위안부'들을 손으로 때리거나 칼로 찌르기도 했다.

군'위안부'들은 일주일 ~ 또는 2주일에 한번씩 군의나 위생병에게 성병검사를 받아야 했다. 검사 결과 합격된 '위안부'들만 군인을 받을 수 있었다. 그렇지만 돈벌이에 혈안이 된 주인들은 검사에 떨어졌어도 군인을 상대하도록 강요하였다.
군인들은 성병예방을 위하여 원칙적으로 삿쿠(콘돔)를 써야 했으나 삿쿠를 쓰지 않은 군인들도 많았다. 그 결과 '위안부'들의 상당수가 성병에 걸렸다. 그러면 606호 주사를 맞거나 중독 위험이 큰 수은으로 치료를 받기도 하였다. 성병이 심해지거나 임신하면 어느날 위안소에서 사라지기도 하였다. 치료를 받지 못한 채 쫓겨난 것이다. 또한 여성들은 성병 검사가 커다란 고통이었다고 한다.

군'위안부'들은 부대 혹은 위안소 주인에게 밥과 된장국, 약간의 반찬이 있는 식사를 하루에 두세끼 제공받았다. 군인이 너무 많이 들이닥치거나 부대로 파견된 경우에는 식사도 제대로 하지 못했다. 의복도 군에서 제공 받기도 하고 때로 구입하는 경우도 있으나 빚이 되기 쉬웠다. 간단후쿠라는 간이복을 걸치는 수준이 대부분이었다.
이렇듯 군'위안부'들은 군위안소에서 외출도 제한당한 채 정기적인 성병검사를 받으며 매일 군인을 상대하는 성노예로서 생활하였다. 위안부들이 위안소를 벗어나기란 지극히 어려웠다. 위안소 경비가 엄격하기도 하려니와 섬이나 허허벌판 타국에서 탈출은 생각할 수조차 없는 일이었다. 탈출을 기도하다가 실패했을 때에는 가혹한 벌을 받은 후, 다시 '위안부'노릇을 해야 했다.
위안부들은 일제가 패전하자 철저하게 버림을 받았다. 더욱이 일본군은 퇴각하면서 이들을 한데 모아 죽이기도 했다. 살아남은 이들은 잠시 연합군 포로수용소에 수용되었다가 집단으로 귀국선을 타거나, 혼자 실로 숱한 어려움을 헤치면서 고향을 찾아온 경우도 있었다.

그러나 이들과 달리, 타국에서 그대로 머물러야 했던 경우도 많다. 돌아오는 방법을 몰랐거나 알았어도 더럽혀진 몸으로 돈도 한푼 없이 돌아갈 수 없다고 스스로 포기한 경우도 적지 않다. 또한 어떤 이들은 귀국 도중 연합군의 폭격으로 배가 파산되어 집단적으로 수장되었으며, 스스로 목숨을 끊은 사람들도 있었다.